Chapitre 4
1月27日の午後,わたしは宅配便を受け取った。中身はドレス。ワインレッドのドレス。8年前,サキが成人式で着ていたのと同じメーカーの同じデザインの同じ色のドレス。「成人式くらいドレスを着なさい」と言って,サキが無理矢理買わせたお揃いのドレス。わたしはマリンブルー,サキはワインレッド。サキにはよく似合っていた。そしてわたしにも,悔しいけれど似合っていた。自分でもそう思うし,友人たちも口をそろえて「ジュリ,たまにはそう言う格好もすればいいのに」と褒めた。それが逆に悔しくて,2度と着ないでいる。でも,捨てることもできなかった。あれから8年。化粧したジュンに着せたら,思ったとおりよく似合った。そして,ジュンの16歳の誕生日,同じデザインの色違いのドレスを着せようと思った。もう廃盤になっているかもと思ってメーカーに問い合わせたらまだ製造していた。定番商品なのかな。色は迷わずワインレッドにした。
夕方ジュンと待ち合わせて,アップルパイを買って,ディナーして,うちに帰って,ジュンにこのドレスを着せて,いつも以上に念入りに化粧して,それから・・・・。
6時ちょっと前に桜木町駅に出かけたら,もうジュンが待っていた。
「どこに行くの?」
「近くのレストランを予約してる。でも,その前にお菓子屋さんに寄ってアップルパイを買う」
ジュンの手を取って歩く。2~3分くらい歩いて,菓子屋さんに入る。
「ジュン,好きなものを選んでいいよ」
と声をかけたけど,
「ボクはよく分からない。ジュリさんが選んで」
と返事されて,つい苦笑いする。
「張り合いがないなあ。まあ,しかたないか」
そう,ジュンはグルメ趣味じゃないんだ。わたしは自分の好きなアップルパイを2切れ買う。そしてすぐそばのレストランに入った。
「あとでアップルパイを食べるの?」
「うん。わたしの部屋で食べよう」
「じゃあ,ここではあまり食べない方がいいね」
わたしはあきれたようにジュンを見る。
「小食ね・・・・」
「だって,アップルパイって,それなりにカロリーがあるんですよ。たぶん,300カロリーくらい」
「分かった,分かった」
この場面でカロリー計算しなくてもと思うけど,グルメ趣味じゃない人間って,こんなものなんだろう。
「それじゃあ,ジュンはコースじゃなくてアラカルトを頼む方がいいね」
ともあれ,バースデイディナーがぎくしゃくと始まった。
ジュンは食べることにはあまり関心がないと言いながら,テーブルマナーはちゃんとしている。まさに,上品でエレガント。お母様にきちんと躾けられたんだろう。どんな思いを込めて,男の子をこんなに上品にエレガントに育てたのだろう。・・・・それとも,躾けられたのではなく,ジュンが自発的に母親のしぐさをまねて作法を学び取ったのか? だとしたら,男の子がこんなに上品にエレガントに育っていくのを,お母様はどんな思いで見ていたんだろう。戸惑い? それとも,よろこび?
「ジュリさん,どうしたの?」
「えっ?」
「さっきから,ボクをじっと見ていて,食べるのが止まっているよ」
「ああ・・・・ジュンはテーブルマナーもちゃんとしていて,食事の時も上品でエレガントだなあと思って見てたの」
「ありがとう・・・・」
はにかむようにうつむくジュン。さっきは生意気なことを言ってたけど,今は年相応にかわいい。抱き寄せてキスしたい。ああ,レストランじゃなくて部屋でディナーすればよかった。
ディナーを終え,レストランを出て,部屋まで歩いて帰る。左手にアップルパイを入れた手提げ袋とお出かけバッグを下げ,右腕をジュンの腰に回して抱き寄せながら歩く。
「こうすれば,真冬でも暖かいでしょう」
「そうですね」
10分足らずで部屋に着く。中に入り,すぐにエアコンをつけ,アップルパイとバッグをテーブルに置き,ベッドルームに入り,この部屋のエアコンもつける。ほんとうはすぐに着替えさせたいけど,冷え切った部屋で着替えさせるのはかわいそう。
LDKに戻って紅茶を淹れ,ジュンと並んでソファーに座ってパイを食べる。
「おいしい?」
「はい」
うーん・・・・もっと,たとえば「すごくおいしい」とか言ってほしいんだけどなあ。もともと感情表現が控えめな子だし,グルメでもないから,こんなものかな。ジュンを抱き寄せ,キスをする。この場面でキスを予想していなかったみたいで,びっくりしている。その表情がかわいい。
「アップルパイの味がしておいしい。まあ,何もなくてもジュンの唇はおいしいけどね」
ジュンは恥ずかしそうな,でもちょっとうれしそうな顔をする。
パイ付きティータイムが終わり,食器を片付けると,ベッドルームも暖まっている頃。
「ジュン,こっちにおいで」
と手を引いてベッドルームに連れてくる。
「これを着てごらん」
と差し出したドレスを,ジュンは手にとって眺める。
「きれい」
「うん。きっとジュンに似合う」
それからジュンはちょっと首をかしげる。
「ボク,これと同じような赤いドレスを着たことがあります」
「えっ?・・・・それは,つまり,先生に着せてもらったということ?」
「はい」
まさかと思う。そもそも既製品でたくさん作られて売られているドレスなんだから・・・・でも・・・・。
「ねえ,その先生は音楽の先生だったのよね」
「はい」
「ひょっとして,サキという名前だった?」
「はい,そうです。ジュリさん,先生のお知り合い?」
知り合い,じゃなくて,恋人,とは言わないでおこう。
「うん,まあね・・・・ともかく,さっさと着替えよう」
「はい」
ジュンは素直に着替える。着替え終えたジュンをいつものように化粧台のスツールに座らせ,化粧する。今日はふだん以上に念入りに。でも,ジュンに化粧しながらついサキのことを考える。ひょっとして,サキはジュンの中にわたしの面影を見たの? それでジュンを愛したの?・・・・だめだめ,集中しないと,手元が狂う。
ふだん以上に時間をかけて仕上げたジュンの顔。ふだん以上に美しい。仕上げのルージュを引いて,キスをする。ふだん以上に時間をかけて,ジュンの唇をむさぼるように。そして,いつものようにルージュを引き直し,スツールから立たせる。華奢な体にワインレッドのドレス。愛らしい顔を縁取る艶やかな黒髪。フランス人形みたい。うっとりと眺める。サキも自分のワインレッドのドレスを着せて,こうやって眺めたのかしら。1歩さがり,2歩さがり,ふくらはぎがベッドに触れる。ベッドに座り,やや見上げるようにジュンを見る。黒髪のフランス人形。・・・・わたしは手を延べる。人形と違い,ジュンはわたしに応えて手を伸ばす。その手をつかみ,引き寄せ,脇に座らせる。抱き合い,ベッドに倒れ込む。
ジュンは驚いている。こんなふうにベッドに横たわって抱き合ったことはなかったから。きつく抱きしめ,ドレスの上からジュンを愛撫する。時おりジュンが身を固くしてしがみつく。ジュン,感じているの?・・・・まだ8時をちょっと過ぎたばかり。時間はたっぷりある。でも,もうこれ以上待てない,待っていたくない。
身を起こし,ジュンを化粧台の脇に立たせ,背中に回り,ドレスの背中ファスナーに手をかける。
「まだお化粧を落としていないけど」
「今日はいいの。お化粧を落とす前にドレスを脱ぐの」
ドレスを脱ぎ,キャミソールも脱いだジュンは自分のシャツを手に取ろうとする。わたしはその手をつかむ。
「着なくていい」
「えっ?」
手をつかんだまま,またベッドに引き寄せ,押し倒す。
「ジュンは今日,今夜,これから,大人になるのよ。16歳の誕生日の夜でしょう」
「それは,つまり・・・・」
その後は言わせない。キスで唇をふさいだ。左手でジュンの頭を抑えながら,右手で自分の服を脱いでいく。下着もすべて。
ブラジャーを外す時,唇が離れた。
「ジュリさん・・・・」
「いやなの?」
ジュンは首を振る。
「いやではありません」
「なんでこんな時にもていねい語なの? もっと乱れなさい」
自分勝手なことは分かっている。ジュンにとってはこれが慣れた言葉遣いなんだから。でも,やっぱりしゃくに障る。もう,何も言わせない。また唇を重ね,抱きしめると折れそうな華奢な体をきつく抱きしめる。灯りは消さない。ジュンの顔をしっかり見ていたいから。
肌と肌がじかに触れあう。滑らかな肌。これまで抱いたどんな女たちよりも滑らかな肌。そして,これまで見つめあったどんな女たちよりも美しい顔。唇を離し,頬と頬をすりあわせる。ジュンの吐息が耳をくすぐる。首筋から鎖骨,胸に唇を滑らせる。膨らみのない平らな胸。ちょっと物足りない。もともと,小さめの片手で包み込めるくらいの乳房が好きだけど,ぜんぜん膨らみがないのは寂しい。これだけが,ジュンの体の欠点。たった一つの欠点。
胸を舌先でなめながら,手を胸から腹,さらにその下に下ろしていく。勃起したペニス。生まれて初めて触れる。こんな触感なんだ。
「中に入れるのは,やめておくね。慣れないってこともあるけど,妊娠が怖いから。異性愛は,これが心配なの」
ジュンは素直にうなずく。いい子。わたしは亀頭を手のひらで優しく撫でる。
「亀頭とクリトリスは相同器官なんだよね。気持ちいい?」
ジュンはうなずく。目が潤んでる。力が抜けたようにベッドに体をぐったり横たえている。背中や腰を撫でると身を固くしてしがみつくけど,ほんとうに気持ちいいと脱力するのね。
「でも,これだけじゃ,ジュンはイケないのかな」
わたしは指でこするように刺激する。どれくらいそうしていただろう,1分くらい? それとも2分くらい? ジュンがわたしにしがみつく。そしてわたしの手が濡れる。
「ごめんなさい。ジュリさんの手を汚してしまって」
ジュンが息を切らせながら済まなそうに語る。
「いいのよ。女だって,これくらい濡れることがあるから」
濡れた手をジュンの背中に回して抱きしめる。
「濡れて,気持ち悪い?」
「そんなこと・・・・」
ジュンは首を振る。
ジュンの太ももを両脚で挟み込み,クリトリスを軽くこすらせる。最初はゆっくりと。やがて徐々に速くなる。わたしはこれでイケる。蛍光灯の明かりの下,しっかり顔を見つめ合いながら,クリトリスからの刺激が高まるのを感じる。ジュンの整った顔立ちがかすかにゆがみ,切なそうに息を吐く。
「どうしたの? 感じてるの?」
ジュンはうなずく。
「太ももをこすられると感じる」
「そう? 女の子と同じね」
ジュンの太ももがわたしの分泌した液で少しずつ濡れていく。その濡れた肌の感触がまたわたしを刺激する。わたしもイッた。息を荒らして,脱力したようにジュンの上にかぶさる。少しずつ,息が整っていく。
「シャワーあびよう」
「はい」
「もちろん,一緒にだよ」
ジュンは驚いたように目を見開く。そしてゆっくりうなずいた。わたしはだるい体をゆっくり起こす。
ジュンの手を引いて浴室に入る。シャワーで体を流す。自分の体を流し,それからジュンの体を流す。
「ボク,自分で洗います」
「だめ。わたしが洗うの」
シャワーをかけながら,手のひらでジュンの体を隅々まで撫でる。ジュンが切なそうな吐息を漏らす。
「だから,自分で洗うって・・・・」
そんなジュンの顔に視線を投げる。きっと,肉食獣が獲物を狙う眼差しになっている。いや,仕留めた獲物を満足げに眺める眼差しかな。
シャワーを終え,バスタオルでジュンの体を丹念に拭く。それから自分の体を拭く。
「ボクが拭きましょうか?」
ジュンがタオルに手をかける。
「いいの。・・・・それより,こんなことした後もなんでていねい語なの?」
「えっ,だって・・・・」
ジュンが困っている。その顔もかわいい。
「その困った顔もかわいい。だから,たまに困らせたくなる」
と笑いかけると,ジュンは今度はちょっとふくれっ面する。
「ジュリさん,人が悪い」
わたしはジュンの髪の毛をクシャクシャかき回す。それから,手を引いてベッドルームに戻った。
ベッドルームに戻ると,床に散乱している衣装が目に留まる。ドレスを拾い上げ,クローゼットにしまう。ほかの衣服は,踏まないようにスツールに載せただけ。急に疲れを感じる。ジュンの手を引いてベッドに入る。そして灯りを消した。まだ10時前。眠るのは早いけど,のんびりジュンの体の温もりを感じていよう。
もっと優しくていねいに性愛を教えてあげるつもりだった。でも,サキのことを知って,歯止めが外れてしまった。ほんとうは,壊れ物を扱うように念入りに教えてあげるつもりだったのに。ごめんね,暴走しちゃった。何か言葉をかけようと思ってジュンの横顔を見るけど,言葉が思いつかない。すると,ジュンもわたしの方を向いた。
「ジュリさん,ボクでよかったんですか?」
「えっ?・・・・どういうこと?」
「ジュリさんは女の人が好きなんでしょう? ボクでよかったの?」
「もちろんよ。ジュンでいいから,ジュンが好きだから,こんなことしたんでしょう」
ジュンはおずおずとわたしの背中に腕を回す。初めて,ジュンの方からわたしを抱こうとする。そのためらいがちな手が,かわいい。そしてもどかしい。わたしはジュンをぎゅっと抱き寄せる。
「ジュンは特別。ジュンは普通じゃないの。男でも女でもないの。この世界でただ一人の存在。そして,わたしの恋人」
そう語りかけて,ふと心配になった。
「ジュンこそ,わたしでよかったの? 初めての相手は一生忘れないよ」
「ジュリさんでよかったんです。ジュリさんがよかったんです」
わたしはジュンを抱きしめる。そしてキスする。むさぼるようなキスじゃなく,優しいキス。そして,サキを思い出した。
体をほどき,仰向けになる。今,話しておこう。ジュンはわたしとサキにつながりがあることを知ってしまった。いや,ジュンよりもわたし。サキのことを話さないままでやり過ごしたくはない。このベッドで抱きあったんだし。
「ジュン,サキのこと,話すね」
「サキ?」
「ジュンの先生」
「ああ,ジュリさんの知り合いだったんですよね」
「知り合いじゃなくて,恋人だったの。たぶん,わたしがこれまでで一番深く熱く愛した恋人。これからは二番目になるかもしれない。ジュンが,わたしの一番深く熱く愛する恋人になるなら」
ジュンの方を向いて,ニコッと笑いかける。ジュンは,はにかむような表情を見せる。
「まあ,それはともかく,サキのことね。高校時代に知り合ったの。カリタス学院。サキは中等部からそのまま進学。わたしは高校からの外部生だけど,高校のジャズ研で知り合ったの。あの子は音楽一家の末娘で,幼い頃からピアノを習っていて,ジャズ研でもピアノを弾いてた。わたしはボーカル」
「ジュリさんは歌を習ってたの?」
「そんなことはない。うちはごく普通の家庭だから。ただ,両親ともジャズが好きだったから,子供の頃から聴き馴染んでいて,いつの間にか歌うようになっていた。『うまい』,『ジャズ研の歌姫』と言われてたのよ。まあ,高校のジャズ研のレベルなんて,たかがしれてるけどね。わたしだって,歌手を目指そうなんて思ったこともなかった。・・・・ああ,ごめん,話が脱線したね。ともかく,こんなわけで,サキとわたしはいいコンビだったの。ベースとドラムを加えたトリオで歌うこともあったけど,メンツがそろわないと二人で,ピアノ伴奏だけで歌うことも多かった。なので,放課後一緒にいることが多かったけど,あの頃は恋人と言うより友達だったの。・・・・ああ,そうだ,後々のことにも係わるから,説明しておくけど,友達と恋人を厳密に区別する人が多いでしょう。でも,わたしはその発想になじめないの。わたしにとって友達と恋人の違いはグラデーション。ただの友達から,ちょっと恋人っぽい友達,かなり恋人っぽい友達,友達っぽい恋人,ほんとうの恋人みたいなグラデーション。このグラデーションの中に何人かの知り合いが分布している。同じ人が,その時々のわたしの気分でグラデーションの中を移動することもある。ウソや隠し事は嫌いだから,相手との関係が恋人に近づいたら,このことをきちんと話すようにしている。つまり,『キミはわたしを正真正銘の恋人と思っているかもしれないけど,わたしはキミを今のところはかなり恋人っぽい友達くらいに思っている』とか『恋人っぽい人がキミのほかにも何人かいる』ということ。それじゃいや,という人は去って行く。それはしかたないと思う。去る者は追わず。わたしは人への執着が薄いのかも」
「ボクへの執着も?」
「『ジュンは特別!』と言いたいけど,分からない。これから付き合いを深めていかないと何とも言えない。・・・・こんなセリフ,いや?」
ジュンは首を振る。
「夢を見させてあげる方がいいのかもしれないけど,わたしは好きな相手にこそウソやごまかしはしたくないの」
「ボクも,正直,率直は美徳だと思います」
「ありがとう」
わたしはジュンの方を向いて髪を撫でる。
「ジュンが理解してくれて,うれしいよ。中には『浮気者』とか『ビッチ』なんて言う人もいるから」
「そんな・・・・ジュリさんは自分に正直に生きてるだけでしょう」
「ありがとう」
わたしはまたお礼を言う。
「ああ,ごめんね,また脱線した。サキの話をするはずなのに」
「いいんです。ジュリさんのことを知れて,ボクはうれしいです」
「それじゃあ,もうちょっと自分のことを話すね。サキのことともつながるから。わたしは,ジュンとこんなふうになるまでは,男を愛したことがなかった。初恋の相手は小学校の時の同級生。中学生になると,はっきり自覚していた。同じクラスの女子たちが恋バナしてるのを聞きながら,男子にはぜんぜん興味がないことを自覚したから。むしろ,そんな恋バナをしてる女子たちの中に好きな子がいた。バレンタインデーでチョコを贈ったこともある。高校は女子校。女子ばかりの学校って特殊な環境だよね。女の子どうしで友達以上~恋人未満くらいの関係が育ちやすいの。わたしも恋人っぽい付き合いをしている相手が何人かいた。でも,サキはそれとは別格というのかな,気の合う仲間と感じていた。ジャズ研に楽器を演奏する子はほかにも何人もいたけど,わたしはサキのピアノ伴奏で歌うのが一番好きだった。高校時代はそうだった。サキとの仲が深まるのは卒業してから,学生になってからなの。わたしは理学部の数学科,サキは音大。別々になったけど,その頃からサキはしょっちゅうここ,この部屋に遊びに来るようになった。ああ,大学入学する頃,わたしはこの部屋で一人暮らし始めたの。両親が仕事でアメリカに行ったから。わたしが高校3年の秋頃から父のアメリカ赴任の話が持ち上がって,わたしはとてもアメリカの大学に行くほど英語はできないから,日本に残る。母がどうするかということになって・・・・」
「お母様もアメリカに旅立たれた」
「うん。まず,アメリカのビジネス社会には夫婦単位の方が入り込みやすいだろうということ。それから,父は家事がまるっきりだめだから一人暮らしは無理だろうということ。それと,わたしが一人暮らししたくて,積極的に母の背中を押した」
「ああ,その気持ち,分かります」
「分かるよね。一人暮らし,してみたいじゃない。絶好のチャンスだよね。というわけで一人暮らし始めたわたしの部屋にサキが,入りびたるというほどじゃないけど,ちょくちょく遊びに来るようになった。サキは実家暮らしなのね。知ってると思うけど。サキの実家で会ってたんでしょう?」
「はい」
「ジュンは気付いていたかどうか,分からないけど,サキにとって実家は居心地のよい場所ではなかったの」
「どうして?」
「サキのうちは,両親と兄と姉とサキの5人家族なんだけど,サキ以外の4人は演奏家としてそれなりの評価とステイタスを得ている人たちなの。それにふさわしい才能,技能もある。それに比べると,はっきりいってサキは見劣りするの。高校のジャズ研では抜群でも,プロとして通用するレベルではない。そんな子にとって,音楽家としての成功が最高の価値みたいな家族の中で暮らすのは,居心地良くないよ。それでも,高校はそれなりに居心地が良かった。大学,音大は,学生どうしがプロを目指してしのぎを削っていて,演奏の力量が唯一の価値基準みたいな世界らしくて,そこも居心地が悪くなった。結局,このわたしの部屋がサキにとって心安らぐ場所になったの。わたしはそんなサキが不憫だったし,サキを邪険にする家族への反発もあって,サキへの気持ちが深まっていった。サキもわたしに対して単なる友達とか仲間より以上の気持ちが育っていたんだと思う。それで,1年生の2月,バレンタインデーにはチョコを贈りあった。そして,初めてキスしたんだ。ああ,ほかの女の子とはキスしたことあったけど,サキとは初めてという意味」
「先生・・・・サキさんにとっては,どうだったんでしょう?」
「訊いたことはないけどね。わたしの推測ではサキにとってはほんとうに初めてのキスだったんじゃないかな。うぶだったもの」
わたしはあの時の情景を思い出して,微笑んだ。
「高校卒業してしばらくの間は,高校時代の友達,恋人と付き合っていたけど,だんだん疎遠になっていて,それに反比例するみたいにサキとの仲は深まっていって,2年生の1月,成人式に,サキとお揃いのドレスを着て出席したの。わたしは,最初にジュンに着せたあのマリンブルーのドレス。サキは,今日ジュンが着たのと同じワインレッドのドレス。普段おとなしいサキが強引に言い張ったの。『ジュリはフェミニンなドレスもぜったい似合うから』って。ふだんはボーイッシュな服ばかり着てたんだけどね。それで,サキにせっつかれて着てみたら,くやしいことに似合ってた」
わたしはジュンの方を向いて笑った。それから上に向き直り,話を続ける。
「成人式の後,この部屋に戻って,抱き合った。ハグしたんじゃないよ。ベッドで抱き合ったの。このベッドで」
わたしはまたジュンの方を見る。ジュンもわたしを見る。灯りを消し,カーテンの隙間から漏れ入る街の明かりだけのほの暗い部屋で,わたしとジュンは見つめ合う。
「それで,そんなに愛しあっていたのに,どうして別れたの?」
「それは・・・・」
別れた理由を説明する前に,愛しあった2年の日々が思い浮かぶ。遊園地とか水族館とか定番のデートスポットに行くことなんかほとんどなかった。お互い忙しかったし,男女のペアばかりが目立つ場所はおもしろくなかった。この部屋でソファーに体を寄せ合って座って,コーヒーや紅茶を飲みながら,他愛もないことを語り合い,ジャズを聴いていた。そしてベッドで抱きあい,終わるとサキは帰って行った。泊まったことは一度もない。親が厳しかったから。
「理由は・・・・どこから話し始めればいいのかしら・・・・サキは自分の才能,技能がプロの演奏家として通用するレベルじゃないことを音大の4年間で思い知らされたらしいの。それで,教員採用試験を受けた。卒業する前の年の夏から秋にかけて行なわれるの。サキは合格して中学の音楽の教員に採用され,卒業後に中学で働くことになったの。最初は無邪気に喜んでいたんだけど,だんだんと不安を語るようになった」
「教員としてちゃんと仕事ができるかということ?」
「それもあるけど,一番の不安はわたしとの関係」
「ジュリさんとの関係?」
「うん。今から思えば,実体のない不安だったかもしれない。思い込みから生まれた不安だったのかもしれない。でも,その時のサキにとっては切実な不安だったの。つまり,学校の先生って,優等生,常識人というイメージなの。サキにとっては。教職員の世界を社会常識の権化のように思い込んでいた。そんな世界で,わたしとの愛,つまりはっきり言えば同性愛,世間の常識に逆らう愛を貫けるのか,サキは自信がなかったの。教員として仕事を始める日が近づくにつれて,わたしに会っても悲しい目でわたしを見るようになった。わたしも悲しかった。サキの悲しみ,不安に対して何もできないから。『大丈夫だよ。学校の先生になってもこれまでどおりわたしとサキは愛し合えるよ』なんて言っても,何の根拠もないから説得力はないし。そして3月,サキの大学の卒業式の翌日,サキのうちに呼ばれた。いつも二人が会ってたこの部屋じゃなくて,サキの実家に呼ばれたから,特別な話があるんだと思った。特別な話といえば,別れの話しかないけどね。その日,玄関でわたしを迎えて,手を引き,廊下を渡り,階段を上り,自分の部屋に入り,手をほどいてわたしを見つめ,『終わりにしましょう』って・・・・」
ジュンに話しながら,あの時の気持ちがよみがえる。二人,じっと見つめあっていた。目がうるんできたけど,涙を流しはしなかった。
「サキは部屋のアップライトピアノの前に座り,鍵盤蓋を開き,イントロを弾き始め,『歌って』って言った。わたしは歌い始めたわ。You’d be so nice to come home to・・・・。わたしが歌い終わると,サキはゆっくり蓋を閉じ,わたしの方を向いて『終わり』と言った」
ここで,言葉が止まってしまう。しばしの沈黙の後でジュンがポツリとつぶやいた。
「あの歌は,二人の悲しい思い出の歌なんですね」
それで,わたしはまた話し始める。
「うぬぼれと思うかもしれないけど,サキはわたしを嫌いになったわけじゃない。わたしへの思いを断ち切ったわけじゃない。未練を引きずっていたはず。そして,ジュンの中にわたしの面影を見たんだと思うよ。サキはジュンにドレスを着せて化粧したんだよね。きっと『似てる』と思ったはずだよ」
わたしはジュンの方を見る。
「ジュンが生まれて初めて恋した先生は,わたしの身代わりとしてジュンを愛していたと知ったら,先生を恨む?」
ジュンは首を振る。
「恨んだりしません。仮にそうだとしても,先生がボクに優しくしてくれた事実は変わりません。ボクはその優しさがうれしかった」
「ジュンはいい子だね」
ジュンの髪を撫でる。いとおしい。ここで話を終えて,ジュンの温もりを感じながら眠りたい。でも,まだ話しておくことがある。
「実は,まだ話し残してることがある。その日,わたしも別れ話をするつもりだったの。その年のバレンタインデー,大学の後輩からチョコを贈られた。その子の気持ちを受け入れ,付き合い始めたの。付き合うといっても友達付き合いだけどね。それでも,その子に惹かれていた。将来の不安に怯えるサキより,一途にわたしを慕うその子に心が傾いていった。それで,サキの実家に呼ばれた時,この話をしようと思っていたの。でも,わたしが話す前にサキが『終わり』と言って,話を終わらせた。結局,わたしは何も話さなかった。サキは自分がわたしを一方的に振ったと思い込んでる。きっと罪悪感を抱いているわ。わたし,ずるいことをしてしまったの。これを知っても,ジュンはわたしを好き?」
ジュンはわたしを見つめる。
「それをずるいと責めるのは酷だと思います。それに,少なくともボクに対してはジュリさんはずるくないです。だって,それを話してくれたんだから。話さないでおくこともできたのに。ちゃんと話してくれたでしょう。ずるくないです」
そのせりふ,わたしの心を射ぬく。
「ありがとう」
ジュン,ほんとうに本気で好きになったよ。
「これでサキの話はおしまい。ジュン,もう寝よう」
朝,目覚めた時,隣に人の温もりがあるのは,うれしい。サキとはついに分かち合えなかったうれしさ。そっと体を起こして,まだ眠っているジュンを見る。かわいい寝顔。そっと唇をつける。そして離す。そしてまたジュンの体の温もりを感じながら寝ている。知らぬ間に二度寝して,目が覚めたら,すぐ目の前にジュンの顔がある。
「あっ,ごめんなさい。起こしてしまいました」
「そんなことないよ。さっき一度目が覚めたの。またうとうとしてただけ」
と言って,抱き寄せる。
「もう,起きる? それとも,もうちょっとベッドの中にいる?」
ジュンはどちらとも決めかねるように首をかしげている。わたしはジュンを抱き寄せる。
「もうちょっと,寝ていよう」
ベッドの温もりの中で,ジュンを抱きながら,昨夜のことを思い返す。
どれくらいそうやっていたのだろう。30分くらい? それとも1時間? 二人で起きだして,一緒にスリーズに出かけ,ブランチを摂りながら,語りかける。
「ジュン,これからは日曜日の昼じゃなくて,土曜日の夜に会うようにしよう。ジュンはお泊まりするの。抱き合って愛しあうのよ。これから,土曜日の夜はいつも」
ジュンは微笑みながらうなずく。花が開くような微笑み。
翌週の土曜日の夕方,部屋にやって来たジュンにマリンブルーのドレスを着せ,化粧する。
「じゃあ,これからお出かけしよう」
「どこに行くんですか?」
「行きつけのピアノバー」
「ピアノバー?」
「ピアノが置いてあって,ママさんも弾くけど,お客が自由に弾いていいの」
「でも,ジュリさんはピアノ弾かないでしょう?」
「わたしは弾かないけどね。まあ,行けば分かるよ」
わたしはジュンの手を引いて,大岡川を渡り,福富町の繁華街を通り抜け,伊勢佐木モールの1本先の路地にあるビルの2階に上がり,“Key and String”という表札のかかったドアを開いた。ママが
「ああ,ジュリさん」
と言って,隣のジュンに注目する。ほかのお客たちの視線もわたしじゃなくてジュンに集まっている。思ったとおりの反応。
「黒髪のフランス人形よ」
「ほんとうに,かわいい。ひょっとして,妹さん?」
「違うの。よく言われるけどね。妹じゃなくて友達,いや恋人だよ」
と言ってジュンと顔を見あわせる。お互いに微笑みあう。そして,ジュンと並んでカウンターに座った。
「ここはお酒だけじゃなくてコーヒーと紅茶もあるんだよ」
「それなら,カフェオレをお願いします」
わたしはいつものように白ワインのミニボトルをもらい,料理を注文する。ジュンの分も。ジュンに訊いても「分からない。ジュリさん選んで」と言うに決まってるからわたしがさっさと注文する。店内を見渡すと,顔なじみの山田さんがいる。
「山田さん,お願いしていい?」
「いいわよ。何をご希望?」
「最初は,“You’d be so nice”。この子とデュエットするから」
「あら,それは楽しみ。わたしは今すぐでもOKだけど」
「じゃあ,お願い」
わたしはジュンと一緒にピアノの脇に立つ。山田さんのイントロに続いて一緒に歌う。1クール終わって,山田さんのアドリブを効かせた間奏,そして2クール目を歌って,終わり。山田さん,ママ,そしてほかのお客たちも拍手する。
「お嬢ちゃん,こんなにかわいいのにハスキーな低音なのね。そのギャップも魅力。もう1曲」
「じゃあ,2曲目はもうちょっと明るく“S’ wonderful”・・・・ジュン,歌えるよね?」
ジュンはニコッとしてうなずく。
歌い終わった頃,料理ができている。ワインを飲みながら食べる。ジュンはカフェオレを飲みながら。
キー・アンド・ストリングには1時間半くらいいた。食事を終え,いい気分でまた2曲歌った。“Lullaby of Birdland”そして誰もが知ってる“Sentimental journey”。もちろん,ジュンと一緒に。
部屋に戻り,余韻に浸るようにジャズのレコードを聴く。それから,一緒にお風呂に入る。バスタブに向き合って座り,そっとジュンの体を撫でる。
「ジュリさんは,ボクが少女のような体だから愛してくれるんですよね?」
ジュンが語りかける。
「でも,ボクも男なんです。これから年を取ると,ほかの男のように顔にヒゲが生え,手足に体毛が生え,骨格も大きくなり,エレガントなドレスなんか似合わなくなってしまうかもしれない」
ああ,それは考えたくない。男になってしまったジュン・・・・その時は,この恋を終わらせればいい? はかない美少年の美が消える時,この恋も消してしまえばいい? でも,それは惜しい。惜しすぎる。
「そうならないための方法があります。ジュリさんも知ってるでしょう?」
ジュンはわたしを見つめる。
「去勢手術です」
「えっ?・・・・ジュン,本気?」
「もちろんです。冗談でこんなこと話しません」
ジュンは真剣な眼差しでわたしを見る。
「・・・・でも,わたしのためにジュンの体を傷つけたくない」
「ジュリさんのためじゃないんです。ボクのためです。ボクも,この華奢な体に愛着があるから」
話はこれで終わった。ジュンもわたしも,その続きを話さないまま,お風呂から上がり,ベッドで抱きあった。
この日から,夕方にジュンが来て,着替えさせ化粧して,キー・アンド・ストリングで夕食を摂りながら歌い,部屋に戻って一緒にお風呂に入り,ベッドで抱きあうのが土曜日のルーティンになった。翌朝,目が覚めて昨夜の余韻を味わうように抱きあって,10時頃に起き出す。それからスリーズにブランチに出かけるのも日曜日の朝のルーティンになった。
2月最後の日曜日,
「今日は友達のうちにランチに招かれているから」
と言って,ジュンはモーニングセットではなくカフェオレだけ頼んだ。
「モーニングセット食べても,お昼も入るでしょう」
「ジュリさんとは違うんです」
「なによ,いかにもわたしが大食いみたいな言い方」
わたしはむくれてみせる。
「まあ,それはともかく,カフェオレだけではお昼までもたないでしょう」
と言って,わたしは自分のトーストを何切れかちぎって食べさせる。
「はい,あーん」
ジュンは素直に口を開ける。その中に小さくちぎったトーストのかけらを押し込む。マスターが笑いながら見ている。なんだか,恋人ごっこしてるみたい。12歳も年下なんだよね,ジュン。