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震える手でドアノブを握る。もしかしたら後で怒られるかも知れない。いつも勝手に入ってはいけないと言われているのだ。でも、とちなりは口の中で呟いた。でも、さっきの羅木くん、羅木くんじゃなかったもん。心の中でそう言ってちなりは頷いた。
だからいいんだもん! ちなりは覚悟を決めてドアをそっと開けた。羅木の部屋はいつもながらシンプルだ。廊下の明かりを頼りにちなりは部屋の様子を伺った。シンプルなことには変わりない。だがいつもと様子が違う。テーブルや椅子が倒れ、色んなものが散乱している。ちなりは恐々と部屋の明かりを探った。
もしかしたらドロボーでも入ったのかなあ。不安に思いながらちなりは壁のスイッチを入れた。急に明るくなる。眩しさに反射的に目を閉じ、ちなりは少しずつ瞼を上げた。
白と黒の床に赤い何かが散乱している。ちなりは震えながら床に散ったカプセルを避けた。それが何を意味するのかさっぱり判らない。テーブルの上にあった筈のチェス盤は無残に割れている。乗っていた駒も方々に散っており、揃っているのかいないのかすら判らない。ちなりは半泣きになりながらゆっくりと歩を進めた。
羅木くんとゲームしてたのにぃ。恐怖とは別に不満がこみ上げてくる。テーブルに乗っていた筈のチェスは羅木とちなりの対戦中だったものだったのだ。一日に一度だけ駒を動かす。黒が羅木、白がちなり。今のところ羅木が優勢だったのだが、ちなりはそれをひっくり返す作戦を考えている最中だった。羅木が真剣に相手をしてくれていることがとても嬉しくて、だからこそゲームを誰かに駄目にされたことが悔しい。ちなりは唇を尖らせてしばらく散った駒と割れたチェス盤を見つめていた。
「ひどぉい……」
ちなりは目に浮かんだ涙を拭ってぽつりと呟いた。すると唐突に別の声がした。ちなりはびくん、と身体を竦めて恐る恐る声のした方を向いた。ひょっとしたらドロボーがまだいたのかな。そう思いながら目をむける。
ベッドの上に誰かがいる。ちなりはあのぅ、とそちらに声をかけた。どうやらさっきの声はベッドの誰かが呻いたらしい。だがちなりが呼びかけても誰かはすぐには反応しない。ちなりは困った顔で床を見つめ、手ごろなものを探した。柔らかなクッションを発見して慌てて拾い上げる。えい、という掛け声と共にちなりはそのクッションをベッドに軽く放った。横たわる誰かの背中に当たり、クッションが落ちる。
「酷いな。物、投げんなよ」
それまで黙っていた誰かが喋る。それを聞いてちなりはあっ、と口を押さえた。先日、羅木が連れていた水輝の声だ。ちなりは見知った相手と気付いてほっと胸をなで下ろした。が、すぐに思い直す。もしかしたら水輝がこの部屋を荒らした犯人かも知れない。警戒しつつ、ちなりは再び投げられるものを探した。今度は割れたチェス盤を手に取る。
水輝は殆ど全裸に近い格好をしていた。ごろん、と仰向けになって顔をしかめている。ちなりはチェス盤を片手にベッドを覗き込んだ。あっ、と息を飲む。ベッドは何故か血だらけになっていた。一体、どうしたんだろ。なんでかな。疑問に思ったちなりの手から力が抜け、チェス盤が落ちる。
「ここまで離れれば大丈夫だと思うが……それにしても、いってえな。無茶苦茶しやがって」
疲れた顔でため息をつきながら水輝が額を覆う。どうやら誰かに聞かせるつもりで喋った訳ではないらしい。だがその様子を見ていたちなりは水輝が部屋荒らしの犯人ではないと気付いた。水輝の身体にはたくさんの血がついている。きっとベッドの血も、水輝が流したのだろう。部屋を荒らしにきてわざわざ怪我をするとはどうしても思えない。
「あ、あのぅ。だいじょぶ?」
遠巻きにしながらちなりは水輝に声をかけた。それまで目を閉じていた水輝が片目だけ開ける。口許に浮かんだ力ない笑みを見てちなりはほっとした。どうやら見た目ほどに身体が傷んでいる訳ではないらしい。
「ちなりちゃん、だっけ? 悪いな。怖がらせて」
言いながら水輝がゆらりと身体を起こす。傷は深くないかも知れないが、体力そのものは減っているのかも知れない。一つ一つの動きがとても重そうだ。ちなりは恐々と水輝に近づき、そっと手を伸ばした。ぐらつく水輝の身体を横から支える。
そこでちなりはふと気付いた。前に水輝と会った時、羅木に言われたことを思い出す。水輝のカップにだけ例の試薬を入れてくれと頼まれたのだ。何のためか、その時の羅木は説明してくれなかった。が、思えばあの時から羅木の様子はおかしかったのではないか。考えるちなりの顔から次第に血の気が失せていく。
「ちなりちゃんの方が大丈夫じゃなさそうだな。んでも心配は要らないぜ。すぐに……ええと、羅木だっけ。あいつ、戻ってくるから」
水輝はそう言いながらちなりの頭を軽く撫ぜた。だがすぐにその手を引っ込める。どうやら血がついていたことに気付いたらしい。困った顔をしながら水輝はごめん、と詫びた。
それからちなりは言われるままにタオルとお湯を部屋に運んだ。水輝が犯人ではないとわかった以上、無意味に警戒しても仕方がない。それに水輝は怪我をしているのだ。怪我人に親切にしなければならないのは当り前だ。
「ありがと。ちょっと見苦しいかもだけど、身体とか拭いていいか?」
湯を張った洗面器とタオルを受け取りながら水輝が告げる。だがどう見ても手は震えているし、身体はまだ本調子ではないようだ。ちなりはしばし考えてから水輝の手から洗面器を取り上げた。驚いた顔をする水輝を余所に、床に洗面器を据える。タオルを浸して絞ってからちなりは顔を上げた。
「ちなりが拭いたげる。だって見てて危なっかしいんだもん」
頬を膨らませてちなりはそう主張した。困ったように水輝が頭をかく。
「い、いや、でも、おれ、後で殴られるのはちょっと……」
「いいから言うこときくの!」
訳のわからないことを言う水輝に言い返し、ちなりは猛然と胸を張った。やれやれ、とため息をついて水輝が軽く手を上げる。降参の印らしい。ちなりは力強く頷いてさっさと水輝の足に手を伸ばした。腰にかけてあって毛布を引っぺがす。
そこでちなりは目を丸くした。水輝の股間が血だらけになっているのだ。
「だーかーらー、ほら、そこで引くくらいなら貸せってば」
呆れたように言いながら水輝が手を伸ばす。だがちなりは膨れ面をして水輝の手を避けた。こら、と水輝が声を上げる。ちなりは舌を出してそっぽを向いた。
「ちなり、平気だもん! 子供じゃないもん!」
そう言い張ってちなりは改めて水輝に向き直った。疲れたようなため息をついて水輝が手を引っ込める。勝手にしろ、とぼやいている。ちなりはささやかな勝利を噛みしめながら水輝の身体を拭き始めた。
触れると思った以上に身体が細いことが判る。首から肩にかけてを丁寧に拭きながらちなりは感心して頷いた。
「何だよ」
不思議そうに水輝が訊ねる。ちなりはえへへ、と笑って首を振った。
「なんでもない」
変なやつ、と水輝が呟く。だがそれ以上は何も訊いてこない。ちなりは出来るだけ血に塗れた股間を見ないようにして水輝の上半身を拭き終えた。こびりついていた血は綺麗に落ちている。
頑張ってるのはちなりですw