静まり返った離れの部屋にその少女は居た。少女は肉付きの薄い体を丈の短い藍色の浴衣に包み、和座椅子に腰かけたまま、ぼんやりとした視線を室内にさ迷わせていた。
日本人形の様に精緻に整った顔と、腰まで伸びた血の様に赤い髪。ただその表情からは何の感情の起伏も伺えない。人の形をした器・・・そうその器はかつて秋葉と呼ばれた少女の人形だった。
「秋葉・・・待たしたな。ご飯だぞ。」
返事が返ってこない事など承知の上で、志貴はその人形に話しかける。
志貴は左手の上腕部に止血帯を巻くと、持ってきたナイフで左手首の動脈に傷をつけた。志貴の左手首はリストカット後の傷痕で畝の様になっていた。決して美しいとは言えない傷痕だったが、志貴にはそれが何故か誇らしく思えた。
志貴が血の滴る手首を近づけると、水の様に静まり返った秋葉の表情に、僅かな感情の小波が浮かぶ。『食欲』生物が持つ最も根源的な欲望の一つ。
秋葉は志貴の左手首に口を付けると、そこから零れる血を美味そうに飲み始めた。無邪気であどけない横顔。辛くないと言えば噓になる。痛くないというのも嘘になる。ただこの美しい義妹に血を与えながら、志貴は我が児に乳を与える母親の様な、不思議な満足感と充足感を覚えていた。
何度も何度もリストカットを繰り返したせいか、それとも血液自体が減ってているせいか、志貴の傷口から零れる血の勢いは弱かった。秋葉はそれが不満らしく己が歯を剥き出しにして、志貴の傷口に咬みついていた。
「ぐっ!!」
思わず走った激痛に志貴の顔が歪む。秋葉の犬歯が動脈を噛み切ったらしく、流れる血の勢いがダラダラからドクドクに変化した。志貴は反射的に右手で止血帯を締めていた。
「アウアー」
血の勢いは緩まったが、秋葉の表情が明らかな失望の色で曇る。
「ごめんよ秋葉。」
その秋葉の顔を見るのが辛くて、志貴は止血帯を緩めていた。再び噴き出した血に秋葉が美味そうに口を付ける。ドクドク・・・ドクドク・・・と志貴の血が体外に流れ出る。心音に合わせて、驚くほど容易く大量に。
急激な失血のせいか、志貴のいきなり目の前が真っ暗になった。体が鉛の様に重く感じられ、志貴は思わず秋葉に凭れ掛かっていた。体温が急激に下がって、体がガタガタと震え出した。力が入らない。目も良く見えない。これが危険な兆候なのは判る。
今までも何度か危うい事が有った為、琥珀にはナースコールを持たされていた。ボタンを押せば1分以内に駆けつけてくれるが、今日に限って何故かそのボタンを押す気にならなかった。
志貴は不思議と恐怖を感じなかった。傷口から溢れる血を飲みながら、秋葉は無邪気な笑顔を浮かべていた。そう自分の命はずっと秋葉に支えられてきた。今その命を秋葉に還そうとしているのだ。
ごめん秋葉。ごめん琥珀。ごめん翡翠。脳裏に浮かぶ三人の女性に向かって、順番に詫びながら、志貴は意識を失った。
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ゆるゆると開いた志貴の目にまず飛び込んで来たものは、お花畑ではなく。見慣れた離れの天井だった。
「もうすこし遅れたら危ないところでした。」
耳元で琥珀の声が聞こえる。どうやら志貴は死に損なったらしい。左腕には包帯が巻かれ、右腕には輸血用の血管針が刺さっていた。
「どうしてスグに私を呼ばなかったのですか。」
「俺が死ねば。秋葉は元に戻る。」
志貴の隣には口を紅に染めて無邪気な顔で眠り続ける秋葉が居た。秋葉の傍に居るとその一見華奢に見える身体から、志貴に向かって何か目に見えない力の様なモノが流れ込んでくるのが判る。そう秋葉は己が身を化物に堕としてまで、志貴を生かそうとしているのだ。
「それを秋葉さまが望んでいるとお思いですか。」
琥珀の口調はいつになく辛辣だった。
「望んではいないかも知れない。ただ、こんな事はいつまでも続けられない。秋葉が死んだら俺も死ぬ。俺が死んでも秋葉は死なない。どちらの命を優先するかは、自明の事だと思うけどね。」
志貴は秋葉の赤い髪を撫でながら言った。そう昔からそうだった。この男は自分の命を全く重んじては居ない。琥珀にはそれが腹立たしかった。この男は死に逃げようとしているのだ。秋葉や翡翠や琥珀との約束を全部投げ出して・・・
「少し目を閉じて下さい。」
「目を?何故?」
「いいから閉じて下さい!」
琥珀の口調には珍しく有無を言わせない迫力があった。言われた通り目を閉じる志貴。ややあって唇が何か柔らかいモノで塞がれた。驚いて目を開けると、目前に琥珀の顔が有った。間違いない琥珀は志貴にキスをしているのだ。
「んんんんっ!!」
志貴は慌てて離れようとするが、琥珀は志貴の両手を抑えて離れなかった。血を失った脱力感とその口づけの余りの心地よさに、志貴はいつしか琥珀に身を委ねていた。
琥珀の唇から何か暖かくて甘いモノが流れ込んできた。液体でも気体でも無く、その両者の中間の様な得体の知れないモノ。それは志貴の口内を満たした後、体内に流れ込み、細胞の隅々まで行き渡る事で、死に欠けの志貴の体を命で満たしていった。
やがて琥珀の唇が離れた。
「気分はいかがですか。志貴さま。」
琥珀は本人の象徴ともいえるその琥珀色の目に、悪戯っぽい光を湛え乍ら言った。
「嘘みたいに気分が良い。一体何をしたんだ。琥珀さん。」
まるで生まれ変わった様な気分だった。さっきまでの脱力感が冗談に思えるくらい、志貴の身体には力が漲っていた。
「これが私の能力です。『感応』と言って私は自らの力を他人に分け与える事が出来ます。」
「これが。」
志貴は自らの手を握りしめてみた。体の奥底から信じられない力が湧いてくるのが判る。そして気付いたことが有る。さっきまで感じていた秋葉からの力の流入が止まっていた。恐らく志貴の身体が満たされた事を秋葉が本能的に察したのだろう。
ふと横を見ると秋葉の髪がいつの間にか元の黒髪に戻っていた。
「んんんんっ・・・・」
秋葉の目がゆっくりと開かれる。その視線はしばらく宙を彷徨った後、志貴を捉えていた。待ち望んでは絶望し、二度と起こり得ないと諦めていた奇跡がついに訪れようとしているのだ。
「兄さま?」
秋葉の口から久しぶりに人の言葉が放たれる。
「お帰り秋葉。」
秋葉の身体を抱き締めながら志貴は思わず涙ぐんでいた。
「私は一体・・・」
込み上げて来た感情が余りにも大きすぎて、志貴は言葉を失っていた。ただ、秋葉は己の身体と唇が血で濡れていた事に気付いたらしく、ガタガタと震えはじめた。
「兄さま!!私。化わってっていたんですね!!」
「もういい。その事はもういいから。」
「秋葉様・・・お久しぶりです。」
秋葉の傍には琥珀が居た。琥珀はいつもと同様ニコニコした笑顔を浮かべていて、その本心は伺い知れない。
「そう・・・貴女が助けてくれたのね琥珀。」
秋葉は言葉の節々に諦観を滲ませながら言った。
「差し出がましい事をしてしまい。申し訳ありませんでした。」
「他に方法は無さそうですものね。一つ借りておくわ琥珀。」
一瞬取り乱した秋葉だったが、もう平素の調子を取り戻したらしい。ただ秋葉は凄まじい表情で琥珀を睨んでいた。そして秋葉の刺す様な視線を受けても、琥珀は平然と笑顔を浮かべていた。この二人の間に一体何が有ったのだろう。
「とりあえず屋敷に戻らないか。今後の事も話し合わないといけないだろうし。」
「ええ、そうね兄様。体も洗いたいですし、服も着替えたいわ。」
確かに着替えが必要だろう。秋葉の着ている薄い浴衣は志貴の血であちこちが汚れていた。今気が付いたがその離れの部屋は、噎せ返るような強烈な血の匂いが漂っていた。
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30分後、翡翠を加えた四人は遠野家屋敷のリビングに集結していた。秋葉は普段着の白のワンピース姿で、その傍らには割烹着を来た琥珀と、何時ものメイド服を纏った翡翠が居た。リビングテーブルの上では琥珀の居れたダージリン紅茶が、湯気と共に芳香を放っていた。
志貴は秋葉に向かって、今回の経緯を説明した。出来るだけ主観を交えずに、淡々と事実のみを話したつもりだったが、秋葉の顔色は蒼白だった。プライドが高く他者を頼む事を良しとしない秋葉の事だ。恐らく様々な自責の念が、彼女自身を責め苛んでいるのだろう。
志貴は話し終えた後、紅茶を一口飲み、深いため息を吐いた。今日は色々な事が有り過ぎた。出来ればこのまま眠りに付きたいところだが、秋葉には聞いておくことが有った。
「教えてくれ秋葉。俺には琥珀さんにこんな力が有る事は知らなかった。」
「琥珀と翡翠は巫浄家という特別な一族の末裔です。その家系の者は『感応』と言って己の力を他者に分け与える能力が有ります。」
「彼女が遠野家に居たのは偶然じゃ無いんだな。」
「ええ琥珀と翡翠は元々お父様の遠野の血を抑える目的の為にウチに引き取られました。」
「そうか。」
しかし遠野の連中は人一人の人生を何だと思っているのだろう。志貴は義憤に駆られたが、今回の件に関しては琥珀に助けられたと言っても過言ではない。
「今回は助かったわ琥珀。」
秋葉は琥珀に向かって言った。どうやら秋葉も同様の考えの様だった。ただ琥珀は何も答えず、何時もと同じ笑顔を浮かべていた。
「でも今後は必要は無いわ。それは本来私の役目よ。」
その言葉を受けて、琥珀の笑顔がピタリと止んだ。
「駄目です。秋葉様の身体は以前よりはるかに遠野の血が強くなっています。その状態で志貴様に力を分け与えたらどうなるか、御自分でもお判りでしょう。」
志貴は驚いていた。琥珀が秋葉に口答えする処を見たのは初めてだったのだ。
「今後は私が志貴様を支えます。秋葉様もご理解願います。」
「私にはお父様が貴女にした事を、お兄様にもしろとは言えないわ。」
「志貴様にされるのと槙久様にされるのでは、同じ行為でもまるで意味が違いますわ。」
琥珀の目に明らかに挑発的な光が浮かぶ。
「お兄様はどう思いますか。」
「俺の考えも琥珀さんと一緒だよ。今回は偶々元に戻れたけど、次もそうだとは限らない。もし琥珀さんに秋葉と同様に俺に力を分け与える事が出来るなら、本人に負担の無い範囲で俺を助けてほしい。」
「負担の無い範囲でね・・・」
秋葉は志貴の言葉を含みのある口調で繰り返した。
「聞かせて琥珀。貴女どうやってお兄様に力を分け与えたの。」
「口づけを交わしただけです。今の志貴様の状態は一時的なモノです。状態を安定させるには、槙久様と同じ行為が必要です。」
秋葉は刺すような目で琥珀を睨んでいた。
「どういう事だい。琥珀さん。」
「巫浄家の『感応』の能力がその真価を発揮する為には、力を渡す側と肉体関係を持つ必要が有ります。」
「なんだって!!」
「もう一度聞くわ、琥珀。貴女はお兄様に自らの力を分け与えて良いと思ってるのね。」
「もちろんですわ。秋葉様。」
「ではお兄様にも同じ事を聞きます。お兄様はどうですか。これからも琥珀にその身を支えてもらう覚悟は有りますか。」
「流石にそれは無しだ。幾らなんでも、嫁入り前の女性にそこまでやって貰うわけには行かない。」
「では聞きますがお兄様。他に何か良い方法はお有りですか。」
「ぐっ!」
志貴は詰まらざるを得なかった。もし良い方法が有るならとっくに試している。何よりもう二度と秋葉を化わらせる訳にはいかない。
「志貴様・・・志貴様は私がお嫌いですか。」
琥珀は鼻に掛かる甘え声で志貴に縋って来た。
「そんな事は・・・無いけど・・・」
むしろ志貴は琥珀に魅かれていた。好きだと言っても過言ではないかも知れない。琥珀には秋葉や翡翠にはない包容力や独特の明るさが有り、一緒に居るとつい甘えたくなる魅力が有った。
「翡翠・・・貴女はどう思うの。」
秋葉はいきなり翡翠に話を振った。
「わっ、私は志貴様と琥珀姉さまと秋葉様が良いなら別に・・・・」
今まで黙って聞いていた翡翠だったが、秋葉に聞かれて恐る恐るそう答えた。
「決まりねお兄様。琥珀・・・お兄様に抱かれる事を許可するわ。」
「ありがとうござます。」
琥珀は嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「ちょっ!秋葉!」
志貴は戸惑っていた。もし琥珀に何の想いを抱いていないなら、迷わずに琥珀を抱けただろう。ただ志貴に取って琥珀の存在は少し大きくなり過ぎていた。もし、その体を好きに出来るのなら・・・
「お兄様。これだけは覚えていてください。例えどんな理由が有ろうと、女は絶対に好きでもない男に自ら薦んで抱かれようとは思いませんわ。」
志貴の心を見透かす様に秋葉はそう言って微笑んだ。
つづく