Chapitre 2
先生に初めて会ったのは中学の職員室。いくつかの質問の後,親のことを訊かれて「事故で死んだ」と答えた時,黙っていてくれた。「大丈夫? たいへんねえ。ご飯は自分で作ってるの?」とか,余計な詮索も同情もせず,何も訊かずにいてくれた。それがうれしかった。
学期が始まって,それまでの九州の小学校や中学校と同じようにボクがクラスで浮いていても,「みんなと仲良くしましょう」とか「自分から積極的にならないとお友達はできないよ」みたいなことを言わず,放っておいてくれた。だから,1学期の終わり,音楽の試験でボクは何も隠し立てせず自分の一番好きな歌を歌った。それがきっかけで,夏休み先生のうちを訪れるようになった。
夏の日が沈みかける頃,大岡川岸の遊歩道をのんびり30分くらい歩く。港の景色を見るために河口の方に歩いたことはあったけど,上流側に歩いたことはなかった。初めて歩いて気に入って,それからずっと,よほど天気が悪くない限り,先生のうちに行く時は川岸の遊歩道を歩くことにした。このことを先生に話したら,
「帰りはちゃんと電車で帰るのよ。もう暗くて危ないから」
と注意された。それは分かっている。田舎の夜道でも危ない目に遭ったことはあるから。
先生の部屋で聴いたクラシック音楽。「お子様向け」の小品ではなく,ボクの好きなモーツァルトやクープランやその他の作曲家たちの作品。初めて聴く曲も多かった。ボクの歌を聴いてくれる。「もっと子供らしい元気な歌を歌いなさい」なんて余計なことを言わず,ボクの好きなジャズバラードを歌うのをきちんと聴いてくれる。そして,歌を教えてくれた。学校で習うような歌ではなく,ジャズやミュージカルの歌。
「篁クンは歌う時は表情が顔に出るのね」
と言ってくれた。でも,歌だけのせいじゃない。先生といるからなんだ。自分の気持ちには気づいていた。ボクは生まれて初めて人を好きになった。
夏休みが終わって,さすがに週2~3回という頻度は無理だけど,月2~3回くらい先生のうちに出かけた。先生の家族はみなボクを女の子と思っている。顔立ちが優しくて,体つきが華奢で,着てる私服はほとんど女物だから。
「篁クンが女の子と思われてる方が都合がいいの」
と先生は話す。
「女教師と男子生徒が一つの部屋に籠もっていると無駄な心配をされる・・・・心配くらいならいいけど,あらぬ疑いをかけられることもある」
「女子生徒なら大丈夫なの?」
「うん。女子生徒なら大丈夫・・・・たぶん」
それはよかった。ボクも女の子と思われるのはいやじゃない。たまに,女に生まれたかったと思うことがある。女なら,上品なものやエレガントなものに憧れても変に思われないし,バカにされないから。だから,3年生になる前の春休みの終わり頃,先生がボクにドレスを着せ,化粧してくれた時,とてもうれしかった。
3年生になって,先生はボクのクラス担任ではなくなったけど,それまで同じように,月2~3回くらい先生のうちに出かけた。あの日から,先生の部屋に入ると先生はすぐにボクをドレスに着替えさせ,化粧してくれるようになった。そして,体を寄せあうように床に座り,先生の体の温もりを感じながら,一緒に音楽を聴く。幸せな時間。
かわいがられている,そう思っていた。そうでなければ,もうクラス担任でもないのに,ボクのために高校を探してくれたりしなかったはず。2学期の中間試験が終わった11月の初め頃,先生は部屋でボクに横浜開明学院という私立高校の資料を見せてくれた。
中高一貫の男子校の高等部。高校は内部進学生とほぼ同数の外部生が入学する。一般入試のほかに学業特待生入試が行なわれ,内部生と外部生が一緒に受験する。その試験の上位5人は特別貸与特待生として,月5000円の勉学奨励給付金が与えられる。ボクは,両親の生命保険と事故の賠償金があるから,つつましく暮らせば大学を卒業するくらいまでは生活できるあてはあったけど,先生がボクのことを心配してくれるのはうれしかった。
先生はボクが高校に通うことを真剣な顔で勧める。勉強だけなら高校に行かず一人で勉強する方が能率的かもしれないけど,学校で同年配の生徒たちとともに時間を過ごすという体験に価値があると,熱心に勧めてくれた。「いやになったら,い つでも辞めていいんだから」という言葉を添えて。
そんなふうにボクのことを考えてくれているのが,うれしかった。卒業式の翌日,港の見える丘公園で「もう会わない」と言ったのも,ボクのことを考えてくれていたからなのか。分からない・・・・。ボクは悲しかったけど,それを言葉にはできなかった。
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先生に勧められて入学した横浜開明高校。ふだんは私服での通学が認められているけど,入学式などの行事の日には制服着用が指示されている。だから入学式は欠席した。
翌日,授業開始の2~3分前に1年S組の教室に入って,どの席に座っていいのか戸惑った。そんなボクをめざとく見つけた一人の生徒がボクに声をかけた。
「ひょっとして,たかむらクン?」
「はい」
「入学式をサボるとは,いい度胸してるな。席は名簿順だ。キミはここ」
と言って,彼は自分のすぐ前を指さした。ボクは自分の席について,
「ありがとう」
とお礼を言った。彼はニコッと笑う。すぐ前で見ると,ボクより10センチくらい背が高い。スマートな体型。「美少年」と言うより「美男子」という言葉が似合いそうな大人びいた整った顔立ち。雰囲気も垢抜けているというか都会的というか,洗練を感じさせる。中学にいた野蛮人のような男子たちとは住む世界が違う感じがする。
「ボクはタチバナ。立つ花じゃなくて,漢字一字のタチバナ。柑橘類の橘[キツ]と言って,分かるかな?」
「はい。分かります。由緒ある名前ですね。源平藤橘[ゲンペイトウキツ]の橘」
「おや,知ってるんだ」
彼は素直に驚いた。
「ボクは高い村じゃなくて・・・・」
「漢字一字のタカムラだね。竹かんむりに皇帝の『皇』の篁。クラス名簿を見て知ってるよ。小野篁[おのの・たかむら]の篁」
ボクも素直に驚いた。
「知ってるんですね」
彼はニッコリ微笑んだ。その微笑みにつられたのか,ボクは珍しく冗談を言った。
「橘クン,まさか下の名前は諸兄[もろえ]じゃないよね?」
「それはない。もちろん逸勢[はやなり]でもない」
彼は,今度は声を出して愉快そうに笑った。そして,ボクに顔を近づけ,小さな声で
「ボクたち,友達になれそうだね」
と語りかけた。
この時,1限目の授業の担当教師が教室に入ってきた。
橘クンの言ったとおり,ボクたちは友達になった,と思う。これまで「友達」として付き合った人がいないから,これが世間一般で言う「友達付き合い」なのか,確信がないけど・・・・。ベタベタくっつき合ってるわけではない。休み時間に語り合うことはある。昼休み,ご飯を食べながらおしゃべりすることはあるけど,それから後は,ボクは図書館で本を読んだり,借りる本を探したりする。彼が何をしているかは知らない。週に1~2回,下校している姿を認めあうと弘明寺[ぐみょうじ]駅まで一緒に歩き,同じ電車に乗る。彼は日ノ出町の1つ手前の黄金町で降りる。歩きながら,そして電車の中で,語り合うことはある。話題は様々・・・・。
「橘逸勢も小野篁も弘仁文化に華を添えた文人貴族だね。そしてキミの名前が淳和天皇の淳だとは,いささか出来すぎな気がするなあ」
「橘クンは歴史マニアなの?」
「マニアというほどではない。それに,歴史だけに興味があるわけでもない。ほかのことにも興味あるよ。この世界の森羅万象,すべてボクの興味の対象だ」
こんな大げさな言葉遣いにも慣れてきた。
「キミもボクの同類だと思っているけど,違うかな?」
「違ってはいないよ」
「そうだよね。キミの頭蓋骨の中にはちゃんと脳が入ってるみたいだからね」
彼は,時おりこんな毒舌を混ぜる。
昼休み。ボクは学校の購買部でパンを買ってきて食べる。橘クンはお弁当を持ってきている。
「お母様が作ってくれるの?」
「いや,家政婦さんが作ってくれる」
「家政婦さんがいるんですね! お金持ち!」
「別にお金持ちってほどじゃないよ。両親とも仕事が忙しくて家事に手が回らないから雇ってるだけ。子供にとってはいい迷惑だ。親が3人いるみたいで,うるさくて仕方ない」
それくらいの付き合いでも,彼の個人的なことは少しずつ分かっていく。内部生であること。中学時代は1年生の1学期の中間試験から3年生の3学期の期末試験まで学年1番を通したこと。父親は病院の勤務医。母親は開業医。一人息子で,あとを継ぐよう言われ続けたけど,拒否し通し,今では親も諦め気味なこと。
「医者にはなりたくないんですね」
「もちろん」
「何になりたいの?」
「それは決めてない」
「でも,医者にだけはなりたくないんだ」
「うん」
「どうして?」
「物心つく頃から,いやと言うほど『医者になれ』と言われ続けたから」
週1回,1時間くらいテニスをしている。本人によれば「適度に筋肉を付けるため」。確かに,ボクと違って,やせ気味だけど引き締まった体をしている。
「学校のテニス部には入らないの?」
「体育会の根性主義は大嫌いなんだ」
ボクのことを尋ねることもある。尋ねられれば答える。隠さないといけない事情はないから。アパートで一人暮らししていることを話すと,
「天涯孤独,独立不羈,自由気まま。いいなあ。理想の高校生活だな」
と,素直に羨ましがった。ボクの境遇を,湿っぽい同情を交えずこんなふうにあっけらかんと語るのは好ましかった。
2度目か3度目,一緒に電車に乗っている時,
「なあ,そのクン付けはやめないか? 『橘クン』と呼ばれるのは慣れないんだ。ほかのみんなは『橘』と呼ぶから」
ボクはちょっと考えたけど,首を振った。
「申し訳ないけど,ボクは人を呼び捨てにするの,慣れてないんです」
「まあ,キミはそんな感じだよな」
「でも,ボクを『篁』と呼ぶのはかまわないよ」
「じゃあ,そうさせてくれ」
以来,彼はボクを「篁」と呼ぶようになった。その言い方は決して乱暴な呼び捨てではなく,親しみを込めた優しい口調だから,不愉快ではない。
5月下旬の中間試験。答案の返却が終わった頃,同級生の誰かが橘クンに話しかけている。
「橘,例によってお前が1番か?」
「いや。ボクは2番だった」
「本当かよ? お前より勉強のできる奴がいるんだ。いったい,どこのどいつだ?」
ボクは話に加わらない。自分から名乗ることではないと思うから。でも橘クンの考えは違うようだった。ボクに近づき,肩に手を触れ,
「キミだろう?」
と問う。ウソはつけないから,うなずいた。教室のあちこちから「ホー」とか「ハー」という声が上がった。
「ボクから1番の座を奪えるのはキミだけだからね。だけど,期末ではボクが1番をいただく」
彼の博識からして,それは根拠のない強がりではないはずだけど,ボクは
「できれば,1番はボクに譲ってほしい」
とつぶやいた。
「おっ,見かけと違って闘争心溢れてるな。それとも名誉心かな」
「いや,そういう意味じゃなくて・・・・」
ボクは自分の髪を指でサラリと撫でた。
「この髪,たぶん校則にある『高校生らしい髪型』じゃないよね。1番なら大目に見てもらえそうけど,そうでないなら,『髪を切れ』と言われそうで」
彼はボクの髪を軽く撫でる。
「この髪に思い入れがあるんだ」
「うん,これくらいの長さが好き。それに,似合ってるでしょう?」
彼はボクをじっと見る。
「確かに,似合ってるよ。そんじょそこらの女子たちよりずっと可憐なキミのこの顔立ちに,よく似合ってる」
そして,微笑んだ。
「分かった。篁の麗しい容貌とそれに似合いの髪型のために,ボクは2番に甘んじよう・・・・だけど,2番を取るのって,けっこう難しいな。1番ならしゃにむに勉強して全教科満点取れば文句なしに1番になれるけど,2番というのは・・・・手を抜きすぎて3番とか4番というのはしゃくに障るだろう? その微調整が難しい」
こんな会話を,周りの同級生たちはあきれたように眺めていた。
結局,それからボクたちは1番と2番を取ったり取られたりした。幸いなことに,ボクが2番になっても「髪を切れ」とは言われなかった。そして,3番以下に落ちることはなかった。
高校全体のことは分からないけど,S組=特待生クラスの雰囲気は明らかに中学とは違う。「知的」とまでは言わないけど,野蛮さが薄れた感じ。1学期,夏休み,2学期,冬休み,3学期・・・・その間に体育祭や文化祭などの行事を挟みながら,学園生活は平穏に過ぎていく。橘クンとの友達付き合いも何の波乱もなく続く。ボクは彼のほかに友達はいない。それは予想通り。むしろ,一人でも学校の友達ができたことが不思議なくらい。橘クンは友達が多い。内部生とはもちろん打ち解けているし,外部生とも仲良くなっている。そんな友達とは,子供らしいというか高校生らしいというか,テレビやマンガの話題,同級生や教師たちの噂話,そして他校とりわけ隣駅の上大岡にあるらしい女子校の生徒たちとの交際のことなどを気軽に語り合っている。ボクがその会話に入ることはなかった。