Chapitre 5
日本人というのは,どうしてこうも簡単に宣伝や企業の戦略に乗せられてしまうんだろう。バレンタインデーなんて,お菓子屋やチョコレートメーカーが仕掛けたマーケッティングなのは分かりきってるのに,この日,大量のチョコレートが購入され,膨大な人の間で分配される。そのかなりの部分は食べられないまま捨てられるのかもしれないのに。
この日,男子校でも,女子校ほどおおっぴらではないけど,密やかにチョコレートがやりとりされる。ボクはもらう立場。ご丁寧に「橘弘樹様」と宛名の書かれたラブレターが添えられていることもある。もちろん女子からも,通学途中などにそっと手渡される。いつだったか,橘医院の郵便受けに入ってたことがある。何を考えてるんだと思う。親にばれる気まずさを想像できないのか。幸い,家政婦さんが見つけてボクに届けたから,親には知られなかったけど。この無思慮と想像力の貧困だけで,交際など断固拒絶する理由になる。
ただ,今年のバレンタインデーはこれまでと異なる事情がある。ボクがチョコレートを渡したいと思っている。相手は1人だけだけど。いくつかチョコレート店を見て回ったけど,結局決められないまま当日を迎えた。
6時限目の授業が終わると,その相手,篁淳はさっと教室を出て図書館に行った。見慣れた行動。篁にとって学校とは教室と図書館だけでできた空間なのだ。借りた本を返し,新たに借りる本を選び,借りる手続きをする。図書館から出てきたところを,さも偶然のように声をかけた。篁は笑みを浮かべてあいさつを返す。同級生たちから「無表情」と言われているけど,表情はある。関心のない人間に表情をあらわにしないだけだ。ボクにはいろんな表情を示す。つまり,ボクには関心があるということ。自尊心をくすぐられる。
ボクは当たり前のように篁と並んで歩く。これから,駅まで一緒に歩き,同じ電車に乗り,ボクは黄金町,彼はその1つ先の日ノ出町で降りるのだけど・・・・。
「篁,キミの読書時間を奪うのは申し訳ないのだが,今日はちょっとボクのうちに寄っていかないか?」
篁はびっくりしてボクを見る。当然だろう。こんなことを言われたのは初めてだから。ボクも,自宅に人を呼ぶのは初めてだし。篁はちょっと間を置いてうなずいた。そして黙って歩く。ボクは間を持たせたくて話しかけた。
「今日は何の日だか知ってるか?」
「いえ,知らないけど」
「まあ,篁は興味ないだろうなあ。今日は2月14日,バレンタインデーだよ」
「ああ・・・・」
と気のない返事。それから,
「奇妙な習慣だね。この日だけなんて。好きなら2月14日に限らずいつだって相手にその気持ちを伝えればいいのに。『女だから』なんて,無意味な自己抑制だと思います」
「みんなが篁みたいなら,この馬鹿騒ぎもたちまちのうちに消滅するんだけどね」
そう言いながら,ボクはこの馬鹿げた日付にこだわっている。そして,ふだんのように自由気ままに語り合うことができない。結局,駅までの道のりでも,電車の中でも,何も話さないまま,黄金町駅に着いた。改札口を抜け,ボクはやっと話し始めた。この場にふさわしい話題かどうか分からないけど。
「篁が同級生から,いや2年生や3年生からも何と呼ばれているか,知らないだろう?」
「知らない」
「氷の美少年,だよ」
「氷の美少年? なんでまた,そんな・・・・」
「文字どおりの意味だよ。絶世の美貌を持ちながら,“Noli me tangere”ノリ・メ・タンゲレ『我に触れるな』というオーラを発して,人を寄せ付けないからだよ」
「別に,そんなオーラを発してるつもりはないんだけど」
篁はちょっと唇をとがらせるようなしぐさをする。おや,篁が拗ねている。珍しい情景だな。ボクはちょっと話題をずらしながら話を続ける。
「女子校ほどではないと思うが,男子校にも,生殖に汚された恋愛を軽蔑し,種の保存などという目的に奉仕しない純粋な恋愛を信奉する小集団がいるんだよ。そんな連中にとって,キミはアイドルなんだ」
アイドルという言葉を聞いて,篁は笑う。その笑みが消えないうちに,ボクは言葉をつなぐ。
「ボクにとっても,アイドルとは言わないけど,興味深い人間ではあるよ。キミは,この橘弘樹が生まれて初めて本気で興味を覚えた人間なんだ」
篁はその場に立ち止まってボクを見る。ボクも彼を見つめる。
「なぜ? なぜ,ほかの誰でもないボクに?」
「なぜと問われても,一言で答えられない」
ボクは篁の顎に手を当て,軽く押し上げるようにして自分の方を向かせる。
「この美しい顔が要因の一つであることは認める。でも,それだけじゃない。キミの底知れぬ知性にも心惹かれる。周りの思惑などいっさい気にしない独立不羈の生き方にも」
篁はボクをじっと見つめる。その顔に浮かぶ表情。戸惑いとも驚きとも言える表情。少なくとも不快感ではなさそう。
「受け止めてくれるかな,ボクの興味を?」
篁はうなずいた。
「できる範囲でよければ」
「それでいいよ」
それからボクたちはまた歩き始めた。そして,橘医院に着いた。
患者たちが出入りする正面玄関の脇の家族用の通用口から入ると,家政婦の篠原さんが
「弘樹さん,お帰りなさい」
とあいさつした。「お坊ちゃま」などという馬鹿げた呼び方を禁止し「弘樹さん」と呼ばせるよう指導したのは両親の手柄だと思う。この点は素直に親に感謝する。
「篠原さん,学校の友達を連れてきたよ」
「あら,珍しい」
「前代未聞だね」
「そうですね。わたしは記憶にございません」
こんな問答を珍しそうに見ている篁に篠原さんが声をかける。
「ええっと,お友達,何というお名前?」
「篁です」
「篁さん,どうぞお上がりください」
ボクたちはリビングルームに入り,テーブルにとりあえず通学カバンを置く。篁もボクも私服だから制服を着替える必要はない。
「お友達って・・・・開明は男子校のはずですよね」
「うん,篁は男子だよ」
「ええっ!」
篠原さんは驚いている。篁は笑っている。女子に間違えられるのに慣れているんだな。
「まあ,篁は私服だとほとんど常に女子に思われるよね」
「きっと,そうでしょうねえ」
篠原さんは篁をまじまじと見つめる。それから我に返って
「あっ,何かお飲み物をお持ちしましょう。緑茶,紅茶,コーヒー? それとも,ジュースとかコーラの方がいいですか?」
「カフェオレをいただけますか?」
「よろしいですよ。弘樹さんは?」
「ボクはコーヒーで・・・・あっ,でもその前に・・・・篁,こっちに」
ボクはソファーに座る前に篁に声をかけ,書斎に向かう。書斎に入った篁は書架にぎっしり並べられた本の背表紙を目で追っている。目が輝いているかも。
「わーっ,本がいっぱいあるね」
篁は素朴に驚き,感心している。
「興味のある本があれば,借りていってもいいよ」
「ほんとう? ありがとう」
素直にお礼を言ってくれる。花咲くような笑みを浮かべて。「氷の美少年」は,ほんとうは単純素朴な子供なんだ。ただ,知的レベルが違いすぎて話の通じない周りの者たちと係わろうとしないだけ。10分か15分くらい書架を眺めていた篁が
「この2冊,借りていい?」
と言って差し出したのは比較解剖学の本と病跡学の本。
「いいよ。親にはボクから話しておく。いつでも手元に置いて参照しないといけないような本ではないから」
「ありがとう」
2冊の本を大事に抱えた篁とリビングルームに戻ってソファーに座る。
「お飲み物,お持ちしましょうか?」
「はい,お願いします」
篁はカフェオレを飲みながら楽しそうに本のページをめくっている。本さえあれば幸せな人なんだな。普通の高校生が心ときめかす色恋沙汰なんか縁がなさそう。微笑ましいけど,これからどうやって単なる友情を越える関係を作っていくか考えると,悩みもする。そんな時,篠原さんの声がした。
「篁さん,晩ご飯はどうなさいます? 食べて行かれますか?」
「えっ?」
篁は返事に困っている。
「食べていけばいいよ。どうせ一人でろくなもの食べてないだろう?」
「弘樹さん,そんな失礼な言い方・・・・」
「まあ,トーストとカフェオレとサラダくらい」
「夕食がそれなのか?」
ボクは思わず問い返した。
「はい」
「篁さん,ぜひうちで食べてらっしゃい」
篠原さん,がぜん積極的になっている。
1時間くらい本を読んで,篁はのびをした。
「篁,ボクの部屋で音楽を聴かないか?」
「ああ,それもいいですね。どんなレコードがあるの?」
「篁は,どんなジャンルが好きなんだ?」
「クラシックとジャズ。クラシックはモーツァルトとクープランが特に好き。ジャズはボーカルが好き」
「OK,ジャズはないけど,クラシックのレコードはそれなりにあるよ」
さりげなく篁の手を取り,自分の部屋に入り,レコードを探す。
「モーツァルトなら,ピアノ協奏曲23番と27番のカップリング,20番と24番のカップリング,それからクラリネット五重奏とクラリネット協奏曲のカップリング・・・・」
「クラリネット五重奏」
篁は即答した。ボクはレコードをターンテーブルに乗せ,針と落とす。篁はボクが何も言う前にごく自然にベッドに座っている。ベッドの端に,体をちょっと斜めにして壁にもたれかかるように座っている。意外と物怖じしないタイプかな? 初めて入る他人の部屋で,さっさとベッドに座るとは。うちに連れてきて1時間くらいのうちに,学校や通学途中では見られない篁のいろんな姿が見られる。
篁は,手に持ってきた本を脇に置き,まぶたを閉じて音楽を聴いている。ボクは勉強用の椅子に座ってそんな篁の姿を斜め前から眺めている。第1楽章が終わり,緩やかな第2楽章が始まってしばらくすると,かすかな寝息が聞こえてきた。「篁」と小さな声で呼びかけてもこちらを向かない。近寄ると,ほんとうに寝入っている。ふだんからかわいいけど,寝顔はもっとかわいい。ボクは声に出さず心の中で語りかける〔篁クン,無防備すぎるよ。人の部屋で寝入るなんて。ボクはオオカミかもしれないのに〕かすかに開いた唇をそっと指で触れる。閉じたまぶたにかかる前髪をそっとかき上げて額を撫でる。いとおしい。身長はボクより10センチくらい低くて,横幅も細い,少女のように華奢な体。頑丈でないボクでもお姫様だっこができそう。と思った瞬間にその場面が鮮明にイメージされた。〔うん,なかなか似合いの構図〕と思って,微笑む。「氷の美少年」は,ほんとうはこんなに無邪気でかわいい子なんだ。そんなことを思って眺めているうちに,篁は身じろぎしてまぶたを開けた。
「あっ,ごめんなさい。ちょっと寝入ってしまった」
「別に,謝らなくてもいいよ」
やがて,クラリネット五重奏が終わる。
「B面のクラリネット協奏曲も聴く?」
「ううん。また本を読んでる」
と言って,さっき読んでいた本をまた読み始めた。ほんとうに,授業時間と食事の時間以外はひたすら本を読んで生きてるのかな? 話しかけるのも悪いから,ボクは明日の英語と数学の予習をすることにした。そうしているうちに,篠原さんが「そろそろ夕食ですよ」と声をかけた。
テーブルに3人分の夕食が並べてある。
「ご両親は?」
「親はまだ仕事が終わらなくて,遅くなりそうなんだ。ボクたちが先に食べてる。たいていこのパターンだよ。ふだんは篠原さんと2人だけ。今日は篁がいてくれてありがたいよ」
「弘樹さん,それはどういう意味ですか?」
「ああ,いや,深い意味はないよ」
こんなやりとりを篁はおかしそうに聞きながら,お箸でじょうずに焼き魚の骨を取り,きれいに食べている。
「篁さん,箸使いがきれいですね」
と,篠原さんが褒めている。お世辞ではないと思う。もちろん,食べながらおしゃべりなんて不作法なことはしない。静かに食べ終え,自分が使った食器をごく当たり前のように流しに持って行く。
「篁さん,そんなことしなくても」
と言う篠原さんに
「いえ,せめてこれくらいのことは」
と返事している。ひょっとして,ボクよりよほど育ちがいいのかも。確かに,クラスでも上品すぎて浮いてる感じはある。それでも,食後はお茶を飲みながら少しは会話もする。
「婦人科の病院なんですね?」
「うん」
きっと,玄関の表示を見たんだろう。
「お父様は何科?」
「父も婦人科医だよ。言うなれば広い意味での職場結婚。業界結婚の方が正しいか・・・・同じ仕事をしていて知り合って,共通の話題が多くて,意気投合して結婚した」
篁はうなずく。
「それで,お父様はそのまま勤務医で,お母様が開業したの?」
「実は,母方の祖父がここで開業していて,それを継いだ形。祖父としては二人ともここで仕事してほしかったみたいだけど,父がそれを嫌って。個人開業の小さな診療所じゃなくて設備の整った病院で働きたいと希望したらしい」
「ふーん・・・・お祖父様は理解があったんですね。いや,お母様が夫に理解があったのかな」
ずいぶん大人びいたことを言うので,ボクは笑いそうになった。それで,口が滑ったわけではないけど,
「黄金町がどんなところか,知ってる?」
篁は首をかしげる。
「知らないのか」
と言って,ボクは説明する。要するに,横浜でも指折りの繁華街,夜の街ということ。
「で,そういう関係の人たちがたくさん受診する。中絶の件数はかなり多いはずだよ。まあ,中絶専門ってわけじゃないけど」
「弘樹さん,そんなこと話さなくても・・・・」
「別に隠すこともないでしょう?」
こんなやりとりの脇で,篁は何か考え込んでいる。そして,
「ねえ,お母様に会わせてくれませんか?」
「それは,ぜんぜんかまわないよ。紹介して恥ずかしい友達ではないから。むしろ自慢したいくらいだよ・・・・でも,なんで?」
「それは・・・・詳しいことは直接お母様に話すけど,お母様の力を借りれるかもしれないから・・・・」
「母は婦人科だよ」
「はい。分かってます」
「そうか・・・・」
まさか,篁に彼女がいて,妊娠させたとか?・・・・いや,それはないだろう。ボクは首を振る。
「早いほうがいいのか?」
「それは,そうです」
「では,さっそくだが,今週の土曜日の夜は?」
「土曜日は・・・・都合が悪い。日曜日の午後か夕方ではだめ?」
「たぶん,それでもかまわないと思うけど,母の都合を訊いておくね。それにしても,土曜の夜はだめというのは,デートの約束でもあるのか?」
冗談めかした問いに篁は
「はい。まあ,そうです」
と,まじめに返事した。ボクの方があわててしまった。
「まさか,その彼女が妊娠したとかいう相談じゃないよね?」
「それは違います」
と笑って否定する。ボクは安心した。そんなボクを篠原さんがにらんでいる。
その週の日曜日は母の都合が悪く,翌週の日曜日,篁をランチに招待した。篁は11時50分くらいにやって来た。篠原さんは,折よくできあがっていた料理をテーブルに並べ,四角いテーブルに5人座るのはめんどうなので,自分の部屋で食べるためにダイニングルームを出て行く。
「申し訳ありません。ボクのために」
と言う篁に
「気にしないでください」
と篠原さんは笑顔で返事する。それから篁は母の方を向いて
「今日はお招きいただいて,ありがとうございます」
と,ていねいにお辞儀して,空いている椅子に座った。ボクは
「父の祐樹と母の祥子[しょうこ]です」
両親を紹介する。
「篁淳ともうします」
篁はもう一度ていねいにお辞儀する。
「弘樹が『絶世の美少年』なんて言うから,ずいぶん大げさなと思ってたけど,大げさじゃなかったのね」
と母に言われて,篁はちょっとはにかむようにうつむいた。その表情としぐさがかわいいと言うか色っぽいと言うか。思わず見とれてしまった。
「冷めないうちに食べましょう」
という母の言葉で橘家の昼食会が始まった。メインディッシュは鮭のムニエル。前もって篠原さんに,フォークとナイフを使う料理をリクエストしていた。この前の夕食で,箸使いのきれいなことは確認した。今度はフォークとナイフを使うマナーを見たいと思ったから。思った通り,篁はフォークとナイフをじょうずに使って品良く食べている。こんな育ちのいい美少年が,本人の言うことを信用すれば築50年の1Kのおんぼろ木造アパートに住んでいるのは一種の貴種流離譚だな。でも,この貴種が本来自分の住むべき世界に帰還するあてはあるのかな?・・・・こんなことを考えながら篁を眺めていたら,母から
「弘樹,お客様をじろじろ見るんじゃありません」
と叱られた。まったく,余計なお世話。馬に蹴られりゃいい・・・・。なんてことを考えているうちに食事が終わる。見計らったように篠原さんが戻ってきて食後のお茶を用意してくれた。
「篁さんはカフェオレ?」
「えっと・・・・ちゃんとしたランチの後だからカフェオレより,紅茶か薄めのコーヒーがいいんですけど」
「じゃあ,紅茶にしますね」
テーブルにティーカップが置かれ,篁がカップに口をつけ,一口飲んでカップをソーサーに戻した時,母が話し始めた。
「篁さん,わたしの力を借りたいことがあるそうだけど,どんなことかしら?」
母の視線,そして父の視線も篁に向く。もちろん,ボクも。篁はちょっと視線を落とし,それからしっかり母に視線を向けた。
「先生,去勢手術はなさってますか?」
「去勢手術? それはしたことがない」
「じゃあ,去勢手術をしてくれるお医者様をご存じないですか?」
母はちょっと考えて
「それも,知らない」
と答える。
「そうですか・・・・」
目を伏せた篁に母が問いかける。
「ひょっとして,自分がその手術を受けたいと思ってるの?」
「はい」
と篁が答えた瞬間,ボクだけじゃなく,母と父の表情が固まった。それから,母はふだんの表情に戻って篁に問いかけた。
「どうして?」
「男になりたくないんです。と言うだけでは理解していただけないかもしれませんね。もっと詳しく説明します」
篁は静かな口調で答える。遠くを見るような眼差し。一見すると「氷の美少年」という呼び名にふさわしい冷めた無表情だけど,切実な思いがかすかに漏れているのをボクは感じる。
「ボクは幼い頃から,上品なもの,エレガントなもの,華奢で繊細なものが好きでした。そのような存在に憧れ,自分もそのような存在でありたいと願っていました。言葉遣いや立ち居振る舞いも上品でエレガントであるように心がけ,今では意識しなくてもそのように振る舞えるようになりました。そして幸いなことに,エレガントな顔立ち,華奢な体つきに恵まれました。この顔立ち,体つきを変えたくないんです。でも,ボクも生物学的には男です。放っておけば,いつかこの顔にひげが生え,腕や足に体毛が生え,骨格もそれなりに逞しくなるでしょう。それがいやなんです。そうなりたくないんです。そのような変化は男性ホルモンの作用だと学びました。だから,男性ホルモンを体から消し去りたいんです」
「バカなことを・・・・」
と,父がつぶやいた。
「篁さん,去勢によって男になることを停止させることはできるかもしれないけど,年を取るのを押し留めることはできないのだよ。骨格は今のまま華奢であるかもしれない。でも,その陶器のように滑らかな肌は,いつか張りを失いひからびる。その人形のように愛らしい容貌も,いつか衰えてただの人の顔になる。若さの輝きはいつかは失われる。『かわいい』ともてはやされる時代はつかの間に過ぎてしまうんだよ」
「分かっています」
「ほんとうに分かっているのかい?」
「はい」
こんな篁と父の問答を,母は黙って聞きながら考え込んでいる。そして口を開いた。
「篁さんは秀でた知性の持ち主だと弘樹から聞いてます。そんな人に向かって『子供は大人の言うことを聞け』みたいな上から押さえつけるような言い方はしたくない。そして『男のくせに』なんて論法を使いたくない。でも,わたしはあなたを思い留まらせたい」
そう言って母は篁を見る。篁も母に視線を向ける。
「一番の問題は,手術は不可逆的だということ。後戻りできないということ。取ってしまったものを着け直すことはできないということ。今,篁さんはそう思っている。その気持ちを疑いはしません。でも,将来,その気持ちが変わるかもしれない。その時,あなたは取り返しのつかない後悔をすることになるのよ」
篁がかすかな笑みを浮かべる。父も母も気付かないかもしれない。篁の表情を見慣れたボクには分かる。
「その反論は予想していました。だから,反論への反論も用意しています。可逆的であればいいのですよね?」
篁はしっかりした眼差しで母を見る。
「お医者さまならとっくにご存じだと思いますが,男性ホルモンの作用を抑制する作用あるいは副作用のある薬がいくつかあります。まず,女性ホルモン剤。それから,スピロノラクトンとスルピリド。これらの薬を処方していただきたい。薬なら,服用を中止すれば,元に戻るでしょう?」
「そうとは言い切れない。長期間使ったら,不可逆的な変化を引き起こすかもしれない。長い年月にわたって男性ホルモンの生成や分泌の機能が抑制されていると,薬がなくなってもその機能が回復しないかもしれない」
「長期間って,具体的にどれくらいですか?」
「その質問には答えられません。信頼に値するデータがないから。そんな研究,そもそも誰もやっていないでしょう」
「それなら,先生,ボクを研究材料にしませんか? ボクに薬を投与して,データをとって,経過を追って,どれくらいの期間投与したら不可逆的な変化が生じるか,論文にしませんか? 世界最初の研究ですよ。先生の言葉を信用すれば」
母は,たいていのことには動じない人だけど,さすがにこの篁の言葉には驚いたみたい。じっと篁を見つめている。篁はその視線をしっかり受け止めている。
「手強いディベイターだわね。それに医者の気持ちを引き寄せるツボを心得ている。世界最初の研究なんて言われたら,気持ちがざわつくじゃない。・・・・でも,だめ」
「どうして?」
ああ,篁,心が揺れている。敬語を付け忘れるなんて。ふだんならぜったい「どうしてですか?」と尋ねるのに。
「だめなものは,だめ」
篁の表情に落胆と悲しみが浮かぶ。こんな顔,初めて見る。視線を落とし,また顔を母に向ける。
「今すぐ決めないでください。考えてみてください。ボクの提案・・・・希望を,時間をかけて検討してください。お願いです」
篁が頭を下げる。これも初めて。礼儀作法として,お辞儀をするのはいくらでも見たけど,人にものを頼むために篁が頭を下げるのは,初めて見る。母を見ると,そんな篁をじっと見ている。かすかに表情が動いた。
「篁さん,顔を上げて」
母が優しい声で呼びかける。
「今日はこれで終わりにしましょう」
今日は,ということは,次があるということだよね,お母さん? 声には出せないけど,心の中で問いかける。母はじっと篁を見つめる。厳しい視線ではない。むしろ優しい視線。篁も母を見つめかえす。それから,ゆっくりうなずいた。
篁は,気持ちを切り替えたようにふだんの静かな口調で母に語りかける。
「本を借りていました。比較解剖学の本と病跡学の本です。おもしろかったです」
「ああ,弘樹から聞いてます。医学に興味があるの?」
「医学にも,興味があります。ほかのいろんなことにも興味がありますけど」
それから,篁と母と父と3人は本の内容について楽しそうに語り合う。楽しそうに・・・・そう,明らかに楽しそうな表情を浮かべている。学校ではぜったい見られない表情。母や父のレベルなら,篁からこんな表情を引き出せる。母や父の知的世界なら,篁はこんなに明るく楽しそうに振る舞える。そしてボクだけが蚊帳の外。橘家のライブラリーで,医学はボクが決して手を着けなかったジャンル。だから話題に入れないのはしかたない。でも,やっぱり悔しい。母と父が篁とくつろいで語り合うのを傍で見ているだけというのは,しゃくに障る。
昼食会が終わり,玄関で篁を見送り,ボクは部屋に戻る。ベッドに身を投げ出して天井を見上げる,間もなくドアがノックされた。
「弘樹,ちょっとお話がしたい」
母の声。ボクはドアを開ける。
「弘樹の意見を聞きたい」
「ボクの意見?」
「そう,あなたの気持ちを知りたいの。高校で一番深い関心を寄せる相手だと言ってたでしょう。そんな大切な人が男であることを捨てたいと言ってる。それについて,あなたはどう思う?」
ボクはベッドに座り直して,考える。母は椅子に座ってボクを見ている。
「篁は美の傑作だよ。神様が心を込めて作り上げた美の傑作。それが壊れるのを見たくない。いや,形あるものはいつかは壊れるけど,少しでも永く留めておきたい。そのためにできることは,したい,してほしい。お父さんが言ってたように,永久に留めることはできないにしても,できるだけ長持ちさせたいんだ」
「男になっても,それなりの美男子だと思うけど」
「お母さん,自分でも信じていないことを言葉にしないで。分かっているでしょう。あの美しさは,篁のあの美しさは,華奢な体と繊細な肌にしか宿らないものなんだよ。大人の男の体には宿らない,宿れないものなんだよ。それくらいのこと,お母さんだって分かってるでしょう」
「弘樹も,なかなかのディベイターだわね」
母はボクに微笑みかけたけど,なぜか微笑みが寂しい表情に変化した。
「美少年の美が儚[はかな]いものだということは,よく分かっているわ」
それから,真顔に戻って問いかけた。
「好きなの?」
ボクは虚を突かれた。なんと答えていいか分からない。自分でもためらっていた。この感情を「好き」と名付けることをためらっていた。まして,母に篁を,仮にも男子と分類される人間を好きだとは・・・・。たとえそう言っても,母は叱りつけたり,あきれたりしないと信じていても。
「今年のバレンタインデーにチョコレートを贈りたいと思ったよ」
結局,母は篁の願いを叶えることにした。そのために,もう一度いろいろお話ししたいという母の言葉を伝えたら,篁はとても喜んだ。
「橘医院は日曜日と木曜日が定休日だから,このどちらかがいい」
「じゃあ,今度の木曜日。期末試験の初日だから昼前に終わるね。それから出向いてもいいですか?」
というわけで3月中旬の木曜日の昼前に,篁はボクに連れられてまた橘家を訪問した。篠原さんは昼食の準備をしている。母はダイニングリビングのテーブルでボクたちを待っていた。
「またお招きいただいて,ありがとうございます」
「ほんとうに,礼儀正しいのね。まあ,座ってください。もうすぐお昼ご飯ができあがるから,待ってて。・・・・それにしても,試験の初日よね。試験勉強しなくていいの?」
篁はちょっと首をかしげて答える。
「試験勉強って,したことないんです。だって,授業でやったことしか出ないんだから,特別な勉強をする必要はないでしょう?」
母はびっくりして,それから声を出して笑った。
「恐ろしいことをすらっと言ってのけるのね。授業で聞いたことは全部覚えているから,わざわざ試験前に勉強する必要はないということ?」
母の笑いがおさまるのを待って,篁が話しかける。
「それで,今日はボクを使った研究のことでいろいろお話しするために呼んでくださったのですよね?」
「うん,そうなんだけど,その話は食後にね」
「はい」
昼食が済んで,お茶を飲みながら母が話しかける。
「これから,研究の話をするけど,弘樹には席を外してもらう方がいい?」
「別に,ボクはかまいません」
というわけで,ボクのいる場で二人の話が始まった。
「篁さんは『研究材料になる』と言ったけど,この研究の材料になるというのが,具体的どういうことだか分かってる?」
「分かってるつもりです」
「じゃあ,説明して」
「ボクが?」
「そう。ほんとうに分かっているなら,説明できるはずでしょう」
篁はうなずいて説明し始めた。
「まず,何種類かお薬をのむことになります。たぶん,毎日。それから定期的に検査を受けます。毎月1回くらいかなと思っています」
母はうなずく。
「頻度は,まあそんなものね。検査は具体的にどんな検査?」
「血液検査でホルモンを調べると思います。男性ホルモンと女性ホルモン。それからプロラクチンも?」
「よく調べてるね。で,ほかにどんな検査をする?」
「身体測定というのですか,身長,体重。それから,たぶん肩幅,バスト,ウェスト,ヒップ。ああ,それから体表観察といのかな。ヒゲや体毛の生え具合とか肌のきめとかも見ると思います」
「アンダーバストも測るよ。バストとアンダーバストの差が乳房の発育具合の指標になるからね。もちろん,裸になって測るんですよ。わたしか看護師の前で裸になってもらう」
「分かってます」
母は「よろしい」と言うようにうなずく。
「そのほかに,どんな検査?」
「ほかに?・・・・」
「肝心な検査が抜けているけど」
篁はかすかに頭をかしげる。1分くらい待って,母が切り出す。
「精液検査よ」
「あっ・・・・」
「精液量,精子数,精子の運動性。男性機能廃絶の指標です。だから毎月の検査のたびに精液を採取してもらう。具体的に何をするか,分かるよね?」
篁はしっかりうなずく。
「精子の運動性を調べるには,新鮮な精液が必要なの。だから,家で採取してもって来るのではなくて,この場で採取してもらう。まあ,『この場』と言っても,わたしの目の前じゃないけどね。たいていはトイレでやってもらう」
篁はうなずく。ボクは,切ない気持ちになる。「やめてくれ」と言いたいけど,篁がやめるはずのないことは分かっている。
「ああ,いやになったら,いつでもやめていいのよ。これは大前提。篁さんはいつでもこの研究から降りることができます」
「降りません」
篁は即答した。母はちょっとおかしそうに笑みを浮かべた。
「研究のスケジュールとしては,あなたが本気なら,まあ本気なことは分かっているけど,今日か明日にも服薬を開始します。その時,開始時点のデータを取るために検査をします。それからは毎日服薬して1ヶ月ごとに検査。最初の何ヶ月かはホルモン検査や精液検査の数値が下がり続けるはず。下がり止まって底値に達したら,そこからさらに1年続けて,1年目に1ヶ月休薬する。休薬が終わった時点で検査。たぶん数値が多少なりとも回復しているはずだから,服薬を再開し,底値に戻ったらそこから1年続ける。そしてまた1ヶ月の休薬。休薬あけの検査,服薬の再開というサイクルを繰り返す。何サイクルか終えたら,休薬後も数値が回復しないかもしれない。そしたら服薬を再開せずに休薬を1ヶ月延長して検査,それでも回復しなかったらまた休薬を1ヶ月延長。というぐあいに1年経過を追って数値が回復しなかったら,男性機能が不可逆的に廃絶されたと結論する。とまあ,こんなスケジュールを考えているけど,実際に始めてみて変更があるかもしれない。そして,繰り返すけど,どの時点でも篁さんは自分の意思で研究から降りることができる」
「そのお気遣いは無用だと思います。それで,今日から始められるなら,始めたいです」
「じゃあ,診察室においで。検査をして,お薬を渡すから」
二人は席を立つ。母は篁の手を引いてダイニングリビングから出て行った。ボクは黙って二人を見送る。これから,診察室で篁は採血され,母の前で裸になって身体測定される。それからトイレで・・・・。ボクはいたたまれない気持ちで自分の部屋に戻り,机に頬杖をつく。
どれくらい時間がたったのだろう,リビングルームから母と篠原さんが世間話をしている声が聞こえてくる。検査は終わったらしい。ボクもリビングルームに戻ると,篁はいない。
「篁は?」
「篁さんは帰ったわよ」
「えっ?・・・・そのまま帰ったの?」
「だって,検査が終われば用はないでしょう」
「まあ,そうだけど・・・・」
母はちょっとおかしそうに笑う。それがしゃくに障る。篁もお母さんも,ボクの気も知らないで・・・・いや,お母さんはボクの気持ちを知った上でのことなのかな。
「お母さん,これから毎月,篁に・・・・」
「篁さんに?」
「あんなことをやらせるつもりなの?」
母はまたおかしそうに笑う。
「心配してるの?・・・・たぶん,3回か4回目くらいで『もういやです』って言い出すわ。わたしがやめなさいと説得するより,本人がやめたいと言い出す方がいいでしょう」
「そういう考えなんだ。でも,もしも篁がやめたいって言い出さなければ? 研究と検査がこれからずっと何ヶ月も何年も続いてしまったら?」
「その時は,弘樹がいう『大人の男の体には宿れない美』が長持ちするでしょう。どっちにしても,弘樹にとってはいいことじゃない?」
ボクはため息をついた。
「お母さんは,たまに悪魔的な発想をするね」
バレンタインデーから後,ボクと篁はほぼ毎日一緒に帰っている。と言っても,一緒に電車に乗るだけ。電車が黄金町に着くと,降りるボクと次の駅まで乗っている篁は『さよなら』とあいさつして別れる。期末試験が終わり,1週間くらいの短縮授業期間も終わり,明日は終業式。制服着用の義務がある式や行事に篁は出席しないから,今日が1年生最後の日。それから2週間ほどの春休みになり,その間は篁に会う機会がない。篁をうちに呼ぶ理由がない。それは残念だった。それと,どうしてもやりたいと思っていることがあった。それで,
「篁,今日ちょっと部屋に寄ってくれないか?」
と頼んだ。篁は断りはしない。黄金町駅から家に行く途中,
「実は一つお願いがあって」
と切り出した。
「キスの練習をさせてほしい」
「キスの練習?」
「つまり・・・・初めての時,ちゃんとリードしたいから」
我ながらへたなウソだと思うけど,篁は疑うこともせず,嫌がるふうもなく,
「つまり,橘クンの彼女とキスをする練習をしたいということ?」
と素直に問い返す。ボクは,自分のことは棚に上げて,「篁,少しは人を疑えよ」と言いたくなる。でも,そんなこと言えるわけもないから,
「うん。そうなんだ」
と答えた。篁はごくあっさりと,
「いいよ」
と答える。拍子抜けした。こいつには,男子高校生の常識は通用しない。
ボクの部屋に入り,篁は「立てば芍薬」の言葉のようにすらりと立っている。ボクの方が気後れする。
「橘クン,どうしたの?」
「あっ,いや・・・・」
ボクは覚悟を決めて近づく。顔が触れ合うくらいに近寄り,左手を篁の背中に回し,右手は頭の後ろに添える。10センチの身長差があるから,篁はボクを見上げる姿勢になる。ボクはちょっと背をかがめて唇をそっと重ねたけど,すぐに離した。篁は目を開けたままボクを見ている。静かな穏やかな眼差し。ボクはもう一度唇を近づけ,重ね合わせる。今度はそのまましばらく重ね合わせている。そして,舌を篁の歯の間に進めると,篁はかすかに口を開いて,ボクの舌を招き入れた。ボクはぎこちなく舌を動かす。そして,唇を離した。
「キスは,経験あるの?」
「はい」
確かに,し慣れているというか,され慣れてる。ボクの方が緊張してドキドキしている。
「もう一度,いい?」
「いいよ」
もう一度,唇を重ね,舌を動かす。篁は遠くを見るような視線を投げている。ボクが気恥ずかしくて目を閉じる。それから,唇を離し,目を開くと,篁はさっきと同じ穏やかな眼差しをボクに向けている。
「練習になった?」
「うん。ありがとう」
キスの練習というウソを何の疑いもなく信じてるのか,それとも,ウソと分かった上で信じてるふりをしているのか・・・・いや,篁はそんな駆け引きができる人間じゃない。素直にボクの言ったことを信じてるんだ。でも,そっちの方がよほどやりにくい。
「ああ,そうだ。せっかくだから,本を借りていっていい?」
ぜんぜん空気を読まない発言だなあと思いながら,でもこれが篁と思って返事する。
「うん,もちろん」
ボクは書斎に案内する。そこで,名案を思いついた。
「今日借りる本,読み終わったら春休み中でも返しに来るといいよ。また別の本を貸せるから」
「ありがとう」
篁は素直に礼を言う。その素直さにつけ込んでる気もするけど,恋する身ならこれくらいは許される,と信じよう。
結局,篁は春休み中に2度うちに来た。昼頃来て,一緒にランチする。もちろん,日曜日と木曜日は避けた。父や母を交えたくないから。
そして2年生になる。特待生クラスは1つしかないから,クラス替えはない。この頃から,一つの噂がささやかれるようになった。
帰り道,駅に行く途中,ボクは篁に軽い口調で語る。
「ひょっとして,篁の耳にも入っているかもしれないけど,キミがボクの愛人と噂されているらしい」
「愛人?」
篁は不思議そうな顔をする。
「ああ,その反応は,まだ知らなかったな」
篁はうなずく。
「迷惑かな?」
「別に,ボクは迷惑じゃないよ。橘クンこそ,迷惑じゃないですか?」
「ボクはぜんぜん気にしない」
「それなら,放っておけばいいでしょう」
とつれない口調で言ってから,
「ボクにとって,橘クンは学校でただ一人の友達だけど,橘クンにとってボクは数多い友達の一人に過ぎないでしょう。なんでよりによってボクが愛人として認定されたの?」
と,素朴な疑問を呈する。
「まず,バレンタインデー以来,毎日一緒に帰っているから」
篁は首をかしげる。「それだけの理由で?」と言いたげ。
「それと,篁と『二人の世界』を作ってることもある」
「二人の世界?」
「つまり,『クレーヴの奥方』と『ドルジェル伯の舞踏会』と『聖家族』の影響関係とか,光エーテルを巡る議論はいつ頃から物理学のテーマでなくなったのかとか,そんな議論,ほかの連中は入り込めないだろう。二人の世界じゃないか」
「ああ,そういうこと」
一応,納得したようだ。特に気にしている気配はない。それなら,ボクはニコッと笑顔を作り,篁の腕を取った。
「愛人なら愛人らしくしよう」
と言って駅まで腕を組んで歩く。篁は嫌がるそぶりも見せずそのままボクに腕を取られて歩き始めたけど,1分くらいして腕をほどいた。
「彼女に見られたらまずいんじゃない? ボクも,それくらいは分かるよ」
「彼女?」
「彼女がいるんでしょう。以前,キスの練習をしてたじゃない?」
「ああ・・・・」
ウソの落とし前をつけないといけないな。
「実は,お恥ずかしい話だけど,だめになった」
「振られたの?」
「まあ,そういうこと」
「それは,残念だったね。それにしても,橘クンみたいなかっこいい美男子を振る人がいるんですね」
褒めてくれてるんだろうけど,あまりうれしくはない。いつか,きちんと「好き」と言葉で伝えないと,態度や雰囲気から察してもらうのは,期待できないだろうな。