「……ん……う、ん?」
奇妙な感覚に、ハジメはゆっくりと
少しずつ鮮明になっていく視界。そこに映ったのは、見知らぬ天井だった。少なくとも家ではないし、道場でもない。
ではどこか。体を起こしてみるとそこは、広めの和室だった。そしてハジメの隣には、
黒髪ポニーテールの、凛とした雰囲気の女の子。女性の容姿を比較するのは失礼ではあるが、ベクトルは違えど香織と同じレベルの美少女だ。その女の子が、ハジメの右手を両手で握りしめていた。
「あ、起きた……大丈夫?」
「え? 一応は大丈夫、だと思うけど……何でここに?」
「道場の方で気を失ってたのを見つけて、お父さんとお爺ちゃんに運んでもらったの」
「あ、そうなんだ……って、お父さんにお爺ちゃんって……もしかして、道場の娘さんですか?」
ハジメがそう尋ねてみると、女の子は軽く頷いて答えてくれた。
「はい。あ、八重樫雫といいます」
「八重樫……雫さん。助けてくれてありがとうございます。あっ、
ハジメは特に気にすることなく、挨拶されたから挨拶を返した。しかし、雫には違和感があった。あの時のことは……気絶する前のことは覚えていないのか、と。
「……えっと、私のこと、覚えてない?」
「いや、初対面だと思うけど。一人で稽古してて、気づいたらここにいた感じで……」
ハジメの言葉に、雫は首を傾げる。どうやら、ハジメは本気で道場でのことを覚えていないようだ。では何故覚えていないのかと考えると、やはり気絶したのが原因なのだろうか。雫はそう思い、一応は納得した。
この一連の応答や雫の態度に、ハジメの方も違和感を感じた。態度や質問からして、明らかに何か違和感を感じていたようだった。
では、初対面のはずなのに、何に違和感を感じていたのだろうか。そう考えたハジメは“心理掌握”を利用して、雫の心……正確には過去を読み解いた。
「…………ッ!?」
そして、ハジメはある事実にたどり着く。その瞬間、目は丸くなり、サァッと血の気は引いていき、額からは冷や汗が滲み出る。
ほんの一縷の希望を掴むように、ハジメは小さく口を動かし、震えた声で言った。
「……八重樫さん。服をめくって、臍の下を見せて」
命令。二人が初対面の男女ならば、普通は従うはずがない。ちょうど同じくらいか、少し歳上の女の子なのだ、普通は怒るものだ。
「うん……ほら」
しかし、雫はハジメの性奴隷になっていた。ハジメの知らぬ間に。現に彼女の臍下には、淫紋が刻み込まれていた。
ハジメは即座に理解した。何らかの拍子で暴走してしまい、雫を襲ってしまったのだと。そして雫の今後の人生全てを奪ってしまったのだと。
淫紋を刻まれた女性は、主人……今回の場合は南雲ハジメの命令に逆らうことはできない。つまり絶対服従になってしまう。
さらには肉体と精神が、主人であるハジメにとって都合の良い状態へと変化していくのだ。ハジメのみに盲目的な愛情を抱くようになり、ハジメ以外の男性との性行為で快感を得られなくなり、ハジメ以外の精子で子どもを作れなくなる。そしてハジメに何かを命令されるだけで、褒められるだけで、手を握られるだけで、脳が幸せホルモンを大量分泌するようになり、結果としてハジメを尊崇するようになってしまう。
これは完全に不可逆である。他の精神操作は一切受け付けなくなるので、他の洗脳等で上書きすることは不可能。また、淫紋を無理矢理解除できたとしても、ハジメに絶対服従出来なくなるだけ。変化した肉体と精神は決して元に戻らない。
つまり雫は、性奴隷にされた時点で、ハジメのためだけの存在になってしまったのだ。ハジメを崇め、奉仕するための存在に。これを人生を奪われたと言わず、何と言えばいいのか。
「…………うん、わかった」
それだけ言うと、ハジメは布団から出て、そして額を畳につけて謝罪をした。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 僕のせいで……僕が暴走してしまったせいで、八重樫さんを襲ってしまって、人生全てを奪ってしまいました……!」
それは心の底からの懺悔だった。これからの可能性全てを摘み取ってしまったことに対する、心からの謝罪。だがもちろんハジメは、この程度で許してもらえるとは思っていない。
「もちろんこれだけで許してもらえるとは思っていません。罪を償うためなら、僕はなんでもします、どんなことでも受け入れます……!」
「え、えっと……」
必死の謝罪に、思わず困惑してしまう雫だったが、それもすぐに消えた。
「ハジメ君、今の言葉は本当か?」
「え……鷲三さん? それと虎一さんも!?」
後ろから聞こえた声に、頭を上げて後ろを向く。そこにはいつ入ってきたのか、雫の父親の虎一と、祖父の鷲三が立っていた。
「もちろん本当です。僕はやえ……雫さんの未来を奪ったと言ってもいい。その償いをするためなら、僕は何を犠牲にしたっていい」
「そうか」
鷲三は一言そう言うと、少し黙り込んだ。数秒の沈黙は重苦しく、ハジメの拍動は速くなっていった。
「ならハジメ君」
「……はい」
「君の残りの人生全てで、雫を幸せにしてやってくれ」
「……え?」
そうして提示された償いの内容は、ハジメには理解できないものだった。なんせ一見すると、ハジメに対する罰というわけではないのだから。
「雫が君の性奴隷となった今、雫が幸せになる方法はただ一つ、ハジメ君と結ばれることだけだ。それは君も分かっているだろう?」
「……はい、一応は」
「だから、雫を幸せにしてほしい。これはもはや、君にしかできないことなんだ」
「……はい、分かりました」
こうして、ハジメは雫を幸せにすることを約束したのであった。
この後、それはそれとして土下座して謝罪をしたハジメ。それを見た虎一が何故か鷲三に殴りかかったりもした。どうやら「子供はここまで謝っているのに、どうして謝らないんだ!」とのことらしい。
ちなみに、ハジメの状態は良好だった。一時期は熱が40℃を超えていたという話だったが、秘薬とやらを使ったら、一時間で体温が37℃くらいになったのだという。
◆◇◆◇
この事件が起きてからは、ハジメの稽古はかなり易しくなった。特に変わったのが、普通に休みを取るようになったことだ。
それと休日にはしばしば、雫と二人で出掛ける機会も増えた。雫を幸せにすると言った以上、その言葉に責任を取らなければならないからだ。もちろん八重樫家の人達もそれは分かってくれているようで、たまに稽古を休みにして、デートの時間を設けてくれたりもした。
そして今日、11月25日。少し肌寒くなってきたというところで、デートのお誘いがかかった。朝9時半、ハジメは駅前の広場のベンチに腰掛けて雫を待っていた。
「あっ、いたいた」
十分ほど待つことになったが、定刻前に雫が待ち合わせの場所へとやって来た。遠くから軽く手を振っているのが見える。
「来たね、雫。行きたい場所とかは決まってる?」
「うん。それと……一つ、相談もあって」
「相談? 僕でいいなら相談に乗るよ」
それからも軽く話し、大したことじゃないらしいので、相談は昼食と一緒にすることとなった。それまでは、雫の行きたい場所を見て回ることになった。
「じゃあ行きましょう」
そう言うと雫ははにかんで、ゆっくりとハジメに手を差し出す。それをハジメは優しく握り、歩き出した。
これは偶然か必然か。その二人の様子を、とある人物が見ていた。見てしまっていた。
「あれは雫と……誰なんだ? 知らない男……?」
知らない男が、幼馴染である雫と一緒にいる。自分のモノである雫が他人と一緒にいるわけがない。ならば、考えられることは……
「もしかしてアイツ、雫を脅して無理矢理……!」
その人物からは、男の横顔しか見えなかった。それだけで、雫と一緒にいる男がどんな人なのか、一切の情報が無い。もちろん脅した根拠も持ってはいない。
しかしその人物の中で、雫と一緒にいた男――南雲ハジメは、雫を脅したと認定された。そして絶対的な悪だと断定され、そこで思考が固定化された。
急いで追いかけたのだが、元からかなり距離が離れていたため、すぐに見失ってしまった。
「クソっ! あいつめ……!」
憎々しい声で、その人物は呟いた。
◆◇◆◇
そうして二人が向かった先は、駅の近くにある大型のショッピングモール……の中にある、おもちゃ屋の一角。
「あっ、これとかいいなぁ〜」
雫は稽古の時とは打って変わって、とても楽しそうにぬいぐるみを見てはしゃいでいた。
道場での彼女は、とても強い印象だとハジメは感じている。だがこれは、おそらくハジメ以外もそう感じていることだろう。肉体的にも精神的にも、誰よりも強いと。
しかし、中身は普通の女の子なのだ。可愛いものは好きだし、好きなものを前にすると笑顔になる。普通に何かに悩むこともあるし、不安にもなる。
「ハジメはどれがいいと思う?」
「う~ん、どれだろう。普通に全部可愛いからなぁ」
そう言いつつ、ハジメはいくつかのぬいぐるみを手に取っては戻して、手に取っては戻してと、見て回った。そしてある棚の前で足を止め、手に取った。
「これとかいいんじゃない?」
ハジメが選んだのは、とあるゲームキャラクターのぬいぐるみだ。広い年代で有名な可愛いキャラクターのぬいぐるみということで、選んだのだ。
「……うん。じゃあこれ買ってくるね」
「ああ待って。お金は僕が出すよ」
「え?」
「まぁ、アレだよ。ちょっとしたプレゼントみたいなものだと思って、さ」
そう言いながら、ハジメはぬいぐるみを持ってレジへ並んだ。そして会計を済ませると、待っていた雫に手渡した。雫は少し頬を赤くして、
「あ、ありがとう……」
と、恥ずかしそうに、だがどこか嬉しそうにお礼を言った。
その次はハジメの店巡りだ。昔からオタクのため、よくそういう店を巡ったりしていたのだが、今回はそうじゃなく、最近ハマっている料理関連の便利グッズを見に来ていた。
最近になって、ハジメは優花に料理を習い始め、自分でも料理を作るようになった。それとほぼ同時期くらいからだろうか、
基本的にハジメは凝り性であり、やることはとことんやるタイプだ。料理に関しても、上手くなってくるとどんどんハマっていき、様々な試行錯誤を繰り返すようになっていった。
「なんというか……凄い意外ね」
「昔から親が忙しかったから、自分で料理を作る機会は多かったんだけど、最近急に上達してね。ハマっちゃったんだ」
そんな会話をしつつも、ハジメは調理器具や便利グッズを物色していく。ハジメは『いかに楽ができるか』を追求する傾向があるため、選ぶモノはそういうタイプの物ばかりだ。
ちなみにだが、雫も料理は割と好きなタイプだ。なのでこういう話にも普通についてきてくれる。
「そういえばもうすぐ冬だからなぁ。ゴム手袋あると洗い物が楽だ」
「確かに、冬の洗い物は辛いもんね」
「それと、おっ……これいいな。米研ぎの時に水に手をつけなくて済むし」
そんなこんなで、ハジメはいくつかの品を買っていった。買い終わった後に「こんなことに付き合わせちゃってごめんね?」と謝ったりもした。
◆◇◆◇
その後は適当に店を巡り、ちょうどいい時間になったので、二人で昼食を食べることになった。場所はフードコート……ではなく、ショッピングモールのすぐ近くに併設されているファミレスだ。
「……それで、何か相談事があるんだったよね?」
「うん」
料理の注文が終わった所で、ハジメが話を持ち掛ける。
「えっとね……その前に聞きたいんだけど、ハジメはその……どうして稽古にあんなに必死になれるの?」
「ん、まぁ〜……色々と鍛えるため、かな?」
「色々鍛えるって、何を?」
「そりゃ色々だよ。普通に身体を強くしたくもあるし、身体能力も上げたい。できれば剣術とかの戦える術とかもあった方がいいし。でも一番の目的というと……心だな。心を鍛えるためだ」
ハジメはさらに続ける。
「雫も聞いてるでしょ? 僕の能力のこと」
「うん、一応。物凄い力なんだよね。でも確か……一日以上、その……性行為しなかったら、暴走しちゃうんでしょう?」
「そんな感じ。強い力だからこそ、それを無闇に使わない強い心を鍛えなければならない……って鷲三さんが言ってたんだけど、それがストンって、腑に落ちた感じがしてさ」
「…………そうなんだ」
この自分語りの最後、雫は少しだけ俯いた。そこに、今度はハジメから尋ねてみる。
「……こういう質問をしたってことはさ、雫は道場関連の何かで悩んでいるんだよね?」
「あっ、うん。そう、だね……」
普段では滅多に見せない、というか一度も見たことがないどもりを見せる雫。少しだけ申し訳無さそうに目を伏せた後に、ゆっくりと口を開いた。
「実は私、あまり剣術が、というかそういうのをするのが好きじゃないんだ」
このカミングアウトはおそらく、雫を知る人物であれば誰もが驚く内容だろう。雫は八重樫道場の中でもトップクラスの実力を持ち、才能に恵まれている。そんな人物が、剣術が嫌いなどと言ったのだ、普通なら驚くことだろう。
「そうなの? じゃあ今まで何で続けてきたの?」
「それは……だって、みんな応援してくれるから……」
「……じゃあさ。深呼吸をして、落ち着いて、今から言うことに、答えてほしい」
「……うん」
「
一瞬、雫の顔が強張る。それもそうだ。ここで「辞めたい」と言ってしまえば、その瞬間、今まで雫を応援してきた人達の期待を裏切ることになってしまうから。責任感の強い雫には、酷な質問だ。
雫は何度も深呼吸をして、心を落ち着けて、そして……小さく頷いた。
「そうか。でも決断できないから、僕に相談したってことかな?」
「……そう。家族には……相談できるわけないよ」
「まぁそうだろうね。……あっでも、一つ疑問があるんだけど、いい?」
「なに?」
「雫が、あまり好きじゃない剣術を始めたきっかけって何?」
今までの会話でハジメに生じた疑問は、何をきっかけに、雫は剣術に触れることになったのか、という話だ。
「えっと……多分四歳か五歳か、それくらいかな? お爺ちゃんに言われて竹刀を持ったのが最初、だと思う」
「そこで、お爺ちゃん……鷲三さんが喜んじゃったわけか。雫には才能があるって」
「うん。普段は硬い顔なのに……あの時のことは今でも覚えているわ」
ハジメは、雫が剣術を辞めたくても辞められない理由を、なんとなくではあるが理解した。
雫の剣術の才能に、家族が大いに喜んだ。そして稽古には熱が入り、様々なことを教えたが、それをスポンジのように吸収していき、あっという間に上達していき、さらに喜んで――
そして気づいた時には、期待は
周りの
心を読めるハジメは、雫に剣術を辞めさせるべきだと確信していた。しかし、どのように背中を後押しするのか、それが中々に難しかった。
「う~んと……」
「ハジメは、どう思う?」
三十秒ほど天井の一点を眺めて思考をまとめていたハジメは、軽く頷いて、雫の方へ向き直る。
「雫はさ、怖いと思ってることってある?」
「え? もちろんあるわよ」
「じゃあ、僕が『いいよ』って言うまで、怖いと思うことを言い続けてみて」
一見すると意味不明な話ではあったが、雫は答えることにした。五個くらい答えたら終わるだろうと、そう思って。
しかし、現実は違った。ハジメは、雫が怖いと思うことを十九個も挙げたのに「いいよ」と言ってくれないのだ。
「十八個目は『友達に嫌われること』で、十九個目は『イジメを受けること』と……」
最初の方に雫が挙げたのは、おばけ、暗闇、ヘビ等、それっぽいありふれた恐怖だった。しかし十を超えたくらいなら、具体的な場面を伴った人間の行動が、恐怖として挙げられるようになった。
雫はとても苦しかった。この連続質問は、心を抉ってくる。抉って抉って、心の奥底にしまい込んだ、誰にもバレたくない、自分ですらも気づきたくない本心を暴かれているようだったから。
「……か」
「ん? 言える?」
コクリと頷いて、雫は震えながら、それを口にした。
「……家族に、失望されること」
これが、雫の本心だった。今まで嫌だった剣術を続けた理由のほとんどが、ここに帰結する。
雫の才能は家族に大いに期待された、喜ばれた。だからこそだろうか。剣術を続けなければ、家族に愛されない、見捨てられると、無意識にそう思い込んでしまったのだろう。
「……いいよ。それとごめんね。こんな質問、辛かったでしょう?」
「……」
雫は言葉無く静かに頷く。
「でもなぁ……」
ここで、ようやくハジメは自分の意見を言う。
「鷲三さんも虎一さんも、あまり話さないけど霧乃さんも、みんな雫の幸せを一番に願ってると思うよ」
「……え?」
「言ってる意味、分かる? 雫
そうは言ったが、雫はまだ腑に落ちない様子だった。まだ辞めても失望されないと、断定できないのだろう。
「……本当に、そうなの?」
「当たり前じゃん。もし家族が剣術を一番に考えてるのなら、年中休み無しで、学校と睡眠と食事とか以外のほぼ全ての時間を剣術に注ぐと思うよ? お出かけとかはほぼしないし、こうやってデートにも行けなかったと思う」
テレビ番組でも、たまに天才少年・少女の特集番組をやっていることがある。特にスポーツ分野では見かけることが多いだろう。もちろん雫も、そういったものを見る経験はあった。
だからこそ、自分の家族はそういう所とは違うと、そう言い切ることができた。そして――腑に落ちたのだ。
「……確かにそうだね。剣術を第一に考えてたら、今頃私はここにいないよね」
「うんうん。だから大丈夫だよ。流石に最初は驚かれるだろうけど……でも受け入れてくれるよ」
話が一区切りついたところで、料理が運ばれてくる。二人は長いお話をここで止めにして、昼食を食べることにした。
余談だが、このデートの翌日に、雫が両親に剣術を辞めたいという想いを打ち明けたところ、無事辞められることとなった。
◆◇◆◇
昼食を食べた後は、後は帰るだけ。そんな所で、雫はボソリと呟いた。
「……大好き」
「え?」
ハジメの反応で顔を赤くした雫は、照れ隠しにハジメの左腕を抱きしめた。
「あの……今日、帰りにハジメの家に、行ってもいい?」
そうして、今日は別れることなく、先に二人でハジメの家に帰ることとなった。
・南雲ハジメ:二回土下座した。暴走した責任を取るために、正攻法で雫を堕として幸せにすることを誓う。
・八重樫雫:ハジメに本心を打ち明けた。デートが終わったら剣術を辞めます。
・?????:なんか暴走の兆しが見えている。ハジメと対峙したらヤバいことになりそう。