Chapitre final
わたしの一番古い思い出は,サキおばさんのキーボード伴奏で歌っているジュンの姿。歌もうまいけど,その美しさに見とれた。まだ生きていた祐樹おじいちゃん,祥子おばあちゃん,そしてお父さんとお母さんも一緒。みんなの視線を集めて歌う美しい人。お母さんもそこそこに美人だけど,それよりずっときれい。それはお母さんも認めていた。
「わたしは人並みの美人だけど,篁[たかむら]先生は超絶美形」
お母さんは「篁先生」と呼び,お父さんは「篁」と呼び,祐樹おじいちゃんは「篁さん」と呼ぶけど,祥子おばあちゃんとサキおばさんは「ジュン」と呼んでいた。その響きが好きで,わたしも「ジュン」と呼ぶようになった。ジュンはわたしを「美沙希さん」と呼ぶ。
毎年,同じ日に誕生日パーティーをした。ほんとうは,ジュンはわたしより1日だけ早い。でも,毎年同じ日にパーティーをするから,なんとなく同じ日に生まれたと思うようになっていた。パーティーでは歌を歌ってくれる。英語の歌。意味は分からないけど,ジュンの歌う声が好きだった。キーボードで伴奏するサキおばさんは「甘いハスキーボイスね。わたしも好き」と言う。
金曜日と土曜日はお仕事がお休みで,わたしの相手をしてくれた。一緒に絵本を読んで,その感想を語り合ったり,夕方になると大岡川の岸辺の遊歩道を手をつないで一緒に散歩した。その日の気分で川下側か川上側に10分か15分くらい歩いて戻ってくる。時おり,すれ違う人が振り返る。きっと,ジュンがすごくきれいだから。たまに,川下側に30分くらい歩いて埠頭から海を見ることもある。小さかったわたしにはちょっとした遠足気分。ジュンはわたしと手をつないで,黙って港の景色や海を見ている。埠頭の端に座り,足を海の上に垂らしていることもある。埠頭にぶつかる波のしぶきが靴に届きそうになることもある。それから,わたしに声をかける。
「じゃあ,帰りましょう。美沙希さん疲れてない? おうちまで歩ける?」
「うん。大丈夫」
わたしは答える。
わたしが小学校に入学すると勉強もみてくれた。分からないことは何でも訊いた。何でもていねいに答えてくれた。ジュンの説明はとても分かりやすい。これもお母さんが言ってたこと。
「勉強はお父さんじゃなくて篁先生に教わりなさい。教え方がずっとうまいから」
2年生,3年生になり,わたしが多少は漢字を読めるようになると,老松町の図書館に連れて行ってくれた。たくさんの本棚に並べられたたくさんの本。その中から,ジュンはわたしにおもしろそうな本を選んで借りてくれた。いろんな分野の本。小説もだけど,歴史や地理の本もある。科学の本も。科学と一口に言っても,生物学,化学,原子物理学,力学,光学,天文学,地質学・・・・いろんな分野がある。わたしのレベルにあわせて選んでくれるけど,難しすぎるものもある。でも,わたしは分からないところは飛ばしながらがんばって読んだ。読んだ後で,分からないところをジュンに訊けばきちんと説明してくれるから。そして,読んだ本の内容について語り合うのが楽しかった。ジュンも楽しそうだった。
4年生か5年生の時,いつものように夕方,川岸を散歩しながら,わたしはふと思いついた疑問を口にした。
「夕焼けはどうして赤いの?」
ジュンは優しい顔をわたしに見せて答えてくれる。
「それにきちんと答えるには光についての理論や色の見え方についての知識が必要になります。まだ美沙希さんには難しすぎるでしょう。ただ,昔,その問いに『空がはにかんでいるんだ』と答えた人がいました。わたしは好きですよ,この答え」
わたしは「はにかむ」という言葉を知らなかった。でも,なんとなく分かる気がする。だから,「『はにかむ』ってどういう意味?」と聞き返すことはしなかった。いつか,ちゃんと分かるようになる。それまで待っていよう。似たようなことは時々ある。ジュンが話す言葉の意味がよく分からない。でも,わたしはそういう時たいていは聞き返さないまま話を続けた。言葉の意味を問うより,ジュンと話を続けている方が楽しかったから。それに,いつかきっとその言葉の意味が分かるようになると思っていた。
英語の歌を教えてくれたのは,10歳の誕生日パーティー。単語を一つずつ,発音を教え,意味を教え,センテンス全体の意味を説明し,一緒に繰り返し歌って教えてくれた。最後に,サキおばさんの伴奏で歌った。すごく大人になった気分。まだ10歳なのに。それから,少しずつ英語をきちんと教えてくれるようになった。
中学に入学して間もない頃,ジュンは日差しの白色光が実はいろんな色の光が合成されたものであることから始まって,波長の違いによる屈折率の違い,空気中の微粒子による反射率の違いなどを説明し,夕焼けがなぜ赤く見えるのかきちんと説明してくれた。
「分かる?」
ジュンはわたしを見つめる。わたしはうなずく。
「分かってくれたんですね。よかった」
笑みを浮かべながら,ジュンはつぶやく。
「でも,『空がはにかんでいるんだ』という説明もすてきだよね」
「うん」
この頃には,わたしも「はにかむ」という言葉の意味を知っていた。
中学3年生になった4月から,ジュンは金曜日と土曜日だけでなく毎日,学校から戻ってきたわたしと一緒にいてくれるようになった。
「お仕事は?」
「お仕事は,今月から,毎日4時には終わるようになったんです。だから,毎日夕方は美沙希さんと一緒にいれます。でも,美沙希さんが一人でいたいなら,あるいはほかのお友達と一緒に過ごしたいのなら・・・・」
「そんなことないよ。ジュンと一緒にいれるなら,その方がいい」
「それは,ありがとう」
ジュンは麗しい笑みをわたしに向ける。でも,なんだかちょっと寂しそう。どうして? と訊くことはしなかった。
それからは毎日,夕方,学校から帰ってきて夕食を終えるまでの時間はジュンと過ごした。その日の授業の復習をしながら,
「ほんとうは,このレベルで止めないで,もっと高いレベルに進む方が,全体をすっきり理解できて,よく分かるし,おもしろいんです」
と言って,数学や理科の「もっと高いレベル」のことを説明してくれることもある。ほんとうに,その方がずっとおもしろいと思う。宿題は自分でやる。でも,その後でジュンに見てもらう。それから,最近読んだ本のことを語り合う。どんな分野であっても,ジュンは話し相手になってくれる。本の中で難しくてよく分からなかったことを尋ねると「それはね・・・・」とていねいに説明してくれる。
小学生の頃はただひたすらジュンの物知り,頭の良さに感心していた。中学生くらいになると,何とかジュンに「ああ,それは知らない。分からない」と言わせたくなった。それである日,5月か6月くらいだった,とても子供っぽいことをした。わたしは世界地図を開いている。そして,誰も知らないような小さな国の名前をジュンに言い「どこにある?」と問う。ところが,ジュンはなかなか尻尾をつかませない。
「ルワンダ」
「ああ,ルワンダはアフリカ大陸の南の方,コンゴの東にある小さな国ですね」
「ブータン」
「ブータンはインドと中国に挟まれた小さな国ですね。ネパールのすぐそば」
「ガイアナ」
「ガイアナは南アメリカ大陸の北の方。カリブ海に面して,ブラジルとベネズエラの間にある国」
「ブルキナファソ」
「ブルキナファソ?・・・・ブルキナファソ・・・・それは知りません。どこにあるんですか?」
やった! ついにジュンに「知らない」と言わせた。わたしは得意げに説明する。
「アフリカの西の方にある。ガーナの北,マリの南にある国だよ」
「ガーナの北,マリの南・・・・そこは『オートヴォルタ』という国ではないですか?」
「違うよ。ブルキナファソだよ。ほら」
と言って,わたしは地図帳を見せた。ジュンは地図帳をじっと見ている。
「ほんとうに,そうですね。ブルキナファソという国なんですね」
ジュンは,半ば不思議そうな,半ば納得したような,奇妙な表情を見せた。
それから何年かして,実はその国は昔は「オートヴォルタ」という名前で,それから「ブルキナファソ」に名前が変わったということを知った。ジュンも間違ってたわけではないんだ。
その年,中学3年生の夏休みに入るちょっと前,梅雨が明けたばかりの夕方,わたしとジュンは岸辺の遊歩道のフェンスに手を置いて,川面や川岸の景色を眺めていた。これまで,何十回も何百回も繰り返した,ありふれた場面。潮の香りがする。満ち潮で海からの水が上ってきてるんだろう。そんなことを考えていると,ジュンが前の方を見ながら話し始めた。
「そろそろ,美沙希さんにもきちんとお話ししておかないといけませんね。それとも,ひょっとして気付いているのでしょうか?」
そう言って,ジュンはわたしの方に顔を向ける。わたしは,何のことだか分からない。ジュンはまた前を向く。
「わたしは,だんだんと目が見えなくなってきているんです」
「えっ?!」
わたしは驚いてジュンの方を見る。ジュンもわたしを見て,フッと微笑んで見せた。そしてまた前を向いて,両手をフェンスから離し,両腕を広げる。
「普通の人はこれくらいの範囲が見えています。180度とまでは言わないけど,160度か150度くらいの視野があります。それがだんだん狭くなっていくんです」
そう言いながらジュンは両腕をしだいに閉じていく。両腕をまっすぐ前に向け肩幅と同じ幅で平行に伸ばしたところで動きを止めた。
「今はこれくらいの範囲しか見えていません。視角としては10度くらいでしょう。この範囲の中にあるものはちゃんと見えます。でもそこから外れるとぼやけていって,もっと外れるとぜんぜん見えなくなります。たとえば」
ジュンはわたしの顔をしっかり見つめる。
「こうやって美沙希さんの顔に目を向けていると,顔はちゃんと見えます。でも腕や胸は見えないんです」
わたしは何も言えずにただジュンを見る。
「それで,この4月から仕事を減らしたんです。婦人科の仕事は辞めました。今はカウンセリングといって患者さんとお話をする仕事だけしています。網膜色素変性症という病気です。その中でもわたしは進行が早い方です。あと何年かしたら,中心視野にあるものも見えなくなるでしょう。失明するということです」
「あと何年かって?・・・・」
「そうですね,来年,再来年ということはないでしょう。もっと遅いはずです。でも,何十年も先のことではありません。5~6年後くらいかも」
わたしはじっとジュンを見る。
「何も見えなくなるの?」
「たぶん・・・・きっと美沙希さんは今よりもっと美人になるでしょう。でもそれはたぶん見れません。だから,今,しっかり見ておいて記憶に焼き付けておくんです」
そんなことじゃない。わたしが気にしてるのは,そんなことじゃない。
「本も読めなくなるの?」
「もちろん,目が見えないなら,本も読めません」
「そんな,ひどい・・・・ジュンはこんなに本を読むのが好きなのに,それなのに,読めなくなるなんて」
わたしはジュンの胸に顔を埋める。そして泣き出した。そんなわたしの背中をジュンは優しく撫でてくれる。
「でも,いろんなことは覚えていますから,美沙希さんが読んだ本の感想を語る相手はできると思います。勉強の相手も,たぶん高校を卒業するくらいまでは,ひょっとしたら大学の前半くらいまでは,つとまると思いますよ」
「そんなことじゃないの」
そんなことじゃないの,わたしが悲しいのは,そんなことじゃないの。わたしのことじゃないの。ジュンが大好きな読書ができなくなること,それが悲しいの。
「ごめんなさい。こんなに悲しませてしまって。やはり,高校受験が終わるまで,話さないでおく方が良かったでしょうか」
わたしはジュンの胸から顔を離し,首を振る。
「そんなことないよ。今,きちんと話してくれてよかったよ。そういうことは早いうちに知っておく方がいいんだ」
ジュンは相変わらず優しい笑顔をわたしに向ける。
「そう言ってくれると,うれしいです。それと,急に何かが変わるというわけではありません。美沙希さんは何も特別なことをする必要はありません。これまでどおりに振る舞っていてください。それが一番わたしにはうれしいです。ただ・・・・」
「ただ?」
ジュンはちょっとためらってから話を続ける。
「手をつなぐなんて,恥ずかしがる年頃かもしれませんが,これからも散歩の時は手をつないでください。中心視野の外は何も見えないから,美沙希さんが手をつないでいてくれると心強いんです」
「もちろんだよ」
わたしはジュンの手を握りしめる。手ぐらい,いくらでもつなぐよ。
「これからも,手をつないで一緒に散歩しよう。夕焼け空や港の景色をいっぱい見ようね」
こう語りかけながら,一つの声がわたしの中に響く。「ジュンはわたしが守ってあげる」という声。14歳の女の子に何ができるわけでもないけど,でも,「ジュンはわたしが守ってあげる。これからずっと」
その日から,わたしはなるべく都合を付けてジュンと散歩するようにした。散歩ルートは,たまに図書館に出かけるほかは,大岡川の岸辺。遊歩道を上流側や下流側に歩く。もちろん,港まで行くこともある。Riverside Storyと名付けた。わたしがジュンと岸辺を歩くだけの物語。でも,わたしにとって何よりかけがえのない物語。
もちろん,受験勉強も手を抜かない。ジュンのために志望校に落ちたなんで誰にも言わせたくないから。翌年,第一志望の高校に合格し,4月から通うようになった。そしてこの頃,わたしの背丈がジュンに並んだ。
「わたしの服で気に入ったものがあれば,美沙希さん着ていいですよ」
と言ってくれるけど,ジュンほどの美形に似合う服がわたしに似合うかな・・・・。
ジュンはわたしより34歳年上だから,もうじき50歳。でもぜったいその年に見えない。30歳で通用する。20代でも大丈夫。たまに,大岡川の岸辺を散歩していて高校の知り合いに出会ったりする。翌日,必ず教室で訊かれた。
「あのすごくきれいな人,だれ?」
「お姉さん。年の離れたお姉さん」
わたしは自慢げに話す。ほんとうは,違うけど。でも,みんな信用する。
「紹介してくれよ。オレ,10歳くらいの年の差は気にしないから」
なんて言い出す男子もいる。
「だめ。決まった人がいるの」
と答えると,すごくがっかりする。「決まった人」というのはわたしのことだけど,それはもちろん口にしたりはしない。
わたしが男子から告白されることもある。その時も同じ答えをする。
「だめ。決まった人がいるの」
相手はがっかりする。
「誰だよ,その『決まった人』って」
「それは秘密」
ほんとうは,その「決まった人」とはジュンのこと。
冗談なんかじゃない。本気そのもの。学校で知り合った女子たちや男子たちの誰を思い浮かべても,それよりジュンと一緒にいる方が楽しいんだから。だれとも友達付き合いしないわけではない。たまには帰り道に一緒に喫茶店に入ったりする。10分,15分くらいなら楽しい。でもそれ以上は無理。ジュンとなら2時間でも3時間でも語り合っていられるのに。だから,30分くらいするとコーヒー代を置いて先に出る。誰かが
「ほんとうに,ミサキは付き合いが悪い」
と文句を言い,別の誰かが
「仕方ないわ。ミサキには『決まった人』がいるんだから」
とフォローしてくれるのも,いつの間にか様式美になっている。
これはつまり,「好き」ということ。わたしがジュンに寄せる気持ちは「好き」ということ。「守ってあげる」という気持ちも含めて。自分の中で結論を出し,納得した。
16歳の誕生日パーティー。その何日か前,ジュンは
「アメリカでは16歳は人生の節目の年なんです。16歳から大人として扱われるようになるんです。それで,Sweet sixteenとも言います」
と説明してくれた。そうなんだ,16歳でわたしは大人になるんだ。それなら・・・・。
パーティーと言っても友達とかを呼ぶわけではない。いつもよりちょっとばかり豪華な夕食。それを用意してくれるのはサキおばさん。ジュリさんも手伝っている。あとは,わたしとジュン,お母さんとお父さん。いつもの6人。席順もいつものとおり。向かいの真ん中にジュンが座り,両側にサキおばさんとジュリさんが座る。こちら側は真ん中がわたし。両側にお母さんとお父さん。食事が終わり,みんなでコーヒーや紅茶を飲んでいる。うまいタイミングがつかめないけど,このままだとパーティーが終わってしまうので,わたしは立ち上がる。
「今日で16歳,大人になったわたしから,50歳になったジュンに一日遅れだけどプレゼントがあります」
わたしはテーブルを回り込んでジュンの脇に立つ。そしてジュンの顔を両手で包み,わたしの顔を近づける。
「プレゼントは,わたしのファーストキス」
と言って,唇を触れた。ジュンは目を見開いてわたしを見る。その目は,わたしの顔が見えているの?・・・・それから,ゆっくり唇を離す。ジュンの顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとう。最高のプレゼントですよ」
そして,拍手の音。ジュリさんだった。続いて,サキおばさん。そしてお父さんとお母さんも。わたしは,急に恥ずかしさがこみ上げてきて,急いで自分の席に戻った。
拍手のあとの沈黙。そしてお父さんが
「篁は,親子二代にわたってファーストキスの相手になったんだな」
とつぶやいた。
「えっ?・・・・それって,つまり・・・・お父さんのファーストキスの相手もジュンだったの?」
お父さんはうなずいた。わたしはお母さんを見る。
「お母さん,大丈夫?」
「大丈夫って,何が?」
「つまり,ジュンにヤキモチ焼いたりしない?」
お母さんは笑いだした。
「見損なわないで。そんなくだらないヤキモチなんか焼かないわ。だいたい,篁先生とヒロキの間のことはぜんぶ話してもらってるんだから」
「ジュンとお父さんの間のこと?」
わたしは不思議そうにジュンとお父さんを見る。お母さんがお父さんに話しかける。
「美沙希はもう大人だと言い張るんだから,話してあげれば? いい機会じゃない」
お父さんはフーッと上を見上げ,それから視線を戻し,うなずいた。そして話し始めた。
お父さんの口から語られること。驚くことばかり。ジュンは,昔は男の子だったの? 男の子だったジュンにお父さんは本気で恋したの? その恋心を諦めて,家族のような,きょうだいのような気持ちに切り替えていったの? そして,祥子おばあさんがジュンに薬理的去勢を行なって,さらに手術の病院も紹介した・・・・。わたしはゆっくり時間をかけて理解し,受け入れた。そして,うつむいた姿勢から顔を上げると,斜め向かいのジュリさんと目が合った。ジュリさんはにっこり微笑んだ。それから,何か考え込むような表情になった。
「ジュリさん,どうかしたの?」
ジュリさんはわたしをじっと見つめる。そして問いかけた。
「美沙希さんはさっき,ジュンを女だと信じてファーストキスを捧げたんだね。女どうしでキスすることに抵抗はないんだ。女どうしで愛しあうことにも,抵抗はないの?」
そう問われて,わたしは考え込む。確かに,わたしはジュンを女の人だと信じていた。そしてジュンを好きだと思っていた。その気持ちに何のためらいもない。女どうしだからなんて考えが入り込む余地はなかった。女だろうが男だろうが,ジュンを好き,ただそれだけ。わたしは自分の気持ちを説明する。女だから好きになったわけじゃない。ジュンがジュンであるから好き。でも,女どうしだからって気持ち悪いとか変とか思ったこともない。ジュリさんは納得したようにうなずく。そこでなぜかお父さんが話に加わる。
「ジュリさん,話すつもり?」
「だめかしら? 美沙希さんはちゃんと受け止めてくれると思うけど」
わたしは問いかける。
「まだ,話すことがあるんですか?」
「あるのよ」
「話してください。どんなことでも,きちんと受け止めます」
わたしはジュリさんを見つめる。それからジュンを見る。ジュンは静かな表情で背筋を伸ばして座っている。
ジュリさんが語ってくれたこと。まず,ジュリさんとサキおばさんのこと。それからサキおばさんとジュンの出会いと別れ。ジュリさんとジュンの出会い。そしてジュンのSweet sixteenの夜のこと。その二人とお父さんとの係わり。サキおばさんとの再会。三人の熱い愛。ジュリさんのアメリカへの旅立ち・・・・。わたしは,お父さんの話より以上の時間とエネルギーをかけて理解し,納得し,受け入れた。ジュン,その優しく穏やかな笑顔の向こうに,そんな激しい物語を秘めていたの?
しばしの沈黙。それを破ったのはジュリさん。
「美沙希さん,ジュンはこれほどの人からこれほど深く熱く愛されてきたの。そのジュンに,生半可な気持ちで『好き』なんて,言っちゃだめよ」
「もちろん,生半可な気持ちなんかじゃありません」
わたしは強い口調で言い返す。そんなわたしにジュリさんは微笑みかける。
「もちろん,分かってる」
そして,ふと寂しげな表情になった。
「ふつうに考えて,わたしの方がジュンより先に死ぬ。ジュンを死ぬまで守ることはできないんだ。それができるのは,美沙希さん,あなたなの」
この頃から,ジュンは図書館に出かけても自分の本を借りることはなくなった。
「もう,読めないの?」
「はい」
「ぜんぜん,見えないの?」
「ぼんやりと物の形と色は分かります。でも,文字を読むことは,もう無理です」
「そう・・・・」
「でも,図書館の雰囲気は好きなんです。だから,美沙希さんが出かける時は一緒に連れて行ってください」
「もちろん。わたしが用がなくても,ジュンが行きたいならいつでも連れてくわ」
図書館のほか,港にも連れて行く。ほとんど何も見分けられなくても,海からの風と潮の香りと埠頭のざわめき,そのほかいろんなものから港の雰囲気を感じ取っている。わたしは,手をつなぐのではなく,肩に腕を回してジュンを抱き寄せて歩く。その方が「守ってる」気になるから。
ある時,ふと
「わたしはジュンの盲導犬だよ」
と言ったら,ジュンはまじめな顔で
「美沙希さんは犬じゃありませんよ」
と答えた。
「そうだけど・・・・」
冗談には冗談で答えてよ。わたしはちょっとむくれた。その雰囲気を察知したのか,ジュンは穏やかな笑顔を見せる。
「分かっていますよ。美沙希さんの気持ちはよく分かっています」
そして,さらに美しい笑顔になって
「うれしいです。美沙希さんの気持ち,とてもうれしい」
と言って,見えない目をわたしにじっと向ける。わたしの小さなモヤモヤは一気に吹き飛んだ。
わたしが大学に入学する頃,ジュンはほぼ完全に失明した。もう何も映さなくなったその美しい目。とっくに慣れているはずなのに,もうきちんと受け入れたはずなのに,それでもたまに激しい悲しみが湧き上がる。そんな時,わたしは顔をジュンの肩に埋める。泣きはしない。ただ顔を埋めるだけ。ジュンはわたしの髪をそっと撫でてくれる。ごめんね。わたしがジュンを慰めないといけないのに,慰めてもらってる。でも,ほんの1分くらいだから。
お父さんによれば,篁淳は横浜市立大学医学部でも指折りの秀才と謳われ,その質問の的確さと鋭さで教授たちを感嘆させた。もちろん,30年以上も前のこと。その頃の教授が残っているはずはないし,伝説もとっくに消え去っている。でも,わたしはその伝説を復活させたい。物心つく頃からその指折りの秀才に知性をはぐくんでもらったんだから。そして今も,はぐくんでくれている。授業で聞いたことを語り合う。疑問が氷解していく。疑問にさえ思わなかったことを別の視点から説明してくれて「ああ,そういうこともあるんだ」とさらに納得する。
ある時,ふと疑問に思った。
「この受容体は20年くらい前に発見されたから,ジュンが学生の時には習っていないんじゃない?」
「そうですけど,医学部を卒業してからも勉強はしてましたから」
ああ,そうだった。学校を出てからも絶えず本を読んで新しい知識を仕入れていたんだ。だとしたら知識のギャップは,ジュンが本を読めなくなったこの4~5年分なんだ。それなら伝説復活のためにがんばろう。それに,わたしには密かな野心がある。橘婦人科をできるだけ早く復活させるという野心。
伝説を復活させることができたかどうか,それは分からない。でも,ともかく6年で無事医学部を卒業し,国家試験にも合格し,医者としての仕事を始めた。最初の2年は臨床研修。わたしは,祐樹おじいさんが昔勤めていた病院で研修することにした。婦人科が充実しているとのことだから。おじいさんが勤めていたのは15年前までだけど,その頃の事務員さんや看護師さんが何人か残っていて,
「あら,橘先生のお孫さん!」
と歓迎してくれた。
昔と違って,研修医も毎日夜遅くまで働かされるわけではない。当直でなければ,5時は無理にしても6時か7時くらいには仕事を終えられる。それから帰宅して夕食を摂って,そしてまた勉強する。ジュンに指導されて,個人開業の婦人科に必要な知識やコツを学ぶ。
「最後の10年くらいはパソコンでカルテを書いていました。パソコンの内部メモリーからは削除しましたがCDに保管してあります」
と言われて,さっそくCD-ROMを再生する。おもしろそうな症例のカルテを読み上げると,ジュンは思い出す。
「ああ,この症例では・・・・」
と説明してくれる。
ごく希に,痛恨の誤診が見つかる。
「ジュンも間違えることがあるんだね」
「それはそうですよ。人間ですから」
「神様だと思ってた」
ジュンは「はにかむ」ような表情を見せる。こんな時,サキおばさんやジュリさんが言う「永遠の美少年」の面影がよぎる。
わたしは,2年の研修医期間が終わったらすぐに橘婦人科を復活させるつもり。無謀と言う人もいるかもしれないけど,わたしはそうは思わない。だって,神様とは言わないまでも人間世界では誰より優秀なブレーンがつきっきりで指導してくれるんだから。昔,祥子おばあさんに聞いた話では,卒業してすぐに橘医院に入り,1年過ぎる頃にはほとんど独り立ちできた医者が,そのすべての知識とノウハウを惜しげもなく注ぎ込んでくれるんだから。
そうやって1年10ヶ月ほどが過ぎた。あと2ヶ月で研修は終わる。1月28日,わたしの26歳の誕生日。そして,ジュンの60歳の誕生日の翌日。あのSweet sixteenから10年目の夜。あの時と同じように,ふだんよりちょっとばかり豪華な夕食。あの時と同じように,わたしはジュンと向かい合って座る。あの時と同じように,食事を終え,コーヒーや紅茶を飲んでいる。わたしは向かいのジュンに話しかける。
「ジュンは,法律上は男なんだよね」
「はい,そうですよ」
「じゃあ,わたしと結婚しよう」
一瞬,座が静まった。そして,ジュリさんの笑い声が響いた。
「ああ,わたしが考えたけど実行できなかったことを,美沙希さんはいとも軽々とやってのけるのね」
「ジュリさん,考えたことはあるの?」
「考えたことはある」
わたしはまじめな声で語る。
「ジュリさんに10年前に言われたこと。今もちゃんと覚えてます。仮にジュンが100歳まで生きても,わたしはまだ66歳。『ジュンを死ぬまで守ってあげる』と確信を持って約束できます」
ジュリさんもまじめな顔でうなずいた。
わたしはジュンに話しかける。
「ジュン,左手を出して」
差し出された左手の薬指に,わたしはこの日のために買っておいた指輪を入れる。
「これは・・・・」
右手で指輪に触れているジュンに,わたしが答えるよりも先にジュリさんが答えた。
「結婚指輪に決まってるでしょう」
FIN
わたしは,これまでの作品もそうですが,作品の背景となる場所と年代を具体的に思い浮かべながら書いています。その方が,書きやすいし,それぞれのシーンを鮮明に思い浮かべやすいのです。今回の『Riverside Story』の舞台は,作品の中にもはっきり書き込んでいますが,横浜の大岡川の岸辺です。年代は,きちんと明示してはいませんが,ジュンと橘クンが医学部を卒業するのが横浜市立大学医学部の移転の年(1987年)なので,ここを起点に年代を確定できます。
それで,Riverside Storyの年表を作ってみました。
橘祥子 1929年生まれ
橘祐樹 1931年生まれ
澄人 1940年生まれ
サキ 1950年7月生まれ
ジュリ 1950年9月生まれ
橘クン 1962年4月生まれ
ジュン 1963年1月生まれ
エマ 1970年10月生まれ
1973年3月 ジュリとサキ,卒業。別れ
1976年4月 ジュン,サキと出会う
1978年3月~4月 ジュン,中学卒業,高校入学。サキ,結婚
1980年1月 サキ,ジュン・ジュリと再会
1981年3月~4月 ジュン,高校卒業,医学部入学
1987年1月 ジュリ,アメリカに転勤
1987年3月~4月 ジュン,医学部卒業。横浜市大医学部の移転
1990年3月 澄人さん,橘医院に間借りして開業。橘クン,エマに出会う
1992年4月 エマ,看護学校入学
1995年3月~4月 エマ,卒業。橘美容外科で勤務始める
1995年10月 橘クン,エマと結婚。ジュン,視覚異常を祥子さんに話す
1997年1月 ミサキ,誕生
1997年4月 祐樹さん,祥子さん,ハーフリタイア
2000年3月~11月 澄人さん,膵臓ガン発見。治癒の見込みなし。死去。
2001年1月 サキ,橘家に住む
2006年 祐樹さん,死去。祥子さん,フルリタイア,橘家を退居
2007年9月 ジュリ,退職して帰国。ジュン,サキと一緒に住む。
2008年9月 リーマンショック
2011年4月 橘婦人科廃業。カウンセリング担当。
2015年4月 ミサキ,横浜市立大学医学部入学。この頃,ジュンはほぼ失明
2021年3月 ミサキ,卒業。婦人科を選択。祐樹が勤務していた病院で研修
2023年1月 ミサキ,ジュンにプロポーズ