Chapitre 16
ジュンは医学部の6年生。病棟実習も10月末には終わり,卒業試験の時期になった。もちろん,卒業試験でつまずくような子ではない。あの高校1年の9月の雨の日に出会ってから8年あまりの月日が過ぎていた。
そんな11月初めのある日,オフィスで支社長に呼び出され,アメリカ本社勤務を打診された。
「アメリカに行けということですか?」
「はっきり言うと,幹部候補生として抜擢されたんだよ。日本支社で採用されたスタッフとしては,たぶん初めてのケースだ。キミの,思い込みや先入観,希望的観測をいっさい排した冷静で正確なレポートやスタディーは本社の幹部たちも一目置いている。もちろん,受けるよね?」
「ちょっと考えさせてください」
「ちょっと,というのは,どれくらい?」
「返事のタイムリミットは?」
「そうだな。来週の月曜日のお昼まで」
「今日はもう木曜日ですけど」
「4日あれば十分だろう。迷うようなことではないと思うが」
「いえ,わたしも迷うことはあります」
「そうか・・・・」
支社長は意外そうな顔でわたしを見る。
その日の夜,わたしはジュンとサキを部屋に呼んだ。土曜日でもないのにわたしが二人を呼び出すのめったにないこと,ひょっとしたら初めてのこと。サキはすぐにやって来た。わたしの顔を見るなり,
「何事?」
と尋ねる。
「ジュンが来てから話す。ちょっと待ってて」
20分ほどしてジュンが来た。椅子にかけ,わたしを見る。わたしは話し始める。
「本社勤務を打診された。つまりアメリカに行かないかということ。西海岸のポートランドだけど」
二人はびっくりしてわたしを見つめる。
「支社長の話では幹部候補生として抜擢されたらしいの」
しばしの沈黙。それを破ったのはジュン。
「つまり,キャリアアップなんですね。おめでとう」
「ジュン,祝ってくれるの? わたしがアメリカに行くということは・・・・」
「分かってます。会えなくなるということだよね」
わたしはジュンを見つめる。それからサキを見つめる。フッと笑みが漏れた。
「ジュンもサキも,この場面で『行かないで』とすがりつくような人ではないよね。それは分かってる」
「でも,だからと言って,悲しくないわけじゃないんだよ」
「それも分かってる」
またしばしの沈黙。今度はサキがそれを破った。
「こういう場面で恋よりキャリアを選ぶような人だから,好きになのよ,ジュリ」
「サキ・・・・」
「ああ,でも,あの約束はだめになったのね」
「あの約束?」
「何年前かしら,ジュンが医学部の1年生か2年生の頃,澄人さんが晴れて恋人と一緒に暮らせるようになって,わたしが離婚され路頭に迷うようなら,わたしを引き取ってくれるって約束したじゃないの」
サキは冗談っぽく笑う。わたしはまじめな顔で答える。
「アメリカに呼び寄せるよ。アメリカでなくても,その時の勤務地に。ロンドンでもサンパウロでもシンガポールでも,どこだって,呼び寄せるよ」
サキは,冗談めかしてではなく,うれしそうに笑みを浮かべる。
「ありがとう」
「行きっぱなしなの? 何年かして日本に戻る予定はないの?」
ジュンが尋ねる。
「分からない。今日はそこまでの話にならなかった。でも,幹部候補生というのがほんとうなら,ずっと本社勤務か,そうでなくても,どこかに派遣されるにしても,派遣先は日本限定ではないと思うよ」
ジュンはうなずく。それからちょっと何かを考えている。
「8年だね。ボクがジュリさんに出会って。正確には8年2ヶ月かな・・・・ボクが物心ついてからお母さんが死ぬまでと同じくらいの年月なんですね」
それは,つまり,わたしと十分長い年月を過ごせたという意味?・・・・わたしはジュンを見る。出会った頃に比べると,大人になった。「かわいい」から「美しい」に成長した。エレガンスに磨きがかかり,知性はさらに深まった。わたしに向ける眼差しは相変わらず色っぽい。その色気に悲しみが混じっている?・・・・わたしはジュンからサキに視線を移す。サキの目は潤んでいる。
「出発はいつなの?」
「来年1月1日から本社勤務開始だから。その何日か前にはポートランドに着いてるべきよね。クリスマス頃には出発しないといけないかな」
「あと2ヶ月たらずね」
「ああ,今年もジュリさんの誕生日をお祝いできなかった。とうとう1度もお祝いしなかったよ」
「別に,祝ってくれなくてもいいよ。36歳の誕生日なんか」
三人,フッと笑いあった。
それからも,時は淡々と流れていく。11月が終わり,12月になり,12月も下旬になった。クリスマスイブの前の土曜日,ジュンがわたしに告げる。
「今年のクリスマスパーティーには,澄人さんも参加します。それから,橘クンとご両親も。つまり,3年前と同じメンバーです」
「わたしの送別会?」
「まあ,そういうこと」
と答えて,ジュンはうつむいている。そして,なにか決心したように顔を上げた。
「その場で,ボクはジュリさんを恋人と紹介します」
そして,クリスマスイブ当日。3年前と同じメンバーが3年前と同じ席順でキー・アンド・ストリングのテーブルを囲む。ワインやコーヒーを飲み交わし,料理をいただき,わたしとジュンはサキのピアノにあわせてデュエットする。わたしのアメリカ行きのことはパーティーの最初に軽く触れられただけ。そろそろお開きの時間になる頃,ジュンがその場のみんなに語りかける。
「ジュリさんはボクの恋人でした。高校1年生の秋に知り合ってから,8年あまりにわたって。ボクに,人を愛するとはどういうことかを教えてくれた人です」
みんなの視線がジュンに集まる。ジュンはわたしをじっと見つめる。その潤んだ眼差し。じっと見つめ合い,キスしようと思ったその時,ジュンはわたしの肩に顔を埋めるように抱きついた。じっと顔を押しつける。静かに,涙も流さず,泣き声も漏らさず。でも,きっと泣いている。わたしは確信できる。それから,ジュンは顔を上げてわたしに話しかける。
「ボクもサキさんと同じです。ジュリさんが恋よりキャリアを選ぶような人だからこそ,好きなんです」
その夜,三人で情熱的に抱きあい,安らかな眠りに落ちた。翌日,ジュンとサキは成田空港までに見送りに来てくれた。