次の日、私はトビカガチの巣をいったん離れて、森小屋の方へと赴いていた。
備え付けの簡素な調理器具の前に椅子を置き、座りながらスープを作る。と、小屋の扉がノックされて、人が入ってきた。
「やあ、何とかやっていけてるかい、ネウ」
「こんにちは、フィールドマスター。……っ、ちょっと、待ってくださいね……」
「──おおっと、これは気が利かなくてすまないね。あんたは座っておきな」
立ち上がろうとして少し体を屈めた私を彼女はすぐに見抜いたようで、手で私を制して座らせる。
満月の夜の二日後、つまり今日、フィールドマスターにこの小屋に来てもらって経過報告をする。事前の打ち合わせでそう決めていた。私がそう頼んでいたのだ。
「その様子だと、あんたの予想は当たったようだね。どうだい。やっぱり傷むかい?」
「ええ。でも、歩けないほどではないです。座ったり立ったりっていう動作がちょっとしんどいくらいで……たぶん今日がピークだと思うので、薬を塗りつつ大人しくしておこうと思います」
「ふむ、そうかい。もし何日も痛みが続いたり、今よりも痛くなったりしたらすぐに救難信号弾を上げるんだよ。メルノスやテトルーに文を頼んでもいい。我慢をするのが一番よくないんだ。分かってるね」
「はい。私も流石に、がに股歩きのままで今後を過ごすのはちょっと嫌なので」
苦笑しながらそう答えると、フィールドマスターも笑ってくれた。
明らかに竜との性行為があったと分かる話の内容でも、特に態度を変えずに接してくれる彼女の存在は本当に大きい。彼女でなければ、私もここまで落ち着いて話せてはいない。
問診を何度か受けたあと、私は戸棚に置いていた容器を指差す。
「あれ、今回頼まれていたものです。採取してから二日経っているので、急いで届けてあげてください」
「……すごいね。本当かい? これはあの期団長も喜びそうだ」
「……その、けっこう不純物とかも多いかもしれないですけど……」
「いいのさ。って、あたしが言えることじゃないけどね。でも、採取なんて到底不可能って言われてた類のものなんだ。こうやって手元にあるだけでも、あんたは十分な仕事をしたよ」
そういう風な評価をされると、気恥ずかしいような後ろめたいような、何とも言えない気持ちになる。とにかく、これで納品ということだ。
容器の中に入っているのは冷凍保存されたトビカガチの精液だ。それの採取を大真面目に依頼してきた人たちがいる。……三期団の期団長と学者の人たちだ。
何を隠そう、先日の私の処遇について、フィールドマスターと共に異議を申し立ててくれたのがこの人たちだ。
私の個人的な事情にも踏み込んだフィールドマスターに対して、三期団の人たちの主張は単純明快だった。──竜の精液を採取する機会だ、と。
商人が市場や品物の情報、技術者が設計図や材料の品質を何よりも重視するように、研究者に対しては、滅多に手に入らない貴重な試料を用意すればいい。彼らは基本、それで動く。
竜の精液は捕獲した個体からでも採取が難しいらしい。私がこうして生活することで、生で手に入るかもしれないということを知ると、彼らは目の色を変えたのだという。
協力を呼び掛けたのはフィールドマスターだけど、彼女も思わず苦笑いだったらしい。
研究者はこの調査団に決して欠けてはいけない存在であり、彼らにその価値を声高に主張されると流石に無視はできない。結果的にそれが、私の新大陸残留の決め手となっていた。
「三期団の方々にもありがとうって伝えてもらっていいですか。こんな、面識のない私のために……」
「そんなに恐縮しなくてもいいさ。連中は連中なりに好きに動いてるんだから。でも、了解したよ」
フィールドマスターは容器を布で包んでポーチに入れると「それじゃあ、今日はこれで解散かね」と言って席を立つ。
やはり、時間の余裕をつくるのもなかなか難しい状況なのだろう。聞いた話では大峡谷の向こうの瘴気の谷で大きな動きがあるようで、彼女はそこに駆け付けて何が起こるのかを見届けないといけない。
「じゃあ、また半月後にね」と言って立ち去ろうとする彼女を私は呼び止めた。
「あ、あの、フィールドマスター」
「ん? どうしたんだい」
「その……今までのこと、何から何まで本当に、ありがとうございました。こんな未来があるなんて、思ってもいなかったんです」
「あら。……うーん、そうだね」
本当は立ち上がりたかったけど、椅子に座ったまま深く頭を下げる。そうすると彼女はしばらく何かを考えて。
「あんたは何かお礼に悩みそうだから、先に言っておこうかね。あんたが昔書いてたトビカガチの観察記録、あれを完成させておくれよ。調査団の規定とか関係なく、あんたの望むままにさ。あたし、あの本のファンだからね」
と、にやりと笑った。
彼女は以前、人の悩みを聞くのは正直あまり得意ではないんだと言っていた。一期団として渡ってきてからずっとこの大地に目を奪われちまってて、だからこそ、あんたの気持ちがちょっとは分かったのかもしれない、と。
先駆者として編纂者という概念を提唱し、未だ現役で新大陸を駆け回る彼女は、昔と今の私を見てどんなことを思うのだろう。
「がんばりなよ、ネウ。古龍の調査が終わっても、古龍渡りが通常に戻ったことが分かるまで新大陸には人がいるんだ。そういう世代まで、あんたがここで生活できてることを期待してるよ」
「…………はいっ」
はっきりと、返事をして。
背を向けてひらひらと手を振りながら、フィールドマスターはメルノスと共に森小屋を去っていった。
その姿を見送って、さて、と私も腰を上げ、あいたたた、とお年寄りのように身を屈めて苦笑いする。何とも締まりのない気持ちの切り替えだ。
スープを飲んで、食後の薬も飲んで、怪我人のような足取りで小屋を後にする。実際、怪我人なのだけれど。
しばらく森を歩くと、どこからともなくひらひらと羽毛が舞い、白藍の竜が駆けつけてきた。私に近づくとその背中をとんとんと当ててくる。
「乗れって? うーん、今は鞍もないしね……尻尾で運んでもらおうかな」
以前、私と一緒に蒼火竜から逃げたあの運び方は、このトビカガチにはけっこう有効と判断されているらしい。頼めばやってくれるようになった。
正直、ふつうに酔うけれど、早々に慣れないと緊急のときに困るので、今のうちに鍛えておく。私の仮拠点であるキャンプへは導蟲が導いてくれるはずだ。
「…………ねえ、トビカガチ」
私の指示に従って私を尻尾で包もうとしたトビカガチは、首を傾げるようにして私を見た。
今このときに咄嗟に思い浮かんだことを、そのまま口にする。
「私、あなたに会えてよかった。
……あなたに会えてよかったって、言える。やっと言えるように、なったんだ」
白藍の羽を、手で梳きながら。
今までにないんじゃないかってくらいの、まじりっけのない微笑みを。
一年後、一月後、明日という範囲ですらまだ見通せない試みだけれど、それでも、明日を。
この胸の内にある気持ちを、ずっと忘れることのないように。
彼と共に、生きていこう。