番外編:愛の神は、愛に溺れる-1
『――私は貴方を無間の愛の中に飲み込んでしまうかもしれません』
『覚悟しておいて下さい……』
『私みたいに面倒臭い愛の神は、背中を押して一歩踏み出させるどころか』
『二度と這い上がれない堕落の断崖に、能天気で危機感のない貴方を突き落とす隙を――ずうっと、ずうっと、窺っているんですからね……?』
目の前で能天気に笑みを浮かべる自分のことを『迷っている時に背中を押してくれる神様』と言ってくれた黒髪の青年に向かって、これからもずっと見続けるという脅しを含ませた忠告を少女はした。雪のように白い髪をサラサラと靡かせ、ルビーのように深紅の瞳を怪しく輝かせる彼女は、年齢には合わない妖艶な笑みを自然と浮かべてしまう。
――それはまともな仕事の出来ない"歪んだ愛の神"である少女が、一人の人間を"特別"に思っている証明である。
"今"は彼だけのサーヴァントである彼女にとって、青年は根源に関わる存在であるが故に、自然と目で追ってしまうし、忘れられないし、無視をすることも出来ないのだ。しかし、少女が青年を特別に思っている理由が、根源に関わっていることだけなのか。
それとも"別の感情"が存在しているのかは、この時の彼女には分かっていなかった。
――愛されることも、その悦びも知らない愛欲の獣が、愛に溺れるのはまだ先のことである。
―――――――――――――――――――――――――――――
最も『愛』について熟知しており、愛に近すぎたが故に愛を倦んだ神。他人に分け隔てなく無償の愛を与え、骨の髄まで堕落させることに特化した存在が、インド神話における"愛の神 カーマ"の役割であった。
カーマデーヴァとも呼ばれる彼女は、釈迦が菩堤樹の下で悟りを開こうとした際に様々な邪魔をして、悟りを阻止しようとした"魔王 マーラ"と同一存在の別側面とされている。これはインド神話における『修行者の邪魔をする者』としての位置付けが同じであるため、カーマとマーラの二人は同一存在とされているのだ。
――カーマ/マーラは愛という概念の良否を同時に表している。
仏教道における六欲天の第六天、他化自在天に住まう『"第六天魔王" 波旬』であるマーラは、釈迦の悟りを邪魔するために、自身が変身した姿である美しい三人の娘を送り込み、火の円盤を投げつけ、岩石や武器を降らせ、怪物達に襲わせるなど様々な妨害を行った。他にも豪雨や雷など、己の持つ全ての力を用いて邪魔をする。
しかし、釈迦に対して美しい女の誘惑は心を揺らすものでは無く、投げつけた武器や岩石などは花に変わってしまい、結局の所は悟りを阻止することが出来なかった。悟りを開いた釈迦に対して、マーラは自身の敗北を認めるという逸話がある。
因みに同じ第六天魔王の呼び名を持つ、第六天魔王"織田 信長"とマーラに直接的な関係は無い。
織田 信長が第六天魔王と呼ばれるようになったのは、人間の欲望の全てを否定する仏教の考え方が、新しい時代を切り開き、人の欲望を肯定し叶えようとする"彼女"の行った偉業の全てを否定したことから始まる。
日本を統一するまで秒読みであった織田 信長が、『人々を仏の道から遠ざける仏敵』であると当時、相当な力と権力を持っていた僧侶達が一斉に批判したのだ。それを許さなかった苛烈な彼女が、真っ向から仏教と敵対し、他国からキリスト教を広めた経緯があった。
身内に対しては謀反を起こされても許してしまう程に甘い信長だったが、それ以外には正しく魔王のように恐ろしく容赦が無かった。
実際に『比叡山焼き討ち』などで僧侶、学僧、上人、児童の首の悉くを刎ねたことも歴史に語り継がれていた。
キリスト教の宣教師ルイス・フロイスが、日本布教長であったフランシス・ガブリエルに宛てた手紙に、信長の仏教を駆逐せんばかりの行動に『第六天魔王 信長』と記載したのが始まりである。それが後世にも残ったがために、現代でも第六天魔王 織田 信長の名前が広まっているのだ。
マーラが釈迦の悟りを邪魔した逸話があるように、カーマはひたすら修行に集中していたシヴァ神に対して、その妻である女神 パールヴァティーの想いを気付かせるために、他の神々に恋のキューピットのように"矢を射させられた"逸話がある。
――かつてターラカという魔神が、インドの神々を苦しめていた。
後に三界を支配するまでに至ったターラカは、アスラ又はタラカースラとも呼ばれる。想像を絶する苦行を行い、その行いを"創造神 ブラフマー"に認められ、本人の望みによって『破壊と創造を司るシヴァ神の息子以外には殺されない体』を与えられた存在である。
何故、ターラカがシヴァの息子以外からは殺されないという条件付けをしたのかと聞かれれば、当時のシヴァ神は最初の妃で知られる"サティー"を失った悲しみを乗り越えるために瞑想に入っており、当分の間は子を作る気配が無かったからである。実質的な不死身の存在となることを望んだのだ。
ほぼ不死身となったターラカは、瞬く間の内に地上界、空中界、天界と呼ばれる三界を支配して"アスラ王"となった。
アスラ王を倒せるのがシヴァ神と"女神 パールヴァティー"の間に生まれた子供だけであると知っていた神々だったが、シヴァ神は瞑想と修行に集中するあまり、パールヴァティーに全く目を向けていない状態であった。
これに困った神々は"愛の神 カーマ"を派遣して、シヴァに情欲の矢を撃たせることで夫婦の愛を取り戻させようとしたのだ。神々の策略は成功し、アスラ王を打倒する"軍神 スカンダ"が二柱の間に生まれた。
一時は三界を支配したアスラ王は、軍神 スカンダの活躍によって消滅するという、勧善懲悪の"ハッピーエンド"を迎えたのだ。
――しかし、何も犠牲が無かった訳では無い。
世界――宇宙すら破壊する役目を持った神。破壊と再生を司る神であるシヴァ神の修行の邪魔をするなど、戦の神でも無いただの愛の神には無謀に過ぎる所業であった。例えるならば子供と大人の喧嘩にも等しい、力の差が存在している。
神々もそれを知らない訳も無かったが、アスラ王を倒すためにカーマを生贄にしたのだ。
誰もが予想した結果ではあるのだが、二柱の愛を取り戻させるために矢を撃ったカーマの行為に、シヴァ神は怒髪天を衝く程に憤怒する。『宇宙を焼き尽くす存在』としての力である第三の目を開眼して、愛の神であるカーマを焼き殺してしまったのだ。
ここまでがインド神話における愛の神 カーマの最期にして、現代でも有名な伝説である。全体で見れば幸せな物語であったとしても、大多数のために犠牲となった愛の神にとっては不幸な出来事であった。
このような凄惨な過去があって――彼女が誰かの愛を手助けすることに"トラウマ"を持つようになったのは、誰もが仕方無いと思うことだろう。
そして、ここからはカルデアのマスターとカーマの馴れ初めについてだ。
宇宙を焼き尽くすシヴァ神の力で消滅した彼女は、身体無き者となってしまった。それは逆説的に宇宙たる資格を得たことに等しかったのだ。
自分自身の形が同種の無と化してしまい、"無辺際の領域"という簡単に表現するのであれば"宇宙の概念"と同化してしまったのだ。則ち『身体無き者』としてのカーマは宇宙という概念と深く繋がり、『シヴァの宇宙』そのものとなった。
本来ならばカーマが"シヴァの宇宙"そのものとなっても、大きな意味を持つものでは無かった。身体が無い時点で、何も出来ることが無かったからである。しかし、何度も説明したがカーマには同一の存在とされる魔王 マーラが存在していた。同一であるが故に本当の意味で消える訳では無かったのだ。
マーラは別側面から宇宙の力を手に入れたことに等しい。
――その結果、『宇宙と繋がった欲望の魔王 マーラ』が、『宇宙と繋がった愛の神 カーマ』に等しいという災厄。カーマは『愛と欲望の宇宙的氾濫』という災害を内包する存在となった。
災害に等しい存在となったカーマは、人を滅ぼす獣の幼体となる資格を獲得する。
七つの人類悪の一つである『愛欲』の獣、ビーストⅢ/Lの幼体として顕現したのだ。愛欲の獣として『自分が全てに愛を与える――則ち、全ての愛を奪う』という在り方であった。
愛欲の獣の幼体となったカーマは、ビーストⅢ/Lとして完全に羽化するために、そして自身の対となる愛欲の獣『自分に全ての愛を向けさせる』在り方のビーストⅢ/R"殺生院キアラ"に対して、マウントを取りに態々カルデアに訪れたのだ。
ビーストⅢ/Rである殺生院キアラは、紆余曲折を経てカルデアに召喚されていた。ある意味で貰い事故のような形で、カルデア及びマスターはカーマに襲われたのだ。
そこから先は語るまでも無いだろうが要約すると、強大な力を持つカーマによって、カルデアを崩壊させる寸前まで追い詰められた。
しかし、彼女の依り代となった少女の姉や父親と同じようなうっかりと慢心が原因となり逆転され、彼女の宇宙全体を自分で満たすという計画は失敗に終わってしまう。
最終的にはカーマと縁深い"パールヴァティー"によって、彼女は空の彼方にまで飛ばされたのだ。
内面概念宇宙の恒星に引かれ墜ち、炎に焼かれて灰になろうとしていたカーマを哀れんだ殺生院キアラは、同じ獣性を持つ者の情けでマスターとの間に縁を繋げて掬い上げた。
縁が存在すれば召喚出来るのがカルデアであり、マスターとの縁を辿ってカーマは召喚されたのだ。
『ふぅ……。本当は、ここにお邪魔する予定なんて無かったんですけど、諸事情ありまして。私はカーマ、愛の神です。でも、私に恋愛相談とかはしない方が良いと思いますよ?』
この時の愛に疲れてしまったカーマは、恋や愛に現を抜かす存在を邪魔することに楽しみを覚える、悪い愛の神として開き直っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
この世で最も愛に詳しい存在であるカーマには、未だに理解出来ていない愛が一つだけ存在している。それは他人に愛を与える神であるが故に知ることが出来ない、自分自身へ向けた愛『自己愛』であった。
奇しくも彼女の対となる、殺生院キアラとは真逆である。自己愛の極致にいる魔性菩薩は、他人を愛する気持ちを理解出来ていなかったのだ。
――どこまでも正反対な二人だったが、本当の意味で男女の"恋愛"を知らない共通点があった。
どこぞの妖精國の女王のように、恋愛処女と言い換えても良いかもしれない。性愛ばかりに耽って、健全な愛を一度も育んだことの無い彼女達に、愛を教えるのは同じ男であった。
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「……カーマにとって、"愛"って何だと思う?」
戦闘と何気ない日常を共に過ごす中で絆を深めていき、素材と種火を注いで幼い姿から少女、そして成熟した美女の姿になったカーマに対して、マスターは疑問を投げ掛けた。
それは愛の神にとっての『愛の考え方』を知りたかったのもあるが、それ以上に嫌々ながらも"他人に与える愛"は話しても、自分への愛は一度も語ったことの無い彼女のことをもっと知りたかったからだ。
愛の神――カーマが"自分が全てに愛を与える"存在であることは知っているのだが、それでも言葉の節々に感じる卑屈さや自分を好いていない考えが、多くのサーヴァント達と関わる中で観察力の培われたマスターには透けて見えていた。
カーマが本来の力を取り戻しつつあり、絆を深めた今だからこそ、マスターは彼女の心に一歩踏み込んだのだ。それは彼自身もカーマのことを、憎からず思っているからであった。
「……え? そもそも愛とはなんなのか、ですって?」
カーマは形の良い眉を顰め、露骨に嫌そうな顔をする。
正しく嫌いな人の話をされた時のような反応であった。嫌いや苦手とする人物の多い彼女の場合は、シヴァ神やパールヴァティー、殺生院キアラの話をされた時と殆ど同じである。
マスター以外が同じ質問をすれば、きっと彼女は無視を決め込んでいた。しかし、憎からず思っている彼の問いには、自然と思い浮かんだ言葉を口にしてしまう。
「そんなこと口にするのも嫌です。考えるのも嫌です。それくらい、私は愛というものに倦んでいます」
殆ど大義のための生贄にされ、焼き殺された苦い思い出の原因たる"愛"への忌避を口にしていく。そして、ほんの少しの期待を持って言葉を続ける。
「――そんなに興味があるなら貴方が私に教えてくださいよ」
堰を切ったように、本音がカーマの口から漏れ出る。
「愛に疲れ絶望しているこの私に、もし愛の素晴らしさを思いさせてくれたら――ッ」
――自分を愛することが出来るかもしれません
喉から出かかった言葉を、彼女は慌てて吞み込んだ。そんなありもしない幻が駄目な自分には、与えられる筈が無いと思ってしまった。
希望を口にするよりも、諦観の念が襲ってきたのだ。
「……いえ、何でもありません。兎に角、もう完全に貴方は私の中なんです。絶対に逃げられない。それだけは、忘れないで下さいね……マスター」
先程の言葉を誤魔化すように、マスターを脅すような言葉を口にしてしまう。
長い年月を掛けて形成された地層のように分厚く大きな諦めと、未だに捨て切れない僅かな希望の入り混じった表情を浮かべるカーマに対して、彼女の話を静かに聞いていたマスターは意を決したように、ずっと思っていたことを言葉にする。
「――本当に俺で良いなら、カーマに愛を教えて上げたい」
「――――ッ。はっ、はぁ?! ほっ、本気で言ってるんですか……私がどういう存在なのか認識できてないんですか」
「うん、分かってるつもり。全部知った上で、"カーマを愛したい"」
「~~~~~っっ♡♡ なっ、なぁ――っ゛♡♡」
絵に描いたような狼狽の仕方をするカーマに、彼は意志の強い人間がする真っ直ぐで力強い視線で彼女を見詰める。
その物理的な熱量すら持っていそうなマスターの視線を受けて、カーマは顔を林檎のように真っ赤にしながら更に狼狽えてしまう。感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、自分の今の気持ちが理解出来ていなかった。
(えっ、え? いっ、いきなり何ですか、この状況は? ちょっと展開が早すぎて、全く追い付けてないんですけど……ッ)
彼女が混乱している間に、彼は二人の間にあった距離を詰めていく。気付けば少しでも身体を前に傾ければ、相手と触れ合う距離まで近付いていた。人間の持つパーソナルスペースと呼ばれるものを、完全に踏み込んでいる距離感である。
愛を与える神とは思えない程に、カーマは身悶えるような羞恥を感じる。耳の先端まで真っ赤にさせる彼女は、まるで初心な少女のようであった。マスターの顔をチラチラと盗み見ながら、少しでも自分を落ち着かせようとする。
しかし、愛し合うことに関しては愛欲の獣にだって負ける訳が無い百戦錬磨のマスターが、そんな暇を与えてくれる筈も無かった。無意識の内に後退して距離を取ろうとする彼女を壁際に追い込み、顔を背ける頭を左右から挟むように押さえて、強制的に見詰め合う状態に持っていく。
カーマを愛したいという想いが嘘で無いことを伝えるために、彼はただジッと彼女の深紅の瞳を見詰める。
「ちっ、近いですぅ♡♡ いっ、いきなり愛したいって言われても……っ♡」
「――嫌だった?」
「いっ、嫌じゃないですけどっ♡ 心の準備がまだ……っ♡♡♡ …………すっ、少し時間を下さぃ♡♡」
ずっと自分が望んでいた筈のことが突然やって来て、全く平静を保てていないカーマは何とか言葉を絞り出した。心臓が破裂してしまいそうな程に胸が高鳴っており、このまま見詰め合ったままでは比喩抜きで死んでしまいそうである。
そんな彼女のいっぱいいっぱいな様子を見ていたマスターは、カーマを開放する前に十秒ほどジッと見詰めた後に、そのまま流れるように顔を近付けた。
本当に一秒にも満たない僅かな時間だけ、唇同士が触れ合った。
「――――っ!?♡♡♡」
「――んっ。今日の夜になったら、俺の部屋に来て欲しい――そこで答えを聞かせてね?」
彼は彼女の耳元でそう呟くと、カーマの頭を押さえていた両手を離す。そのまま何事も無かったように、未だに放心している彼女の元から去ってしまう。それは相手に考える時間を与えると共に、より自分を強く意識させる"悪い男"が使う手段であった。
本人は特に意識せずに行っているので余計にたちが悪いのだが、少なくともカーマには効果覿面である。彼女は壁に寄り掛かったまま、ズルズルと滑り落ちてお尻が床についてしまう。
未だに甘い痺れと熱の残る唇に、右手の人差し指で触れる。
マスターとキスしたことと、少しずつ今夜の床に誘われたことを理解していく。元から赤面していたが、鎖骨辺りから真っ赤に染まってしまう。
まだまだ現状を正確と理解し切れていないが、この後の自分の行動だけは分かっていた。間違いなく彼に言われた通りに、夜になれば彼の部屋を訪れてしまうことである。
既にこの場にいないマスターに向けて、カーマはささやかな反抗のように彼への文句を口にした。
「…………ズルいですっ♡♡ 本当にズルぃ♡♡♡」
何度もズルいと口にする彼女の声は、蕩けてしまいそうな程に甘ったるい。
――これは愛の神が、愛に溺れるお話である。
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