再び目を覚ましたとき、目の前にあったのは森の中の木漏れ日ではなく、木板が敷き詰められた天井だった。
自分の記憶を辿り、あの夜から今このときの間に何も覚えがないことを認識したとき、様々なことが手遅れになっていることを悟った。
私は森の中で、私の捜索に出ていたハンターの手によって見つかった。
新大陸では外に出るハンターと編纂者の匂いをあらかじめ導蟲に覚えさせている。それを使って探し出されたのだろう。
今の私は患者用の服に着替えさせられている。つまり、あのレザー装備を外した者がいるということだ。
そのときの私の姿を見たなら、私の身に何が起こったか、ほぼ間違いなく察するだろう。信じられるかどうかは別として。
せめて一度目を覚まして水浴びでもしていれば、ごまかせたかもしれない。けれど、それも叶わなかった。
調査班リーダーはリオレウス亜種を相手取って、いくらか怪我はしたようだけれど、なんとか無事に凌いで調査班に託したらしい。
まずはほっとすると共に、あの強大な竜を相手に一人で立ち回れることの凄さをしみじみと思う。
私を見つけた人が彼でなくてよかった。そういうことに疎いかどうかは分からないけれど、あのときの私の姿を見て、自責の念に駆られるようなことはあってほしくない。責任感が強い人だから、なおさらだ。
不幸中の幸いと言うべきか、私を保護したハンターの人も誠実でいてくれて、私がトビカガチにされたことがアステラで噂になることはなかった。
ただ、調査団が組織である以上、上層部への報告の義務はあるし、関係者へはある程度の情報を共有しないといけない。今までのことをベッドに横たわる私に伝えた、看護師さんのように。
「……今のあなたは外傷だけでなく、精神的なショックを受けた患者さんという扱いになっています。私以外の方はこのことを知りませんし、他言もしません。……しばらくは安静にさせておくようにとのことです。どうか、お大事に」
看護師の人は、終始親切だった。それは素直にありがたくて、でも、同じくらいに心を暗くさせた。
変に気を遣われてごまかされるよりかは良かったのかもしれない。そういう配慮は、きっと仇にしかならない。
全身の筋肉の損傷と、広範囲にわたる軽度の火傷、擦過傷。なにかに体中を締め付けられたかのような挫傷。発熱もあるようだ。
どれも相応の苦痛はあれど、度を越したような重症はない。適切な処置をすれば、狩りで大怪我をしたハンターよりも早く復帰できるだろう。
しかし、私に復帰の許可は下りなかった。医療班直轄の病室の片隅で、本を読むことくらいしかできなかった。私への対応は丁重で、距離を置かれていた。
私は、性被害を受けた人として保護されているのだ。
実際の性交渉には至っていないにしろ、そういう判断が下された。しかも、その相手は人ではなく、竜だ。前例などあるはずがなく、だからこそ、私への対応に困っているのだろう。
私自身、どこか他人事のようだった。あの夜にトビカガチから向けられた情欲は憶えていても、それが人と竜の交わりの間際だったという見方にはどうにも結びつかなくて、戸惑った。
物事の当事者の気持ちなんて、そんなものなのかもしれない。何かが起こったからと言って、急に自覚が芽生えるわけではないのだから。
けれども、調査団という組織を前にそんな悠長な気持ちは通じなかった。
私を襲ったことにされているトビカガチに関する話題が、いくつか舞い込んでくるようになったのだ。なんと、私を救助したハンターとの面会も許された。
……最初から情報が遮断されなかったのは、軟禁状態にある私に対するせめてもの配慮だったのかもしれない。私も、それを望んでいた。
あの日、トビカガチとの交わりで私が気を失った後のこと。
夜が明けて、日が十分に登った頃合いに私の行方が特定された。ずいぶんと早いのは、調査班リーダーが手早く救難信号を打ち上げたからだろう。
私の記憶と照らし合わせると、私は地上でのあの行為の後に、木の上へと連れていかれていたらしい。
トビカガチが獲物を捕らえた際にも取る行動だ。それを取り戻すということは彼の大事なものを奪うということであり、ハンターはだいぶ冷汗をかいたとのこと。
そしてトビカガチもまた、木の上で私の傍にうずくまっていた。
私としたときにはかなり興奮している様子だったけれど、本来は彼こそ戦い明けで休息が必要な身だ。手負いの竜は恐ろしいから、ハンターはさらに緊張しただろう。
実際、何度か威嚇もされたという。ハンターもほとんど臨戦態勢だった。けれど結局襲われるには至らず、私の身柄は回収された。
そのときに私の様子は、装備こそ大きく損傷はしていないものの、ぐったりとしていて、汗と涙に塗れて顔色は悪く、さらに分かる人には分かる、腹部から脚にかけての大量の精液の跡と匂いは消えていなかった。
驚きはしたが、少なくとも早急な保護が必要だということだけを把握して、ハンターは気持ちを切り替えた。それができるのが、彼らのすごいところだ。
トビカガチは相手がハンターであることを悟って手を出さなかったのだろうか。恐らく違うと彼は言った。その場は完全にトビカガチに有利な場で、いつ木の上から叩き落されてもおかしくはなかったらしい。
では、なぜトビカガチは動かなかったのか。
それは、彼の傷の治りが悪かったというより、彼自身がその場で最も困惑しているようだったから、だったそうだ。
まるで、衝動的な行動が行き過ぎてしまって、どうしたらいいか分からなくなった青年のようだった、と。
ハンターから語られた、私の救出までの過程。
それを聞いた私は、トビカガチの繁殖に関わる生態のことを思い返していた。
トビカガチの繁殖については、まだ十分な資料がない。その過程がほとんど観察されていないからだ。
調査団が見つけるのは成体ばかりで、私が子どもの頃に出会った幼体は、ある意味ではとても貴重な存在だったと言える。
だから、これはかなり強引な結び付けになってしまうけれど、トビカガチの本来の繁殖というのは、とても淡白なものなのかもしれない。それ故に、目にする機会が少ないのだと。
番に長くは縛られず、子育てもあまり手厚くはなく。ほとんど自分の力で生きていく。そういう生き方だったからこそ、幼い頃の私と彼との邂逅があった、という結び付けもできる。
つまり、トビカガチは種として伴侶とか子どもへの愛情が薄い。そもそも機能として備える必要がないのだから、その手の心が育たない。
愛情が厚いことは、必ずしもいいことばかりとは限らない。それは人がよく証明しているだろう。質素な愛でも育つならそれに任せるのも、立派な存続手段だ。
そこまでの大まかな過程を敷いたうえで、件のトビカガチのことを考える。
私に性の衝動を向けて、私がそれを拒まなくて、あの夜に私にずっと縋りついていた、彼のことを。
朝、そして昼になって、自らの体液や体の匂いが染みつき、しかし目を覚まさないで具合が悪そうな私を木の上に運んで、そのままハンターが訪れても何もできずにいた、彼のことを。
恐らくあの場において誰よりも混乱していた、種として性愛に慣れていないが故に自分がした行為に呆然としてしまう、彼のことを思う。
竜や獣は純粋な生き物だ。なにかきっかけでもない限りは、同種とそう変わらない生態を自然と身に着ける。
翻せば、何か環境や境遇に大きな変化や負荷がかかった場合、生き方が変わり行く可能性も持っている。
そのきっかけが、かの竜の年少時代にあるとするなら。
誰が、トビカガチをここまで変えてしまったのだろう。
その一件以降、トビカガチは様子が変わってしまった。調査団の人たちのモンスターライドの呼びかけに応えてくれなくなったのだ。
それどころか、縄張りに入ろうとする人を追い払おうとするような行動まで見られたという。大事にはならなかったみたいだけれど、今までの彼の寛容さからすると驚くべき変化だ。
私は拠点の中でその話を聞くだけで、実際の様子を見に行けてはいない。でも、それは彼が不機嫌になったというよりも、人との距離感が掴めなくなったというのが実情のような気がした。
私と身体を重ねて、そして私が気を失って、つまり彼は、私がぐったりしたまま同族に運ばれていった姿までしか見ていないことになる。
行為の後の愛撫もなく、かといって拒絶されたわけでもなく、ただ彼との性行為によって弱ってしまった人の姿がある。
人と竜の違いというものを、竜の側にここまではっきりと伝える機会はそうそうない。それ故に彼は衝撃を受けてしまったのかもしれない。人というものが、よく分からなくなったのだ。
あれから目を覚まさなかったことを今更ながらに悔やむ。気遣われるべきは彼の方なのだ。
もともと性行為へ至ったのも、蒼火竜をはじめとする環境の大きな変化に対する不安や恐れが発端だろうから。それをケアしてやらないといけなかった。
けれど、後悔は先に立たない。悔やむときにはもう、遅い。
そんな背景を通じて、トビカガチの立場は危ういものになりつつあった。
私が受けたものを外見だけで判断するなら、もしその相手が人だったなら、独房行きどころか現大陸への強制送還がありえる。それくらいに重い措置になる。
そして、トビカガチは人ではない。それが組織を動かす人たちの判断をとても危うくさせていた。竜に人の法が敷かれる義理はなくて、だからこそ、誰かの倫理観などの判断に委ねられてしまう。
意図的に人に危害を加えるようになってしまった竜は、折り合いがつかなければ討伐の任務が出る。それが調査団の線引きだ。その線引きに、私とトビカガチの行為は触れてしまうのか。
……私へ与えられた情報は、そこで途絶えていた。以降のことは何も分からない。トビカガチの処遇を決める話し合いにも、参加させてもらえなかった。
歯がゆさはあった。けれど、それも道理だろうという暗い諦念が内心に影を落としているのも事実だった。
私はこの件について、根本的に信用されていないのだ。子どもの頃の、あの一件があるから。
同じ竜を相手に二度も問題を起こした、そういう認識の人もいるかもしれない。
もしトビカガチが狩猟される運びになれば、また十年前のような行動を取りかねない。人々がそう考えるのも、ある意味では自然なことだった。
まただ、と思う。
また私は、部外者として扱われたまま、物事の行末をただ待つだけの立場に置かれてしまった。
これで私が現大陸に返されることになったら、もう嗤うしかない。十年前と全く同じ展開だ。そして、その可能性は十分にある。
そのときの私の帰還理由は、私の精神的な安寧を考慮して、ということになるのだろう。
もう間違えない、間違えたくないと思いながら新大陸に戻ってきたのに、この様だ。
いったいどこで私は誤ってしまったのだろう。心のどこかでそれを予感しながら、どうして修正しきれなかったのだろう。
トビカガチと蒼火竜が争っていたあのとき、調査班リーダーの介入がなければ、トビカガチはあそこで致命傷を負っていたかもしれない。
その点で言えば、彼の命が長らえるなら、という見方はできなくもない。けれど、その先にあった行為が、彼の立場を危ういものにしてしまった。
これも私が子どもだった頃と重なっている。トビカガチは悪くない。彼との関わりの全てにおいて、その責任は私にある。
そんな主張こそ、竜が相手では通用するはずもないことを、私は学んでしまっている。
その竜は人にとって特に危ないと言えるか、言えないか。全ての判断はそこに立ち返る。私の責任の話など、介入の余地はどこにもないのだ。
隔離された部屋の中、ベッドの上に、私は寝転がった。
いろんなことを考えるのが、今はしんどかった。
ここまでくると、人間不信になるというよりも、自己否定が延々と続いてしまいそうだった。
心が弱ると身体も動かなくなることは知っていた。罪悪感に不安感、無力感。今回のそれは、いつにも増して重かった。
自分の思考すら信用できなくなって、目を閉じて。
唯一はっきりしている記憶として瞼の裏側に蘇るのは、トビカガチとの夜のこと。
トビカガチは私の体を求めた。この混迷した状況が、それが私の夢ではないことを何よりも示している。
私もまた、トビカガチを強く求めた。電撃にさらされながら、彼を抱きしめることを止めなかった。自分の中にそういう強い気持ちがあることを、知った。
いろんな、いろんな感情があるのだ。私と彼の間には、きっと。それが、私だけが向けるものだったとしても。
十年前に出会って、半年近く密会を重ねて。たぶん、お互いの心のとても大きなところに居着いてしまった。その心のかたちが人と竜で違っても、その形成に大きな影響を与えたことには違いない。
そして、その関係は唐突に断ち切られた。私たちは人と竜で、どこかで解けることは必然だったとしても。互いによって作られた心に大きな傷を負うような別れになってしまった。
そして、十年の時を経てまた出会う。私は本当に驚いて、彼の方もたぶん、驚いて。その手法を変えながら、また以前のような関係を築こうとした。
けれど、やはりうまくいかないのだ。私がいろんな知識を詰め込んでも、彼が以前よりずっと強くなっても、新大陸と、調査団に対して私たちの存在は小さかった。
トビカガチの性的な衝動の出所は、どんなに突き詰めても推測にしかなり得ない。でも私の方は、そういった大きなものに対する恐れを埋めたくて、両親でも恋人でもなく、ただ彼に縋りついた。
こんなことになるなら、初めから身体の全てを差し出してしまえばよかったのかもしれないと思う。
いや、当時の夜も、こうなってしまうことは心のどこかで予感していた。でも、子どもの頃の過ちとか、組織としての自分とか、いろんな柵があって、それを解き切ることができなかった。
お互いに別の種族だ。そう上手くはいかないだろう。そもそも入るかどうかも分からないし、快楽が目的なら、トビカガチの自分の性器を手で慰めたあの方法が最適ですらある。
でも、あの夜に私が何もかもをかなぐり捨てていれば、今、このお腹には彼の熱が宿っていたかもしれない。
そのおかげで私の中が傷つき、苦痛にあえぐことになったとしても。もう会うことができないのなら、彼がいた証を私の身体に刻み付けてしまえばよかった。
トビカガチとの行為の痕跡は、この身体と装備に染みた精液は既に洗い流されて、もう記憶しか残るものがない。
それが、とても寂しい。
「……ッ」
無意識に自分のお腹の下に手が伸びて、自分の股を擦ったとき、形容しがたい感情が唐突に湧き出した。
布団を自分の身体に被せて、ぎゅっと身体を縮こめる。
「もう、いやだ……っ!」
その自慰行為は、あまりにも虚しい。
これからも私は、彼のことを想って自分を慰めるのだろう。あの夜の記憶だけを頼りに、彼の精液が自分に注がれることを想像しながら、自分の性欲というものがなくなるまで、あるいは、それ以降も。
そういう未来が思い浮かんで、それは今の私に到底抱えきれるものではなかった。
言葉は子どものそれに退行していた。私の心のどこかは、そこで時間が止まっているのだろうと思った。
本当に、考えることそのものを放棄したかった。でも、それが自分の意思で切り替えられるなら苦労はしない。眠ることもできないから、こうして堪えるしかない。
誰にも助けてなんて言えない。言えないから自分の中でぐるぐると回す。これまでだってそうしてきた。だから、これからもずっと────。
「あら、ずいぶんと参ってるみたいじゃないか」
────ぎし、と。木の床を踏む音がした。
その声はここにいる間ずっと聞いていた看護師さんのものではなくて、でも、とても聞き覚えがあるというか、とても懐かしいというか。
少し低くなって、また深くなった。その記憶を探り当てたとき、私は思わず飛び起きそうになった。
信じられないという気持ちで、恐る恐る布団から顔を出す。
「こんばんは。久しぶりだね、ネウ」
そこに立っていた人は、緑皮の軽装に大きなゴーグル、旧式のスリンガーを身に着けて。
以前より体や顔の皺は多く、深くなって。でも肉体の衰えはほとんど感じられない、眼光も全く鈍ってはいない。私が、調査団で最も憧れていた女性。
「フィールドマスター……」
「こんなところに何日もいたらさすがに飽きるんじゃないかい? ちょっと気分転換に行ってみようじゃない」
大丈夫、あんたらの上の人たちにはちゃんと話を通してあるからね、と彼女は笑ってみせた。
いつの間にか、私は自らの編纂者用の装備に着替えてメルノスと共に空に飛んでいた。本当に、気が付けばという感じだった。
そんな、一陣の風のような事の進みもまた、彼女が未だ現役で各地を駆け回っていることの証拠のように思えた。