これからもかなり不定期になると思いますが...もしお読みいただけたら幸いです。
魔獣と成り果てた娼婦が、男の一切を喰らい尽くさんと外を彷徨っている。
そんな吐き気を催すほどにぬかるんだ空気に、酷く纏わりつかれた街があった。
悍ましいほどの淫気に腐り果てたその場所では、喰らい尽くされた男達の白骨死体と、魔獣へと変わり果てた娼婦達のみ。
辛うじて見つけられた正気を保っている者は一握りで、マッチ売りの少女と一人のメイド、そして娼館に居る者達だけ。
その娼館のほとんどの扉からは交わる嬌声が漏れていた中で、一室だけ静かな個室があり、そこに彼女は居たのだ。
───彼女は、強い女性だった。
間違いなく自身の身が滅びるだろうと察していたのに、それでも安全な場所に誘われても尚、その場に居続けて、娼婦として生きようとするような信念。
果たしてそれは、信念というよりかは、ある種の依存や意地に過ぎなかったとしても、その在り方は気高いようにすら思えた。
けれども、この世界の神は無慈悲で残酷だ。
どれだけ手を尽くしても、彼女はこの街に居る時点で、霧に蝕まれ、魔獣化してしまうのだから。
男には──『 』には、そうなってしまった彼女の姿が焼き付いている。
彼自身の成した事は、彼女に対しての侮辱でしかない事は分かっていた。
その世界線では彼女に一生恨まれる事になろうとも、ただの自分の醜いエゴだとしても。
それでも男は、こんな醜くて歪んだ世界で僅かに光を与えてくれた彼女に生きて欲しかったのだ。
抵抗する前に彼女の意識を昏倒させて、聖森の監禁室に『避難』させるまで、そう時間はかかろう筈も無い。
それにより、彼女は確かに魔獣になることはなかったが.....しかし、黒山羊と改変者が邂逅して箱庭は滅び、彼女も、男の想いの殆ども、纏めて消えてしまう。
朧げな残滓に縋って不思議の国をどれだけ彷徨っても──かつて心を焦がされた娼婦の彼女を見つけることはできなかった。
────これは、××回目の不思議の国で『グリム』が遺した、幽かな記憶。
名前すらも忘れ去られた、幾多もの『彼』の内のひと欠片である。
───
「先程魔獣の嗎がそちらの方で聴こえたと思ったが....君は何ともないようだな」
紅ずきんと別れて階段を下っていった先、一人の男と出会った。
その風貌はまさに獣人という風であり、その雰囲気からはどことなく紳士的なものを感じさせる。
彼が言う魔獣が『彼女』なのだとしたら、一体この空間の彼は何を見て、何と話しているのだろう。
物腰柔らかい彼に警戒を抱きながらも、私は言葉を送り返す。
「ああ、きっと偶々幸運だったんだろう」
「そうか...そうだな。君は確かに幸運だったんだろう。ならばその幸運のまま、この街から出た方がいい」
「此処は、ろくでもない魔獣や狂人が跋扈して不意に襲ってくるような、今まさに腐りゆく場所だからな」
忠告しながら目を細めて、どこか遠くを見つめるように街を見回す彼の視線につられて周囲の感覚を受け止めてみれば、確かに橋の上から見た通りの、陰鬱で重々しい──例えるならば、霧の国の淫腐街を思い出す雰囲気だ。
建物の構造もぐちゃぐちゃな部分が所々見受けられ、まるで造り手が何かしらの良くない衝動に駆られたかのような跡すらもそこら中にある。
あの国も真っ当ではなかったが、この世界もそれに負けず劣らず狂い尽くしているのに対し、つい兜の中で苦笑が浮かんでしまう。
しかしながら、私も捜索せず去るわけにはいかない理由があるのだ。
「ご忠言感謝する。...私はアリスという少女を探しているのだが...名前に聞き覚えはないだろうか」
ふむ。と一呼吸を置いて、考え込むような仕草をした後に彼の口がゆっくりと開く。
「アリス...アリスか。申し訳無いが覚えが無い名前だな...人探しなら、ここの南西にある酒場がいいだろう」
「ろくな飲食物はない上、醜い奴等ばかりだが情報交流の場としては、この街で最も人間性がある連中だろうからな。...まぁ、たかが知れてはいるが...醜い奴、と言えばそこにいるバニーガールの女もその一人だ」
この不死を実感してからは、まともな飲食にありついたことはどれだけあったろうかと酒場に対して想いを馳せていたが、彼が言う信用ならない人物のあたりで思考を引き戻す。
「バニーガールの女...というと?」
問うてみれば、彼は獣の表情を歪ませる。
「...男のソウルを貪る事ばかり考えている女、とでも言おうか...アレだけでなく、この街は『そんな奴』ばかりだ」
その言葉で頭に浮かんだのは、あの忌まわしき淫腐街の地獄絵図だ。
言われてみれば確かに、この街の陰鬱な雰囲気の一つはソレに近い。
「まだこの辺は多少マシだが、此処から上の方は地獄のような状況だ。...君も只者では無いようだが、気をつけるといい。今は『切り裂きジャック』に殺される者達もいるからね」
「あまり深入りせず、早く去る事をおすすめする」
話が終わったその瞬間、彼は付近を覆う霧に紛れたかと思うと、ふとした時には、その姿を消していた。
話せる者が居て安堵はしたが、けれどもやはりこの街も安全では無く、まともなものではないらしい。
だが、ここで呆けていても仕方ない。
手探りでしかない現状に溜息を吐きながら、ぐちゃぐちゃの街並みの奥へと、私は足を進めることにする。
──ふと、彼の残り香からは、まだ暖かい血の香りがした。
元々、この街がろくでもないというのはなんとなく勘で分かっていた。
雰囲気のみで霧の国を幻視させるような場所が、まともな筈がないと。
結果としては、先ほどの男の忠告通りではあった。
だが、こんな直ぐに思い知らされるとは。
襲い来る黒尽くめの『紳士』の一匹をを通り過ぎ様に切り抜け、その次は喉元から脳天まで切り開き、盾で首を在らぬ方向へ捻れさせ──つい先程の獣よりも遥かに脆く、捌くのはそう難しくは無いが、その狂人共の数は一人、二人では下らない。
この時点で、この見知らぬ世界のまともさなど、たかが知れている。
初めに会話が通じる存在と出逢えた事自体、遥かに僥倖だったのだろう。
挙句、道標も無いままどこへ行こうかと適当に歩けば、血に狂った鴉の大群に襲われる始末だ。
だが、幾ら劣化しているとは言えど鎧は鎧。
野良の鴉の嘴や爪などは、急所だけを除けば防げる。
過去の経験が活きている事を不本意ながら実感しつつも、ヘルムのスリットや鎧の関節部分を守りながら落ち着いて剣で払い、潰えさせてゆく。
霧の国の時と比べて遥かに武器の質は劣れど、技術と知識は味方してくれるのだ。
さて、ここからどうしたものかと赤黒い血と汚れた羽根を払い除けつつ、私はそのまま歩みを進めて行く──彼が言っていた酒場は、そこから先で程無く見つかった。
成る程、確かにそこそこの人気は感じられる。
ただ、その客や店主達の殆どが正気ではないどころか、どう見ても人ではない者達すら当然のように見受けられる時点で、この場の狂気の一端を理解できる気がした。
案の定ではあるが、アリスの事を訪ねてみても、まともな回答は返ってこない。
鼠のようなモノ、異形の店主、挙句の果ては人間らしい保安官などと名乗る者すら酒の酔いだけとは思えないほど会話が通じない。
まるで、ぐちゃぐちゃの台本だけを読み上げられているだけのようだ。
ろくでもない惨状に頭を抱えかけるが、同時に『自分でもわかっているようでわかっていない少女』を他人に問う自分もまた、まともではないのを思い出して、心の内で自嘲する。
香り、金色の髪、愛らしい洋服。
そこまで覚えているのに、彼女が『どんな存在』であったか、一向に思い出せない。
霧の国の記憶はあった。
けれど、それ以前の記憶は酷く朧げで、私が『私』である事の証明すら出来やしない。
これほどまでに奥底から追い求めんとしかねない『アリス』の事も、ほとんどわからない。
不思議の国で彼女達と共にあった想い出も、摩耗なのか虚像なのかはわからないが、殆ど無きに等しい。
なら、今の身体と意識は、果たして『グリム』であると言えるのか?
そもそも、私が見ている『これら』の声や姿、世界自体がそもそもが間違いなのだろうか?
つい先程見た、紅ずきんの言葉や素振りがあった獣のように。
この世界の狂気に反して、『私』に小賢しい思考能力があるのが、酷く馬鹿らしく、愚かに感じた。
よもや表にまで嘲る声が漏れかけたその時。
ふと、音が聴こえた。
ぱ……ぱ………ぱ....
それは、私を呼びかけているようなのに、意味があるのかすらわからないほどぐちゃぐちゃで、一定の半濁音としか捉えられない。
なのに。
どうして、その音は、声は...私を呼んでいるように思えるのだろう。
振り向いた先に居たのは。
もはや、死にゆくのが目に見えてわかるほどに溶け続けているナニカだった。
かろうじて捉えられる半濁音と共に、ソレはずっとこちらを『見ている』。
ずるずると、もはやまともに動くはずの無い身体を、這うようにしてこちらへと迫るそれ。
恐ろしく感じられるはずなのに、何故か、無意識のうちに私は、ソレへと手を伸ばした。
ぱ……ぱ………ぱ……ぱ………ぱ……ぱ………
ソレは、私の手に触れ、まるで甘えるかのように壊れゆく身体を縋らせてくる。
あまりにも漠然としていて、今感じているものが本当に合っているのかはわからない。
けれど、ソレから私に向けられるものは、まるで幼い子供から親への愛情に近しくすら思えてしまった。
──ぱぱ。
パパ。
愛を育む子など、もはやあの緑髪の邪神に潰えさせられた未来にしかなかったはずなのに、どうして、この呼び方にここまでの覚えがあるのだろう。
──胎より出ずるものではなく、悍ましい『卵』から産まれた子。
全てを諦めた先に、もはや逃げることのできない悪夢の中で、それを見た。
私は、そんなものを見ていないはずなのに、『私』はそれを知っている。
同じ姿で、決められた型の子が溢れんばかりに産まれ、娘達とまぐわい、それを幾度も繰り返して──
あまりにボロボロで、ざらついた記憶は、ほんの一瞬だけ私の脳裏に瞬いた後にもう思い出せなくなってしまった。
その意識から目覚めた頃には、既に『我が子』の姿は無く、手元にあるのは、僅かに『アリス』の香りが残ったリボンの一欠片だけ。
私の心中は、もう、ぐちゃぐちゃだった。
「君はどこから来たんだ?君という存在はどこにある?」
「ひどい様子だ、頭痛にでも悩まされてるのかな?もしそうなら上の方にある精神病棟に行ってみるといい」
ふらふらと、おぼつかない足取りでこの地獄から出る時に、そんな声が聞こえた気がした。
精神病棟。
まさに今の私にぴったりではないか。
目の前に立ち塞がる『紳士』共を根こそぎ殺し尽くしながら目的の白い建物に辿り着くまで、あまりにも空虚で中身の無い自分への自嘲の笑いが、止まることはなかった。
──『私』は一体どこから出で、どこに存在しているのだろうか。
本当は精神病棟のクリアまでサクッと書きたかったのですが一旦ここで一区切りです。