Chapitre 13
医学部には篁なみの知性の持ち主も珍しくはない,篁と同じレベルで話のできる相手もたくさんいるはずだ,という予想は外れた。実際に入学してみると,医学部生の半分くらいは,篁の言葉を借りれば「試験だけの秀才」。勉強といえば試験勉強しか思い浮かばず,参考書と問題集以外の本は読んだことがないような連中。残り半分は,素質としてそこそこに頭がいい。だから,しゃかりきになって受験勉強をせずとも医学部に入学した。ただ,そのゆとり時間を知性や教養に費やしたのは少数派で,たいていはごく平凡な遊興娯楽に費やしていた。結局,篁はこの医学部にあっても「浮いた」存在であり続けた。
つまり,篁には何の変化も生じなかった。変化が生じたのはボク。医学部には篁のほかに開明の出身者はいない。ボクもまた大勢のうちの一人。そしてボクは,中学生・高校生の頃と違って,付き合いの輪を広げようという意欲を失っていた。結局,恋をしているんだ。ボクには篁がいればそれでいい。その他の有象無象と話を合わせるのは時間と労力の無駄としか思えない。ボクもまた「浮いた」存在となった。
そんな浮いた者どうしがいつも寄り添っているうちに,噂が広まっていた。開明の頃の「愛人」よりも悪意を含んだ噂。軽蔑を込めた「ホモ」の噂。市大医学部は共学校であって,男子校ではない。「交際」といえば男女交際がスタンダードで,それ以外は変態と見なす偏狭な精神がいまだに息づいているようだった。ボクの耳に入ったのは夏休み前。当事者であるボクの耳に入る前から,噂そのものは静かに広まっていたんだろう。6月頃から? 夏休みになり,いったん静まったけど後期が始まるとまたぶり返した。篁は笑い飛ばした。
「言いたい者には言いたいように言わせておけばいいんだよ」
実に冷淡というか豪胆というか。たぶん,こんなことには慣れているんだろう。ボクが慣れていない。自分のお坊ちゃまぶりに腹が立つ。
「でも,橘クンが辛いのなら,何か対策を考えましょう」
「対策・・・・あるかなあ」
「ボクもすぐには思いつかないけど・・・・ジュリさんに相談してみます。ジュリさんは何か知恵があるかも」
「ジュリさんに相談するのか?」
「いや?」
「いやじゃないけど・・・・」
いやじゃないけど,気が進まない。
篁は,こんなボクの気持ちなど分かるはずもなく,話を進めたようだった。さっそく,その週の土曜日の午後に3人で会うことになった。ジュリさんが話を切り出した。
「確か,10月か11月に学園祭があるよね。ああ,キミたちは医学部だからメディカル・フェスティバルの方かな」
「まだ教養課程なので金沢キャンパスの浜大祭に合流します」
「じゃあ,わたしが学園祭でジュンと思い切りいちゃついて見せるわ。ちょうどいい機会よ。ジュンに変な虫がつかないように。ただ,あなたがかわいそうね。見せつけられるだけじゃ。あなたも恋人のふりをしてくれる人,いないの?」
ボクは美咲さんを思い浮かべるけど,それは無理と思う。ボクを本気で好きな人に恋人の「ふり」をしてくれとは,頼めない。
「じゃあ,サキと一緒にいなさいよ。今年のジュンの誕生日にキー・アンド・ストリングで会ったでしょう」
すると,篁が断固反対する。
「それはだめだよ。もし美咲さんが見たらどう思う? 美咲さんに相談するのが筋だよ」
「そんなこと頼めないよ」
「そうかな・・・・むしろ,頼まれない方が彼女を傷つけると思うけど。好きな人の力になりたいと思うでしょう?」
うーん,ボクは考え込む。篁は普通とは違う発想をする。でも,この場合は篁の方が正しいのかな? 篁の方が女心を知っているのかな? こんなことを考えているとジュリさんが
「みさきって誰?」
と問いかけた。
「ああ,それは・・・・」
ボクは言葉に詰まる。代わりに篁が説明した。余計な感情を交えず事実を簡潔に。ジュリさんは理解した。
「ふーん,ずいぶん変わった三角関係なのね。それにしても,ジュンの役割がいかにもジュンらしい。今回のこともジュンがそのみさきさんに話をすれば?」
「いや,それはいくら何でも・・・・」
翌週,ボクは美咲さんにありのままを話した。彼女は黙って聞いていた。聞き終わってからもしばらく黙っていた。それから顔を伏せ,フーッと大きなため息をついた。そして顔を上げ,ボクをしっかり見て話し始める。
「篁さんの言うとおり,好きな人のためにできることはしてあげたいわ。でも,それにしても,恋人の『ふり』をするのは・・・・わたしを,真剣に橘クンを好きになっているわたしをダシにしてまで,篁さんを守りたいのね?」
美咲さんはボクをじっと見つめる。ボクは顔を伏せたけど,もう一度顔を上げ,首を振る。
「違う。篁じゃない自分を守りたいんだ」
美咲さんは驚いたように目を見開く。
「篁は人の噂なんか気にしない。『言いたい者には言いたいように言わせておけばいい』と,豪胆なことを言ってのける。ボクがだめなんだ。軽蔑の眼差し,悪意あるひそひそ話に耐えられないんだ」
言い終わって,うなだれた。沈黙。1分か2分くらい?・・・・そして,美咲さんが話し始めた。
「分かった。ご希望に添うわ。でも,『ふり』はいや。わたしは橘クンの恋人として振る舞う。橘クンはどうであれ,わたしはあくまで恋人として振る舞う。だって,恋人と思ってるんだもの」
美咲さんはしっかりボクを見つめて語る。ボクはうなずいた。
当日,ボクたちと篁たちは金沢キャンパスの入り口で待ち合わせた。篁とジュリさん,それに誕生日にキー・アンド・ストリングで会ったサキさんとその連れの男性,あわせて4人が待っていた。ボクが尋ねる前にサキさんの連れが
「早紀の配偶者の澄人ともうします」
と自己紹介してくれた。サキさんよりかなり年上に見える,いかにも紳士という雰囲気の人。ボクをじっと見てから会釈した。ボクたちも会釈し返す。それから6人,くっつき合うほどではなく,ばらばらになるほどでもなく,ほどよい距離をおいて学園祭を見て回ることになった。
ジュリさんは大胆だ。篁の肩に手を置くどころか,腰に腕を回して抱き寄せる。さすがに唇は重ねないけど,衆目監視の中で頬や額にキスしている。〔そこまで見せつけなくてもいいのに〕と思う。否応なしに周りの注目を集める。その視線を篁は見事にスルーしている。まさに「氷の美少年」。
サキさんたちは落ち着いた夫婦という感じで寄り添いあって歩いている。ボクたちは・・・・美咲さんはボクの腕に自分の腕を回した。
「恋人なんだから,腕くらい組むわ」
「かしこまりました」
ちょっとおどけた口調で答える。
「あの二人ほど熱い恋人を演じなくてもいいけどね」
美咲さんは前を歩く篁とジュリさんを顎で指す。ボクは思わず笑った。
篁は,予想どおり,屋台とか模擬店とかにはぜんぜん興味を示さない。パンフレットの案内図を見てピアノ喫茶に入った。屋外にテントを張り,ピアノと言っても電子ピアノ,つまりキーボードが置いてある。自動演奏で音楽を流しているけど,腕に覚えのある客は弾いてもいい。サキさんがピアノの前に座り,プロ並みのジャズピアノ演奏を披露し始めた。ボクと美咲さんは感心してその姿を見ている。そばにいる澄人さんに語りかけた。
「すごくじょうずなんですね」
「わたしはプロとして通用すると思うんですが,彼女は『プロのレベルはこんなものじゃない』と言うんです」
と,謙遜しつつ誇らしげに語る。
サキさんが2~3曲独奏した後,篁とジュリさんがピアノ伴奏でデュエットを始めた。いずれもラヴバラード。美咲さんが驚いてつぶやく。
「篁さん,歌がうまいのね。ジュリさんはもっとうまいけど」
そのジュリさんは,篁を見つめながら,まさに愛をささやくように歌う。篁もそれに応えるように歌う。英語の歌詞は分からなくても,恋の歌であることはお客たちに伝わる。甘い恋の歌,熱い恋の歌,あるいは悲しい恋の歌。1曲歌い終えるごとにジュリさんは篁をハグする。サキさんはそんな二人に優しい視線を送る。
「あそこまで見せつけなくても」
と,美咲さんがあきれたような口調でつぶやいた。
デュエットを3曲披露した後,ジュリさんは客席の椅子を1つ持ってきてサキさんと連弾を始めた。軽快なイントロ。そして篁が歌いだす。ミュージカル映画“My fair lady”の『踊り明かそう』(I could have danced all night)。篁は明るく晴れやかな表情で歌い上げる。
“・・・・I only know when he began to dance with me・・・・”
歌い終わり,弾き終わり,その場にいる客たちの拍手の中,篁とジュリさんはピアノ喫茶をあとにする。サキさんと澄人さん,ボクと美咲さんがそれに続く。
それからいくつかの展示など見て回った後,学食で昼食。ジュリさんは篁に
「ジュン,はい,あーん」
と言って口を開けさせ,サンドイッチのかけらなどを押し込んでいる。それを真似して美咲さんが口を開け,
「橘クン」
と催促する。仕方ないからスパゲッティをフォークに巻いて入れてあげた。美咲さんはスパゲッティをフォークからこし取り,よく噛んでのみ込んでから,笑い出した。それを見て篁とジュリさんも笑う。サキさんと澄人さんも。笑いが収まって,サキさんが
「わたしたちは,どうしましょう?」
と問いかけ,澄人さんが
「ちょっと気恥ずかしいですね」
と答えて,また6人で笑った。この6人組,意外にいい雰囲気。
昼食を終え,篁は,
「ボクはもう帰りたいんだけど」
と語る。篁にとって学園祭など退屈なのだろう。美咲さんはもっとボクといたい様子。澄人さんが意外なことに,
「学園祭なんて何十年ぶりだから,もうちょっと楽しんでいたいのですが」
と言い出した。結局,篁とジュリさんは帰り,サキさんと澄人さんはボクたちとちょっと距離をおいて行動することになった。そして,2~3時間して
「今日はとても楽しかったです。誘ってくださってありがとうございます」
とていねいにあいさつして帰っていった。
秋の夕日が沈みかかり,催し物もほぼ終わり,屋台や模擬店が店じまいの準備を始める頃,美咲さんはボクを人目につかない木立の脇に連れて行った。ボクの前に立ち,じっとボクを見つめている。ボクも美咲さんを黙って見つめる。今日一日,恋人を「演じた」。でも,演じただけなのか? 昨年のバレンタインデーに告白されてから,これほど長い時間一緒に過ごしたのは今日が初めて。ボクはほとんど無意識のうちに右手を上げ,美咲さんの唇に触れようとした。美咲さんはフッと笑った。
「ほくろがあるでしょう。篁さんも同じところにほくろがあるよね」
ボクはびっくりした。
「知ってたんだ」
「わたしの部屋で,橘クンのことを語り合った時,気付いた。このほくろに惹かれて,わたしの告白を受け入れてくれたの?」
ボクは返事のしようがなく,黙っている。
「別に,怒ってはいない。どんな理由であれ,告白を受け入れてくれたのはうれしい」
また黙ってボクを見つめる。そして,両手でボクの顔を包み,顔を近づけ,軽く唇に触れ,離した。
「橘クンは,意外と気弱で脆いところがあるのね。今度のことで分かったわ。それなら,わたしの方から積極的に進める」
ボクをじっと見つめて語られるその言葉は,宣戦布告のように聞こえた。
学園祭の出来事はもちろんまたたくうちに医学部1年生の間に,ひょっとしたら教養課程のすべての学生の間に,広まった。期待した効果も得られたけど,それ以外の効果もあった。それまで,ボク以外の人と係わろうとしない氷の美少年だと思われていた篁が,実は生身の女に恋する少年であることが知れ渡った。言い換えれば,遠巻きに眺めるしかないと思われていたのが,恋愛のターゲットとなり得る存在だと認識された。恋人がいるという事実が,その人を押しのけて自分が新しい恋人になれるかもしれないという現実的な期待を発生させた。手の届かない高嶺の花と思っていたのが,実は手を伸ばせば届くかもしれない花なのだと思われるようになった。人の心は意想外の動きをする。
教授が来る前の教室,医学部の女子が篁に尋ねる。
「学園祭に来ていたあの女の人,篁クンのお姉さん?」
あの場面を見ていてそんなことを尋ねるとは,鈍感と言うべきか,無神経と言うべきか,いい度胸していると言うべきか。篁は言下に言い切った。
「恋人です」
その女子は,それで引き下がった。でも,それで引き下がらない女子も現れると想定しておく方がいいだろう。一昨年の夏の場面を思い出す。好きだと言ったボクに,これまでより頻繁にうちに遊びに来てほしいと言ったボクに,篁は
「そうだね,それくらいのことはしてもいいね。好きと言ってくれた人のために」
と答えた。ほかの誰かから好きと言われても,同じような返事をするのだろうか?・・・・それは,考えたくない。それに,篁を好きになる人は掃いて捨てるほどいる。そのすべてが告白する勇気を持ち合わせてはいないにしても,何人か何十人かはいるはず。そうやって「好きだ」と言ってくる人みんなに「それくらいのことはしてもいいね」と答えていたら,篁の身がもたないだろう。
ボクは篁に尋ねた。
「いろんな人から告白されてるんじゃないのか?」
「そうでもないよ。2人だけ」
ボクは思わず笑った。学園祭からまだ1ヶ月も過ぎていない。それで2人「だけ」とは。いったい,何人くらいから告白されると予想していたんだろう。まあ,それはそれとして,
「で,なんて返事したんだ?」
「お断りしたよ」
「ふーん・・・・」
「だって,時間がないでしょう。ジュリさんと橘クンだけで十分だよ」
「おや,ボクとジュリさんを同列に扱ってくれるのか?」
「厳密に同列ではないけど。ジュリさんは恋人。橘クンは大切な友達」
「そうか・・・・」
うれしいような,ちょっと切ないような・・・・。
ボクの身にも変化が生じた。ボクを介して篁につながりたいと願う女子たちから声をかけられるようになった。
「橘クンは篁クンの・・・・友達?」
「うん。まあ,友達というか,きょうだいみたいな感じかな」
それは事実というより願望。きょうだいのような気持ちで付き合えるようになりたいというボクの願望。
「ああ,そうね。橘クンがお兄さんね」
「まあ,そうだね。ものすごい博識なんだけど,世間との付き合いに疎いところがあるから,ボクがカバーしてる」
「そうなのよ。見てて『守ってあげたい』という気持ちになるの」
ボクは心の中で笑う。ほんとうは,篁の方がよほど強いというか,周りの人間たちの噂や思惑など傲然と無視できるのだけど。
もう一つの変化。たまに,ボクも告白されるようになった。お断りしている。「もうお付き合いしている人がいるので」というお決まりのせりふ。時間がない。いや,時間がないというより心の余裕がないのかもしれない。勉強と篁と美咲さんに振り向ける以外の心の余裕がない。
1年の後期に医学部の教養科目として医学史が開講される。医学部の科目だけどほかの学部の学生にも開放されており,商学部の美咲さんも受講している。午前の2コマ目なので,授業の後は自然な流れで3人で昼食に行く。学園祭の前からだけど,学園祭の後はかなり人目を引くようになった。ほかに,文科系の教養科目を1つ,美咲さんと一緒に受講している。こちらは午後の3コマ目なので昼食後の昼休み,教室に美咲さんと一緒にいる。ボクと美咲さんはすっかり恋人どうしと認定された。
「商学部の女子たちからやっかみの視線を感じるの。橘クン,医学部でもかなりの美男子だものね」
美咲さんが愉快そうに語る。
篁は,何人もの女子が告白して玉砕した後,また「高嶺の花」,「氷の美少年」の立ち位置に戻った。篁にとっても,その方が居心地が良いのだろう。
こうして,1年の後期,2年の前期は平穏に過ぎていった。
教養科目は2年の前期でほぼ終わり,2年の後期からは医学の授業が始まる。この頃から,篁の群を抜いた知性のレベルもしだいに知れ渡るようになり,「医学部でも指折りの秀才」とささやかれるようになった。確かに,ほかの子供たちがテレビを見たりゲームに興じたりしていたか,そうでなくても試験勉強に血道を上げていた時間に本を読んでいた人なのだ。レーニンジャーの『生化学』やワトソンの『遺伝子の分子生物学』などは高校時代に,へたしたら中学時代に読んでいた。橘家の書斎から解剖学や病理学,組織学などの基礎医学だけでなく,個々の病気についてのモノグラフも借りて読んでいた。スタートの時点でほかの学生たちに差を付けていた。その上,まじめに授業に出席し,熱心に聴いている。時おり質問する。篁が発する質問の鋭さ,的確さに教師が感嘆することもある。
実習もなかなか手際がいい。生理学や生化学,組織学や病理学の実習は単純に学籍簿の順番でグループに割り振られるから,ボクは同じグループにいて篁の手際の良さを間近に見ている。ほかのメンバーから
「篁さん,実験がうまいですね」
と話しかけられて,
「ずっと一人暮らしで,簡単だけど自炊もしているから,こういう作業,多少は慣れているんです」
と答える。自炊してれば実験がじょうずになる,とは限らないと思うけど,この答えがさらに相手の興味をかき立てた。
「『ずっと』って,いつ頃から?」
「中学1年生の冬頃から」
「えっ?・・・・」
相手はちょっとためらってから,
「親元離れたの?」
と問いを重ねる。
「親は交通事故で死にました。二人とも」
篁はあっさり答える。返事を聞いた相手はびっくりして,引いている。篁は淡々と実験を進めている。
1年生の頃,陰口たたき篁をバカにしていた学生たちが,畏敬の眼差しを向けるようになった。誹謗中傷を圧倒的な知性と学力でねじ伏せた。見かけと違って豪腕なんだ。肉体的な意味ではなく知的な意味で。もちろん,本人は自分が豪腕などと思ってもいないだろうけど。1年目の学園祭であんな芝居を演じる必要はなかったのかもしれない。まあ,あれはあれで愉快な思い出ではあるけど。
医学部の授業や実習は浦舟町のキャンパスで行なわれる。ボクは歩いて通学する。篁は,晴れていれば自転車で,雨の日は歩いて通学する。帰り道,浦舟キャンパスから黄金町の家まで一緒に帰る。雨の日は歩く。晴れの日は,篁が自転車を押しながらボクと一緒に歩くこともあるけど,二人乗りする方が多い。篁を後ろに乗せボクがペダルをこぐ。この種の体力はボクの方が恵まれている。信号で止められなければ5分くらいで着く。ボクの家の前で別れ,篁は大岡川沿いの道を帰って行く。木曜日,実習などで遅くなると,夕飯をボクたち,ボクと母と篠原さんと一緒に摂る。ボクもだけど,母が会いたがる。
美咲さんとはキャンパスが別になったから,週1~2回待ち合わせるようにした。篁と別れた後,黄金町駅のそばのカフェで。土曜日や日曜日にデートすることもある。山下公園,港の見える丘公園,元町通り,伊勢佐木モールなど,ありふれたデートコース。キャンパスが離れたから意識的会う努力をする。それが逆に二人の関係を接近させる。「悲しいから泣くんじゃない。泣くから悲しくなるんだ」という言葉があるけど,「恋人だから恋人らしいことをするんじゃない。恋人らしいことをするから恋人になるんだ」というのも真理かもしれない。こんな恋人らしいことをしているうちに,ボクは少しずつ美咲さんを好きになっていった。友達としてではなく,恋人として。
美咲さんはボクを「橘クン」ではなく,「ヒロキ」と呼ぶようになった。ボクは「美咲さん」と呼ぶ。
「『ミサキ』と呼んではくれないの?」
ボクはちょっと考えて,
「うーん,やっぱり無理」
と答えた。ふと,あのシーンが思い浮かぶ。もう4年以上も前。ボクのことを呼び捨てしないかと言われて,篁が「ボクは人を呼び捨てにするの,慣れてないんです」と答えた。ボクは,人を呼び捨てにするのに慣れているけど,美咲さんはどうしても「ミサキ」と呼べない。
2度目のキス,初めてのディープキスは11月,港の見える丘公園から海を眺めながら。ボクにとっては篁の次に二人目の相手だけど,美咲さんにとっては,どうなんだろう?・・・・そして,クリスマスデート。これはほんとうに初体験。もともとイベント事には興味がなかった。篁とも,クリスマスだからといって特別なことをしたことはない。だから,どこでデートするか思いつかない。せっかくだからふだん行かないところに行きたいけど,ありふれたクリスマスデートのお決まりのコースは避けたい。いろいろ考えてキー・アンド・ストリングを思いついた。今年のクリスマスイブは土曜日ではない。ならば,篁やジュリさんと出くわすことはないだろうと思っていたら,出くわしてしまった。ドレスを着て念入りに化粧された篁,そしてジュリさんとサキさんの三人連れ。
「今日は,土曜日じゃないよね?」
「土曜日じゃないけど,クリスマスイブだからね」
とジュリさんが返事した。美咲さんは篁に見とれている。
「きれいだろう?」
「・・・・と言うか,美しすぎる。ほんとうに,お人形みたい」
「黒髪のフランス人形なのよ」
と,ジュリさんが誇らしげに語る。
「あっ,ジュリさん,ですよね?」
「あら,うれしい。名前を覚えていてくれたのね。1年ぶりくらいよね」
「はい。もちろん覚えてますよ。ジュリさんと,サキさんですよね?」
サキさんはうなずく。
「今日は,ご主人は?」
「ああ,澄人さんは来ないの。今日は三人だけよ」
「そうなんですか」
ちょっと気詰まりかもと思ったけど,美咲さんはこの三人に悪い印象は抱いていない。思いのほか話が弾んだ。ボクと二人っきりより楽しかったかもしれない。
「サキさん,とてもピアノがじょうずでしたね」
サキさんの代わりにジュリさんが答える。
「そりゃあ,音大を出てるからね」
「そうなんですね。ジュリさんも,歌がおじょうずでしたけど,やっぱり音大ですか?」
「いや。わたしは横浜市大の理科よ。だから,キミたちの先輩」
「それにしては,歌がうまいですね」
ここでサキさんが話に加わる。
「高校時代,『ジャズ研の歌姫』と言われてたの」
「ああ,やっぱり・・・・高校って,どちら?」
「カリタス学院よ」
「じゃあ,同じです。わたしもカリタスなんです」
「それじゃあ,高校・大学通してわたしの後輩じゃないの」
こんな話の後で,いつものようにサキさんがピアノを弾き,篁とジュリさんがデュエットする。今回は,学園祭の時のように1曲ごとにハグすることはない。
1時間くらいが過ぎた。
「わたしたちはもう出るけど,キミたちは?」
とジュリさんが問いかける。ボクたちは顔を見合わせた。
「せっかくだから,二人っきりの時間も過ごしなさい」
と言って,ジュリさんはほかの二人を連れて店を出て行った。
「楽しい人たちね」
「そうだね」
それから1時間くらい,ボクたちはキー・アンド・ストリングで過ごした。
店を出て,一番近い地下鉄の伊勢佐木長者町駅の入り口まで美咲さんを送る。入り口の階段を降りかけて,
「お互い一人暮らしなら,こういうときお泊まりできるのにね」
と美咲さんがボクを見つめながら語った。しばらく,と言っても,たぶんほんの4~5秒,見つめあう。そして,
「今日は楽しかったわ。ありがとう」
そう言って,美咲さんは階段を駆け下りた。
年が明け,1月が過ぎ,2月も下旬になると,大学は入試で忙しくなり,学生は長い春休みに入る。春休みになって間もない頃,夕食に呼ばれた篁がアパートの取り壊しの話をした。
「両隣のアパートも一緒に壊して,空き地にマンションを建てるそうです。実際の取り壊しは5月か6月くらいだけど,分かっていることだからできれば春休みのうちに引っ越したいと思ってます」
「うちの近くに引っ越せばいいのに」
と母が語る。ボクは,ふと思いついたことを口にした。
「篁,ここに住まないか?」
「ボクが住む部屋があるの?」
「ボクの部屋を使えばいい」
「橘クンと一緒に?」
「いや。ボクは,この機会に一人暮らしをしたい。ボクがうちを出る」
「そんな・・・・橘クンを追い出すみたいで」
「追い出すわけじゃない。ボクが出たがってるんだ」
こんなやりとりを両親は笑って見ている。
「まあ,弘樹は一人暮らしに憧れてるんでしょう。篁さんが一人でアパートに住んでるのを羨ましがっていたものね」
母はそう言って,父を見る。父はうなずく。
「認めてくれるんですか?」
「まあ,そういう年頃だろう」
という父の言葉で,決まった。
「ボクの部屋の机やベッドやステレオセットはそのままにして,篁の部屋の机やベッドをボクの新しい部屋に運ぶ方が手間がかからないな」
というボクの言葉に篁は顔を伏せた。
「いやなのか?」
「机は・・・・今使ってる机をそのまま使いたいんです。もともと,母が学生時代から使っていた机なんです。そんな高級品ではないけど・・・・」
「ああ,お亡くなりになったお母様の思い出の品というか形見というか,そういう大切なものなのね。それならぜひ,もっておいで。ベッドも使い慣れてる方がいいでしょう。弘樹の机とベッドを新居に運び出して,それから篁さんが自分の机とベッドを運び込めばいいわ。だとしたら,弘樹の新居探しが先ね」
母がさっさと話を進める。
「それで,弘樹はどの辺に住みたいの?」
「できれば,この近く」
「あら,せっかくだから医学部のそばにすれば便利なのに」
「いや・・・・その・・・・晩ご飯はここに食べに来たいんです。朝食は,パンを焼くくらいはできるから自分で作るけど」
みんな笑った。
「実は,心配してたんですよ。弘樹さん一人暮らしはいいけど,自炊できるのかしらって」
と,篠原さんが笑いながら話す。
「『なんちゃって一人暮らし』ね。まあいいけど」
母も笑いながら話す。みんなの笑いが収まって,篁が
「橘クンの家賃はボクが負担するのが筋ですよね。本来,ボクが自分の部屋の家賃を払わないといけないはずなんだから」
と言い出した。みんながいっせいに首を振る。
「篁さん,そんな気を遣わなくていい」
「でも・・・・」
篁は父の言葉に言い返そうとする。ボクはそれを押しとどめる。
「篁,両親の好意をそのまま素直に受け取ってくれ。キミは両親のお気に入りなんだ。一人息子の親友というだけでない。篁淳という人間を気に入っているんだ。気に入った人間,そしてその能力と人格を認めた人間にささやかな援助をしたいということなんだよ。うちは両親とも医者だ。まあ,そこそこに裕福だ。ボクが住むワンルームの家賃くらい払えるから,心配しないで」
篁はボクをじっと見つめ,うなずいた。そして母と父に頭を下げた。
「よろしく,お願いします」
それから,大事なことを思い出したようにハッとした表情になった。
「土曜日の夜は,よそに泊まりに行きます。もう,4年くらい前からの習慣なんです」
母はちらっと篁を見て,
「もちろん,かまいません。篁さんの生活を束縛するつもりはないから」
と答えた。たぶん,事情をすべて見通したんだろう。
3月中旬に,うちから徒歩1分くらいのワンルームマンションに引っ越した。ステレオセットとアナログレコードは置いていった。もともとクラシックのレコードはあまり聴かないし,アナログレコードからCDへの音楽媒体の移行が進んでいる頃だった。
荷物の移動は午前中に終わった。そして午後のうちに,篁の荷物が元ボクの部屋に運び込まれた。お母様の机も。篁は「そんな高級品じゃない」と言ったけど,それなりに立派な品。けばけばしい飾りなどはないけど,手間をかけて作られた木工品。クルミ材とのこと。母も同じ感想を抱いたらしい。夕食の時に
「立派な机ね。クルミは高級木材よ。何十年にわたって使い込まれて,なおさら味が出ているわ」
と篁に語りかける。
「30年以上です。母が中学の入学祝いに買ってもらったものだと話してましたから。ボクが本を読むのを好きになって,床に寝転んだりテーブルで読んだりしているのを見て母が譲ってくれました。小学校2年か3年生の頃」
という篁の返事をきっかけに話題は自然に篁の母堂のことに移った。
美しくて上品で教養豊かな女性。確かに篁の母にふさわしい。でも,経済的に自立するための技能を身につけていなかったから,関係の冷めた夫に従わざるを得なかった。そんな母の無念,悲しみを篁は幼い心に刻み込んでいたんだろう。
「篁が医学部を選んだのは,そして医学部で誰よりまじめに勉強し修練しているのは,お母様のことがあったからなんだ」
篁は深くうなずいた。
「そんなお母様の形見の机,大事に使わないとね。というか,ほんとうに大事に使ってる。傷一つ付いてないよね。篁さんが使うようになってからも,もう10年以上なのに」
と母が褒める。その後の
「弘樹の机とは大違い」
というのは余計だったけど。
春休みが終わり,3年目の授業が始まる。篁は黄金町の家から歩いて通学するつもりだった。歩ける距離だからごく当たり前の選択だけど,ボクは自転車通学を勧めた。
「雨の日は仕方ないけど,晴れてれば自転車で通学するといいよ」
「どうして?」
「帰り,二人乗りできるじゃないか」
篁は笑ったけど,ボクの希望を受け入れた。
季節は春から初夏へと移り行き,実習などが多少遅くなっても帰る時間帯はまだ明るい日が残っている。
「これからの季節,二人分の荷重をこぐのは暑くない? ボクは風が当たって涼しいけど」
と篁が心配する。そんな心配は不要だ。暑くて汗をかいたら,部屋に戻ってさっとシャワーで流せばいいんだから。
篁は後ろに乗り,ボクの腰に手を当て,背中に体を付ける。密着させるわけではない。軽く触れあうくらい。服装が薄着になり,シャツ1枚を通して篁の体を感じる。それは,セクシュアルというより,親愛の感覚,肉親の情のようなものを醸し出す。ボクにはきょうだいはいなかったけど,小学生の頃,幼い弟か妹を自転車の後ろに乗せて二人乗りするのはこんな感じだったのかもと思う。浦舟キャンパスから黄金町まで5分かせいぜい10分の間,ボクは子供の頃に戻ったような気持ちでペダルをこぎ,夕方の横浜の街を走る。
篁は去勢手術をして女性ホルモンを補っているせいか,体つきは相変わらず華奢なまま。身長はボクより10センチくらい低く,肩幅はずっと細い。服は女物のSサイズ,7号がちょうどいいらしい。顔立ちもかわいいままだから,9ヶ月の違いではなく,2~3歳か4~5歳くらい年下に思える。女子高生で通用する。もちろん,知的レベルは別だけど。「恋人だから恋人らしいことをするんじゃない。恋人らしいことをするから恋人になるんだ」が真理なら,「家族だから家族らしいことをするんじゃない。家族らしいことをするから家族になるんだ」というのも真理かもしれない。篁への気持ちは少しずつ恋愛感情から肉親の情に変化していった。優秀だけどかわいい弟,あるいは妹?・・・・
授業や実習が早めに終わると,まずボクの住むワンルームマンションに寄る。そこでボクが降り,篁がほんの1分,いや20~30秒ほど自転車をこいで実家に戻る。夕食の時間になるとボクが歩いて実家に行く。実習の終わりが遅いと,直接実家に寄る。
「学校でもずっと一緒で,晩ご飯も一緒。ほんとうに家族みたいでしょう」
と篠原さんが語る。確かに,毎日一緒に夕食を摂ることも,篁への気持ちの変化を後押ししているかもしれない。恋人から家族へ。もちろん,この世の誰より大切な家族だけど。
ある日,ワンルームマンションの前で別れて,篁は実家とは逆方向,大岡川の下流の方に自転車を向けた。
「どこに行くの?」
「海。港の景色を見に行くんです。好きだから,時々見に行くの」
「じゃあ,一緒に行こう。篁,後ろに乗れよ」
ボクは篁を後ろに乗せ,大岡川沿いの遊歩道をゆっくり走る。潮の香りがする。15分くらいこいでいると,埠頭に出た。自転車から降り,二人並んで海を見る。
「横浜は海が東に向かって開けているね。福岡は海が西に向かって開けてるんです。だから,これくらいの時間だと海の夕焼けが見られる。横浜はそれがないのが残念」
「じゃあ,朝早く起きて海の朝焼けを見に来ればいいじゃないか」
「たまに,やってる」
「ほんとうか? じゃあ,今度一緒に来よう」
ボクは篁の肩に腕を回し,抱き寄せる。篁は素直に体を預けた。後ろから見ると,恋人どうしに見えるかな?・・・・まあ,いいけど。
しばらく海を眺めていると,夕食の時間になったから,ボクは部屋に寄らず直接実家に向かった。
夕食を終えて部屋に戻る頃,美咲さんが尋ねてくる。毎日ではない。3~4日に1回くらい,美咲さんが商学部のゼミなどで帰りが遅くなる日に。美咲さんを橘家の夕飯に誘うことも考えたけど,やめておいた。逆に,美咲さんから,二人分の夕食をボクの部屋のキッチンで作ってもいいと提案された。それは,お断りした。
「『晩ご飯はうちに食べに来い』と言われてるの?」
「うん」
という返事は,ほんとうはウソ。ほんとうは,篁と一緒に晩ご飯を食べたいのだ。でも,それを言い出すことはできない。美咲さんより篁を優先している,というわけではないのはず。そもそも今となっては,篁への気持ちと美咲さんへの気持ちは質が違っている。どっちを優先するという問題ではない。でも,これをどう言えば納得してもらえるのか,説得の言葉と論理を思いつかない。
「美咲さん,お腹がすくなら自分の夕飯をここで作って食べてってもいいんだよ」
彼女はちょっと考えて,
「ああ,それはいいかも。多めに作るから,残った分はヒロキが明日の朝ご飯にすればいい」
「それはありがたい」
ボクは彼女の好意を素直に受け取った。
彼女が夕食を摂る間,ボクはコーヒーか紅茶を飲んでいる。食後はいろんなことを語り合う。学部が違うから篁のほかに共通の友人知人はいない。知らない人たちの噂話には興味がないから,ボクは美咲さんが商学部で学んでいることを聞く。経済学,経営学,国際関係論,地域スタディーなど,それなりにおもしろい。
「経済学で難しい数学を使うの。まさか,文科系の大学で数学に悩まされるとは思わなかった。ヒロキ,分かる?」
と言って見せられた経済学の教科に載っている数学は高校数学のレベルを超えている。
「これはボクもちょっと・・・・こういうことは,ジュリさんが専門なんだけどな」
「ジュリさん?」
「篁の恋人」
「ああ,あの人,数学者なの?」
「外資系の投資会社で数学を使う仕事をしてるらしいよ」
「そうなんだ・・・・そういえば,市大の理科の出身って言ってたね」
「質問したいなら,引き合わせてもいいよ」
「いや,遠慮しておくよ」
こんな話をした後,美咲さんは帰っていく。帰り際にキスして抱きしめる。ハグじゃない。激しくきつい抱擁。でも,それから先には進まない。
そして春学期が終わり,夏休みになった。美咲さんが昼のうちからボクの部屋に来るようになった。そしてある日,一線を越えた。どちらからということもなく,自然な流れの中で。そして夏休みの終わり頃,妊娠が発覚した。避妊の知識は人より豊富なのに,油断していた。婦人科医の子供が何ということ・・・・。美咲さんは産みたいと主張する。
「わたし,両親を説得する。ぜったい説得してみせる。ヒロキも親を説得してよ」
美咲さんの真剣な眼差し。ボクはしっかり受け止めるけど,受け止めきれずに途中で顔を伏せた。そしてもう一度,顔を上げる。
「親ではなくてボクが・・・・父親になる覚悟ができていない」
美咲さんはボクを見つめる。その眼差し。驚きと,そして軽蔑?・・・・ボクはまた顔を伏せた。
結局,彼女は中絶に同意した。
「医者,知ってる?」
ボクが知る範囲では母が一番信頼できる。だけど・・・・。ボクと美咲さんのことは篁以外は誰も,母も父も篠原さんも知らないから,分からないはずだけど・・・・いや,そんなことを気にしている場合じゃない。早期の中絶手術がいくら安全だといっても,美咲さんの体をどこの誰とも分からない医者に委ねたくはない。一番信頼できる医者に委ねたい。それが一番の優先課題。とすれば,母しか選択肢はない。
「ボクの母が一番信頼できる。診療所はすぐそこだ。まだ診療時間中だから,今すぐ行って手術の予約をしてきてほしい」
「ヒロキの名前は出さない方がいいね?」
「そうしてほしい」
彼女は黙ってうなずいて部屋を出た。
1時間ほどして,彼女が戻ってきた。
「予約は取れたわ。5日後,来週の火曜日。それで,パートナーの同意書が必要だと言われて用紙をもらってきた。相手が分からないとか,相手が行方不明なら必要ないとも言われたけど・・・・」
同意書がなくても手術は受けられる。でも,せめてそれくらいの責任は引き受けたい。母にだけはバレるけど・・・・仕方ない。
「書くよ」
「いいの?」
「うん。ボクが母に直接渡す」
その日の夕食の後,
「お母さん,ちょっと二人だけで話したいことがあるんです」
と言って,リビングルームを出た。ボクは同意書を差し出す。
「来週の火曜日,堀野美咲という人が中絶手術を予約しているはずです。パートナーの同意書です」
母はさっと目を通す。もちろん,「橘弘樹」という署名にも。それからボクを見つめ,ため息をついた。
「わたしだって,祐樹さんが初めての相手ではないから,『結婚するまで肉体関係は持つな』なんて言うつもりはないし,言う資格もない。だけど,中絶は女の心と体を傷つけるの。避妊には十分に注意しなさい。まして,あなたは人より知識があるはずなんだから」
その日は平日。もう後期の授業が始まっているけど,美咲さんはもちろん,ボクも学校を午後から休んだ。彼女に付き添って橘医院の入り口まで行く。
「じゃあ,ボクは付き添えないけど,がんばってね」
部屋で待つ。夕方,彼女は戻ってきた。
「終わったわ」
しばしの沈黙。それから彼女が話しだす。
「手術はあっけないくらいだった。その後,先生がリカバリールームに案内してくれて,耳元でそっとささやいてくれた。『弘樹がご迷惑おかけしました。申し訳ありません』って」
そして,彼女は帰っていった。
翌日,ゼミが終わって彼女はボクの部屋に立ち寄った。
「今日で終わりだと思う。ここに来るのは」
驚いた,のかな?・・・・心の片隅で予期していた気もする。
「分かってる。どちらかと言えば,わたしの方から迫ったんだものね。わたしにも責任がある。それは分かってるけど,それでも,やっぱり・・・・『父親になる覚悟がない』って,つまり,結婚する覚悟がないということでしょう」
そんなことはない,とボクは思う。結婚することと父親になることは別だ。だけど,この弁明を彼女が受け入れてくれるとは思えない。
「楽しい思い出の方が多かったよ。いやな思い出は今度のことだけ。ほかはみんな楽しい思い出ばかり。ありがとう」
そう言って,美咲さんは去っていった。