Chapitre 20
祥子さんは橘家から引っ越していった。所有権をボクに譲って。祐樹さんは亡くなり,橘クンは別のマンションに住んでいる。今この家に住むのは篁淳と増田早紀。もはやこの家は橘家ではない。でも,ボクにとってほかに呼びようがない。
サキさんが越して来て間もない頃,ボクはふと尋ねたことがある。
「澄人さんは,橘クンの結婚をどう思っていたんでしょう?」
「祝福してたわよ,もちろん」
と答えたサキさんをボクはじっと見つめる。サキさんはフッと笑みを浮かべ,顔を伏せる。
「ジュンには話しておこうか。話しておきたい気もする」
と言って,でもすぐには話しださず,しばらく黙っている。そして,話し始めた。
「ガンがかなり進行して,オピオイドを使っても痛みが消えなくなって,深鎮静に踏み切ろうという話が出ていた頃,わたしに話してくれた。あの横浜市大の学園祭で初めて目にした時から,橘クンに好感を抱いたって。やがて一緒に仕事をするようになって,はっきり好きだと自覚した。誰よりもていねいに仕事を指導したのも,開業のパートナーに誘ったのも,先輩としての親切心でも親心でもなく,恋心だったって。『わたしの最後の恋です。片思いでしたけど』微笑みながら澄人さんはそう言った。橘クンは知らないはず。親切で頼りがいのある先輩と思っていたはず。尊敬してくれてたかもしれないけどね。『彼の幸せな家庭を邪魔しないため,誰にも話さず墓場まで持って行くべきなのでしょうけど,やっぱり誰かに打ち明けたい。そして,打ち明ける相手は早紀さん,あなたしかいない。これまでいろいろ甘えたけど,最後の甘えです』なんて,わたしの方が甘えっぱなしだったのに。そして,わたしはわたしで,誰にも話すべきではないのに,やっぱり誰かに話したかった。澄人さんの純情をわたし以外の人にも知ってほしい。その相手はジュンしかいないよね」
そんなサキさんは橘クンの娘さん,美沙希さんを親身に世話している。初めのうちは祥子さんと一緒に,祥子さんがいなくなってからは一人で。美沙希さんも「サキおばさん」といって懐いている。ボクも,仕事が休みの金曜日と土曜日は夕方頃,大岡川沿いの遊歩道を一緒に散歩する。ごく自然に,手をつないでいる。
祥子さんがいなくなっても,橘クンとエマさんはここで夕ご飯を食べる。仕事が長引く日はサキさんと美沙希さんが先に夕食を済ませるけど,仕事が早めに終われば5人でテーブルを囲む。親子3人がここで夕食を摂るのを見ていると,この家を「橘家」と呼ぶのも間違ってはいない気もする。そんな橘家3人の団欒をボクはまぶたに焼き付ける。来年,再来年に失明することはないはずだけど,いつか目が見えなくなる日が来る。その前に,この情景をしっかり記憶しておきたい。
祥子さんがいなくなり,2人+3人のゆるやかな共同生活が1年を経過した頃,ボクたち宛てに届いたジュリさんのAerogramme。子供でさえEmailを使いこなすこの時代にあっても,ジュリさんはボクたちにはなぜかいつもAerogrammeを送ってくる。サキさんが封を切る。
「あら,ジュリが9月初めに日本に戻るんだって」
「ふーん,この前のリフレッシュ休暇から1年くらいだよね」
「休暇じゃなくて,会社を辞めて日本に戻るんだって。もう,ずっと日本にいるみたいよ」
「えっ?」
ボクは文面をのぞき込む。“definitive”という英語の単語が目に入った。
「20年ぶり,20年と8ヶ月ぶりくらい?」
「そうね」
辞める理由は書いてない。
「まあ,戻ってきてからゆっくり聞けばいいね」
「そうですね」
その先の文面に,「一緒に住まわせてもらえるか」と書いてある。
「もちろん」
ボクとサキさんは声を揃えた。
「何十年ぶりかしら,三人で住むの?」
「そもそも初めてじゃない?」
「そうね。三人で住んだことはなかったよね。ジュリの部屋に泊まったことはあったけど」
9月上旬の金曜日,ボクとサキさんとジュリさんはランチのテーブルを囲む。
「ジュリ,長旅お疲れ様。そして,20年以上のアメリカ勤務,ご苦労様でした」
「ありがとう」
と答えるジュリさんは3日後に57歳の誕生日を迎える。その割りには若いと思う。そして,今でも美しい。若い頃の熱は弱火になったけど,それでも,2年ごとのリフレッシュ休暇で日本に来たら,三人で肌を触れあって寝ていた。
3日後,ジュリさんの好きな白ワインのボトルとサキさんが作ったサンドイッチ,カナッペを載せたテーブルを三人で囲む。ジュリさんの57歳の誕生日。
「やっと,ジュリさんの誕生日をお祝いできる」
というボクの言葉にジュリさんが笑う。
「30年目にしてやっと,かな」
ボクはちょっと計算する。
「29年目だと思います。出会った時,ジュリさんは28歳になったばかりだったはず」
「たいした違いじゃないわ」
「そうですね」
「そして,15歳の人形のような美少年が44歳の熟女になった」
というジュリさんの言葉にサキさんが異議を唱える。
「うーん,ジュンは『熟女』という言葉は似合わないなあ」
「うん。実はわたしも自分で言って『ちょっと違うな』と思った」
「ジュンは,永遠の美少年,永遠の美少女かな?」
こんな他愛もない会話の後で,ボクは思いきってジュリさんに尋ねた。
「ジュリさん,どうして仕事を辞めたの? 57歳って,リタイアには早すぎると思うけど?」
ジュリさんはボクを見て,フッと笑みを浮かべる。どこか,寂しそうな笑み。
「船が沈みそうな時,ネズミは真っ先に逃げ出すの」
ボクとサキさんはジュリさんを見る。話の続きを待っている。
「今の状況は危ないと思ってるの。バブルそのものだと思う。そろそろ手じまいして守りに入るべきだと思う。そういうデータ,事実はたくさんある。わたしは1年くらい前からそういう報告を出してるんだけど,無視され続けてる。昔,日本で仕事してた頃,『わたしたちはどうしても欲得,功名心から逃れられないから,それから離れた冷静で客観的な判断を示してほしいんです』って言われたけど,でもほんとうは,彼らは自分たちの希望的観測,欲得や功名心に駆られた希望的観測を裏付けるようなレポートをほしがるの。彼らの気に入らないレポートを出し続ける研究員は疎まれるの。まあ,疎まれるだけならまだいいけど,それで会社が舵取りを間違えて倒産でもしたら,退職金どころか給料さえもらえないかもしれない。だったら,きちんと退職金を受け取れるうちに辞めようと思って」
そう語るジュリさんは,やはり寂しそう。
「それで,ジュリはこれからどうするつもり? 仕事しなくても,ここにいる限りは生活費は要らないから暮らしてはいけるけど」
「まあ,蓄えはそれなりにあるんだ。平均以上のサラリーをもらって,生活費は女一人分,そんなに使わなかったから。仕事もしないわけじゃない・・・・いくつかの経済誌から記事を依頼されてる。アメリカ経済の現状についての記事。バブル破綻の危険を警告するような記事を書くつもりだよ。採用されるかどうかは分からないけど」
ここで一息ついて,ジュリさんは話を続ける。
「それとね・・・・サキが結婚して,義務感から解放されて趣味でピアノを弾くようになって,幸せそうだったでしょう。わたしも同じようなことをしてみたい。昔,数学の専門研究者を目指して『突破力』がないことを自覚して諦めたけど,仕事じゃなくて趣味で論文か本を書いてみたい。これまでのキャリアで得た知識とスキルをすべて注ぎ込むような本」
「数学の本を書くの?」
「もちろん,数学も含まれるけど,それだけじゃなくなってしまう。若い頃は,日本にいた頃は,投資決定に使える数学モデルを組み立てることに夢中だったけど,数学モデルはそれだけでは使い物にならない。現実と絶えずフィードバックしてより良いものに仕上げていかないと使い物にならないの。たとえば,すごく簡単な例を挙げると,よく日本のメディアで,都道府県別の幸福度指数みたいなものが発表されるでしょう。あれを見てると,だいたい幸福度指数が高いのは人口が減っている地域よね。北陸とか東北とか。変だと思わない? なぜ幸福度の高いところを見捨てて幸福度低いところに人が移動するの? 普通に考えれば逆でしょう。この現実を素直に受け止めると,幸福度指数を計算する数式モデル,かなり単純なモデルだと思うけど,そのモデルに欠陥がある,修正の余地があると考えるべきよね。まあ,毎年似たような結果が発表されるから,現実とのフィードバックは残念ながら行なわれていないみたいだけどね」
ジュリさんはおかしそうに笑う。ボクも,そのニュースを聞くたびに,同じようなことを思っていた。
「それと・・・・」
ジュリさんは話を続ける。
「数学モデルは,数値,データを入れないと使えない。そして,当たり前のことだけど,不適切なデータを入れると的外れな結果しか出てこない。だから,そのデータはこの目的に使えるのかという,データ批判みたいな作業が不可欠になる。そもそもデータは自然に生まれるものじゃない。その辺の道ばたに転がってるものじゃない。誰かが何かの目的のために作ったものなの。その意図を知った上で,自分の目的にそのデータを使えるかどうか,あるいは自分の目的にそのデータを使うにはどんな前処理が必要かを考えないといけない。だんだんと数学プロパーから社会科学の方向に広がっていったんだ。わたしの仕事」
ジュリさんはボクを,そしてサキさんを見つめながら語る。
「こういうこと,無限に多様な現実世界の一部を切り取って表現しその未来を予測する数学モデルを構築する方法,そうやって作り上げた数学モデルを現実とのフィードバックの中で洗練させる手法,そしてモデルに投入すべきデータ数値を探し出し,批判的に検討し,活用する手法,そういうもの,わたしが33年あまりの経験で身につけた知識とスキルをまとめたいの」
「おもしろそう」
サキさんがつぶやく。
「うん。おもしろいよ。サキがピアノを弾くのに夢中になるのと同じくらいには夢中になれると思う。まあ,できあがった原稿を出版できるかどうかは分からないけどね。出版不況といわれてるご時世,こんな本を出版しようなんていう奇特な出版社があるかどうか。でも,サキだって,聴く人がいなくて一人でピアノ弾いてても楽しいんだから,わたしだって,読む人がいなくても一人で本を書いてても楽しめると思う」
「少なくとも一人は読者がいるよ」
とボクが答える。すかさずサキさんも
「わたしだって読みたいわ。どれだけ理解できるか分からないけど」
「つまり,二人の読者は確保できてるんだ。ありがとう」
ジュリさんは朗らかな笑みをボクたちに見せた。ボクはふと言葉を漏らした。
「なるべく早く仕上げてね」
「ジュン,ずいぶんハッパをかけるね」
「それは・・・・」
と言って,ボクは言葉に詰まった。目のことは,サキさんには話したけど,まだジュリさんに話していない。今話すべきなのか・・・・でも,この楽しげな雰囲気を壊したくはない。ボクはじっとジュリさんを見つめる。その眼差しに混じり込む困惑,悲しみをジュリさんは感じ取ったのかもしれない。
「ジュン,どうしたの?」
ボクは思わずうつむいた。サキさんが
「ジュリ,ジュンは・・・・」
と話しかけて,やはり言葉に詰まった。
「サキさん,ボクが話します」
そして語った,ボクの目の病気のこと。聴き終え,ジュリさんは黙ってボクを見つめる。そして,ポツリとつぶやいた。
「ジュン,どうして今まで・・・・」
「ごめんなさい」
ジュリさんはあわてて首を振る。
「違うよ。ジュンを責めてるんじゃないの。そうじゃないの。ただ・・・・」
ジュリさんはボクを見つめる。
「まだ,見えるのね? 読めるのね?」
「もちろん。Aerogrammeもちゃんと読めたよ。仕事もできている」
「じゃあ,1枚書き終えるとごとにジュンに読ませよう。書き上げてからなんて悠長なこと言わず,毎日できあがった分を読んでもらう。うん,そうしよう。その方がわたしも内容を推敲できてありがたい」
ジュリさんは,橘クンはもちろん,エマさんや美沙希さんともすぐに打ち解けた。夕食後,サキさんのキーボードでボクとデュエットすることもある。2人+3人が3人+3人になった。
そして,約束どおり,原稿を書いたら,書いた分をすぐにボクに見せてくれる。ボクは,できる範囲で感想を語る。ジュリさんはうなずきながら聞いている。たまに「ああ,その視点はおもしろい」とか「この文章はそんなふうに解釈される余地があるんだ」と言って原稿を修正することもある。
それから数ヶ月のうちに,ジュリさんの文章がいくつか経済誌に載った。それなりの反響はあったけど,世の注目をひくほどではなかった。そして翌年9月,リーマンブラザーズが破綻した。リーマンショックの始まり。1年前から警告を発していたジュリさんへの注目度が上がった。
「予言者みたいに言われてるんだよ。別に予言したわけじゃない。誰でも手に入るデータをもとに,発生確率が一番高そうな事態を述べただけなんだけどね」
「それを予言と言うんですよ,世間では」
「まあ,そうだね。ただ,いいこともある。いくつかの出版社がわたしの執筆中の原稿に興味を示してくれた」
「それは,よかったね」
というボクの言葉に,ジュリさんは笑う。
「まだ決まったわけじゃない。そもそも,原稿がまだできあがっていない。いつできあがるのか,めども立たないよ。ああ,でもジュンの視力が保たれているうちに本にしたい」
「そんな・・・・焦っちゃだめだよ。今のジュリさんが到達できる最良のものを仕上げてよ。時間をたっぷりかけて」
「もちろん,内容に妥協はしないよ。でも,それでも・・・・ジュンに読んでほしい」
そう言ってボクを見つめるジュリさんの顔はまだはっきりと見えている。周辺の視野はだんだん見えなくなったけど,視野の中心にあるものはまだはっきり見えるから。
結局,ジュリさんは2年半くらいかけて原稿を書き上げた。出版社との調整が終わり,出版作業が始まり,本が出たのはジュリさんの60歳の誕生日。
「還暦ですね」
「うん。大学教授なんかだと,弟子たちが『○○教授還暦記念論文集』なんてのを出版することもあるけどね。わたしは自分で書いたよ」
と,いたずらっぽい表情で話す。それから,まじめな表情になって。
「ジュン,まだ読めるよね」
「はい。読めます・・・・まだ視野の中心にあるなら,A5判の1ページの1行の左端から右端までの活字はちゃんと読み取れます」
「・・・・でも,読むのに疲れることはないの?」
「まあ,多少は疲れるけど・・・・原稿を読んでいるから,内容はだいたい頭に入っています。そんなに疲れませんよ」
「わたしの本はそれでいいけど・・・・」
ジュリさんは心配そうにボクを見る。ボクは心配を打ち消したくて微笑んでみせる。それに応えて,ジュリさんも微笑んでくれる。でも,ちょっと寂しそう。そのうなじに何本か白髪が見える。
翌年4月,ボクは婦人科の仕事を辞めた。まだ失明したわけではない。視野はごく狭くなったけど,その狭い視野の中にあるものはちゃんと見えている。でも,それで医者の仕事を続けるのは危ない。事故や重大なミスをしないうちに辞めようと決めた。ジュリさんとサキさんはボクをねぎらってくれる。ジュリさんは
「わたしは,蓄えがかなりあるし,仕事もポツポツあるんだ。雑誌やインターネットニュースへの執筆とか,たまにはテレビやラジオの番組に呼ばれることもある。そこそこに収入があるから,家賃の要らないこの家で慎ましく暮らすなら,3人分の生活費はみてあげられるよ」
サキさんも
「わたしも澄人さんが残してくれた蓄えはあるのよ」
と付け加える。
「二人ともありがとうございます。でも,ボクも,婦人科の仕事は辞めるけど,医者の仕事をすっかり辞めるわけではないんですよ」
「あら,そうなの?」
「そうなんです。橘クンに頼まれて,カウンセリングの仕事を続けることになりました」
「カウンセリング?」
「はい」
ボクはうなずいて,説明する。
その年の1月のうちに,橘クンには4月で婦人科を閉鎖することを話していた。
「そんなに悪いのか?」
「視野は10度くらい。その範囲内はちゃんと見えるけど,10度の視野で医者の仕事をするのは危ないよ」
橘クンはうなずく。
「いつかそういう日が来るとは思っていた。その日のために考えていたことがある」
と言って話を切り出した。
「婦人科を閉鎖したら,美容外科のカウンセリングの仕事を引き受けてほしい」
「カウンセリング?・・・・でも,技術的なことは橘クンやエマさんの方が詳しいでしょう」
「外科技術的なことはもちろんボクたちが説明する。篁にやってほしいのはメンタル部分だ」
「メンタル?」
「明らかな醜形恐怖は少ないけど,それっぽい人はけっこういるんだよ」
「ああ,確かに・・・・」
婦人科の患者さんが,美容外科を受診する前にボクにいろいろ相談することがある。その相談に乗りながら,自分の顔立ちや体型の細かな欠点へのこだわり,それと裏腹な自信の乏しさに,ボクはしばしば疑問を感じ,彼女たちに歯がゆい思いもした。そんなささいな欠点を補う美点があるのに,全体として見れば十分「美人」と呼べるのに,どうして自分のいい部分に目を向けず劣っている部分にばかり注目するのだろう・・・・。そのささいな欠点を修正してもらって,満足する人もいるけど,その欠点が直ったら,別の欠点を見つけ出してまた手術を希望する人もいる。
「美への憧れは満たしてあげたい。それがボクの仕事だから。でも,彼女たちには卒業してほしいんだ」
ボクはうなずく。橘クンが「卒業」という言葉に込めた意味と思いはボクにも分かる。
「最初に感じたのはエマを相手にした時なんだ」
「ああ・・・・」
それは,ボクも思っていたこと。AV女優という仕事柄もあるかもしれないけど,それにしても容姿や体型へのこだわりはいささか病的に思えた。彼女の場合,その病的なこだわりが薄れていくのと,自分の知性への自信が生まれていくのが平行していた。それは,橘クンとボクにとって貴重な体験だった。美への憧れを満たしながら,心の隙間を埋めていく。そんな仕事をこれからもできるといい。
「エマの心に空いた穴をふさいでいったのは,主に篁の仕事だったよ。エマも認めている。篁は昔からそうだけど,常識とか世間体,いわゆる『普通』にとらわれず,相手の心に素直に入っていける。それからもちろん,『女どうし』というのも大きい」
「ありがとう。そんなふうに評価してくれて。ただ・・・・」
ボクは自分の不安を率直に打ち明ける。
「目が見えなくなっても,その仕事が勤まるかな? たとえば,患者さんが『先生,わたしの鼻の形,こんなでしょう』なんて言ったりするでしょう。その時,その鼻の形が見えていないと言葉を返しようがないじゃない」
「確かに,それはハンディだな。でも,メリットもあると思ってる。彼女たち,自分の顔や体を見られるのを恥ずかしがるだろう。自信がないから。篁が目が見えないなら,彼女たちは安心して篁の前にいられるはずだ」
ああ,そういう発想もあるんだ。
こうして,4月からボクは美容外科のカウンセリングの仕事を始めた。日曜日から木曜日までの週5日。午後1時から4時までの3時間。初めのうちは空き時間もかなりあったけど,しだいに埋まっていった。
4時からは美沙希さんの相手をする。もう中学生だけど,相変わらず学校から戻ると自分のうちに居着かず,橘家にやってくる。宿題を済ませ,学校で習ったことで分からないところや,もっと深く理解したいところなどをボクに質問する。そして,読んだ本の感想を語ったりする。それは,ボクが彼女の年頃だった頃,母がボクにしてくれたこと。ああ,でも,この年頃には,母はもう死んでいた。ボクはいつの間にか母の死の年を越えて生きている。でも,もっと生きていたい。美沙希さんを見ているとそう思う。
4月半ば,ボクは祥子さんの部屋を尋ねて,婦人科の仕事を辞めたことを報告した。祥子さんは優しくうなずく。
「ジュン,よく頑張ったね。これからは,ゆっくりお休みなさい」
「はい。でも,医者の仕事を全部辞めたわけではないんです。橘美容外科のカウンセリングの仕事を引き受けてます」
「弘樹から聞いてますよ。ジュンにお似合いの仕事かも。祐樹さんの病院でも不定愁訴の患者さんを一手に引き受けていたんだものね。でも,ジュンにはもう一つ大事な仕事があるんだよ」
「何でしょう?」
「美沙希ちゃんの恋人役」
そう言って,祥子さんはいたずらっぽい表情を見せる。
「気に入られていることは,自覚しているよね?」
「はい」
「橘家三代にわたるお気に入りね。わたし。それからきっと祐樹さんも。そしてもちろん弘樹。それに美沙希」
祥子さんは愉快そうな笑みを浮かべる。
「祥子さんも美沙希さんのお気に入りだと思いますけど」
「わたしはもうお役御免よ。御免にしてもらうわ。年寄りをいつまでも働かせないで」
それからちょっと沈黙を挟んで,静かな口調で語る。
「婦人科は,そんなにひんぱんに人の死に立ち会う診療科ではないけど,それでもたまには患者さんの死に係わることもある。つくづく思ったけど,死は死んでいく本人よりも残される周りの人間にとってこそ悲しいね」
そしてまたちょっと間を置く。祐樹さんのことを思っているのかな。
「わたしは,誰からも忘れられてひっそり死にたいの。そうすれば,誰も悲しませずに済むから。でも,弘樹もジュンもエマさんも美沙希もわたしを忘れてはくれないみたいね。でも,なるべく悲しまないで。わたしはもう82歳。平均寿命は生きた。今すぐ死んでも天寿を全うしたことになるんだから」
そう語り,ボクに穏やかな笑みを見せた。