Chapitre 15
あれよあれよという間に始まった橘家での生活。以前,橘クンが「親が3人いるみたいで,うるさくて仕方ない」と言ってたけど,ご両親も篠原さんも余計な干渉をしないで放っておいてくれるから,一人暮らしの時と同じように生活できる。ただ,自炊は必要なくなった。朝食と夕食を篠原さんが用意してくれるので一緒に食べる。せめて食費くらいは払うべきだと思うけど,「両親の好意をそのまま素直に受け取ってくれ」という橘クンの言葉に従うことにする。そしていつの頃からか,お母様は「祥子さん」,お父様は「祐樹さん」と呼びかけるようになった。橘クンはどうも「弘樹さん」と呼べなくて「橘クン」のまま。高校1年生の時から5年にわたる習慣は変えづらい。
祥子さんはボクを「ジュン」と呼ぶようになった。
「『弘樹』と呼ぶのにあわせて『ジュン』と呼びたいけど,いいかしら?」
と尋ねられて,もちろん承諾した。祐樹さんは「篁さん」と呼び,橘クンはこれまでどおり「篁」と呼ぶ。3人,それぞれボクの呼び方が違う。
図書館はちょっと遠くなったから自転車で出かける。医学部には歩いて通える距離だけど,橘クンが自転車通学を勧める。帰り道,二人乗りするのが楽しいらしい。変なところ子供っぽい。平日はずっと学校で一緒に過ごし,二人乗りの自転車に乗せてもらって帰り,夕飯も一緒に食べる。ほんとうに家族のように思えてくる。橘クンも同じように感じているらしい。態度も少しずつ変わってきている。そして,自分の部屋で美咲さんと会っているらしい。〔よかった〕と思う。ボクには兄のように振る舞い,美咲さんとは恋人として付き合う。ボクが望んでいた展開。それがご両親の好意によって実現したのなら,ほんとうに感謝。
こうして,春学期が過ぎ,夏休みが過ぎ,秋学期も終わりかけている。平穏に日々が過ぎていると思っていた・・・・。
秋学期の終わりが間近に迫った12月半ば過ぎ,二人乗りの自転車が橘クンの住むワンルームマンションの前に着き,ボクはいつものように橘家に帰るため自転車に乗り直した。すると橘クンがボクに尋ねた。
「篁,今年のクリスマスイブは折良く土曜日だけど,キー・アンド・ストリングで過ごすのか?」
「はい。この何年か恒例になってるよ」
「また,ボクも顔を出していいかな?」
「もちろん,かまわないよ。美咲さんも?」
「いや,彼女は来ない」
「どうして?」
ごく自然な質問のつもりだったけど,橘クンは唇をかみしめて顔を伏せた。そして,
「もう,恋人どうしじゃないんだ」
ボクはびっくりして橘クンを見る。しばらくして,橘クンは顔を上げ,話し始めた。
「篁にはきちんと話しておこう」
そして,夏の終わりの出来事を話してくれた。
聞き終えて,ボクは何と慰めていいか分からず,サドルにまたがったまま黙って橘クンを見つめる。話し終えてうつむいていた橘クンが顔を上げ,ボクに笑みを見せる。
「篁,そんな心配そうな顔をするな。ボクの中ではもう決着がついてるんだ。避妊の知識がありながら実行しなかったボクが悪い。子供を産みたいという美咲さんの切なる願いを拒絶したボクが悪い。それだけのことだ」
ボクに語りながら,笑みが悲しみの表情に変わっていく。その表情が「決着がついてるんだ」という言葉を裏切っている。ボクは唐突にあの場面を思い出した。ボクを初めて抱いた夜,ジュリさんが「異性愛はこれが心配なの」と語った,あの夜のこと。
「というわけだから,篁のクリスマスパーティーに混ぜてもらいたいんだ」
橘クンはまた明るい声,明るさを装った声で語りかける。
「もちろん,かまわないよ。ジュリさんとサキさんに話しておきます」
そう答えて,ボクはペダルをこぎ始めた。
その日の夕食のおり,橘クンが両親に話しかける。
「今年のクリスマスイブは篁と一緒にキー・アンド・ストリングというピアノバーに行くから」
「あら,それは二人で楽しみね」
「いや,二人じゃないんだ。篁の友達も来る。もともと,篁が友達と毎年行ってるところに,ボクが加えてもらうんだよ」
「ピアノバーというのは,プロのピアニストのライブ演奏が聴けるのかな?」
と祐樹さんが尋ねる。
「いや。お客が自由に演奏していいんだ。その演奏にあわせて歌ってもいい。篁の友達にプロ並みにピアノがうまい人がいて,その人の伴奏で篁が歌うこともある」
「えっ? ジュンが歌うの? それはぜひ聴きたい・・・・ああ,でも,親もついてきたら邪魔ね」
「別に,邪魔じゃないですよ」
とボクは答えたけど,祥子さんは
「ジュンは邪魔に思わなくても,弘樹は邪魔でしょう」
とたたみかける。
「そんなことないよ」
「無理しなくていいのよ」
「別に,無理はしてないよ」
そんな親子の言い合いの後で祥子さんがボクに問いかけた。
「それにしても,ジュンのお友達って,どんな人なのかしら?」
「・・・・ええっと・・・・」
ボクが言葉を選んでいるうちに橘クンが説明する。
「一人は専業主婦だよね。ピアノがうまい方の人。もう一人は投資会社で数学を使う仕事をしている」
「えっ? そんな年配なの?」
「12歳年上です」
祥子さんがフッと笑った。
「ああ,ごめんなさい。ジュンのことを笑ったんじゃないの」
「じゃあ,なんで笑ったの?」
橘クンが問い詰めるような口調。
「それは・・・・」
祥子さんはちょっとためらってから,話を続ける。
「祐樹さんの若い頃に似てると思ったの。祐樹さんも,ジュンくらいの年頃には,年上の人にかわいがられるタイプだったから」
「祥子さん・・・・」
祐樹さんが照れながら祥子さんをにらむ。
ジュリさんに話したら,ぜんぜん問題ないとのこと。
「ただ,それなら澄人さんも来てもらう方がいいかもね。ちょうど土曜日だから,澄人さんも仕事は終わってる時間のはずだし。向こうが夫婦で来るのに,既婚者のサキが一人で来るのも,ちょっと変でしょう。」
「そういうものなの?」
「そういうものなの!」
「でも,そうなるとかなりの人数になります・・・・7人。席は取れるかな。クリスマスイブは混むでしょう」
「そうでもないよ。毎年見てるでしょう。あそこは,クリスマスイブにカップルがデートするような場所じゃないから。むしろふだんより閑なくらい。でも,一応は電話して席を取っておいてもらおう」
ジュリさんはその場で電話する。それから,大切なことを思い出したようにハッとした表情になった。
「ジュン,その日,ドレス姿でいいの? わたしはクリスマスだから,ふだん以上に念入りに化粧してドレスを着せたいけど・・・・橘クンは知ってるけど,親は知らないんでしょう?」
「かまいませんよ」
即答したボクにジュリさんは笑いかける。
「ジュンは,こういうところは大胆というか強気というか。それとも,単に世間知らずなだけ?」
そう言って,ジュリさんはボクの髪をクシャクシャかき回す。
「それでいいの。ジュンは,それでいいのよ」
それから,
「ジュンはみんなと知り合いよね。ジュンがほかのみんなを簡単に紹介して。その時,わたしは『友達』と紹介するのよ。『恋人』じゃなくて」
「どうして?」
ジュリさんはまじめな顔でボクを見る。
「その場には橘クンのご両親がいるよね。どんな人だか分からない。さばけた人たちかもしれないけど,常識人かもしれない。その人たちの前で,そして澄人さんがいる場で,サキをジュンの恋人とは紹介できないでしょう。サキをジュンの『友達』と紹介するなら,わたしのことも『友達』でないと,サキがかわいそうじゃない。わたしの大切な恋人でもあるんだから」
「ジュリさん・・・・」
そんな細やかな気配りができる人なんだ。そんな人であることが,ボクはうれしかった。そんなボクの思いとは別に,ジュリさんはボクに問いかける。
「そういえば,橘クンの両親は来るのに恋人は来ないの?」
「ああ,それは・・・・」
ボクは結局,橘クンから聞いたことをジュリさんに伝えた。ボクの話が終わって,ジュリさんはちょっと考えてから話し始める。
「でも,それは,中絶が正解だったよ。子供って,産みっぱなしってわけにはいかないんだから。産んだからには,産ませたからには,きちんと育て上げる責任があるの。だから,父親になる覚悟のない人間は父親になるべきじゃないんだ。確かに,父親になる覚悟もないのに無防備なセックスをしたことがそもそもの間違いで,その点は厳しく叱りつけたいけど,それはともかく,妊娠させてしまったのなら,一時の感傷に流されないで中絶する方が正しい選択・・・・と言うか,より小さな悪だよ。育て上げる覚悟もないのに産ませるよりは。恋人を失いたくないなんて気持ちで,覚悟もないのに産ませてしまったとしたら,それこそぶん殴ってやりたい。橘クンは,最低限のケジメは付けたの」
ジュリさんはボクをじっと見つめる。
「まあ,ともかく,それはもう済んだこと。クリスマスイブはそんなこと水に流して,楽しみましょう」
ジュリさんは笑顔に切り替えてボクに話しかけた。
クリスマスイブ当日。ボクはジュリさんと日ノ出町駅で待ち合わせて,夕暮れ時の盛り場をのんびり歩きながら出かける。お店に入ると,サキさんと澄人さんがもう席に着いていて,ボクたちに手を振った。並んで座っている二人の向かいに座る。5分くらいして橘クンたちが入ってきた。
「橘クンはジュンの隣がいいでしょう。ご両親はサキと澄人さんの側に座ってください」
ジュリさんがてきぱきと指示する。祥子さんと祐樹さんはびっくりした顔でボクを見つめている。橘クンはそんな両親に誇らしげに語りかける。
「今宵の篁は,ふだん以上に美しいんだ。『キミは薔薇より美しい』という歌を捧げたいくらい」
二人は黙ってうなずいて席に着いた。それから,ボクはジュリさんに言われたように,みんなを紹介していく。橘クンを「高校の同級生で,今も医学部の同級生の親友です」と紹介したら,
「兄です,と紹介してもいいのに」
と橘クンが混ぜっ返したので,みんな笑った。一通り紹介が終わり,しばし沈黙が広がる。最初に話し始めたのは祥子さん。
「ジュン,しょっちゅうそういう格好するの?」
「土曜日の夜は,たいてい」
「自分の服?」
「いえ。ジュリさんとサキさんが貸してくれます。体型がほぼ同じだから」
「ジュンの方が細い」
すかさずジュリさんが言葉を挟む。
「今のわたしたちより細い。昔はわたしたちもこんなに細かったのしら? ねえ,サキ?」
「さあ,どうかしら。でも,あの頃の服をジュンが着て,そんなにダブダブじゃないから,わたしたちもそれなりに細かったじゃない?」
「そんなこと言われるなら,わたしはどうなの?」
という祥子さんの言葉にみんな笑った。それで,場の雰囲気が打ち解けた。
いろんなことが話題になる中,澄人さんが橘クンに話しかける。
「橘さん,卒後に何科に進むか,決めてますか?」
「いえ,まだ卒後のことは何も考えていませんけど」
と答えてから,いたずらっぽい顔になり,
「ただ,婦人科は避けたいと思ってます」
と言葉を続けた。向かいに座ったご両親が笑いながらにらんでいる。
「橘クン,まだ意地を張ってるの?」
「別に意地は張ってないけど,いやだろう,親と同じ分野に進むなんて」
こんなボクたちのやりとりを,澄人さんはほほえましく眺めている。それから
「美容外科はいかがですか?」
と,問いかけた。
「美容外科ですか?・・・・」
橘クンは意外にまじめに考え込んでいる。
それからまた会話が続いたけど,しばらくしてママがボクたちの席にやって来て話しかけた。
「ご歓談中,申し訳ありませんが,ほかのお客様たちがお待ちかねなんですよ。サキさんのプロ並みのピアノ。それから,元ジャズ研の歌姫と黒髪のフランス人形のデュエット」
「ああ,お待たせしました」
ジュリさんが席を立つ。一緒にボクとサキさんも席を立ち,ピアノに向かった。1曲目は,一番好きで一番思い出深い曲“You’d be so nice to come home to”。それから“I will wait for you”“Misty”“The shadow of your smile”。続けて歌い終え,ジュリさんが
「今宵,クリスマスイブにふさわしい,かどうか分かりませんが,『しっとり系』でまとめました」
と客席にあいさつして,席に戻った。
祥子さんが
「ジュン,歌がうまいのね」
と褒めてくれる。ボクはちょっとはにかむように微笑んで,
「ありがとうございます・・・・でも,ジュリさんの方がうまいです」
と返事したら,ジュリさんが
「ジュン,褒め言葉は素直に受け取りなさい」
と,たしなめるようにボクの頭を撫でる。
「そうよ。自分を歌姫と比べてはだめよ。ジュンは,少なくとも医学部の学生にしては十分に歌がうまいの。なんで,これまでわたしたちの前では披露してくれなかったの?」
「えっ,それは・・・・」
「篁はピアノ伴奏がないと歌わないんだ。そうだろう?」
橘クンが笑いながら問いかける。
「そうでもないけど・・・・」
ボクがためらいがちに答えると,
「じゃあ,これからうちでも歌ってくれよ。毎晩とは言わないから」
祥子さんと祐樹さんもにこやかな表情でボクを見ている。ボクは笑みを返すようにうなずいた。そんなやりとりを傍で見ながらジュリさんふと漏らした
「このメンバーだと,ジュンが話題の中心になるね。ここにいる誰とも親しくしているのはジュンだからね」
という言葉にみんながうなずいた。
そうなんだ,今,ボクはここにいる人たちみんなに親しくしてもらっている。なんだか不思議。6年前まで,中学生の頃まで,ボクは誰からも距離を置かれた異星人だったのに。
「ジュン,どうしたの,そんな遠くを見るような眼差しで?」
向かいに座っているサキさんがボクに問いかける。
「不思議な気がしてたんです。6年前まで,小学校でも中学校でも,ボクは異星人みたいに思われていたのに。今,この場では,みんなから親しくされている・・・・」
しばし,座に沈黙が流れた。それから,橘クンが話し始めた。
「篁が変わったんじゃない。篁は昔のままだよ。篁を取り巻く世界が変わったんだ。今,篁の周りにいるのは小学生・中学生の悪ガキどもじゃない。エレガンスと知性への敬意を備えた大人たちなんだ」
それから橘クンは立ち上がり,ボクに向かって両腕を広げ,ちょっと芝居がかった口調で語る。
「ようこそ,この世界へ。この世界こそが,キミが住むべき場所なのだよ。流離の貴種が戻るべき場所なのだ」
ほかの人たちは橘クンを見ながら,そしてボクを見ながら,うなずいている。
「弘樹もたまにはいいこと言うわね」
「『たまには』は余計です」
ああ,見慣れた母と子の掛け合い。