Chapitre 18
美容外科の仕事も3年目に入る。最初の2年が研修医期間,いわば「仮免」期間だとしたら,いよいよ本免許で仕事をすることになる。去年の南野さんの件で,ある意味吹っ切れたところもある。澄人さんは相変わらずていねいに指導してくれる。その温厚な人柄にボクもなついている。ある程度は気持ちにゆとりが出てきて,雑談を交わすこともある。ある時,篁のことが話題になり,学生時代には自転車に二人乗りして浦舟キャンパスから帰っていたことを話した。
「あんな交通量の多いところで二人乗りとは,大胆というか無謀というか。キミたちが事故で怪我をしなくて良かった」
澄人さんは笑みを浮かべながらも咎めるような口調。
そんな3年目も半年あまりが過ぎ,簡単な手術なら一人で任されるようになった11月頃,仕事を終えて澄人さんから声をかけられた。
「ちょっと,カフェかどこかでお話しできませんか?」
「ええ,かまいませんけど」
ボクは実家に帰宅がちょっと遅れると連絡して,澄人さんについて行く。澄人さんは病院からほど近いカフェに入った。飲み物をもって席に着くなり,話し始めた。
「今すぐというわけではないのですが,来年か再来年か,遅くとも3年後くらいに,独立を考えています」
「開業するということですか?」
「はい。それで,これが本題ですが,独立する時,あなたを引っ張りたい。いかがでしょう?」
ボクは言われたことの意味を咀嚼する。
「つまり,ボクと一緒に開業するということですか?」
「はい。あなたが一番信頼できるから。技術的な意味じゃなくて,人間的な意味で。いや,技術的にも決して信頼できないわけではありません。3年目にしてはすばらしくよくできる。あと1~2年あるいは2~3年すれば,かなりのレベルに達しているでしょう。わたしのパートナーとして文句はありません」
ボクは考え込む。澄人さんは人間としても医者としても信頼できる。その人と二人でクリニックを切り回すのは,魅力的な提案ではある。澄人さんはボクに返事をせかすことなく,話を続ける。
「何年か前までは,今の病院でずっと働き続けるつもりでした。ですが,この数年,病院の雰囲気というかやり方が変化してきた。あなたはあまり実感できないかもしれませんが,わたしの立場だと折にふれて感じます」
澄人さんは副院長のような立場にある。
「はっきり言って,もうけ主義に走るようになりました。わたしとしては不本意なんです」
「それなら,再来年とか3年後とか言わずに,今すぐにでも独立の準備を始めるといいのではないですか? それとも,今から準備を始めて2~3年かかるんですか?」
澄人さんは穏やかな笑みを浮かべて首を振る。
「物件が決まれば,たぶん3ヶ月もあれば開業できます。ただ,いい物件がなかなか見つからない」
ここでまた澄人さんは間を置く。
「わたしはもうじき50歳です。外科医としてバリバリ仕事ができる時間はあまり長くない。だから,過大な初期投資は避けたいんです。わたしが引退した後はあなたに引き継いでほしいけど,あなたに借金を残したくないから」
そこまで考えてくれているんだ。
「澄人さん,ありがとうございます。ボクをパートナーに選んでくれて」
「それは,承諾の返事と受け取っていいんですね?」
「はい」
澄人さんはうれしそうにうなずく。それからまじめな顔で話を続ける。
「安い物件はいくつもあります。ただ,それらの物件は立地条件が悪い。美容外科というのは立地にかなり左右されますから。だから,気長に探しています」
その話をされて何日かして,ボクはふと思いついた。そして夕食時に話を切り出した。
「お母さん,橘医院には診察室が2つ,手術室が1つ,リカバリールームが1つありますよね」
「うん。そのとおり」
「手術室とリカバリールームは中絶手術用ですよね。ほかに手術はありますか?」
「まあ,ほとんどそれだけね。たまに,尖圭コンジローマの切除をやるけど・・・・どうしたの,急に?」
「ということは,診察室と手術室のどれかが空いてる日,時間帯がありますよね」
「うん。ジュンは日曜日から水曜日までここで仕事。わたしは月曜日,火曜日,水曜日と金曜日,土曜日ここで仕事だから,木曜日はすべて空いてる。金曜日,土曜日,日曜日はどっちかの診察室が空いてる。手術室も,木曜日と日曜日は使っていないし,ほかの日も朝から夕方までずっと使ってるわけではない。空いてる時間帯もあるわ・・・・弘樹,ひょっとしてここで開業するつもり?」
「ボクじゃなくて,澄人さんです。ボクも引っ張られてるんだけど」
母は深くうなずいた。そして篁がつぶやく。
「わたしは,橘クンや澄人さんと一緒に仕事できるなら,とてもうれしい」
「篁,ありがとう」
さっそく,澄人さんに話した。それからの澄人さんの行動は速かった。翌日に両親に会い,賃貸の条件を決めた。
「家賃なんか要りませんよ。弘樹がお世話になっているのですから」
という両親の言葉に
「いえ,こういうことはきちんとビジネスライクに話を進めるべきです」
と答えて,それなりの賃料を設定したみたいだった。診察室や手術室を見て回り,美容外科用の物品を置くスペースを確認し,必要な機材を発注した。
「わたしは来年2月末で退職すると申し出ました。来年3月1日開院予定で作業を進めます。あなたは,可能なら今の病院を辞めるのではなく勤務日を減らす方向で話をしてください。週1日か2日くらい勤め続ける方がいいです。わたしのところでは学べないものがあるはずですから。でも,向こうが承知しないなら,きっぱり退職してください。わたしができる限りの指導をします」
結局,病院としても澄人さんとボクと二人一度に辞められては困るのか,ボクの申し出は受け入れられ,来年3月からは週2日勤務になった。
年が明けると,橘医院に美容外科開設予定の広告が張り出された。
「あら,ここで美容外科をやってくれるなら,便利だわ」
という声が多いらしい。黄金町という土地柄かな。ただ,篁が新規開設する美容外科の具体的な内容について質問されるからということで,レクチャーしてあげた。
「篁が説明すると,説得力があるだろうなあ」
「別に,わたしの顔は美容外科で直したわけじゃないのだけど・・・・」
「それでも,美形の医者が説明する方が患者はぜったい納得する」
「ふーん・・・・でも,それなら,橘クンが説明してもいいじゃない」
「きれいな女医さんの話の方が説得力がある」
「そんなもの?」
篁は不思議そうな顔をする。こういう時のあどけない表情は昔のまま,高校生の頃のまま。それから,いいことを思いついたように,
「橘クンがここで仕事するなら,祥子さんが引退しても『橘医院』の名前は変えずに済むね」
と語るから,おかしくなった。
「そんなこと,気にしてたのか?」
「変かな?」
「別に,変じゃないけど」
開業準備でボクもそれなりに忙しい中,こんな他愛もない会話で癒やされる。
そして,3月1日に予定どおり開業。当面は,木曜日,金曜日,土曜日,日曜日の週4日。木曜日と日曜日は手術。金曜日と土曜日は美容カウンセリングと注射や薬など内科的な処置に充てている。澄人さんはこれまで以上にていねいに指導してくれる。
Chapitre 19
弘樹の結婚式。ごく内輪だけのパーティー。出席者は,わたし,祐樹さん,ジュン,澄人さん,早紀さん。花嫁のエマさんの側は親族は一人もいない。友人が3人だけ。新郎新婦を入れて10人のささやかなパーティー。それは弘樹の希望であり,エマさんの希望でもある。
もともと,橘婦人科に定期的に性病検査に来ていた人。主にジュンが対応していたけど,検査の折りに病気のことや健康全般について質問され,それに答える中で,いろんな事情があって高校を中退しAV女優をしていた彼女の秘められた知性を見抜いた。橘美容外科が開業して間もない頃,鼻の形とヒップラインを整える手術を受けた。ジュンから噂を聞いていた弘樹も,実際に会って,術前の説明や術後のアフターケアの際の会話から彼女の知性を感じ取り,「あなたの知性が花開くのを見たい」と熱心に語りかけ,本人もその気になった。二人とも熱心に勉強の相談に乗った甲斐があったのか,翌年には大検の資格を取り,その次の年に看護専門学校に入学した。弘樹は
「医学部も狙えるのに」
と惜しんでいたけど,本人はそこまでの野心はないみたいだった。
在学中も二人,特にジュンは親身に勉強の相談に乗っていた。彼女も「女どうし」ということで相談しやすかったのかもしれない。ともあれ,今年の3月に卒業,国家試験にも合格し,橘美容外科で働き始めた。勤務初日の仕事が終わった時,弘樹の方からプロポーズしたらしい。
「びっくりしました。『篁先生と結婚するんじゃないんですか?』って聞き返したんです。お二人,とても仲がいいから。それで,篁先生とのこれまでのことをきちんと説明されて,もっとびっくりしました」
とは,彼女がわたしたちに挨拶に来た日に語ったこと。
戸惑いながらも,彼女は弘樹のプロポーズを受け入れた。それから半年,彼女の言葉によれば「これからずっと一緒に生きていく覚悟があるかどうか確かめるための時間」を過ごした後に晴れて挙式。新郎は33歳,新婦は25歳になったばかり。この日が彼女の誕生日だから。
結婚式と言っても,親しい者だけが集まったパーティー。打ち解けた雰囲気で,服装も自由。エマさんは「一度は着てみたい」と言ってウェディングドレスを着ているけど,弘樹はノーネクタイのラフはジャケットスタイル。そしてジュンは,早紀さんに念入りに化粧してもらってワインレッドのドレスを着ている。30歳を過ぎても美しい。「黒髪のフランス人形」の呼び名に恥じない。エマさんは
「篁先生,花嫁より目立っちゃだめですよ」
とからかう。ジュンを初めて見る彼女の友人たちは「美しすぎる女医さん」と噂しあっている。自分のことでもないのに,わたしは誇らしい気分。そんなわたしに弘樹が話しかける。
「お母さん,自分が褒められてるんじゃないだよ。そんな,にやけた顔して」
「あら,顔に出てる?」
「しっかり出てるよ」
こんな和やかな雰囲気の中でパーティーは終わった。二人は二泊三日のささやかなハネムーンに出かける。わたしたち,わたしと祐樹さんとジュンは家に戻った。
ダイニングテーブルを囲んでのんびりお茶を飲んでいる時,ジュンが
「こんなおめでたい日にこんな話をするのは申し訳ないのですが」
と前置きして話し始めた。
「おととい,眼科を受診してきました」
「眼科?」
「はい。いろいろ検査を受けて,網膜色素変性症と診断されました」
わたしと祐樹さんは顔を見合わせる。眼科は専門じゃないけど,網膜色素変性症がどういう病気か,一応は知っている。
「予後は不確定です。進行がとても遅くて,30歳くらいで発症しても,死ぬまで視覚が保たれる例もあるけど,進行が早くて,発症して20年くらいで失明するケースもあります。わたしがどっちのケースになるかは,今の時点では分かりません」
ジュンは淡々と説明する。わたしの方があわてている。
「何か,自覚症状があったの?」
「はい。今年の初め頃から,夜盲というほどではないけど,暗いところでものが見えにくい感じがしていました。それで意識してみると,視野の周辺が見えていないような感じがして,それで『ひょっとして』と思って,おととい,眼科を受診したんです」
わたしたちは黙ってジュンの話を聞いている。
「今のところ,ふだんの生活に支障はありません。仕事も,特に問題なくできます。ただ,進行が早い場合は,5年後とか10年後くらいにいろんな支障が生じるかもしれません」
ジュンは相変わらず静かな口調で話す。わたしは黙ってジュンを見つめる。祐樹さんも。何も話すことを思いつかない。
翌年,エマさんが妊娠。その翌年の1月に出産。女の子だった。1月28日。ジュンの誕生日の次の日。一瞬,〔ジュンの生まれ変わり〕という考えがよぎった。そしてあわてて否定した。生まれ変わりなんて,ジュンはまだ死んでいないのに。
美沙希という名前。「ミサキ・・・・」どこか聞き覚えのある名前。ちょっと首を傾げたわたしを見て,弘樹が先に話す。
「真っ先に思いついた名前です。そして・・・・14年前,医学部の3年生の時,中絶手術をお願いした女性の名前です。気付いて,別の名前にしようかと思ったけど,やめました。変えません。ほかの名前は思いつきません。『美沙希』希望の希の字を入れました。父親になる覚悟はできてます。美沙希を幸せにします。誰より幸せにしてみせます。篁にも同じことを誓いました」
「エマさんにも話したの?」
わたしは弘樹を見つめて問う。弘樹はうなずいた。
「きちんと,包み隠さず,ありのままを話しました」
「それで?・・・・」
「受け入れてくれました。『ヒロキのためというより,美咲さんのためだけどね』と言って」
わたしは深くうなずいた。〔エマさん,ありがとう〕と心の中でつぶやきながら。
その年の3月末,祐樹さんは満65歳を過ぎ,勤務先の病院をいったん退職になった。とはいえ,医師不足はどの病院も同じ。再雇用契約で週3日働くことになる。それにあわせて,わたしもハーフリタイアを決めた。日数は減らさないけど,午前中だけにする。午後は自由時間。
「68歳だからね。ふつうならハーフリタイアどころかフルリタイアする年頃よ。もう,いいかげん楽させてよ」
とジュンにも弘樹にも,そしてエマさんにも話す。それはもちろん本心だけど,もう一つの狙いがある。美沙希の育児を手伝う。「美沙希を幸せにします。誰より幸せにしてみせます」という弘樹の言葉を疑うつもりないけど,二人はこれから何年かが一番の頑張りどころのはず。二人には,短時間だけど密度の濃い愛情を注いでもらって,育児のルーティンワークはわたしが引き受けようと考えている。
そして,「一番の頑張りどころのはず」という思いは予想以上に的中してしまった。
翌年,澄人さんに膵臓ガンが見つかった。一番予後不良のガンと言われる膵臓ガン。発見された時は転移があり完治不能だった。そして,その年の暮れに死去。60歳。誰もが「早すぎる」と思った。
「善人は早死にするって,ほんとうですね」
とエマさんはポツリとつぶやいた。もちろん,弘樹も同じ思いのはず。わたしたちも・・・・。でも,感傷にふける暇もなく,橘弘樹は文字どおり橘美容外科の院長の職務を担うことになった。エマさんは副院長。
年が明けて間もない頃,ジュンがわたしに尋ねる。
「今,このうちは1部屋空いてますよね?」
そのとおり。2年前の4月にわたしがハーフリタイアして,長年勤めてもらった篠原さんは辞めてもらった。彼女も70歳近い年だし。
「うん。篠原さんの部屋が空いてるよ」
「サキさん,澄人さんの奥さん,その部屋に住んでもらってもいいですか?」
わたしは祐樹さんと顔を見合わせる。
「もちろん」
ほとんど同時に二人で答えた。
「寂しそうなんです。あのマンションに一人でいるのが。20年以上,ずっと一緒に暮らしていたから」
その気持ちは理解できる。
1週間ほどして,早紀さんが越してきた。身の周りの最低限のものだけ持ち込んで。
「ピアノはどうしたの?」
と問うジュンに
「処分した。もう40年くらい使ってたからね。もともとそんな高級品じゃないから,かなりガタが来ていたの」
「でも・・・・」
「代わりに小さなキーボードを買うわ。今は,安くて性能のいい物があるから」
そんな会話に,珍しく祐樹さんが割り込んだ。
「それなら,たまに,早紀さんのピアノというかキーボードの伴奏で篁さんの歌を聴かせてもらえるのかな」
「それはもちろん・・・・ジュンもいいでしょう?」
ジュンは笑顔でうなずく。
「ああ,でもピアノだけじゃなくて,炊事もやらせてください。それくらいはさせてください」
という申し出はとてもありがたい。ハーフリタイアとはいえ仕事のある身,料理をしてくれる人がいてくれるのはうれしい。それに,午前中,わたしが相手をできない時間帯に美沙希の相手をしてもらえることも。
美沙希はすぐに早紀さんになついた。「サキおばさん」と呼んでまといついている。わたしのことは「ショウコおばあちゃん」と呼ぶ。まあ実際に祖母なんだから,仕方ない。幼稚園に通うようになって,送りは早紀さん,迎えはわたしという役割分担になった。
夕食は,まずわたしと祐樹さんと美沙希と早紀さんが先に済まし,それから,仕事を終えたジュンと弘樹とエマさんが食べる。夕食を終え,しばらくくつろぎの時間を過ごした後,弘樹とエマさんは美沙希をつれて自分たちのマンションに戻る。日によっては,夕食後,サキさんがキーボードを弾き,ジュンが歌う。わたしと祐樹さん,弘樹,エマさん,それに美沙希も一緒に耳を傾けている。美沙希が卒園し,小学校に入学してからも,このパターンは変わらない。穏やかな日々の連なり。唯一の気がかりはジュンの目。あれから,ジュンは何も話さない。だから,わたしたちも何も訊かない。外見的には,ふだんの生活にも仕事にも支障を来しているようには見えない。時おりわたしを見つめる目は相変わらず美しい。
そんな穏やかな5年,6年の月日は,1本の電話で破られた。初夏の遅い日が暮れかかる頃にかかってきた電話。横浜市内の救急病院からの電話。
「橘祐樹さんのお宅ですか?」
「はい」
と答えた電話口で告げられたこと。祐樹さんが心肺停止の状態で搬送されているということ。あわてて駆けつけたわたしに残されたことは死亡を確認することだけだった。死因は心筋梗塞。帰りの電車で吊革につかまっていて,胸を押えてしゃがみ込み,そのまま倒れたので,次の駅で救急車に乗せられたけど,病院到着の時点で脈も呼吸も止まっていた。75歳。「早すぎる」と嘆く年齢ではないかもしれない。でも,わたしにとっては早すぎる。なんで,あなたが先なの,わたしより若いのに・・・・。わたしはあなたに看取られて死ぬんだと信じてたのに・・・・。ほんの1時間前まで仕事をしていて,突然の発作。本人にとっては楽で幸せな死に方かもしれないけど,わたしにとっては,何の心の準備もないままに最愛の人の死に直面するわたしにとっては・・・・。そう,「最愛の人」,弘樹よりもジュンよりも大切な人。
弘樹とジュンは,ベッドの脇に呆然と座り込んだわたしを立たせ,うちに連れ帰った。その時,ジュンは弘樹と声を合わせて
「お母さん」
と呼びかけた。
翌日も診療。気持ちを引き立てて仕事するけど,ふとした折に悲しみの発作に襲われる。「時間が薬」と思ってがんばるけど,1週間,2週間が過ぎても悲しみが薄らぐことはない。むしろ心の奥底に深く深く沈殿していく。仕事をするのが辛い。医者になって初めて実感する。1ヶ月が過ぎる頃,わたしは決めた。仕事を辞める。77歳。早すぎるはずはない。わたしの決意を聞いてジュンはじっとわたしを見つめる。そして,
「引き留めようがないことは分かっています。ただ,ここで祥子さんが仕事を辞めたら,一気に衰えてしまいそうで・・・・」
わたしは寂しく笑う。
「いいかげん,衰えさせてよ。これまで頑張ってきたんだから」
そして,わたしはこの家を出ることにした。高齢者向けのマンションに移る。
「早紀さんは20年と言ったけど,わたしは40年以上なの。この家には祐樹さんの思い出がしみついている」
弘樹もジュンも引き留めなかった。
引っ越す前の晩,わたしは弘樹を部屋に呼んだ。
「このうち,土地と建物はジュンに譲ることにします」
弘樹は笑顔を作る。
「ほんとうに,この期に及んでも,ボクより篁の方が大事なんだ」
わたしもつられて笑みを見せる。
「まあ,それもあるかもしれないけど・・・・」
それからまじめな顔になる。
「ジュンの目のこと,知ってる?」
弘樹もまじめな顔になった。
「知ってます。6年前,澄人さんが死んだ時に話してくれました。ボクが,美容外科の仕事を少しばかり手伝ってくれないかと話した時,『せっかく教えてもらっても,すぐに仕事ができなくなるかもしれないから』と言って。あの時点で,仕事には支障はないけど夜盲と視野欠損をしっかり自覚できると話してました」
わたしはうなずく。
「だから,ジュンはいつか,それも遠くない将来,医者として仕事できなくなるかもしれない。そうなっても,住むところは確保できるようにと思って」
弘樹は明るい表情を見せる。
「それはいいね。それに,ここが篁の所有になれば,ボクは篁に診療所の賃料を払わないといけない。堂々と篁を支援してあげられるんだ」
わたしは思わず微笑んだ。この子は,ふだん斜に構えたことを言うくせに,根は素直なんだから。ジュンのことを本当の家族のように,いやそれ以上に思っている。いい子ね,弘樹・・・・。
「それに,ボクはこの家より今のマンション住まいの方が気に入っているから。譲られても住むつもりはないんだ」
「あら,でも,美沙希はここがお気に入りのようよ」
「ここじゃなくて,篁を気に入ってるんだろう。お母さんとサキさんが篁を『ジュン』と呼ぶものだから,美沙希も『ジュン』と呼ぶんだ。まるで,恋人を呼ぶみたいに」
「恋人なのかも。もう9歳でしょう。初恋の年頃として早過ぎはしないわ」
弘樹は笑い出す。
「親子二代にわたって初恋の相手をつとめるんだ,篁は」
わたしも笑いながら応じる。
「弘樹,高校生だったでしょう。それが初恋? 遅すぎない?」
「余計なお世話です」
弘樹はわたしをにらみ,それから明るい笑みを見せた。
「お母さん,久しぶりに笑ったね」
その翌日,わたしは生まれた時から住んでいたこの家を出た。