青空を一羽の烏が横切る。目深に被った帽子のつばを上げ、順は苦笑を浮かべた。硬いコンクリートの感触が背中に心地いい。
「これはもう戻れないなあ」
順はくすくすと笑って左の耳をそっと押さえた。まだあの心地良い声は耳に残っている。軽く勢いをつけ、順はコンクリートの屋上で身体を起こした。耳に入っていたイヤホンがその拍子に抜ける。
グレーのコンクリートの上には小さなラジオのような機械が置かれている。イヤホンのコードはその機械から伸びていた。順は腕を伸ばして機械を拾い上げた。もう、用はない。電源を落としてそれをポケットにしまいこむ。
思い出すと心地のよさに背中がざわめく。独特の声だった。順はしばらく目を閉じてその声を思い出した。柔らかな響きをしているのに、強い意志を感じる。
「まあねぇ。タダモノじゃないとは踏んでたけどさ」
そっと目を開ける。屋上を囲むフェンスが真っ先に目に飛び込んでくる。順は口許に嗤いを浮かべて帽子のつばを下げた。目元に影が落ちてくる。
高性能の盗聴器は栄子の部屋の中で交わされた会話を全て拾っていた。片方は聞き慣れた栄子の声だった。もう片方の声に聞き覚えはない。だが順はその声の持ち主を知っていた。
吉良優一郎。順は口の中で優一郎の名を呟いた。以前から目をつけておいた立城の関係者だ。順は何度か優一郎の名を呟いて軽く俯いた。全身がぞくりとするような快感がこみ上げてくる。
「いいなあ、優一郎くんかあ。……いいなあ」
心底、嬉しそうに順はそう呟いた。軽い足取りでフェンスに近づき、手を伸ばす。つかむと金属の硬さが指に伝わってくる。
ああいう子、嫌いじゃないんだよねえ。内心で順はそう呟いた。耳の奥にはまだはっきりと優一郎の声が残っている。しかもどうやら優一郎は怒っていたようだった。その感情が僅かにこもった声を聞いているだけで、順は自分が興奮していることを知った。
声に宿った強い力に晒されたくなる。順は少し舌を出して唇を舐めた。
「欲しいなあ、あれ」
フェンスをつかむ手に力をこめる。ぎり、と音を立ててフェンスは順の指に食い込んだ。痛みが襲ってくる。強い力を受けたフェンスが指の皮膚を切り裂いていた。血の雫がフェンスに沿ってゆっくりと流れていく。
口許に嗤いを浮かべて順はフェンスから手を離した。両手をそっと開く。指は十本、全て傷ついていた。
「痛いだろうなあ。強いだろうなあ。……欲しいなあ」
血に塗れた手を見下ろしながら順はくすくすと笑い出した。手のひらに血が溜まり、コンクリートに赤い染みが一つ、また一つと出来る。順は出血にも構わずシャツのポケットに手を伸ばした。煙草を器用に一本だけつまんで引き抜く。ライターをつかむ手が自然と震えて上手く火が点かない。だが何度か石を弾くとライターに赤い火が灯った。
炎が揺れる。順はしばらくライターの炎を見つめていた。
「いいこと考えた。そうだ、そうしよっと」
煙草の先を炎に触れさせる。小さな音を立てて煙草に火が灯る。順は血だらけになったライターを軽く放り投げた。
「あの声で鳴いたら最高だもんねぇ」
言いながら軽く腕を振る。順が受け止めたライターは手の中で粉々に砕けていた。
これも短すぎるかも、と思ったら1,000字は何とか超えてました(汗)