Chapitre 11
3学期の期末試験が終わり,終業式まで午前中だけの短縮授業。ボクは学校の食堂で昼食を済ませる。橘クンも付き合ってくれる。それから,駅まで一緒に歩く。電車に乗ると制服を着た女子が橘クンに話しかけてきた。
「橘クン,今お帰り?」
「えっ,美咲さん,上大岡から特急に乗るんじゃないの?」
「別に,各停に乗ってもかまわないでしょう」
と答えて,彼女はボクにきつい視線を投げる。橘クンがあわてて紹介する。
「あっ,美咲さん,こいつは篁,ボクの同級生」
「同級生? 開明の生徒?」
「そうだよ」
「ごめんなさい。わたし,すっかり女子だと思っていた」
橘クンはやっと余裕の表情になる。
「たいてい間違えられるんだ。なあ,篁」
ボクはうなずく。おかしかった。間違えられたことじゃなくて,橘クンのあわてぶりと,その後のいかにも安心した表情が。そして,美咲さんという女子がボクに向ける視線が一気に穏やかになった。
黄金町駅。ボクはそのまま電車に乗っていようと思っていたけど,橘クンがそっとボクの手を引くので一緒に降りた。駅を出るなり,
「バレンタインデーにチョコをもらって,それで,付き合っている。これまでもチョコをくれた人はたくさんいるけど,彼女はわりとまあ,ボクの好みというか,話が合うというか・・・・もちろん,篁ほどではないけど,それでも知的な話題に関心があって,ボクの話を退屈がらずに聞いてくれるし,分からないことは自分で勉強しようとしてくれるし。それと・・・・面影が篁を思わせるところがあって」
「つまり,ボクの身代わり?」
「ごめん」
「いや,謝らなくてもいいよ。身代わりであっても付き合うのは彼女にとってうれしいことだと思う。ただ・・・・」
「ただ?」
「付き合うなら,まじめに真剣に付き合ってね。彼女を悲しませないでね」
「ありがとう」
「お礼を言うのは,むしろボクの方です。ボクは,橘クンを嫌いじゃないけど,でも受け入れる限度がある。これ以上は無理という限度がある。彼女は,もっと深く橘クンを受け入れてくれるかもしれないから」
橘クンは唇をかみしめるようにしてボクを見る。
翌日,またボクたちは帰りの電車で美咲さんと乗り合わせた。彼女は橘クンでなくボクに話しかける。
「篁さんも,おうちは黄金町なの?」
「えっ・・・・いえ,ボクは一つ先の日ノ出町です」
「あら,でも,昨日は・・・・」
「ああ,それは・・・・」
ボクの代わりに橘クンが答える。
「篁はたまにうちに本を借りに寄るんだ。親が医者で,うちには医学関係の本がたくさんあって,篁が読みたがるから」
「あら,それなら」
美咲さんが口を挟む。
「うちは,父が法律学,母がフランス文学の教授なの。うちにも本がたくさんあるわ」
それはおもしろそう,とボクは思う。
「ふーん・・・・それにしても,法律学とフランス文学って,おもしろい組み合わせですね」
「そうでもないの。これは父の受け売りだけど,父は法律でも民法が専門なの。で,近代民法の源流の一つがナポレオン法典なんだって。だから,法律学,民法学でフランス語は必須らしいわ」
「ああ,そういえば,スタンダールがナポレオン法典を読んで書いて文章修行したって逸話がありますね」
「篁さん,よくご存じね。わたし,それは母から聞いたけど」
「そりゃあ,篁は何でも知ってる」
橘クンが笑って話に加わる。
こんな話をしているうちに電車は黄金町に着いた。橘クンは名残惜しそうに降りる。ボクと美咲さんは手を振った。
電車が発車すると美咲さんはボクに話しかけた。
「篁さん,これからうちに来ない?」
「えっ?」
「これから,何か用事があるの?」
「別に,特に用事はありませんけど」
「じゃあ,おいで」
「どこ?」
「日吉」
「日吉?」
「横浜まで行って,東横線に乗り換え」
ボクがためらっているうちに,電車は日ノ出町に着き,ドアが開き,閉じた。
「うちに来るしかないね」
美咲さんはいたずらっぽい表情。
「篁さん,意外と押しに弱いのね」
「そんなふうに強引に迫られたこと,ないんです」
「あら,そうなの?」
中学までは,ほとんど誰とも付き合わなかった。誰もボクにかまわなかった。高校生になってからも,橘クンとジュリさんくらい・・・・。
横浜駅に着いて,乗り換え。美咲さんは,ボクが切符売り場で戸惑っている間にボクの切符を買ってくれた。
「わたしが強引に連れて行くんだから,切符代はわたしが出すわ」
「日吉まで,どれくらいなの?」
「急行なら12~13分・・・・知らなかったの?」
「はい」
「意外なことを知らないのね」
「だって,必要なかったから」
「まあ,そうだけど・・・・」
こんなことを話しながら東横線の電車に乗り,日吉で降り,10分ほど歩くと美咲さんの住むマンションの部屋。
部屋に入ると,美咲さんはボクをソファーに座らせ,
「ちょっとだけ待ってて」
と言って自分の部屋に入り,5分ほどして,着替えて出てきた。ジーンズにセーターというラフな格好。
「ミネラルウォーター? コーラ? ジュース? それともコーヒーか紅茶?」
「紅茶をお願いします」
彼女は手早くお湯を沸かし,紅茶を淹れ,カップを2つソファーの前のローテーブルに置き,ボクの隣に座る。そしてボクの方を向き,きちっとボクの目を見て問いかけた。
「篁さん,単刀直入にお尋ねします。橘クンとはどういう関係?」
ボクは,びっくりして彼女を見返す。
「昨日,見てたの。弘明寺の駅の改札を抜けてホームを歩いて階段を上って降りて電車に乗るまでのあなたたち,まるで恋人どうしみたいな雰囲気だった。特に橘クンのあなたに対する態度。そっと肩に手を置いて,あなたに優しい視線を向けていた。男の子って聞いて安心したけど,後から考えてみると,男の子どうしで恋人ってことも,あり得るじゃない。だから,知りたいの。ほんとうのこと。橘クンとはどういう関係?」
どう答えればいいんだろう? ボクはいろいろ考える・・・・いや,へたなウソはつかない方がいい。ボクには人間関係の駆け引きなんか無理。へたなウソをついて後で露見するより,最初からありのままを正直に話しておく方がいい。美咲さんの怒りがボクに向けられるかもしれないけど,それは仕方ない。
「ボクにとって橘クンは友達です。親友と言ってもいい。ただ一人の友達。ほかに友達はいないから。橘クンにとってボクは・・・・きっと恋人なんです。好きと言われました」
「いつ?」
「去年の8月。夏休みの終わり頃」
「それで,何て答えたの?」
「ボクは彼を嫌いじゃないけど,友達としては好きだけど,恋愛的な意味で好きと思ったことはないし,これからもそう思うことはない。それでいいならこれからも付き合う,みたいに答えました。それと,具体的にボクに何を期待しているのか聞き返したら,キスしたい,抱きしめたいって」
「それで,篁さんは・・・・受け入れたの?」
「はい」
「橘クンに抱かれてキスされたの?」
「はい」
美咲さんはボクをにらみつける。昨日,ボクを女子と間違えてにらみつけたように,いや,それよりもっときつい視線で。
「あなたは,平気なの? 好きでもない人に抱かれてキスされて,平気?」
「ボクは・・・・橘クンのことは嫌いじゃありません。それに,ボクを好きになってくれた人に不幸になってほしくはない。その人の願いは,可能な範囲で叶えてあげたいです」
「それじゃあ」
美咲さんは両手でボクの肩をつかむ。
「わたしが『好き』って言ったら,『抱きしめてキスしたい』って言ったら,させてくれるの?」
「ほんとうに,美咲さんが本気でそう言うのなら。美咲さんがほんとうにボクを『好き』って言うのなら」
美咲さんは相変わらずボクをにらむように見つめ,それから手を離した。
「言わないけど・・・・」
彼女は正面に向き直り,うつむいた。
「ボクは,まだ話すことがあります」
「まだあるの?」
「はい。・・・・橘クンに抱かれて,はっきり分かりました。ボクは男の人より女の人に抱かれる方が好きだということ。女の人の柔らかな体に抱かれる方が好きだということ。だから,ボクは橘クンをそれ以上深く受け入れることはできないということ」
美咲さんはボクの言ったことを咀嚼するようにしばらく考えこんでから,キッとした表情で問い返す。
「それって,つまり,篁さんは女に抱かれたことがあるということ?」
「はい。ボクは,好きな人がいます。彼女もボクを愛してくれています。そのこと,ちゃんと橘クンには話しました。そして,彼女に橘クンのことも話しました。3人で会いました。3人で合意,了解しあいました」
「合意って,了解って,どんな合意なの,どんな了解なのよ?」
「事実をありのままに認識して受け入れるということ。つまり,ボクは彼女と愛しあっていて,橘クンの願いは受け入れられる範囲で受け入れる。彼女はボクと愛しあっていて,ボクが橘クンとそういう関係にあることは認める。橘クンはボクに彼女がいることを認めた上で,ボクと付き合うということ」
「みんな,3人とも,それでいいの?」
「ボクはそれでいいと思ってます。彼女もそれでいいはず。橘クンは,ひょっとしたら不満があるかもしれないけど,それ以上の要求はできないことは分かっているはずです」
「なんだか,橘クンがかわいそう」
美咲さんは沈んだ声でつぶやく。
「ボクもそう思います」
「そう思ってるなら・・・・」
と言いかけて,美咲さんは言葉を閉じた。
「そう思っているから,ボクは,橘クンがほかの誰かを真剣に愛してほしいと思ってます。ボクのことは忘れて,いや,忘れなくてもいいけど,友達関係に戻って,誰かを本気で好きになってほしい。その方が幸せだと思うんです」
「その『誰か』がわたしだと言いたいの?」
「そうなってくれればいいと願ってます」
ボクは美咲さんに眼差しを向ける。
「さっきも話したけど,ボクは橘クンをすべて受け入れることはできないんです。心はともかく,体は無理。橘クンの気持ちを思うと不憫だけど,ボクもどうしようもないんです。だから,橘クンは,ボクじゃない誰かを,橘クンのすべてを受け入れられる人を,好きになってほしい。そしてボクへの執着を断ち切ってほしい」
「それって,すごく身勝手な言い分よ」
美咲さんは突き放すような口調。
「そうかもしれません」
ボクはうなだれた。そしてもう一度顔を上げて美咲さんを見る。
「どうしても無理ですか? こういう事情を全部分かった上で,橘クンを受け入れるのは,ぜったい無理なことですか?・・・・ボクは二人が幸せになってほしいんです」
美咲さんもボクをじっと見ている。
「それは,わたしの気持ちじゃなくて,橘クンの気持ちしだいじゃない? 橘クンが篁さんへの思いを断ち切って,恋人からもとの友達の関係に戻って,わたしだけを恋人として愛してくれるなら,それなら,わたしは橘クンを愛するわ。だって,わたしから好きになったんだもの」
そう言って彼女はうつむいた。しばしの沈黙。そして,ボクから問いかける。
「ショックでした?」
「それはもちろんショックよ。でもまあ,想定の範囲内。さすがに,篁さんに橘クン以外の恋人がいて,3人がそれを認めあってるというのは,それはさすがに想定範囲を超えていたけど,ほかはまあ『こんなこともあるだろう』って思ってた範囲内のこと。ショックはショックだけど,不意打ちじゃない」
「それはよかった」
「よくはないわ。よいはずないでしょう」
美咲さんはきつい表情でボクを見る。
「ごめんなさい」
彼女は表情を緩め,フッと笑みを漏らした。苦笑いかも。
「篁さんは,ずるい」
「えっ?・・・・どうして?」
「だって,篁さん,とてもいい人だもの。親友のために,親友の幸せを願って身を引くなんて,いい人すぎる。そしてわたしは,二人の間に入り込んだ悪役じゃないの」
「そんな・・・・美咲さんが悪役なんて」
「ほら,そうやっていい人ぶる」
「ぶってるじゃないんです」
美咲さんはうなだれてため息をつく。
「分かってるよ。分かってるわよ。篁さんはほんとうに心から素直に橘クンのためを思ってわたしに話をしているってこと。だから困るの。わたしはどうしていいか分からない。篁さんを憎めない」
「ボクを憎みたいの?」
「こういう時って,誰かを憎みたいの。恋仇を憎みたいの」
「ボクは美咲さんの恋仇なの?」
「そうでしょう,二人とも橘クンを・・・・あっ,そうか。そうじゃないんだ」
「ボクはむしろ,橘クンの恋人という立場を降りたいんです。橘クンにあなたを好きになってほしいんです」
「でも,それは,わたしじゃどうしようもない。橘クンの気持ちしだいよ」
「そうかもしれないけど・・・・」
ボクは考え込む。
「二人,協力できませんか?」
「二人って,わたしと篁さん?」
「そう。だって,同じことを目指してるんでしょう? 美咲さんは橘クンの気持ちを自分に向かせたい。ボクは橘クンの気持ちを美咲さんに向けさせたい」
美咲さんはおかしそうに,でもちょっと悲しみも交えて笑う。
「わたしたち,奇妙な関係ね」
「ともかく,ボクは明日,今日のことを橘クンに伝えます。美咲さんに問われて答えた内容をきちんと伝えておきます」
美咲さんは黙ってうなずいた。それから,それまでと違う軽い口調でボクに尋ねた。
「もうすぐ3学期も終わる。3年生になれば進路を決めないといけないね。橘クン,どこを志望だか知ってる?」
「いえ。そういう話はしないので」
「そう・・・・できれば,大学は一緒にしたいの。ただ,橘クンの学力なら東大も十分合格圏だと思うけど,わたしは,東大は無理」
「どこを考えてるの?」
「横浜市大か都立大か・・・・通うのは都立大の方が便利なの。横浜市民だけど,横浜市立大学より東京都立大学の方が便利」
美咲さんは冗談めかして語った。そして,まじめな口調に戻って
「今日は,わたしのわがままに付き合わせて,ごめんね。いろいろ話をして,何の解決にもならなかったけど,篁さんを憎んでも仕方ないことは分かったわ。さようなら」
「さようなら」
翌日の放課後,珍しくボクの方から橘クンに声をかけて,橘家に寄った。リビングルームではなく橘クンの部屋で話をする。前日,美咲さんから問われたこと,ボクが話したこと,なるべくそのまま,はしょったり,余計な講釈を付け加えたりせずに。ボクの話を聞き終えて,橘クンはため息をついた。
「二人がかりで,ボクが美咲さんを好きになるよう仕向けるわけか」
そう問いかけられて,ボクは何も答えられずにうつむいた。
「いや,ごめん。篁を責めるつもりじゃない。篁がボクのためを思ってくれていることは分かる。美咲さんはボクを単純素朴に好きなんだ。それも分かっている。要は,ボクが気持ちを切り替えればいい。単純明快なことだ。でも,それができないから苦労するんだよ」
「そうなんだよね」
ボクは悲しげに答える。
「そんな悲しそうな顔をしないで。うれしいよ,篁がボクのためを考えてくれていることは。そんな篁だから,素直でウソがつけなくて,ボクのために一生懸命になってくれる,そんな人間だから,篁が好きなんだ」
橘クンは右手を挙げ,ボクの頬に触れる。いとおしそうに優しく撫でる。そして顔を近づけ,唇を触れあわせようとして,やめた。顔を離し,じっとボクを見る。
「キスはしないでおこう」
「ごめんね」
「篁が謝らなくていい」
橘クンはボクをじっと見つめ,手を伸ばし,唇に触れた。
「篁は自分で気付いているのかな。ここに小さなほくろがある。整った顔立ちの均衡を壊すようで,むしろ絶妙のアクセントになって美貌を引き立てている。美咲さんも,同じようなほくろがあるんだ」
ボクはハッとして彼を見る。彼はそっと視線をそらし,ふだんの口調に戻って話しかける。
「『友情が恋に変わることはあっても,恋が友情に変わることはない』という言葉があるけど,ボクの恋心が友情に変わったら,世界初だね」
そしてフッと笑った。
「篁にとって2つめの『世界初』だな」
「2つめ?」
「ああ。1つめは例の薬理学的去勢の研究。まだ続いてるんだろう?」
「ああ,そうだね」
橘クンらしい冗談。ふだんの雰囲気が戻ってきたようだけど,それでもまだ橘クンの表情は悲しげだった。
春休みの木曜日のお昼頃,ボクは橘家を訪れた。本を借りるため。そして一緒に昼食を摂るため。篠原さんの手料理をごちそうになり,紅茶を出してもらう。ボクは橘クンに話しかけた。
「志望校は決めた?」
「親のいるところでその話題を出すのか?」
「だめだった?」
「だめじゃないけど」
お母様と篠原さんは,思わず笑みを漏らした。橘クンはそんな二人をにらんでいる。それからボクに顔を向け,
「やはり,東大を狙いたいな。篁は決めたのか?」
「ボクは医学部を考えている。卒業後の仕事を考えて。会社員とか公務員は向いてないと思うし」
「確かに,そうだな。・・・・それじゃ,理3にチャレンジするか?」
「いや,横浜市大の医学部」
「なぜ? 篁なら東大理3を志望したって身の程知らずじゃないだろう。チャレンジすればいいのに」
「浪人はしたくないんです。現役で確実に受かるところを受けたい。親の遺産には限りがあるから。まして,医学部は4年じゃなくて6年だし」
橘クンはまじめな表情になる。
「篁はボクとは違うんだな。生活の苦労を知らない医者のお坊ちゃまではないんだ」
「苦労と言うほどのことではないけど」
「それでも,ボクが経験する必要のなかったことをいろいろ経験してきたんだろう」
そう言って,席を立つ。
「お茶が終わったら,ボクの部屋で続きを話そう」
橘クンの部屋で,話を続ける。
「ボクが東大で,篁が市大なら,来年は離ればなれになるな・・・・」
「離れる方がいいかも」
「『去る者は日々に疎し』・・・・でも,その格言が常に正しいとは限らない。離れることでなおさら思いが募るかも。そんなロマンス,恋愛小説もたくさんあるだろう・・・・まして,離れると言っても東京と横浜。住んでる場所はお隣どうし。中途半端だね」
言われてみると,それもあり得る。家族のようにいつも一緒にいる方が,気持ちは落ち着くかも。それこそ,家族のように空気のような存在になるかも。橘クンも同じようなことを考えていたみたい。
「いつもそばにいる方が,恋心を冷ますにはいいかも。まして,忘れたいわけじゃない。静かで穏やかな友情に変えたいんだ。それとも・・・・家族かな。篁を弟のように・・・・妹のようにでもいいけど,思えるようになるといい」
「うん。それはいいかも」
「近頃にしては珍しく意見が一致したな」
橘クンはフッと笑みを漏らす。
「実は・・・・市大医学部も考えた」
ボクはびっくりして橘クンを見る。
「医者になろうと思うの?」
「まだ確定したわけじゃない。親には話すな。ぬか喜びになってはいけないから」
「もちろん,勝手に話さないけど。・・・・ただ,そんな動機で医学部に行くのも・・・・」
「そんな動機ばかりじゃないんだ」
橘クンはボクを安心させるように穏やかに微笑む。
「去年から,篁につられて医学書を読み始めた。ボクだけカヤの外なのがしゃくに障るといういささか不純な動機だけどね。それで,いろいろ医学書を読んでみて,悔しいことに意外とおもしろい。それで,医学も勉強してみたいという気になっていた。ただ,あれだけ医者になるのを拒否していたのに宗旨替えするのも気恥ずかしいと言うか,結局は孫悟空みたいに親の掌の上を飛び回っていただけみたいになるのが,それはそれでしゃくに障るというか,そんな気持ちでためらっていたんだけど,今の話でそんなつまらない見栄を捨てる決心がついた」
と言ってから,あわてて
「いや,まだ最終決定ではない」
と言い足した。最終決定ではないけど,かなり気持ちは固まっているんだろう。ボクにこんな話をするんだから。こんなことを考えていると,
「来年の今頃,開明学院の理事長は大喜びだろうな。1・2番コンビが揃って国公立の医学部なんだから。小遣い払って高校に通わせた甲斐があったというものだ」
「受かると決まったわけじゃないんだよ」
「そうだけど,これから1年,油断せずにきちんと勉強していれば,十分に合格圏内だろう」
ボクは思わず笑った。ほら,ほとんど最終決定じゃないの。ボクの笑顔を見て,橘クンも優しい表情になる。でも,その表情がしだいに翳っていった。
「開明高校と違って,横浜市大の医学部には篁なみの知性の持ち主も珍しくはない。篁と同じレベルで話のできる相手もたくさんいるはずだ。篁は“Noli me tangere”という雰囲気をまとう必要もなくなる。もう『氷の美少年』と呼ばれることはないだろう。その美貌と素直な性格でみんなに愛されるアイドルになるだろうな。心配だよ」
そう言ってボクを抱き,じっと見つめる。
「いっそ,囲ってしまいたい。できないことは分かっているけど」
そして,唇を重ねる。そして,離す。ボクは橘クンを見つめる。
「ほら,そのうるんだ眼差し。見る人を惹きつける色気が出てきたね。自覚してる? この半年くらい・・・・ボクのせいじゃない。きっと,ジュリさんのせいだね」
春休みの終わり頃,美咲さんと横浜駅の喫茶店で落ち合った。あの日から1週間後,彼女は橘クンに会っていろいろ話したとのこと。
「橘クンは『二人の気持ちはよく分かっている。ボクが気持ちを切り替えれば,3人みんな幸せになることは分かっている。でも,気持ちって,そんなに簡単に切り替えられるものじゃないんだ』って言うの。追い詰めても逆効果だと思うから,気長に待つつもりだけどね。待っているのも気がもめるから,話し相手になってほしくて。篁さんは,何か進展があった?」
ボクは,親じゃなくて美咲さんならいいだろうと思って進路のことを話した。ボクと同じ横浜市大医学部を目指すこと。
「やっぱり,橘クンは篁さんから離れたくないのね」
美咲さんの口調に悲しみと怒りが混じっている。
「そういう意味じゃないんです。いや,そういう意味ではあるけど,意味が違う」
こんな支離滅裂な言葉を聞いて,美咲さんはさすがに笑い出した。
「何言ってるの?」
「ごめんなさい。言葉がぜんぜん足りなかったね」
ボクはていねいに説明を加える。中途半端に離れるのはかえって思いを募らせるかもしれないこと。むしろ,家族のようにいつも一緒にいれば,ほんとうに家族のように空気のような存在になるかもしれないこと。橘クンもボクを弟か妹のように思えるようになるかもしれないこと。美咲さんは納得してくれた。
「ああ,それはあり得るかも。それにしても,『弟か妹みたい』って,おもしろいね。橘クンは篁さんを女の子と思ってるの?」
「そうではないはずです。ボクのことは男と意識していると話してました」
「男と意識した上で好きなの?・・・・それはそれで,複雑な気持ち・・・・」
気持ちが沈みかけたようだけど,気を取り直すように明るい口調で美咲さんは話題を変えた。
「わたしも横浜市大にしようかな。医学部は無理だけど,商学部か文理学部か」
「都立大の方が通いやすいんじゃない?」
「まあ,それくらいは・・・・不便というのも比較の問題で,電車に1時間も2時間も乗るわけじゃないし」
新学期が始まり,ボクたちは3年生になった。S組=特待生クラスは1つしかないけど,それが理系グループと文系グループに分けられ,毎日の最後の時間,月曜~金曜日の6限と土曜日の4限,別の授業を受けることになる。ボクたち理系グループは数Ⅲの授業を受ける。文系グループは国語と社会の補習らしい。1クラス40人,文系が26人,理系が14人なので,文系グループがボクたちの教室を使い,理系グループは小会議室を使う。コの字型に並べられた長机に生徒が座り,残る1辺に教卓が置かれる。最初の時間に教師が
「キミたちは本拠地を追われて不満かもしれないが,こんな大学のゼミのような少人数授業はいいものですよ。卒業する頃には良い思い出になっているはずです」
と話し,すぐに授業を始めた。
土曜日の夕方,ジュリさんに教科書を見せたら,
「わたしたちの頃の数Ⅲとほとんど同じ内容なのね。微積もだけど,確率統計もきちんと勉強しておきなさい。社会に出てから使いでのある分野だからね」
と言って,ちょっと間を置いてボクに問いかける。
「ジュンは,進路決めたの?」
「医学部を考えています。横浜市大の医学部」
「ああ,ジュンは医学に興味あるみたいだし,橘クンのうちはお医者様なんだよね」
「もちろん,興味もあるけど,卒業後の仕事のことも考えているんです。お母さんのこともあるし」
「お母様のこと?」
「お母さんは,とても優雅で教養豊かな人だったけど,それだけでは生きていけなかったから。それだけでは,心の冷めた相手に依存しないと生きていけなかったから。ちゃんとした資格,技能を身につけたいんです」
「ジュン・・・・」
ジュリさんはボクを見る。悲しげな,切なげな眼差し。
「そんな悲しそうな顔しないで。人はいつまでも学生のままではいられない。いつかは大人になって,自分の生計を自分で支えないといけない。当たり前のことでしょう?」
「そうね・・・・」
「いろんな仕事があるけど,ボク,会社員や公務員はぜったい無理だと思うから」
この言葉を聞いて,ジュリさんは笑った。無理に笑ったのかも。
「確かに,ドブネズミのダークスーツにネクタイ姿のジュンは想像できない。白衣姿の方がまだしも。でも,女医さんに見られるかも」
そして,ちょっと間を置いて,
「医学を勉強するなら,なおさら確率・統計は役立つよ。治療法の有効性判定に欠かせないからね。生物統計学という分野もあるくらい」
「そうなんですか?」
「うん。実は,研究者の道を諦めて就職することに決めた時,その方向も考えたんだ。ただ,実際に生物統計学者を募集しているのが厚生技官だけだったから,やめた。公務員はちょっとね・・・・もちろん,今の職場でも活用してるよ。投資決定って確率論そのものだから」
「それで大金を動かしてるんですね」
「実際に動かすのは別の人。わたしは研究,計算だけやってその結果を報告するだけ。それで動くお金が100円か100億円かはどうでもいい」
「会社としては,それでは困るんじゃないんですか?」
「そんなことはない。『わたしたちはどうしても欲得,功名心から逃れられないから,それから離れた冷静で客観的な判断を示してほしいんです』って言われてる。儲けも損も巨額な世界だから,なおさら,私情や欲得を挟まない冷静,冷酷な判断が求められるの」
「ふーん・・・・」
それはそれで,おもしろい世界なのかもしれない。こんなことを考えていると,
「ジュン,受験生ならわたしと遊んでる暇はなくなるかな」
と問いかけられた。
「それは・・・・土曜の夜と日曜の朝だけなら,大丈夫だと思います。土曜の夕方,ここに来るまでは勉強してるし,日曜日もお昼からは勉強してますから」
「そうだね。受験生にも息抜きは必要だよね。だらだら勉強するより,メリハリつけて勉強する方が能率は上がるね。じゃあ,これからも,土曜の夜と日曜の朝はわたしの,わたしとサキのものだね」
ジュリさんはうれしそうに話す。
「出かけようか」
「はい」
ボクたちはキー・アンド・ストリングに出かける。そこでサキさんと落ち合う。一緒に食事をして,音楽を聴き,サキさんはピアノを弾き,ボクとジュリさんは歌う。それからジュリさんの部屋に戻って,めくるめく時を過ごす。
1学期も平穏に過ぎていく。中間試験ではボクが,期末試験では橘クンが1番だった。そして夏休みに入ってすぐに受けた模擬試験で,横浜市大医学部の合否判定は二人とも60~70%だった。
「半々よりは高い。まあ,『油断しないで勉強してれば十分合格の見込みがあるからこれからもがんばりなさい』というメッセージなんだろうな」
「この結果表,ご両親に見せるの?」
「見せないよ」
「見せればいいのに・・・・そろそろ,きちんと話しておく方がいいでしょう」
橘クンは唇を噛んでうつむく。
「癪だなあ,親の思い通りの進路を選ぶなんて」
「そんな子供っぽいこと言わないで」
「まだ子供だよ」
「この4月で18歳になったでしょう」
橘クンは軽くボクをにらむ。
「篁はまだ17歳だな。来年の1月まで。子供でいられるんだ。いいな」
「16歳で大人になるんだよ。アメリカの習慣では」
「ここはアメリカじゃなくて日本だ」
橘クンはちょっとむくれたような表情。それからまじめな表情になった。
「篁,一緒にいてくれ。篁がいる時に話したい」
「いいよ」
「日曜日がいいな。父もいる方がいいから」
「今度の日曜日?」
「いや,そんなに早まるな。後で連絡する」
結局,橘クンから連絡があったのはお盆を過ぎた頃だった。
4人でランチのテーブルを囲み,食後のお茶の時間。橘クンは話し始めようとしない。お母様が話し始めた。
「この場で話すのもどうかと思うけど,弘樹も祐樹も知ってることだからね」
と前置きして,
「篁さんの薬理学的去勢の研究だけど,去年の今頃から測定値が底値になって,そのままの状態が1年続いている。それで,休薬します。篁さん,よろしいですね?」
「つまり,明日から薬はのまないのですね?」
「そういうこと。1ヶ月して検査してホルモンの状態を調べます」
「はい」
ここで話が途切れた。それで,ボクが話を切り出した。
「来年,受験なんですけど,横浜市大の医学部を受けるつもりです。先月の模擬試験の合否判定では60~70%でした。つまり,半々よりは高い確率です」
「あら,篁さん,医者になるつもりなの?」
「はい。医学には興味があります。ここでいろんな本を貸していただいたし。それと,仕事のことも考えて。ボクは,会社員や公務員は無理だと思うので」
お母様は笑う。
「確かに,篁さんがダークスーツにネクタイというのは,想像しにくいわ」
ジュリさんと同じことを言ってる。そして,ご両親の目は自然に橘クンに向いた。橘クンはボクをちらっとにらんでから,
「ボクも同じ模試で同じ判定でした。つまり60~70%」
「志望校を市大の医学部にして?」
「はい。受けるつもりです」
お母様がフッと微笑んだ。
「大学も篁さんと一緒にしたいの?」
「それも理由の一つだけど,まじめに医学に興味があります」
「最近,ちょくちょく読んでるものね。うちにある医学関係の本」
ここで,お父様が話に加わった。
「弘樹がどんな人生を選ぶかは弘樹の自由だ。医学部に進学し,卒業したとしても,臨床医だけが選択肢ではないし,臨床医と一口に言ってもいろんな仕事がある。どれを選ぶかは,弘樹の自由だよ。無理してここ,橘医院を継がなくてもいい。わたし自身,若い頃その自由を主張したんだから」
橘クンはまじめな表情でうなずいた。
翌月,1ヶ月休薬後の検査結果を先生が説明する。
「数値が戻らないの。ああ,もちろん女性ホルモンの値は下がってる。でも,男性ホルモンの値が回復しないままなの。ピルやめて3ヶ月くらい排卵が回復しない人がいるから,キミの場合も,男性ホルモンの値が戻るのに2~3ヶ月かかっても不思議ではない。それで,当初の予定ではもう1ヶ月休薬することになるんだけど・・・・」
ここでちょっと言葉を句切って,ボクを見る。
「それはちょっと心配」
「なぜでしょうか?」
「ヒトの体は,ある程度の年齢,50代くらいまでは,女性ホルモンか男性ホルモンか,少なくともどちらかは必要としているの。女性ホルモンも男性ホルモンもない状態を続けるのは心配。まあ,1ヶ月か2ヶ月くらいで命に関わるような重大なことにはならないはずだけど,それでも,そういうリスクをキミに負わせたくない。だから,スルピリドとスピロノラクトンはのまなくていいけど,女性ホルモンだけは再開する方がいいと思う」
「でも,それだと,どれくらいの期間で精巣機能が不可逆的に廃絶するかを見極めるという研究の目的を果たせなくなります」
先生はフッと笑った。
「篁クンはどれくらい本気だったの? ほんとうに医学の重要な研究になると思ってたの? それとも,薬を処方してもらうための方便?」
ボクはうつむいた。ほんとうを言えば・・・・
「済みません,ほんとうを言えば方便でした。どうしても薬を処方してもらいたくて」
先生はボクの頭を撫でる。
「たぶん,そうだろうと思ってた」
「ほんとうに,申し訳ありません。ウソついて」
先生は優しい表情でボクを見る。
「謝らなくていいの。わたしもたぶんウソだと思っていて話に乗ったんだから。それに,わたしもウソついてたし」
ボクは先生を見る。
「去勢手術をする医者,紹介してあげようか?」
「ご存じなんですか?」
「うん。あの時はウソついた。早まったことを止めたくて。でも,篁クンの決意はこの1年半でよく分かった。薬をずっとのみ続けるより,手術で精巣を取ってしまう方が体の負担は少ないでしょう。もちろん,さっきも言ったように,女性ホルモンか男性ホルモンどちらかは必要だから,手術後も女性ホルモンを補う必要はあるけど,精巣機能を抑制する必要はなくなるから,用量は減らしていい。たぶん,半分くらいに」
それはとてもうれしいことだけど,一つ気になることがある。
「費用はどれくらいなのでしょう?」
「20万くらいだったと思う」
「そんなものなんですか?」
「だって,精巣を切除するだけなら,局所麻酔で30分くらいで終わる簡単な手術よ。20万でもぼった・・・・いや,人様の悪口はよしておきましょう」
ボクは貯金の残額を計算した。それくらいの支出は問題ない。
「篁クン,大丈夫? それなりの金額だけど」
「大丈夫です」
「じゃあ,さっそく受診して手術を予約するといいわ。『黄金町の橘祥子先生に紹介されました』と言えばいいから」
「ありがとうございます」
とお礼を言って,ボクはふと気がついた。
「先生,ボクと二人だけの時は『篁クン』と呼びますね。ほかの人がいると『篁さん』と呼ぶけど」
「あら,そうなの? 無意識のうちに使い分けてるのね」