エロはありません。
ふと順は顔を上げた。あれ、と口の中で呟く。今、何か感じた気がした。順は違和感の原因を探り出そうと周辺を無防備に見回した。その瞬間、要の手が順の左の頬にヒットする。
「いてえ!」
隙をついた攻撃に順は思わず声を上げた。防御するのをうっかり忘れ、目一杯食らってしまったのだ。ひりひりする左の頬を押さえて順は唇を尖らせた。何事かと周辺の生徒たちが足を止める。彼らを追い払ったのは要のボディガードの二人だった。どうやら彼らは始終、要に付きまとってるらしい。順が追い払われないのは、たとえ怒り狂っても要がその相手をきちんとしているからだろう。
「ちょっとキスしようとしただけじゃん。あー、もう全力で殴ってくれちゃって」
「病原菌以下な軽薄男はさっさと学校から出てお行きなさい! 目障りです!」
要の言を受けてさすがにまずいと思ったのだろう。ボディガードの二人がゆらりと動く。順の視界を塞ぐように立った二人はどちらも威嚇を込めて順を睨んでいる。だが順はまあまあ、と笑ってそんな二人の肩を軽く叩いた。
学生食堂は大勢の生徒たちで賑わっている。だがそんな中で要と順の周辺にいる者たちは示し合わせたように無言でいた。順はだらしない笑いを浮かべて二人の肩を握ったまま体重をかけた。二人の間から要を見やる。
要は今日はA定食を注文していた。横には別の定食が二人分並んでいる。きっとボディガードの彼らのものだろう。うんうん、と順は頷いて要に目を戻した。無視を決め込むことにしたのだろう。要は順を見もしない。
「あのさあ、オレ、そんなに変なこと訊いた? そりゃ、キスはしようとしたけどさぁ」
せりふの後半で声を落とす。そんな順を要は無視し続けている。順は軽く手に力をこめて二人のボディガードの肩を押した。するとまるで合図したかのように、同時に二人の生徒が床に崩れる。本人たちも何が起こったのかが理解できていないようだ。唖然とした顔でへたり込む。
「第一さあ。オレって何も食ってない訳よ。ちょっとくらいご馳走してくれたってさあ」
しくしく、とわざわざ言葉にしつつ順は目元を手で覆った。指の隙間からこっそりと要を見る。だが要はまだ順を見ようとはしない。その手が小刻みに震えているところ以外は変わりない。
貴様、と喚いて順の背後でボディガードたちが立ち上がる。順はやれやれ、と呟いて肩を竦めた。そんな順の腕をボディガードが両脇から取る。順は半ば宙にぶら下げられた格好で要にねえ、と声をかけた。
「要ちゃあん。そんなつれなくしないでよぉ」
ボディガードたちは懸命に順を食堂から引きずり出そうとしていた。だが順の足は括りつけられたように床からはがれない。騒ぎを聞きつけたのか、慌てたように教職員たちがその場に飛んでくる。だが彼らは凍りついたように食堂の入り口で固まってしまった。順は彼らを振り返り、やあ、とだけ声をかけた。
結構、面倒なトコに好んで通ってたんだねえ。ここにはいない誰かの顔を思い浮かべながら順はだらしない笑いを浮かべた。ボディガードたちの額には汗が浮かんでいる。
ぱちん、と音を立てて要が箸を置く。それからゆらりと首を回し、要は静かに告げた。
「食事くらいはいいでしょう。野木。素うどんでもふるまってやりなさい」
学生食堂で一番安いメニューを指定される。だがそれを聞いた順はやった、と嬉しそうに告げた。野木と呼ばれたボディガードの一人が不承不承といった態で離れていく。もう片方はまだ順の腕にぶら下がったままだ。
「ねえ、要ちゃん。これ、振り解いていい?」
のんびりともう片方のボディガードを指差し、順は訊ねた。すると要が口許を押さえて笑い出す。これ、と呼ばれたボディガードの男子生徒は順の言い方が気に入らなかったのか不機嫌に顔を歪めた。
「振りほどけるものならかまいません。ただし! わたくしから五メートル以内には決して近づかないように」
体格はまあまあ、かなあ。格闘技とかにもけっこう精通してる感じかな。筋肉のつき方もそんな気がするけど。
順はそんなことを考えながら軽く腕を振った。その瞬間、順の腕をつかんでいたボディガードが傍のテーブルに突っ込んだ。派手な音を立ててテーブルがひっくり返る。さすがに仰天したのだろう。テーブルについていた女子生徒たちはひっくり返った食事の残骸を片付けもせず、目を丸くしている。
要の笑いはそこで途切れた。
「ふう。全く、乱暴なんだから。あ、ここいいよね? うわあ、要ちゃんってけっこう食べるんだねえ」
順はいつもの調子で言いながら当り前のように要の横の椅子を引いた。要は絶句して床に転がるボディーガードを見つめている。腕に相当の自信があったのだろう。順の腕を捕らえていたボディガードは受身も取らずに床で目を回していた。
「あ、オレも茶が欲しいなあ。いれちゃえー……って、どしたの?」
各テーブルに置かれたアルミのやかんを取り上げ、順は茶碗になみなみと茶を注いだ。今気付いた、という風を装って要に声をかける。そんなことをしている間に倒れたボディガードを誰かが助け起こす。だが順はそんな周囲の喧騒を全く無視していた。
「周藤を子ども扱いするとは、ただの軟弱者ではなかったようね」
順に振り解かれた周藤は生徒会の別の役員によって引きずられていった。それと同時にその役員は周辺の生徒に何でもないのだと言って回っている。やれやれ、難儀なことだねえ。順はそう呟いてから要に目を戻した。にやにやとした笑いを口許に貼り付けたまま茶を啜る。
「そりゃあ? オレだってこの年まで生きてますから? 少しは体術くらい心得てますが?」
本当は体術など全く知らない。力を軽く乗せた腕をただ単に振っただけだ。だがそのことを順は言わなかった。ほう、と目を細めて要が頷く。だが次に要はゆらりとその場に立ち上がった。
「しかし、五メートル以内には決して近づかないように。と言いましたわよね!?」
素早い身体の動きに順は慌てて茶碗を放り出した。だが要は既に動いていた。すうっ、と身を屈めて足払いをかける。順は座っていた椅子ごとその場にひっくり返った。よろけながら身体を起こし、順は要に文句を言おうとした。
「って、うわ!」
きっと要は攻撃する際には周辺のことには一切、構ってなどいないのだろう。順は飛んできた掌底を辛うじて受け止めた。だが要はまだ止まらない。椅子を蹴倒しながら素早く身体を反回転させる。
要の裏拳が順の顔面にきまった瞬間、食堂の中は生徒たちの歓声に満たされた。教師たちが一様にほっとした表情になる。傍目には外部の悪質な者を要が退治したと見えるのだろう。
「ひでえ……ああああ、オレのお気に入りのサングラスがぁ」
順が頭にちょこんと乗せていたサングラスは要の足の下で粉々に砕けていた。要はふふん、と笑って上履きで更にサングラスを踏みにじった。じゃり、という嫌な音がして硝子が更に砕ける。
「まだまだ、精進が足りませんわ。出直してきなさい」
おほほほ、と要は口許に手をあてがって高く笑った。生徒たちが要を賞賛するように声を上げる。やれやれ、悪者扱いかよ。順はそうぼやいて苦笑しながら立ち上がった。軽く首を鳴らして乱れた髪を指ですく。要は順がちっとも堪えていないことに気付いたのだろう。笑うのを止め、訝りに満ちた目で順を見る。
「五メートルかあ。もちっと縮まらない?」
順は何事もなかったかのように笑いながら要を拝む真似をした。要が目を細めて順を眺める。頭の先からつま先までを舐めるように見つめ、やがて要は口許に微かな笑みを刻んだ。
「男を磨きなおしてくれば、考えないこともなくてよ」
腕組みをし、胸を張って要が答える。順はやれやれと肩を竦めて諦めのため息をついた。そんな順の肩を誰かが後ろからがっしりとつかむ。順はうろんな眼差しを背後に向けた。右手に素うどんの乗った盆を乗せたボディガードが立っている。確か野木と呼ばれた生徒だ。
「この始末をつけてもらおうか」
野木は素うどんを片手に真顔で順に迫った。順は嫌な予感を覚えて周辺を見回した。ひっくり返ったテーブルが二台。床に散乱した生徒たちの食事多数。その他、ばらばらになった椅子も倒れている。順は口許を引きつらせてもう一度、野木を振り返った。野木は厳しい目で順を睨んでいる。
「えーと……オレ?」
「貴様以外に誰がこの責任をとる? 賠償金額の見積もりを出さなければならないから、食事はそこでしてもらおう」
生真面目な野木のその表情と片手のうどんの誘惑に負け、順は仕方なくその場から引きずられていった。
ここで4章は終了です。
野木もなかなか……w