※この作品はR-18です。

Riverside Story:岸辺の物語   作:松村順

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Chapitre 3

          Chapitre 3

 

 夏休みが終わり,2学期が始まって間もない9月中頃の朝。部屋と日ノ出町駅の中間くらいで雨が降り出した。部屋に傘を取りに戻ったら電車に間に合わない。ボクはしかたないから走ったけど,交差点で赤信号に引っかかった。隣の人は傘をさしている。

「申し訳ありませんが,駅まで傘に入れてもらえませんか?」

その人はボクを見てちょっと驚いた。それから

「いいわよ」

と言って傘を差し出した。信号が青に変わった。ボクはその人からちょっと肩を離して歩く。

「それじゃ,そっちの肩が濡れるでしょう。もっと体を寄せていいよ」

そう言いながら,その人はボクの肩を軽く抱き寄せた。ボクは思わずその人を見る。ほぼ同じ身長。すぐ目の前に20代後半くらいの女の人の横顔がある。ボクはすぐに前に向き直った。すると,その人はボクの耳元にささやくように語りかけた。

「男の子なの? 意外に声が低いけど」

「はい。でもよく間違えられます」

「そうでしょうね。こんなかわいい顔して・・・・」

しばしの沈黙。ボクは前を向き視線を落として駅に向かって歩く。耳元にまた声が聞こえる。

「キミはわたしを知らないみたいだけど,わたしはキミを知ってるの。大岡川岸の遊歩道を時々歩いてるでしょう」

「あっ,はい」

「それと,スリーズでも見かけたことがある」

 スリーズ“Cerises”というのは,うちの近くにある喫茶店。窓から大岡川が見える。12時までモーニングセットをやってるので,日曜日の12時ちょっと前に出かけてお昼ご飯代わりにモーニングセットを食べている。ボクのささやかなぜいたく。ハムエッグとトーストを食べながら,コーヒーを飲みながら,ぼんやり川の流れを眺めているのが好き。

 やがて駅に着いた。改札を抜け,その人は上り線ホームに,ボクは下り線ホームに向かおうとする。

「そっちの方なの?」

「はい」

その人は一瞬ためらってから,

「日曜日のお昼頃,スリーズでね」

と言って,ホームへの階段を足早に上っていった。それを見送り,ボクは下り線ホームへの階段を上り,ホームに立つ。ふと向かいを見ると,反対側のホームで彼女がボクを見つめている。ボクも彼女を見つめた。手を振ったりはしない。やがて上り電車が来て,発車して,向かいのホームには誰もいなくなった。すぐにやって来た下り電車に乗り込む。日ノ出町から弘明寺まで10分ほどの乗車時間。ボクはたった今会ったばかりの人のことを考えている。交差点から駅まで3分くらい一緒に歩いただけなのに,なぜか気になる。「日曜日のお昼頃,スリーズでね」というのは,次に会う約束。彼女もまたボクに会いたがっているのかな。だとしたら,うれしい。

 

 翌週のスリーズ。まだ彼女は来ていない。いつものようにモーニングセットを食べているけど,今日は川の景色じゃなくて入り口の方に気が向く。誰かが来るのを気にしながら待つ。生まれて初めて経験すること。ドアが開く音がする。彼女だった。彼女もすぐにボクを認め,まっすぐ歩いてくる。

「相席,よろしい?」

「はい」

とボクが答えるより前に彼女は向かいの席に座り,カウンターに

「ブレンドコーヒー」

と注文した。

「こないだはありがとうございました」

「いいのよ。あれくらいのことでお礼なんて。それに,実を言えば,わたしから声をかける機会をうかがってたの」

と言って,その人はボクに微笑みかける。

「まだお互い名前も知らないのね。わたしはジュリ。珠玉の珠,『たま』の字に,『さと』の里,と言って分かる?」

「はい。分かります。ボクは『たかむら』,高い村じゃなくて・・・・」

「名字じゃなくて下の名前を教えてよ。わたしは名前を教えたんだから」

「あっ,済みません。ジュンです。淳和天皇の淳では分からないかな。サンズイに・・・・」

と言いながらボクはテーブルに指で字を書いた。

「ああ,その淳ね」

と言って,ボクを見つめる。そこで何となく話が途切れて黙っていると,コーヒーをもってきたマスターがボクを指しながら彼女に

「妹さんですか?」

と尋ねた。二人とも「えっ?」というような顔をする。彼女が先に

「違いますよ」

と答えた。

「あっ,そう? 似てるから」

と言って,マスターはカウンターの中に戻った。ボクたちは顔を見合わせた。

「似てるのかしら?」

「ボクは意識していなかったけど」

「わたしも・・・・」

と言ってから,その人は,ハッと思いついたように,

「ああ,キミに化粧すると,わたしに似るかも」

とつぶやいた。それからちょっと照れたように,

「ああ,ごめんなさい。男の子に『化粧すると』なんて,変なこと言ったね。気を悪くした?」

ボクはあわてて首を振る。

「気を悪くしたりしません・・・・好きです,化粧してもらうの」

「お化粧するの,好きなの?」

「自分でしたことはないけど,してもらったことはあります」

「してもらった?・・・・」

ジュリさんはボクをじっと見つめる。

「誰に?」

「中学の先生」

「えっ!?」

ジュリさんは驚いた。

「・・・・もちろん,女の先生よね?」

「はい」

「女教師と男子生徒・・・・危険な関係じゃない?」

「そうなんですか?」

「普通はそう思うわ」

「・・・・ボク,『普通』が分からないんです」

というボクの返事に,ジュリさんはおかしそうに笑う。

「確かに,雨の交差点で見知らぬ女に声をかけるというのも,普通じゃないよね」

「そうですか?」

「勇気が要ることだと思うよ・・・・たぶん」

「そうですか?」

ボクは同じ問いを繰り返してしまった。

「女に声をかけ慣れてるの? だとしたら,こんなかわいい顔して,女たらしの素質がある」

「そんな・・・・」

困るボクの表情をジュリさんはおもしろそうに見ている。

「あの時,交差点にわたしのほかにも何人かいたでしょう。男もいたのに,わざわざ女のわたしに声をかけるなんて」

「隣に傘をさしたジュリさんがいたから。・・・・それと,男の人は苦手なんです。女の人の方が声をかけやすいんです」

ジュリさんは笑い出した。

「後半のセリフだけ聞くと,歴戦のプレイボーイみたい」

「そんなこと・・・・」

ボクは顔が熱くなるのを感じる。

「あら,頬が赤くなってる。かわいい」

ジュリさんはボクの頬を軽く撫でる。

「この頬にファンデーションを塗ってみたい。まぶたにアイシャドー,唇にルージュ。もっとかわいくなるね。いや,『かわいい』じゃない,『きれい』になる。美しくなる。美少年が美少女,美女に変身する・・・・ジュン,わたしのうちに来る?」

ボクはうなずいた。

 

 ジュリさんのうちは,スリーズから歩いて5分くらい,ボクのうちからも近い1LDKのマンションだった。ベッドの脇の化粧台のスツールにボクを座らせ,真剣な顔で化粧している。

「地がきれいだから薄化粧でいいね。あまり塗りたくらない方がいい・・・・さあ,できあがり。鏡を見てごらん」

自分の方に向かせていたボクを鏡に向かせる。鏡に,きれいに化粧されたボクとその脇にいるジュリさんが映っている。

「きれいよ。この顔立ちにはドレスとかフェミニンな服が似合いそう」

と言って,フッと笑みを浮かべた。

「思い出すわ。昔,わたしにフェミニンな服を着せたがっていた友達がいた。わたしは中性的なファッションが好きだから,いやだと言い張ったけどね,ジュンにはそんな服を着せてみたい。ドレスが1着はあるから」

ジュリさんはクローゼットをあさっている。

「ああ,これ」

と言って,マリンブルーのロングドレスを取り出した。

「ジュン,着てごらん・・・・わたしが居ちゃあ着替えられないか。着終わったら声をかけて」

と言って,ジュリさんはリビングルームに出て行く。ボクは手早く着替えた。

「ジュリさん」

と呼ぶと彼女は寝室に戻ってきた。

「背中のファスナーを上げて」

ジュリさんは背中の真ん中あたりで留まっているファスナーを一番上まで引き上げると,ボクの肩を回して自分に向き合わせた。そして一歩下がってボクの全身を眺めている。

「素顔に普段着でも十分にかわいいけど。化粧してドレスを着ると・・・・ほんとに美人だね」

そう言いながら,ジュリさんはベッドに腰掛けた。

「ジュンも座っていいよ」

ボクは,ドレスがなるべく皺にならないようドレスを脇に引きながらスツールに腰掛けた。

「なんだか仕草が・・・・ドレスを着慣れてるみたい。ひょっとして先生が着せてくれてたの?」

「はい」

「ここで素直に『はい』と答えるのも,普通じゃないかもね」

とジュリさんは笑う。その笑みを浮かべたまま

「こんな場面で『先生』という言葉,とても・・・・背徳的ね」

「そうですか?」

「そうだと思うよ。普通は・・・・ところで,その先生とは,今も会ってるの?」

「いえ。3月,ボクが卒業する時に,先生も結婚することになって・・・・」

「あら,失恋したのね」

「失恋,ですか?」

「違う?」

ボクは首をかしげる。あれは失恋だったのかな?・・・・そもそも,失恋ってどういうものなのか,実感できない。そんなボクの思いとは無関係にジュリさんはボクに質問を振る。

「その先生に,化粧してもらって,きれいな服を着せてもらって,それから何をしてたの?」

「一緒に音楽を聴いてました」

「音楽?」

「はい。先生は音楽の先生で,ボクがクラシック音楽を好きだと言ったら,部屋でいろんなレコードを聴かせてくれたんです」

「ふーん・・・・で,それから?」

「歌を教えてもらったり,歌ったりしてました」

ジュリさんは笑いかける。

「歌ね・・・・で,それから?」

「それから,いろいろお話しもしました」

「お話し・・・・で,それから?」

「それから・・・・それだけです」

ジュリさんは声を出して笑い始めた。

「こんな美少年に化粧して,ドレスを着せて,それで,ただ一緒に音楽を聴いて歌を歌って,おしゃべりしてただけなの?」

「おかしいですか?」

ジュリさんは笑っている。笑いが止まって,まじめな顔に戻って,

「そうね。先生の方が大人だからね。大人として節度を守ってくれたのね。彼女なりに越えてはいけない一線を越えないよう気をつけてくれたのね・・・・いい人」

それからまたジュリさんはいたずらっぽい表情になった。

「じゃあ,わたしたちもいろいろお話ししましょうか・・・・まず,3月で中学を卒業したと言うことは,今高校1年生ね。どこの高校?」

「開明高校です」

「ああ,だから下り線だったんだ・・・・ちなみに,わたしの出身校はお隣の上大岡のカリタス学院。開明とは縁があるよね」

「そうなんですか?」

「お互い,彼氏,彼女を見つけあってるでしょう」

「ああ,そうらしいですね」

「なんだか人ごとみたいな言い方」

ジュリさんは笑う。そして話題を切り替える。

「次に,誕生日」

「1月27日。モーツァルトと同じ日です」

「おや・・・・さっきクラシック音楽が好きと言ってたけど,モーツァルトが好きなの?」

「はい。別に誕生日が同じだから好きになったわけじゃないけど,それを知った時はうれしかったです」

ジュリさんはうなずいている。

「ということは,まだ15歳?」

「はい」

ジュリさんはまたうなずいて,何か考え込んでいる。それで,ボクの方から質問を振った。

「ジュリさんの誕生日はいつなんですか?」

「9月10日」

「じゃあ,終わったばかりですね」

「そう。また1つ,30歳に近付いた・・・・まあそれはいいとして,次に住所。どこに住んでるの?」

ボクはアパートの名前を告げる。

「エーッ,あんなおんぼろアパート。ジュンみたいな美しくてエレガントな子に似合わないよ」

「容姿と経済状況は相関しないんです」

「相関・・・・」

彼女はおかしそうに笑みを浮かべる。

「あっ,ごめんなさい。ふつう使う言葉じゃないですね『相関』なんて」

「まあ,いいけど。わたしは使い慣れているから」

「そうなんですか?」

「うん・・・・むしろ,こんな高校1年生が相関なんて難しい言葉を使うのがおかしい。まあ,ジュンは普通じゃないのね。ひょっとして開明では優等生?」

「はい」

ジュリさんはまた笑う。

「その質問にためらいもなく『はい』と答えるのが,また普通じゃないね・・・・学年で1番?」

「1学期の中間と期末はそうでした」

「なるほど・・・・」

「・・・・特待生なんです。学業特待生」

「ああ,スポーツじゃなくてアタマの方の特待生・・・・貧しい家の優秀な子供。なんだか少女マンガの設定みたい」

そう言ってジュリさんは明るくいたずらっぽい眼差しでボクを見る。たぶん,誤解されてる。誤解を解くべきかな?・・・・

「貧しい家ってわけじゃないんですよ」

「貧しくなきゃ,あの小さなぼろアパートに家族で住まないでしょう」

「家族で住んでるんじゃありません。ボク一人で住んでるんです」

「一人で?・・・・家族はどうしてる・・・・いや,他人のプライバシーに踏み込むみ過ぎない方がいいかな」

「話してもかまいませんよ。両親は交通事故で死にました。2年・・・・2年半くらい前」

「そうなの・・・・」

彼女は言葉に詰まってボクを見つめる。ああ,この重い雰囲気,あまり好きじゃない。だから話題を変えた。

「ジュリさんこそ,『相関』という言葉を使い慣れてるって,どんなお仕事なんですか?」

ジュリさんは沈みかけた表情を元に戻して答えてくれる。

「金融関係の会社というか投資関係の会社で数学を使う仕事をしているの」

「投資関係の会社で数学・・・・じゃあ,大学は数学科?」

「そう。高校の頃から数学が好きで,研究者を目指して大学の数学科に入って・・・・」

そこでちょっと話が途切れた。それから,沈んだ口調になって珠里さんは話を続ける。

「大学院の修士課程を終えて,諦めた。研究者の道を諦めた。自分に向いてないと分かったから。突破力がないと分かったから」

「突破力?」

「うん。その表現が一番しっくりくる。頭がいいだけじゃだめなの。理解力だけじゃだめなの。既存の理論の先に突き抜けていく力・・・・」

「才能ということ?」

「まあ,才能の一種かもしれないけど。天才的なひらめきじゃなくてもいい。ひらめきとは違うんだ・・・・突破力,この言葉が一番自分にはしっくりくるんだ。それが,わたしには欠けている。修士課程までがんばって,痛感させられたよ」

ボクを見つめるジュリさんの眼差しが寂しそう。

「ジュン,こっちにおいで」

と,ジュリさんは自分の脇のベッドマットを手ではたく。ボクは言われたとおりジュリさんの隣に座る。ジュリさんはボクの肩に腕を回して引き寄せた。

「ひょっとして,先生もこんなことした?」

「はい」

「そう?・・・・」

ジュリさんはボクの方に顔を向ける。

「キスも?」

ボクは首を振る。

「そうか。それが先生が自分で決めた一線だったのね。抱き寄せてもキスはしなかったんだ」

ジュリさんはじっとボクを見る。ボクの頬を撫で,指で唇をなぞる。

「きれい・・・・きれいで,『普通』じゃないけど,素直でかわいい。顔だけじゃなくて性格が・・・・ジュン,本気で好きになるよ。いいの?」

ボクはうなずいた。ジュリさんは顔だけでなく上体もボクの方に向け,腕をボクの背中に回し,抱きしめた。顔が近づく。唇が触れそうになる。

「キスしてもいい?」

ボクはうなずく。

「ほんとうにいいの? わたしでいいの? ファーストキスの相手は一生忘れないよ」

ボクはまたうなずいた。すぐに彼女の唇がボクの唇に重なった。初めて触れる唇の感触。息をのんで,そのまま息を止めてしまう。そしてフーッと息を吐き出した。鼓動が早い。ジュリさんの舌がボクの歯列に押しつけられる。ボクは思わず唇を離した。ジュリさんはボクを優しく睨む。そして,ボクの顎に手を触れ,軽く下に押し下げるとすぐに唇を着け,上の歯と下の歯の隙間から舌を押し込んできた。ジュリさんの舌がボクの舌に絡みつく。〔キスって,こんなことするの? 唇を触れあうだけじゃないんだ・・・・〕こんなことを考えていると,ジュリさんが唇を離し,興味深げにボクを見る。

「びっくりした?」

「はい」

ジュリさんは微笑みかける。

「キスって,こんなふうにするのよ。知らなかった?」

ボクがうなずく間もなくジュリさんは唇を重ねる。そしてまた舌を絡める。どれくらいそうしていたんだろう。時間の感覚がない。そしていつの間にかジュリさんの唇が離れた。

「今日はここまでにしておこうね」

ジュリさんは優しく語りかける。

「ところで,ジュンはクラシックしか聴かないの? ジャズとか聴かない?」

「ジャズも好きです」

「じゃあ,一緒に聴いてよう。こっちにおいで」

ジュリさんはボクの手を取ってリビングルームに移動し,ステレオセットでジャズのレコードをかけてくれた。

 1時間くらいして,

「そろそろお別れしようか。化粧を落としてあげる」

と言って,ジュリさんはまた化粧台のスツールにボクを座らせ,ていねいにメイクを落としてくれた。

「立って」

ボクは立ち上がる。ジュリさんはドレスの背中のファスナーを一気に引き下げる。露わになったボクの背中をそっと指で触れる。

「滑らかな肌」

ボクはこそばゆいような,ゾクゾクするような,奇妙な感覚におそわれて思わず身を引き締める。

「どうしたの?」

「なんだか・・・・」

ボクはその感覚を表す言葉を思いつかない。ジュリさんは黙ってボクの後ろに立ったままドレスの袖からボクの腕を抜き取る。

「柔らかな腕」

と言いながら,つまむように腕に触る。

「筋肉がついてないんです。運動しないから」

「いいのよ。筋肉なんかつけなくて。その方が触ってて気持ちいいから」

ジュリさんはもう片方の腕も袖から抜き取る。胸を覆っていた布地がずり落ちてヒップで止まる。ジュリさんがちょっと引っ張ると,足下に滑り落ちた。

「あとは自分でやる」

背後からジュリさんの声。ボクはジュリさんに背を向けたまま服を着た。

 

 それから毎週日曜日,約束したわけではないけど,ボクはジュリさんとスリーズで落ち合うようになった。ボクがモーニングセットを食べ終え,彼女がコーヒーを飲み終えると,一緒に店を出る。たいてい,ジュリさんの部屋に行き,ジュリさんはボクに着替えさせる。ドレスを着たのは最初の日だけ。

「あの手の服は1着しか持ってないんだ」

と言いながら,ジュリさんはブラウスやセーターやジャケットをボクに着せる。最初の日と違って,ジュリさんは着替え中も部屋から出て行かない。ジュリさんの前でボクは着替える。ジュリさんはベッドに座ってボクの着替えを静かな眼差しで見ている。背中にボタンやファスナーのある服を着る時は手伝ってくれる。着替えが終わると,ボクは化粧台のスツールに座り,化粧してもらう。化粧の最後に,ジュリさんはボクの唇にルージュを塗る。そしてその唇に自分の唇を重ね,舌を絡め,ディープキスをする。そして,ボクの唇にルージュを塗り直す。

「ルージュを塗る前にキスして,それからルージュを塗る方が無駄がなくていいんじゃないの?」

と尋ねたら,

「色気のないことを言わないの」

と返事され,中指で鼻を弾かれた。ごく軽く,ぜんぜん痛くない程度に。

 時には,スリーズを出て近くの商店街を歩く。ジュリさんは婦人服のブティックでブラウスやセーターを手に取り,ボクに似合うかどうか確かめる。気に入ると買ってくれる。それから部屋に戻り,買ったばかりの服をボクに着せる。

「ジュンは7号体型なのね。わたしは9号なんだ。一緒に着回したいから,ジュンにはちょっと大きめだけど,ダボッと着こなして。それはそれで華奢な体型を引き立てるから。ジュンだけが着るのなら,10代の子向けの服でもいいけど,わたしも着るからもうちょっと大人っぽい服にしてる。でも,これはこれで,高校生が背伸びして大人ぶってるみたいで,かわいいね。ジュンと着回すのでなきゃ,わたし一人ならこんなフェミニンなデザインの服は買わないけど,いい機会だわ」

 それからは,いつもと同じ。ボクに化粧し,ルージュを塗り,キスし,ルージュを塗り直す。

 

 ボクを着替えさせ,化粧し,キスした後,ジュリさんボクの手を引いてリビングルームのソファーに座らせる。ステレオセットでレコードをかける。クラシック音楽はあまりなくて,たいていジャズ。それもジャズヴォーカルのレコード。ビリー・ホリデイ,サラ・ヴォーン,エラ・フィッツジェラルド,ヘレン・メリル,ジュリー・ロンドン・・・・。ジュリさんはボクの隣に座る。ボクの肩や腰に腕を回し,引き寄せる。ジュリさんの体の温もり。

「人の体って,温かいね」

「そう。人の体は温かいよ」

 時々,ジュリさんはレコードの歌にあわせて歌詞をつぶやくように小さな声で歌う。ふだん話す時よりちょっと低いかすれた声で。一緒に歌うこともある。

「女の声と男の声は1オクターブくらい違うけど,わたしは女にしては声が低い方で,ジュンはちょっと高めの声だから,半オクターブくらいの差だね。なかなかいいハーモニーだよ」

とジュリさんは語る。

 一緒に歌う時も,黙って聴いている時も,ボクたちは体を寄せ合い,お互いの体の温もりを感じあう。

「ジュンの体も温かいんだよ」

「ありがとう」

 時には,ジュリさんが頭をかしげる。髪と髪がこすれあう。頬と頬が触れあう。ファンデーションを塗った頬の素肌とは違う感触が心地よい。吸った息とともに鼻腔を撫でるファンデーションの匂いも。自分に塗られたファンデーションでは,そんな匂いを感じないのに。

 こんな時,ボクはフッと眠りに落ちることがある。ほんの2~3分くらいだけど,その短い眠りから覚めた時,いつも以上にファンデーションの匂いを強く感じる。

 

 そして時々,語り合う。ジュリさんに訊かれるままに,ボクは素直に語る。

 

「ジュンはお母さん似,それともお父さん似?」

「母に似ていると言われてました」

「じゃあ,ひょっとして,わたしはお母さんに似てるの? ジュンとわたしは似てるらしいから」

そう問われてジュリさんを見る。言われてみれば,似てるかもしれない。ボクはジュリさんをじっと見つめる。そんなボクにジュリさんは優しい眼差しを注ぐ。

「ジュンのお母様に似ているのは,なんだかうれしい」

「ボクも『お母さんに似ている』と言われるのがとてもうれしかった・・・・上品でエレガントな人だったんです。顔立ちだけじゃなくて,立ち居振る舞いも雰囲気も。そんな母に似ていると言われるのがうれしかったんです。こんな素敵な人に似ているんだって思って。だから言葉遣いも態度もしぐさも,母を真似ていました」

こんなふうに言いつのるボクにジュリさんは優しく微笑む。

「うん,ジュンは上品でエレガントだよ。顔立ちだけじゃなく,言葉遣いも態度もしぐさも」

そう言われて,ボクもうれしくて笑みを浮かべる。

「それに,いろんなことを知っていて,いろんなことを教えてくれたの。本を読む楽しさを教えてくれたのもお母さん。ボクが本を読んで,その感想を話す相手をしてくれたのもお母さん。英語を教えてくれたのも,英語の歌を教えてくれたのもお母さん」

「教養のある人だったのね」

「はい。仏文科を卒業してます」

「お母様の世代の女性で大学を出てるのは,かなり珍しいね。フランス語もできたのかしら」

「できたと思います。たまにフランス語の本を読んでいたから」

「ジュンに教えてくれなかったの?」

「ボクが高校生になったら教えてくれるって言ってました」

「ああ・・・・ごめんね,悲しいことを思い出させた?」

「いえ,もういいんです」

「高校生になって,フランス語を勉強してるの?」

「・・・・してません」

「勉強すればいいじゃない。参考書や辞書をあげようか? 大学の第二外国語でフランス語をとったから。まだ捨ててないはずよ」

「ジュリさんは要らないの?」

「まあ,仕事は英語だけで足りるから」

 

「お父様は,どんな人?」

「印象が薄いんです。仕事であまり家にいなかったから」

 父のことは,あまり話したくない。父と母の冷めた関係を子供心に敏感に感じ取っていたから。暴力を振るったり暴言を吐いたりすることはなかったけど,気持ちはすっかり冷めていた。それを母が辛そうにしていた。母に辛い思いをさせる父が嫌いだった。「ボクと二人だけで暮らせないの?」と問うたボクを母は寂しげな眼差しで見つめた。それができない理由も分かっていた。母は,どんなに上品でエレガントで教養豊かでも,社会に出て働いてお金を稼ぐための技能や資格を持っていなかったから。

「どうして,社会ではお母さんみたいな人じゃなくてお父さんみたいな人が評価されるんだろう?」

ふと,思いが言葉になって出てきた。

「主婦の家事労働の評価というのは女性論の重要な論点だね」

「いや,そういうことじゃなくて・・・・それも大事なことだとは思うけど,ボクが今言いたいのはそういうことじゃなくて・・・・どうして実用的な知識や技能ばかりが評価されて,上品さやエレガンスや幅広い教養は評価されないのかということなんです」

「それは・・・・」

ジュリさんも返事に詰まった。返事をする代わりに,ボクに優しい視線を注ぐ。この人なら分かってくれるかも,と思ってボクは話す。

「お母さんが死んだ時,もちろんとても悲しかったけど,『よかった』とも思ったんです。もうお母さんの辛そうな寂しそうな悲しそうな顔を見なくて済むから」

ジュリさんは深くうなずく。やっぱり,分かってくれた。

「親戚に人たちにこのことを言ったら,『親が死んで『よかった』とは親不孝者,人でなし』って,さんざん叱られたんです」

「そんなことないよ。ジュンはお母さんを心から愛していたからこそ,そう思ったんだよ。そんな,人の心の機微が分からない連中の言うことなんか気にしなくていいよ」

ジュリさんはボクを見つめる。

「ただ・・・・」

「ただ?」

「これからは,悲しそうなお母様じゃなくて,優しいお母様,ジュンに歌を教えて話し相手になってくれていたお母様だけ思い出すようにしよう」

「はい」

 

 ジュリさんが自分のことを話す時もある。

「正直に話すわね。ジュンを目で追うようになったのは夏の初め頃。恋が終わりかけていた。そして思ったとおり終わってしまった。その寂しさを紛らわすために,新しい恋人がほしかった。たまたまジュンが目に留まったの。女の子だと信じ込んで目で追ってた。あの9月の雨の日,ジュンの方から声をかけてきて『しめた!』と思ったの」

「でも,それから本気で好きになってくれたんでしょう? そう言いましたよね,ボクにドレスを着せて化粧をしてくれた日」

「うん,本気で好きになったよ」

「なら,それでいいんです」

「ジュン,そんなに簡単に信じていいの,わたしの言うこと?」

「ウソついてるの?」

「ウソなんかついてないけど」

「じゃあ,それでいいと思うけど」

ジュリさんはボクをじっと見つめる。

「辛いことがあった。だから,辛さを紛らすため,かわいい子を抱いてキスしたくなった。そして,そのとおり抱いてキスしてる。それでも怒らない?」

「ジュリさんの辛さを減らしてあげられたのなら,うれしいです」

「ジュンは,ほんとうに・・・・普通じゃない。普通じゃないのに素直でかわいい・・・・いや,違う。言い方を間違えたね。普通じゃないから素直でかわいいのね。普通の人間は素直でもかわいくもないから。普通の人間は見栄や打算にまみれて生きているから」

ジュリさんはボクをじっと見つめる。

「ジュン,これからもずっと普通じゃない子でいてね」

「普通の人は,こんな時,こんなこと言わないの?」

「言わないと思う・・・・たぶん・・・・失恋の痛みを紛らすために未成年の子供を遊び相手にしたの? ろくでなし,けだもの,みたいなことを言うんじゃないかな」

「でも,辛い人を慰めたいって,普通に思わない? まして・・・・」

「まして?・・・・」

「好きな人のことなら」

「ジュン,わたしを好きなの?」

あらためてそう問われると,確信がない。

「・・・・よく分からない。『好き』ってどういう意味なのか,どういうことなのか,ちゃんと分かっていないんです」

「人を好きになったことがないの?」

「一度だけあると思うけど,あれを『好き』と言っていいのかどうか,分からない」

「ジュンに化粧してドレスを着せてくれた先生?」

ボクはうなずく。

「その先生に対する気持ちとわたしに対する気持ちは,同じ?」

「同じ,だと思います。厳密に同じかどうかは確信できないけど」

「厳密に同じでなくていいのよ。数学の証明問題じゃないんだから」

 

 こんなふうにして一緒の時間を過ごした後,ボクがジュリさんの部屋を出るとき,いつの頃からかジュリさんはボクを抱きしめるようになった。別れのあいさつのように。

 ジュリさんの手が服の上からボクの肩や背中や腰を撫でる。何かの拍子にゾクッとする。思わず身を引き締め,息をのむ。

「感じるの?」

「こんな感覚を『感じる』と言うの?」

「それは答えようがないよ。『こんな』と言われても,実際にジュンがどんなふうに感じているのか,わたしは実感できないから。ジュンの感覚はジュンの感覚であって,わたしの感覚じゃないから」

「そうですね」

「ただ・・・・」

「ただ?」

「そんなしぐさをする時,体を固くしたり息を止めたりする時,『感じる』って言うことが多いよ。ジュンだけじゃなく」

「ボクだけじゃなく?」

そう問いかけるボクをジュリさんは黙って見つめる。

 

 こうして,秋が深まり,冬になり,年が暮れ,新しい年が明けた。

 

「ジュンの誕生日は1月27日だったよね」

「はい」

「今年の1月27日は折よく土曜日だね。お祝いしよう。高校1年生だから,誕生日が来て16歳よね?」

「そうですよ」

「アメリカでは16歳の誕生日は特別な日なの。知ってる?」

「確か,大人と認められる日ですね」

「そう。16歳はもう子供じゃないと認められる年ね。Sweet sixteenという言葉もあるくらい。この特別な日を,特別な日の夜を一緒に過ごしましょう・・・・ジュンは何が好き? ああ,好きって,好きな食べ物という意味」

ボクは考え込んだ。

「特に,これといって・・・・ふだんはトーストとカフェオレだけど・・・・ほかにこれといって,あれが食べたい,これが食べたいと思うことはないかな・・・・」

「毎日,トーストとカフェオレだけなの?」

「それだけだと栄養が偏るから,豆を混ぜたサラダと卵,目玉焼きかスクランブルエッグは一緒に食べるようにしてます」

「それは朝ご飯でしょう。晩ご飯は?」

「晩も同じようなものですよ」

「えっ?!晩もトーストとカフェオレとサラダと卵だけ?」

「だめ? 栄養のバランスは取れてると思うけど」

「まあ,そうかもしれないけど」

「正直言うと,食い意地を張るのはかっこわるいというか,エレガントじゃないと思うんです。食欲って,動物的な欲求ですよね」

「まあ,そうだけど」

ジュリさんは言葉に詰まった。

「じゃあ,ケーキとかも食べない? 嫌い?」

「嫌いじゃないけど」

「じゃあ,どんなケーキが好き?」

「うーん・・・・ひょっとして,ジュリさん,バースデイケーキを用意してくれるの?」

「そのつもりなんだけど,迷惑?」

「迷惑なんて,そんなことありません。うれしいです」

「ほんとう?」

「ほんとうです。ただ・・・・」

「ただ,なに?」

「どっちかというとケーキよりパイ,アップルパイが好き」

「バースデイ・アップルパイ・・・・まあいいけど」

ジュリさんは苦笑いする。それからしばらく考え,まじめな表情になって話し始めた。

「世の中にはグルメという趣味があるの。腕によりをかけておいしいものを作ったり,人が腕によりをかけて作ってくれたものを食べる趣味。生存のためなら,栄養を補給するためだけなら,なにも腕によりをかけて手間暇かけて料理する必要はない。でも,おいしいもののために人はそれだけの手間暇をかける。それは動物的な欲求を越えたものなの。ジュンがグルメに興味がないのは,それはそれでかまわない。趣味はそれぞれだからね。『ボクはグルメが趣味じゃありません』と言うのはかまわない。でもグルメを動物的な欲求と同じ次元に貶めてはいけないよ」

「ごめんなさい」

ジュリさんはボクの頭を撫でる。

「分かってくれれば,いいの。それで,ジュンはグルメが趣味じゃないけど,わたしは多少はグルメにも関心があるの。だから,ジュンの誕生日にはそれなりのレストランに招待するわ。ジュンのためというよりわたしのためね。付き合ってね」

「はい。もちろん」

ボクたちは1月27日の夕方6時に桜木町駅で待ち合わせた。

 

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