Chapitre premier
ジュンに出会ったのは,1学期の始業式の日。式が終わっていったん戻った職員室の机の脇に立っていた男子生徒。
「たかむらクン?」
「はい」
と答えたその子を見る。顎のちょっと下まで伸びたまっすぐな黒髪。二重まぶた,長いまつげ,大きな目と小さめの赤い唇。全体として優しく整った顔立ち。思わず〔お人形みたい〕という言葉が思い浮かんだ。男子生徒にはふさわしくないかもしれないけど。福岡からの転校生。わたしのクラスに編入された。あらかじめ送られていた資料を見て気になったことを尋ねる。
「一人で暮らしてるの?」
「はい」
「ご両親は?」
「交通事故で死にました」
抑揚のない感情を込めない口調で答えたその子を思わず見つめる。その眼差し。澄んだ,でも何かを見つめるのではない遠くを見るような眼差し。何か言葉をかけたいと思うけど,何も思いつかず視線をそらした。
「じゃあ,教室に行きましょう。ついてきて」
その子は黙ってわたしについて歩く。
音楽大学を卒業し,演奏家への道は諦め,中学校の音楽教師として就職し,3年目に1年生のクラス担当になり,翌年そのまま2年生に持ち上がった。その1学期の最初の日。
教室の黒板に
篁淳 たかむら じゅん
と板書して,脇に立っている男子生徒をクラスに紹介した。
「福岡県から転校してきた篁クンです。みんな,お友達になりましょうね」
とクラスの生徒たちに語り,脇を見て
「じゃあ,篁クン,自己紹介して」
と語りかける。その子は
「たかむらじゅんです。よろしくお願いします」
無表情に言ってお辞儀する。
「それだけ?」
「ほかに何を言えばいいんでしょう?」
ていねいな,でも感情のこもらない口調でわたしに尋ねる。
「たとえば,好きな科目や苦手な科目とか」
「苦手な科目は体育です」
そしてちょっと間を置いて
「好きな科目は・・・・英語かな」
と,相変わらず感情のこもらない口調で言った。
不思議な子だった。その優雅な顔立ちは女子生徒の注目を集めたけど,本人はまったく「我関せず」という態度。テレビやマンガの話題や学内の噂話のおしゃべりには一切加わらず,休み時間は本を読んでいるか,出された宿題を片付けている。クラスが騒々しいと,そっと教室を出て図書室にこもっている。イジメの標的にならないかと心配してかなり注意して見ていたけど,そういうことはなかった。イジメの対象にさえならない別世界の人と認定されたのだろう。
担任教師としては,クラスの他の子たちと打ち解けるよう声をかけるべきなのかもしれない。でもなぜか,ためらわれた。ためらわせる雰囲気をまとっていた。
授業中も自分からは発言しないけど,当てられたらどの教科でもあっさり正解を答える。自慢げな表情などいっさい見せずに淡々と。そして中間試験で学年トップだった。それも,2番に大差をつけて。期末試験でも同じ。でも,ほんとうの驚きはこの後に控えていた。
わたしは学期の終わりの授業で生徒一人ずつ好きな歌を歌わせることにしていた。授業で習ってない歌でもいい。実際,アニメソングやアイドルグループの歌を歌う子もいる。大人ぶって歌謡曲や演歌を歌う子もいる。楽器が演奏できる子は演奏してもいい。それが音楽の試験の代わり。クラスの中には歌も楽器も苦手で,クラスみんなの前で歌わされるのが苦痛な子もいる。だから,音楽室の隣の視聴覚室に生徒を待機させ,一人ずつ音楽室に呼ぶことにしていた。一人が終わると視聴覚室に次の生徒を呼びに行く。ロスタイムが出るけど,音楽が苦手な子の気持ちを考えれば,これくらいはしかたない。
そして篁クンの番。
「ほんとうに,何を歌ってもいいんですか?」
「いいよ。ただ,授業で教えてない曲はピアノ伴奏を付けてあげられないからね」
篁クンはうなずいた。そして,深呼吸をしてから歌い始めた。その歌い出し,わたしは胸を締め付けられた。〔なんで,その歌を?・・・・〕
篁クンは変声期特有の不安定な声で歌う。
You’d be so nice to come home to
You’d be so nice by the fire
While the breeze on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire ・・・・
https://www.youtube.com/watch?v=YM0PhsP7ulk
わたしの悲しい恋の思い出を呼び覚ます歌。なぜ,キミがここでそれを歌うの? 乱れかけた心を立て直して,わたしは篁クンを見る。そしてまた驚いた。ふだん何の表情も見せないその顔に,表情が浮かんでいる。恋心の悲しさを表す表情が浮かんでいる。「表情豊かに」とは言えない。むしろ控えめなくらいだけど,それでもちゃんと歌の心を顔に表して歌っている。そして,歌い終えた。
「篁クン,歌う時には表情が出るのね?」
彼はちょっと驚き,それからいつもの無表情に戻って
「はい」
と答えた。
「この歌,好きなの?」
「はい」
と答えた時は,ちょっとはにかむような微妙な表情を見せた。それもまた,めったに見ないこと。
「篁クン,今日の放課後ちょっと残ってて」
「えっ?」
「いや,決して叱るとか小言を言うとか,そういうことじゃないの。ただ,ちょっとお話ししたいことがあるから」
「はい。分かりました」
いつもの無表情に戻って答える。わたしは,その無表情は両親を事故で失ったショックのせいだと思っていた。歌うことで表情を,そして感情を取り戻せないか?
放課後の音楽室。教室には居残っておしゃべりしてる生徒もいるから,わたしはここを談話室代わりに使うことがある。
「篁クンはジャズバラードが好きなの?」
「はい」
「誰かに習ったの?」
「お母さん」
「ああ・・・・」
ここで言葉に詰まった。そもそも,どんな話をするつもりだったのだろう。この子にいろんな歌を歌わせたい,教えたい。でも,もうすぐ夏休みに入る。それなら,うちに遊びに来させる?・・・・
「篁クンはジャズ以外の音楽も好き?」
「はい」
「たとえばどんなジャンル?」
「クラシック」
「クラシック音楽が好きなんだ。好きな作曲家とか,いる?」
「モーツァルト」
「ああ,モーツァルト・・・・」
確かに,イメージにあってる。
「それと,クープランも」
「クープラン?」
ふつうに中学生が知ってる作曲家ではない。
「篁クン,ずいぶん詳しいのね」
「いえ・・・・たまたま,ラジオで聴いて,いいなあと思ったんです」
はにかみの色を浮かべて答える。そんな表情さえ珍しかった。
「夏休み,うちに遊びに来ない? うちは両親も兄も姉も音楽家で,レコードがいっぱいあるから,好きなものを聴かせてあげられるし,いろんな歌を教えてあげられるよ」
わたしは思わず語りかけ,篁クンを見つめた。そんなわたしを見つめ返す眼差し。どこか遠くを見るような眼差しをわたしに向けて,
「いいんですか?」
と問い返す。わたしは深くうなずいた。
夏休み。篁クンは週2~3回くらいの頻度でうちにやってきた。いつも夕暮れ時,夕食を終えた頃。最初に来た日はタンクトップのTシャツにホットパンツといういでたちだった。
「女物よね?」
「はい。女物の方がデザインが好きなんです。それに,似合ってるでしょう?」
「うん。とてもよく似合ってる」
その後も似たような衣装だった。家族は女の子と思い込んでいる。その方が都合がいいから,誤解は訂正しないままにしておいた。
わたしの部屋でレコードを聴かせてあげる。まだCDが登場する前,うちには両親が集めたアナログのLPレコードがたくさんあった。モーツァルト,ハイドン,C.P.E.バッハ,J.S.バッハ,クープラン,ルクレール,ラモー,アルビノーニ,コレルリ,ヴィヴァルディ・・・・篁クンは穏やかな表情で聴いている。感情の見えないことは普段どおりだけど,教室で見せる冷たさを帯びた無表情ではない,くつろいだような穏やかな表情。こんな表情が浮かぶようになっただけでも,うちに呼んでよかったと思う。
それから歌を歌わせる。“Misty” “I will wait for you” “Fly me to the moon” “Sentimental journey”・・・・ジャズバラードのスタンダードナンバー。歌うにつれて,篁クンの顔に微妙な表情が表れる。〔美しい〕と心の中でつぶやく。でも,もっと明るい表情も見せてほしい。
「篁クンは,明るい歌は好きじゃないの?」
「明るい歌?」
「うん。たとえば・・・・」
わたしはミュージカル映画“My fair lady”の“I could have danced all night”を歌ってみせる。
https://www.youtube.com/watch?v=hA9bEKKxTNU
篁クンは歌うわたしを見ている。それから歌詞を教え,一緒に歌い,最後に一人で歌わせた。歌うにつれて表情が明るくなる。篁クンが初めて見せた明るい表情。お人形のような美貌が花開くようだった。
「そうよ,いつもそういう顔をしていればいいのに。教室でも」
というわたしの言葉に,篁クンはちょっとはにかむような表情,それからかすかに悲しげな表情を見せた。〔いけない。焦りすぎた〕と思った。
それからも,篁クンはうちにやってきた。一緒に音楽を聴く。それから,篁クンの歌を聴く。時にはわたしが新しい歌を教える。会話も交える。主にわたしが篁クンの事情を聞く立場だった。
両親が亡くなったのは今年の1月中頃。葬式や法事,法的な手続きなどが終わって,忌引きが明けて,ふと
〔一人なら,無理してここに住み続ける必要はない〕ということに気がついたと語る。
「3軒先の家の猫が子を産んだなんてことまで筒抜けになるような田舎町から抜け出したかった」
という言い方に思わず笑ってしまった。
「でも,数ある都会の中でも横浜を選んだのはどうして?」
と問うと,はにかむように
「港の景色が好きなんです」
と答えた。神戸か横浜か迷って,コイントスで〔表なら神戸,裏なら横浜〕と思って投げて裏が出た。大岡川に沿ってちょっと歩くと横浜港の埠頭に出られるから今の住まいを気に入ってると語る。それでわたしは気になっていることを尋ねた。
「港に近いのはいいけど,それにしても,どうしてあんな所に住んでるの?」
あんな所,とは失礼な言い方かもしれないけど,あのあたり,大岡川の両岸は横浜きっての歓楽街。篁クンの住まいの周りにはそういう仕事をしている人たちもたくさん住んでいるはず。中学生が一人で暮らすのに適した環境とは言えないはず。
「図書館のそばだから」
「図書館?」
「はい。先生は知らないんですか? 老松町にある横浜市立図書館」
「ああ・・・・」
「不動産会社の人に頼んだんです。図書館に近くて1Kくらいの間取りでなるべく家賃の安い部屋。築50年くらいだけど雨漏りしないしすきま風も吹き込まないから,ぜんぜん問題ありません」
「まあ,そうかもしれないけど・・・・」
「引っ越して次の日,朝から出かけたんです。福岡の中学の図書室の何十倍もあるんです。数え切れないくらいある開架書架の間を,並べてある本の背表紙を読みながら歩き回って,気が付いたらお昼になってました」
と語る篁クンの生き生きした表情。こんな顔,教室では一度も見たことがない。
「篁クンはほんとに本が好きなのね。どんな本を読むの?」
「いろんな本です。科学も歴史も,ああ小説も読みます」
と言って名前を挙げた本は,わたしの知らないものがほとんど。ただ,決して「お子様向け」の解説書でないことは確か。専門書とは言わないまでも,高校生どころか大学生あたりが読むような啓蒙書のたぐい。小説にしても,知らない作家や作品の名前が出てくる。トーマス・マンの『ファウストゥス博士』を知ってたのは音楽家を主人公にした小説だったから。そんな本を読んで分厚い知識教養を身につけているのなら,中学の試験で学年トップを取るくらいわけもないこと。でもまた,そうであればこそ,同級生とは話がかみ合わないだろう。同級生とほとんど口をきかないのも分かる。そして,気がかりなことを尋ねた。
「いじめられたり,してないよね?」
「それはないです。ただ異星人みたいに思われているだけです」
抑揚のない口調で答えた。
英語のことを話題にしたのは夏休みも終わりかけた頃。ジャズバラードに興味を示す篁クンのためにお母様が手ほどきしてくれた。歌詞の意味をきちんと理解できるよう,高校レベルの英文法まで教えてくれたらしい。
「じゃあ,ちゃんと意味を分かって歌ってるのね」
「はい」
そして,1区切りごとにつぶやくように歌いながら訳していった。
You’d be so nice to come home to
戻ってきてくれたらすてきだわ
You’d be so nice by the fire
暖炉のそばにいてくれたらすてきでしょうね
While the breeze on high sang a lullaby
そよ風は空高く子守歌を歌い
You’d be all that I could desire
あなたはわたしが望み得る全てのもの・・・・
「You’d be・・・・仮定法過去,現実に反する仮定ですよね。戻ってくるはずはないけど,もしも戻ってきてくれたらすてきだわ」
「そこまで分かって歌ってるのね」
とつぶやいて,わたしは自分の思い出に沈み込んだ。時間にしたら1分か2分くらい。そして我に返り,篁クンを見ると,目と目が合った。その眼差しはひょっとしてわたしを気遣っているの?
「心配してたの?」
「いえ。ただ,先生,何を考えているのかなと・・・・」
と答える篁クンの声を聞きながら,ふと気付いた。これはとても中学2年生との会話じゃない。まるで大人どうしの会話。篁クンはこんな会話ができる。そしてもう一つ気付いた。こういう会話をしている時,篁クンの顔に表情が浮かぶ。控えめではあるけど,感情が表れる。学校で無表情なのは,両親を事故で失ったショックのせいではない。興味ある話題を語り合う相手がいないからなんだ。
2学期,3学期,篁クンは時おりわたしのうちに遊びに来た。2~3週に1回くらい。たいてい土曜日の夕方。夏休みと同じように,一緒に音楽を聴き,歌い,そして語り合う。この頃になると変声期が終わり声は低くなったけど,どこか甘さや色気さえ感じさせる女の低音のような声。ふと,大人の女と語り合っている錯覚に陥る。一緒にいる時間を心地よいと感じ,玄関先で見送る時には次に会う日のことを考えている。わたしにとって特別な人と自覚したのは春休みになる頃。不思議とタブーを意識しなかった。生徒と教師,許されない恋という実感が湧かない。たぶん,篁クンを中学生と意識していないから。そして,男とも意識していないから。年下の女の子・・・・いや年下とも思っていない。同年配の女性・・・・。
春休みの終わり頃,3年生のクラス編成が教師たちに内示された。篁クンはわたしの担任するクラスではない。残念と思いながら,その一方でクラス担任という「たが」がはずれた解放感もあった。きっとそのためなのだろう。翌日,篁クンがうちに来た時・・・・。
一緒にレコードを聴いてから,わたしはクローゼットからドレスを1着取り出した。高校時代の発表会で着たドレス。
「篁クン,今日はプロの歌手みたいにこれを着て歌いなさい」
篁クンは,ちょっと驚いたけど,いやな顔をせずドレスに着替えた。
「せっかくだから,メイクもしよう」
と言って,わたしは篁クンを床に座らせ,自分は膝立ちの姿勢で,化粧をしてあげる。ファンデーション,アイブロー,アイシャドー,口紅・・・・。
「さあ,できあがり」
と言って,化粧した篁クンの顔を正面から見る。わたしを見返す眼差し。その時,わたしは自覚した。珠里[ジュリ]に似てる。この眼差し。どうして今まで気付かなかったんだろう。ジュリに似た眼差し。顔立ちも,ジュリに似ている。ジュリよりずっとかわいいけど,同じ系統の顔というのかしら,姉妹と言われたら納得しそうに似ている。素顔では分からなかった。化粧して初めて認識した。でも,ひょっとして無意識のうちに感じ取っていたのか? 自覚しないままジュリに似ていると感じて篁クンに心惹かれたのか?・・・・そう,ジュリも「お人形のように」かわいかった。そんな優しい顔立ちなのにボーイッシュな服装を好み,それが似合った。
ジュリ・・・・高校の同級生。ジャズ研の仲間。高校生の時は恋人ではなかった。高校を卒業し,わたしは音楽大学,彼女は市大の理科,進路が別れてから,お互い忙しい学校生活の合間を縫うように都合を付けあいながら友達付き合いを続ける中で恋心が芽生え,育っていった。肌を重ね合ったこともある。親しい友人たちには互いに恋人として紹介しあった。法的に結婚はできなくても,ずっと一緒に愛しあい支え合うと信じていた。でも・・・・
大学卒業の間際,わたしは別れを告げた。最後にジュリは「ジャズ研の歌姫」の歌声を聞かせてくれた。わたしのピアノにあわせて,You’d be so nice to come home to・・・・。ジュリが歌い終わり,エンディングの音符を弾き終えて,わたしは「終わり」と告げた。
あの時の痛い気持ちがよみがえる。女どうしの恋。モラトリアムのような学生時代には実感しなかった世間の目。教師として働き始める日が近づくにつれて心を侵食していったタブー意識。篁クンを見つめる目が潤んでくる。
「先生,何か悲しいの?」
わたしは顔をそむけた。
「先生,悲しい時には我慢しないで思い切り泣く方がいいって,本に書いてありましたよ」
その言葉で,力が抜けた。床にしゃがみ込み篁クンに体をもたせかけた。まだ涙は流れない。
「篁クン,歌って。あの歌。“You’d be so nice to come home to”」
「はい」
と答えて,歌い出した。その声を聴いて,涙が溢れてきた。
戻ってきてくれたらすてきだわ
暖炉のそばにいてくれたらすてきでしょうね
そよ風は空高く子守歌を歌い
あなたはわたしが望みうる全てのもの・・・・
歌が終わる。
「もう一度」
「はい」
また歌が始まり,そして終わる。
「もう一度」
「はい」
・・・・何度繰り返したのだろう。5回くらい? 涙は少しずつ引いていく。何度目かの歌が終わった時,わたしは篁クンに顔を向け,
「ありがとう」
と言って立ち上がった。
「化粧を落として,着替えましょう。その顔,その格好じゃ帰れないでしょう」
もとの衣装に戻っても,篁クンは女の子のようにかわいい。着てる服がそもそも女物のセーター。玄関から出ようとしたところを呼び止めた。
「これから,この部屋で会うときは『ジュン』と呼んでいい? 学校では『篁クン』のままだけど」
「はい」
「じゃあ,ジュン,さようなら。またね」
「はい。またお邪魔します」
と答えるジュンにわたしは微笑みかけた。できれば,頬にキスしたいくらいだった。
3年生の1学期もジュンはそれまでどおり2~3週に1回くらいうちに来る。わたしは,部屋に入れるとすぐにドレスを着せメイクするようになった。エレガントな衣装をまとい美しく化粧したジュンはジュリのかわいい妹のよう。本物のジュリはこんなエレガントな衣装を着なかった。かわいい顔立ちに似合うからと言ってドレスを着せようとするわたしと言い合いになったこともある。そんないさかいも懐かしい思い出。ジュリに似せるようにメイクし,わたし好みの衣装を着させたジュンを床に座らせ,それに体を着けるように座って,わたしは一緒に音楽を聴く。語り合うことは少なくなった。ほとんど何も話さず,ジュンの体の温もりを感じながら,わたしは音楽を聴く。
ある時,ジュンがふとつぶやいた。
「人の体って,温かいんですね」
「知らなかったの?」
「知識としては知ってました。でも・・・・」
「そうよ。人の体は温かいの」
わたしはジュンの腰に腕を回し,そっと引き寄せた。分かってる。わたしはジュンの中にジュリの面影を求めている。ジュンをジュリの身代わりに愛している。ジュンは気付いているのかしら? 気付いて,何も言わずに受け入れているの?・・・・ジュンの横顔を見る。いつもの穏やかな表情で音楽を聴いている。〔ジュン,もし気付いていても,今しばらくは黙っていて。黙って,わたしのされるままになっていて。いつかは終わらせるから〕。そう,いつまでも続けていいはずはない。どれほどお人形のようにかわいいと言っても,男子生徒。その子をかつての女友達の身代わりとして愛するなんて・・・・。
そんな疚[やま]しさもあって,ふと問いかけた。
「こんなドレスを着せられて,お化粧されて,いやじゃない?」
「そんなことありません。うれしいです。ボクはエレガントなものが好きなんです。男っぽいものは苦手です」
とジュンは答える。そして,
「学校でたまに男子たちの野蛮な態度やデリカシーのない振る舞いを目にすると,いたたまれない気持ちになるんです」
とつぶやいた。
「それは・・・・辛いね」
と言って,わたしはジュンをそっと抱き寄せる。疚しさが少しばかり薄れる。でも,だからこそ,それから1年ほども続けてしまった。
夏休み,高校受験を控えていたけど,ジュンは前の年の夏と同じように2~3日に1度くらいやって来た。そして2学期。親のいないジュンの高校進学の手助けをしたいと思い,学業特待生を募集している高校を探した。
中間試験が終わった11月の初め頃,横浜開明学院高校の資料を見せた。中高一貫の男子校の高等部。高校は内部進学生とほぼ同数の外部生が入学する。一般入試のほかに学業特待生入試が行なわれ,内部生と外部生が一緒に受験する。その試験の上位5人は特別貸与特待生として,月5000円の勉学奨励給付金が与えられる。
「ジュンなら,特別貸与奨学生の枠で入学できる。そうすれば,授業料は要らないうえに,お小遣いももらえる。お金の心配をせずに高校に行けるでしょう?」
「ありがとうございます。もうボクの担任じゃないのに。わざわざボクのために高校を探してくれて」
お礼はいいの。わたしがジュンのためになることをしたいから,しただけ。せめての罪滅ぼし。
「それに開明高校という名前の通り開明的というか進歩的というか,制服がないの。あるけど,強制じゃない。私服でも通えるの。だから制服も買わずに済む」
それから,わたしは真剣な顔になって話を続けた。
「ひょっとしたら,ジュンにとっては学校に行くことは無駄かもしれない。ジュンなら,授業なんか受けなくても一人で勉強できる。大検だってすぐに受かると思う。その方が能率的かもしれない。でも・・・・学校で同年配の生徒たちとともに時間を過ごすという体験にも,それなりの価値があると思うの。一見,無駄に思えるかもしれないけど。ジュンのように『普通』を越えたレベルの子こそ,そういう『普通』を体験することは意味があると思うの。イジメとかで学校に行くのが辛いとか,どうしても学校に行きたくないということなら,無理にとは言わないけど,そんな理由がないのなら,ほかの子たちと同じように普通に高校に通ってみない? いやになったら,いつでも辞めていいんだから」
ジュンは納得したようにうなずいた。
年が明けて開明高校の特待生試験を受け,予想通り特別貸与奨学生として合格した。その頃,わたしはお見合いをした。そして結婚を決め,教師を辞めることを学校に通知した。
3月上旬の卒業式。離任のあいさつ。辞めることだけ話し,結婚のことは伏せておいた。わたしはジュンを見つめながら語る。ジュンもわたしをじっと見ていた。式の後,三々五々に仲良い生徒たちどうしが集まって語り合っている中,一人でさっさと帰っているジュンを呼び止めた。
「明日,うちにおいで。昼間,日の高いうちに」
翌日,午後3時頃にやって来たジュンにいつものような化粧をほどこす。港の景色が好きというジュンをつれて港の見える丘公園に出かけるつもり。さすがにドレス姿では寒いからパンタロンスーツを着せた。こういう格好をさせるとますますジュリに似る。じっと見つめ,思わず
「ジュリ」
とつぶやいた。
「えっ?」
ジュンはけげんな表情を見せる。
「ああ,何でもないの。気にしないで」
そうだ,このパンタロンスーツはジュリとお揃いで買ったものだった。無意識のうちにこれを選んで着せていた。丘の上は風が強いかもしれないから,その上にわたしのお気に入りのコートを着せる。バーガンディーのコート。深い赤色の上に色白の優雅な顔立ち,ほんとうにお人形のよう。化粧したジュンと外出するのは初めて。いや,そもそもジュンと外出すること自体が初めて。最初で最後。
バスに乗ってやって来た公園。ジュンは目の下に見える横浜港の景色を眺め,それから遠くに見える東京の景色,反対側に見える三浦半島の景色を,うれしそうな笑みを浮かべて眺めている。わたしは,うれしさを素直に浮かべたジュンの表情を横から見ている。その笑顔を消すのは忍びないけど,わたしは語りかけた。
「ジュン,わたし,結婚するの」
「えっ?」
かすかに驚きの表情が浮かぶ。
「ジュンと会うのも,これが最後」
ジュンの驚きの表情が深まり,それから徐々に薄れていく。そして,いつもの無表情に戻ってわたしを見つめる。
「そうですね。夫となる人に悪いですよね」
「そうじゃないの」
とわたしは答える。「そうなのよ」と答える方が良かったのかもしれない。でも,この場面でごまかしは言いたくない。
「夫となる人は,わたしの交友関係はすべて自由に許すと約束してくれたの。だから,これはわたしの意志」
ジュンはわたしを見つめる。唇がかすかに動いた。声は出ない。「どうして?」と問おうとしたの? それはね,この機会にジュンをジュリの身代わりとして愛することをやめると決めたから。この機会を逃しては,やめられないと思うから。そして,ジュリへの思いも断ち切ると決めたから。もちろん,それを言葉にはしない。
わたしを見つめるジュンの表情に悲しみが浮かぶ。これほどはっきりと悲しい表情を見せるのは初めてのこと。目が少しうるんでいるかも。ジュン,悲しんでくれるの? ありがとう。
帰りは外人墓地の脇の坂を下り,元町通りを散歩する。ジュンはずっとうつむいたまま,わたしも黙ったまま,賑わう商店街を歩いていく。そして石川町駅に着いた。
「ジュンはここから電車で帰りなさい」
「でも,この服は・・・・」
「それはプレゼント。卒業祝いと高校の入学祝い」
「あっ・・・・ありがとうございます。でも,ボクの服が先生のうちに置いてある・・・・」
「送ってあげる」
ジュンはわたしを見つめる。
「あとで,ボクが取りに行くのでは・・・・」
わたしは首を振る。
「これで終わりにしましょう」
そう言って,券売機で桜木町までの切符を買って差し出す。ジュンはちょっとためらってから受け取った。そして改札を通り,振り返り,
「さよなら」
とわたしに声をかける。わたしも
「さよなら」
と言って,手を振る。そして,背を向け出口の方に歩いて行った。それで終わりのはずだった。