一時的代理春庭幻覚 作:虫餃子
にぃちゃましかもう助けてくれるひとがいないんです
数年ぶりに直接顔を合わせたヒマは、項垂れたまま呟く
思いもよらぬ事態に絶句し、内心は錯乱に近い私の目の前で
陰鬱な声で、腹を大きく膨らませて
赤ちゃんができてしまったから捨てられてしまいました、と涙を溢れさせた
にぃちゃまとは呼ばれているが、私はヒマの兄ではない
花騎士は基本的に正騎士任命前に准騎士となってから一年程、私の運営しているような研修用の騎士団に所属して活動する事になる
ヒマも私の下で研修をしていたのだが、その間にご両親に似ているとかなんだかでよくわからないが気に入られ、にぃちゃまと呼ばれるようになったのだ
基本的に花騎士は奇人変人の巣窟であると知られている為、余程権威主義的な団長でなければそのままでも問題がない
故に呼び方もそのままにしておいたのだが、そのせいか、私自身もつられて彼女を部下ではなく妹のように感じるようになっていった
それは研修が終わってからもそのまま続き、直接会ったのは数年前にヒマと騎士団の団長の結婚式に呼ばれた時が最後だったが、以降も度々日常の事を綴った手紙を送ってきてくれていた
文面は昔のままであったが、その向こうに読み取れるヒマの心情は確かな成長を感じさせて、教官として嬉しさを覚えずにいられなかった
騎士団長も養成学校を卒業したばかりの新人ではあったが、誠実な人柄で、二人とも本当に幸せそうであったのに
詳しく話を聞いてみると、捨てられたというより、堕胎と花騎士専門の療養所への入院を強制されたが故に逃げてきたらしかった
信じがたい話ではあるが、なんとヒマの両親までもが騎士団長に賛同し、赤ん坊の死を願っているのだという
あの心配性で、温厚な性格のご両親が、そんな残酷な事を
本当だろうかと疑問を抱くと共に、別の疑問が浮かぶ
こんなにも大きな腹に、臨月になってしまってから堕胎など出来るのだろうか
そもそもそこまでの仕打ちを受けている赤ん坊は、本当に騎士団長との間に出来た子供なのだろうか
だがこの邪推が正しいならばヒマが浮気をしたという事になってしまう
それについ最近、数週間前に届いたヒマからの手紙にも、懐妊したなどとは一切書かれていなかったのも不思議な話だった、ヒマであれば喜び勇んで知らせてくれそうなものなのに
そんな事を考え、戸惑い黙り込む私にヒマが縋りついて咽び泣く
にぃちゃま、ヒマと赤ちゃんを見捨てないで、と
彼女の双眸に浮かぶのは激しい恐怖、赤ん坊の頃に誘拐され、親元から離されたヒマの抱く心的外傷を抉る現実によるもの
愚かな私は、情に流され、ヒマと家族を引き合わせるよりも先に、無事に子供を産めるように、密かに産婦人科医院に連絡を取り、誰にも見つからないようにヒマを連れていった
子供に罪は無い筈だと思い込んでしまった
再会から僅か数日後、ヒマは陣痛を起こした
産婦人科医院からの使いに連絡を受け、駐屯地から飛び出したが、丁度そこで本来ヒマと共にいるべき方々に出くわした
ヒマのご両親だ
深刻な、そして酷く焦燥した表情で私にヒマの行方を知らないかと問う二人に、私もヒマは今産婦人科にいて今にも子供が産まれそうなのですと急きつつ答えた
私の返答に絶句、絶望の表情を浮かべる二人
そして私は何故お二方までが堕胎を強要したのかを知った
ヒマの夫となった騎士団長は、既に落命していた
そしてヒマの胎の中にいるのは
人間の子供ではなかった
害虫に敗北したヒマは連れ去られ、散々に陵辱され
騎士団長が致命傷と引き換えに取り戻した時には、害虫の幼体を孕まされてしまっていた
夫の死と害虫の妊娠、悪辣な現実の合わせ技に錯乱したヒマは、腹の子を夫との子供だと思い込んでしまい
故に堕胎されまいと逃げたのだ
例え研修用とはいえ騎士団長の端くれならば、この事態は想定しておかなければならなかった
恐らく、なまじ私の教育した花騎士達がそんな目に遭ってこなかったが故に、これからもそんな生き地獄を味わう花騎士がいない事を願ったが為に、無意識的に考えるのを避けてしまっていたのだ
研修中に准騎士達に教育している通り、心のざわめきなど押し殺し、冷静に物事を捉えていれば、今から起こる最低最悪の失敗は起こらなかっただろうに
どうにか産まれてしまう前に病院に辿り着き、分娩室に飛び込んだのも束の間、私の失態を嘲るように、人とは思えない産声、医師と看護師の悲鳴が響く
咄嗟にヒマの目を私自身で遮ったが、手遅れだった
抱きしめた腕の中から、断末魔すら思わせる絶叫が、耳を劈いた
ヒマは完全に壊れた
正式な花騎士になった時から現在までの記憶全てを忘却して心を守ろうとしていた
一から全てをやり直そうと試みたのだ
よりにもよって夫であった騎士団長の立ち位置に、私を据えて
駐屯地として偽られた花騎士用療養所の庭を、ヒマと共に歩く
妊娠、出産を経たからか、ヒマの身体は急速に成長し、小柄な体躯のまま御母堂のように、或いは一部で有名な花騎士のイソギクやグロリオサのように豊満になっていった
だがそんな魅力的な容姿になりゆく彼女といても、私の心は晴れない
ヒマの傷ついた精神は、害虫に犯され孕まされた記憶を封じきれず、少しでも性的な欲望を向けられていると感じ取るとパニックを起こすようになってしまっていた
その身体的特徴から、外での日常生活すら、まともに送れないのだ
本当にヒマの隣にいるべき騎士団長はもうこの世にいない、真に彼女の心を護ってくれたであろう彼は逆に二度と戻らない心の傷を遺して逝った
正騎士となってからどんどん成長していっていた彼女の心は初めて会った時よりも尚幼く退行し、未来での変化を拒絶しているかのように頑なになってしまっていた
ヒマ、にぃちゃまと一緒にいるととっても楽しいです
これからもこんな楽しい時間が続いてくれると嬉しいです
寄り添いながら囁いてくるヒマの明るい声音に、相反する昏い思いを読み取ってしまいながらも、そうだね、とどうにか同意を返した