※この作品はR-18です。

Riverside Story:岸辺の物語   作:松村順

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Chapitre 6

          Chapitre 6

 

 ジュリさんとの土曜日のデートは定例になっている。夕方5時か6時頃,ジュリさんの部屋を訪れ,化粧してもらう。ドレスに着替えることもあるし,ジュリさんが買ってくれたブラウスやセーターに着替えることもあるし,着てきた服のままのこともある。それから,キー・アンド・ストリングに出かける。夕食を摂りながら,居合わせたピアノを弾けるお客さんに伴奏してもらって何曲かデュエットする。それから部屋に戻り,1~2時間くつろいで,お風呂に入り,ベッドでジュリさんに抱かれる。そして,ジュリさんの温もりを感じながら眠る。

 5月中頃,二人でお風呂に入っていて,ジュリさんがボクの胸を撫でながら,

「胸が膨れてきたね。まだAカップにも足りないけど。お薬のせい?」

と,問いかけた。

「たぶん,そうだと思います」

「女性ホルモンって,すごいね」

「女性ホルモンの働きもあるけど,スルピリドという薬の副作用もあるはずです。プロラクチンというホルモンの分泌を刺激するんです」

「それが胸を大きくするの?」

「乳腺の発育を促進して,女性だと母乳が出ることもある」

「あら,ジュンのおっぱい,飲んでみたい」

「男性の場合,母乳分泌までは起こらないらしいです。先生が言ってました」

「それは残念・・・・で,どれくらい大きくなるの?」

「それも個人差があるけど,せいぜいAカップくらいらしいです」

「ああ,Aカップくらいの胸は片手でいじるのにちょうどいい。ジュン,ますますわたし好みの体になっていくね」

ジュリさんはうれしそうな,そしてちょっと淫靡の色が混じった表情でボクを見ながら,かすかに膨れたボクの胸を揉むように撫でる。それから,肩や腕を撫でながら,

「もともときめ細かな肌だったけど,ますます滑らかになってる気がするなあ。気のせいかな・・・・」

などとつぶやく。

 

 夏休みになってしばらくした8月初旬の日曜日の朝,ベッドの中でだらだらしながらジュリさんは,ぎりぎりAカップくらいの大きさになったボクの胸にそっと指を滑らせる。

「わたしはとてもうれしいし,夏休みの間は胸の膨らみを隠さなくてもいいけど,9月から学校では目立たないようにする方がいいね。体にフィットしすぎない,ゆったりめの服を着る方がいいよ。わたしが買って上げたブラウスがそれくらいのサイズね。これくらいの大きさならごまかせるから」

そして,起き出してから,クローゼットを漁りながら,

「こんなのは,どうかな・・・・」

と言って,ブラウスをいくつか取り出してボクに手渡した。

「胸をごまかすなら,ブラジャーはつけない方がいいね。わたしに会いに来る時はつけなさい。今度買ってあげるよ。かわいいAカップのブラジャー」

 こんなことを話しながら,ジュリさんはボクの後ろに回り込み,背後から抱きしめ,両手でボクの両方の乳房を包み込む。

「ほんとうに,大人になりかけている少女の体みたい」

 

 夏休み中,何度か橘クンの家に本を借りに出かけた。日中は暑いから,日が落ちてから,大岡川沿いの遊歩道を歩く。3年前,そして2年前,先生のうちに行く時も,これくらいの時間帯にこの遊歩道を歩いた。日の入りが遅い季節,橘クンの家に着くのは7時頃。本を返して,書架に並んだ本の背表紙を目で追いながら新たに借りる本を探し終える頃,ご両親が夕食を摂っていることもある。そんな時は借りた本の感想を語り合うこともある。お母様の方が話しやすい。月1回だけど「研究」で顔を合わせるから。お父様とも話してみたい気はあるけど,きっかけが見つからない。

 書斎で本を選んでいる時,橘クンが話しかける。

「ほとんど医学書ばかり借りてるな」

「うん。医学書以外の本は学校の図書館や市立図書館の方が揃っているから,そっちで借りてる」

「ああ,そういうこと・・・・」

ちょっと間を置いて,

「篁が医学書について親と語り合ってると,ボクだけ蚊帳の外なんだ。ちょっとつまらない」

「それなら,橘クンも医学書を読めばいいでしょう」

と答えると,

「うーん・・・・」

と考え込んでいる。

 夏休みも終わりに近づいた頃,書斎でボクが本を選んでいると背後から語りかけられた。

「篁は男が好きなのか? 女が好きなのか?」

ボクは書架の方を見ながら答える。

「これまで好きになった人は女だよ。エレガントな人が好きだから」

「じゃあ,ボクもエレガンスを磨こう」

「橘クンは男子としてはかなりエレガントだと思うよ」

「それは,ありがとう」

それからちょっと間を置いて,ボクの肩に手が乗せられた。

「篁,好きだよ」

ボクは振り返って橘クンを見る。

「友情的な意味じゃなくて,恋愛的な意味で好きなんだ」

ボクは突然そんなこと言われて,何と答えていいのか,戸惑う。

「びっくりした? こんなこと言われて」

ボクはうなずく。

「いや?」

「いやじゃないけど・・・・」

ボクは自分の気持ちを表す言葉を探す。

「いやじゃないけど・・・・橘クンのこと,友達としてはいい人だと思っているけど・・・・恋人として好きとか好かれるとか,そんなこと考えてもいなかった」

「まあ,そうだろうな」

こういう時,どのように振る舞っていいのか分からない。だから尋ねた。

「橘クンは,ボクにどうしてほしいの? 何をしてほしいの? あるいはボクに何をしたいの?」

「何と言われても・・・・」

橘クンはちょっと言いよどむ。

「・・・・キスはしたいな」

「いいよ」

橘クンはちょっとためらってから,ボクを抱き寄せ,唇を重ね合わせた。つい,ジュリさんと較べてしまう。〔ぎこちない〕・・・・ジュリさんがじょうず過ぎるんだけど。こんなことを考えているうちに,唇が離れた。橘クン,目が潤んでる。

「それと,これまでより頻繁にうちに遊びに来てほしい。何か特別なことするわけじゃないけど,一緒にいたい」

「学校でも一緒にいるでしょう」

「ほかの奴らがいないところで,二人だけで一緒にいたいんだ」

「それは・・・・ボクは,知ってると思うけど,本を読むのが好きなんです。それに,特待生としてそれなりに勉強もしないといけない。橘クンのために使える時間はあまり多くないんだよ」

橘クンは唇をかみしめる。

「うちで本を読んでいてもいいんだよ。キミの部屋でないと読めないわけじゃないだろう」

「そうだけど・・・・」

と言って視線を上げると橘クンと目が合った。切なそうな眼差し。

「・・・・そうだね,それくらいのことはしてもいいね。好きと言ってくれた人のために」

橘クンはほっとした表情。

「土曜日は,だめかな?」

「土曜の夜と日曜の朝はだめ」

「どうしても?」

ボクはうなずく。

「先約があるだね?」

ボクはうなずく。

「その人のこと,好きなの?」

ボクはもう一度うなずいた。橘クンはため息を漏らす。

「それじゃあ,仕方ない・・・・でも,それなら,ボクとのことは浮気になるだろう」

「そうはならないと思います。彼女に話してみるよ。彼女の考えを訊いてみます」

「ええっ!」

橘クンはとても驚いている。それが「普通」の反応なのかな。でも,ボクは,ジュリさんなら同時に2人を好きになることを認めてくれると思っている。彼女自身がそういう経験のある人だから。そして,ボクはもっといいことを思いついた。

「ねえ,3人で一緒に会わない?」

「3人って,つまり・・・・」

「橘クンとボクと,彼女」

「そんな・・・・修羅場にならない?」

「その心配はありません。彼女はぜんぜん問題ない。ボクも。残るは橘クンの気持ちだけだよ」

橘クンは考え込んでしまった。

 

 その週の土曜日,ボクはふだんより早めにジュリさんの部屋に行った。橘クンのことを相談したいから。ジュリさんは笑い出した。

「そりゃあ,3人で会おうと言われたら,普通はびっくりするね。それで,ジュンはその子のこと好きなの?」

「恋愛対象として好きだとは思っていません。でも,学校でただ一人の友達だし,いい人ですよ。男子にしてはとてもエレガントで,一緒にいて楽しいし。ボクを好きと言ってくれる気持ちにできる範囲で応えてあげたいとは思います」

ジュリさんは微笑む。そしてちょっと悲しい表情になった。

「わたしも経験あるよ,そのシチュエーション。自分は特に好きと思っていない。嫌いとも思っていない。でも自分を好きと言ってくれた人だから,その人の気持ちをできるだけ満たしてあげようと思ってつきあい始める。・・・・でもね,えてして,相手は二人の気持ちの温度差に敏感なの。その子がわたしを思っているほど熱く激しくわたしはその子を思っていないことを敏感に察知するの。その温度差を受け入れられる子もいるけど,そうでない人も多いよ」

「橘クンは,温度差を受け入れていると思うけど」

「最初はそうなの。最初は『わたしはそれでもかまいません』みたいなことを言うの。でも付き合っているうちに耐えられなくなる・・・・人がいる」

ジュリさんは寂しそうな表情を浮かべる。橘クンのことを心配しているのかな。少なくとも,嫉妬しているようには見えない。

「ジュリさんはどうなの? ボクが橘クンと付き合うの,いやじゃない? こういう場合には,たいていの人は嫉妬するものだよね?」

ジュリさんはフッと笑う。

「嫉妬はしない。する気にならない。思春期の男の子どうしがぎこちなく愛しあってる。微笑ましいと思うよ。応援したいくらい。そもそも,ジュンのわたしに対する気持ちと彼に対する気持ちはぜんぜん違う。質が違っている。たとえジュンが本気で彼を好きになるとしても,それでも,彼への『好き』とわたしへの『好き』は違っている。バッティングはしないよ。わたしの方から,『わたしと橘クンと,どっちを選ぶの?』なんて問い詰めることはない。まあ,逆はあり得るかもしれない。橘クンはまだ恋心の機微が分からないだろうから『ボクとジュリさんとどっちを選ぶの?』と問い詰めることがあるかもしれないね。そんな場面はないことを願っているけど。彼が不幸になるだけだから」

「どうして?」

「だって,そう問い詰められたらジュンはわたしを選ぶから。分かってるよ。ジュンは女の体が好き。女の体に触れられ,抱かれ,包み込まれるのが好きなの。自覚してる? だから,どっちかと選択を迫られたら,心はともかく体はぜったいにわたしを選ぶ」

ジュリさんはじっとボクを見つめる。その眼差しは猛禽を思わせる。たまにジュリさんはこんな目つきになる。でも,その視線はすぐにいつもの優しい視線に戻った。

「まあ,橘クンがそんな選択をジュンに迫ることがないように,わたしがじょうずに誘導してあげましょう。わたしの方が大人だから,それくらいの手間をかけてあげるべきよね」

「橘クンは冷静な判断ができる人だから,そんなバカなことは言わないと思います」

ジュリさんは穏やかな口調でボクに語る。

「ジュンはまだ恋を知らないね。恋する人の気持ちを分かっていないね。たいていの人は誰かを好きになると冷静さや余裕を失ってしまうの。ふだん賢い人が信じられないような愚かな選択をすることもある。『恋は盲目』って言うでしょう」

「そういうものなの?」

ジュリさんはうなずく。

「ジュリさんも?」

というボクの問いに,ジュリさんはフッと笑った。

「わたしは,その・・・・いわゆる恋愛体質じゃないの。誰かを好きになることはしょっちゅうだったけど,『盲目』になるほどじゃなかった。その人のことだけ考えてほかのことは何も手に着かないみたいなふうにはなったことがない。心の一部は冷めている」

「サキさんとの時も?」

「サキ・・・・そうね,サキとも,たぶんそうだった。ジュンとも,きっとそうだと思う。たとえば,研究や仕事に没頭している時はジュンのことは忘れてるよ」

「それは当然でしょう。ボクだって,読書に夢中になってるとジュリさんのことは忘れています」

ジュリさんは微笑む。

「わたしたち,似たものどうしね。・・・・でもね,これも忘れてほしくないけど,たとえほかのことに没頭している時にはジュンを忘れてしまうにしても,一緒にいる時は,抱きあい愛しあう時は,ただジュンのことだけ考えてる。“Body and soul”身も心もジュンに浸りきってるんだよ。その熱さ深さは誰にも負けないよ。分かってるよね?」

「もちろん,分かってます」

ジュリさんは両手でボクの頬を包み込み,引き寄せ,キスする。それから,

「あっ,話が脱線した。橘クンのことね,会うのはぜんぜん構わないよ。こんどの土曜日に連れてくれば? 来週はもう2学期が始まってるから,わたしからの招待を伝える機会はあるでしょう」

 

 2学期が始まってすぐ,ボクはジュリさんの誘いを橘クンに伝えた。

「えっ,こんどの土曜日?・・・・ちょっと待ってくれ」

「都合が悪いの?」

「そうじゃないけど,つまり,心の準備ができていないよ」

というわけで,橘クンをジュリさんに会わせるのは9月最後の土曜日になった。

 

 9月最後の土曜日,日ノ出町駅で待ち合わせてボクたちはジュリさんのマンションに向かう。エレベーターに乗り,3階で降り,すぐ目の前の部屋。ドアホンは鳴らさず,3回ノックする。これがボクたちの合図。すぐにドアが開いた。ジュリさんはボクにニコッと微笑みかけ,それから

「ようこそ。橘クン。ジュリです。上がって,かけてて」

ジュリさんはボクたちをリビングルームのテーブルに案内した。

「ジュンはカフェオレでいいのね。橘クンは?」

「えっ・・・・ボクは,コーヒー」

橘クンは緊張した声で答える。

 ジュリさんがコーヒーを淹れている間,橘クンはボクの向かいの椅子に座ってじっと黙っている。ジュリさんは橘クンとボクのカップをテーブルに置き,自分のカップを手に持ってソファーに座った。テーブルには椅子が2つしかないから。

「これくらいの距離なら,ふつうに話してちゃんと声が通るよね?」

「はい」

ジュリさんはうなずき,橘クンに向かって話しかける。

「キミのことはジュンから聞いてます。好きなのね?」

「・・・・あっ,はい」

「愛してね。優しく,ていねいに,心を込めて。分かってると思うけど,ジュンは普通から外れたところがあるけど,とても素直で気立ての優しい子なの」

「分かってます」

ジュリさんは深くうなずく。

「キミは何をしてもいい。性愛に係わることも含めて。ただ,ジュンの嫌がることはしない。ジュンが『いや』と言ったらつべこべ御託を並べずに引き下がる。痛い目に遭わせちゃだめ。わたしだってガラス細工を扱うようにていねいに扱ってるんだからね。乱暴な取り扱いをしたら,許さないよ」

ジュリさんは鋭い眼差しで橘クンを見つめる。橘クンは気圧されたようにうなずいた。

「ジュンをほんとうに愛していると言うのなら,自分の都合よりジュンの幸せを優先して」

ジュリさんは橘クンを見つめ続ける。

「ジュンはわたしを愛してる。それは間違いない。そしてジュンはキミのことも決して嫌いじゃない。好きか嫌いか二択を迫られたら『好き』と答えるよ。そんなジュンにとって困るのは,キミかわたしかどちらかを選べと迫られること。それは確実にジュンを苦しめ,不幸にする。だから,そんな選択を迫っちゃだめ。分かった?」

橘クンはうなずく。

「もちろん,わたしもそんなバカなことはしない。する必要もないからね」

「そうですか?」

「そうよ」

 橘クンはちょっと考え込んでから,ジュリさんに問いかける。

「愛する人を独占したいとは思いませんか?」

「思わない。できるはずがないから。独占するというのは100%束縛するということなの。でも,それは不可能。人の心は自由だから,束縛し尽くすことなんかできないよ。そんなことしたら,逆に嫌われるだけ。相手から愛されたいなら,相手の自由を認めないと」

「でも,自由を認めて,自由に飛び去ってしまったら?」

「その時は仕方ない。去る者は追わないわ」

「ほんとうに,それでいい?」

「これまでは,そのように生きてきたよ」

橘クンは驚いたような表情でジュリさんを見る。

「だって,仕方ないじゃない。その人がわたしから去るというのは,その人にとってわたしはその程度の人間だった,その程度の魅力しかなかったということでしょう。だとしたら,たとえどんなに束縛しても,いずれ去っていくよ。確かに,悲しいけどね,くやしいけどね。でもね,その方がいいの。去る者は去るに任せる方がいいの。恋の泥沼に落ち込まない人生の知恵なの」

 橘クンは相変わらず驚いたようにジュリさんを見る。

「そんな発想・・・・初めてです」

ジュリさんはフッと笑った。それまでの鋭い眼差しが消えて優しい顔になっている。

「少数意見だということは自覚しているよ。でも,少数者の方が幸せなこともあるんだよ」

「なんだか,スタンダールみたいですね。The happy few」

という橘クンの合いの手にジュリさんは微笑みを漏らす。

「わたしはキミほど文学に詳しくないけどね・・・・そもそも,嫉妬はエレガントじゃないよ。愛する人の前ではエレガントでいたいじゃない。キミもエレガントを指向してるんでしょう。ジュンが言ってたよ。男子にしてはとてもエレガントだって」

橘クンは,それまでジュリさんに向けていた視線を向かい合って座っているボクに向けた。

「篁,そんなこと話したのか?」

「うん。話したよ」

「それは・・・・とてもうれしい」

このやりとりを聞いて,ジュリさんは明るい声で笑った。

「橘クン,少しは緊張がほぐれた?」

橘クンは照れたように苦笑いした。それから,ふと何かを思いついたように,ジュリさんに話しかける。

「さっきの話を蒸し返すようだけど,『去る者は追わず』の話。ほんとうに去るんじゃなくて,去るふりをして,つれないそぶりをして相手の気を惹くってこともあるでしょう?」

「ああ,そんな面倒な駆け引きは大嫌い。そんな小細工をしてきたら,その時点で相手への気持ちが冷めるよ。月にでも火星にでも去って行けって気持ち」

橘クンは笑い出した。

「ジュリさん,強い」

「強いのかな・・・・」

「強いと思います」

ジュリさんはまんざらでもない面持ち。それから,話を切り出した。

「さて,毎週土曜日,わたしたちはキー・アンド・ストリングというピアノバーで夕食を摂るんだけど,キミも来る?」

「えっ,ついて行ってもいいんですか? それって,デートでしょう?」

「わたしはかまわないわ。ジュンもたぶん同じ」

「じゃあ,ぜひご一緒に」

「それなら,10分か15分くらい待ってて」

と言って,ジュリさんはベッドルームに向かう。ボクもついて行く。橘クンは状況がつかめていない。

「橘クン,ちょっとそこで待ってて。ボク,着替えるから」

「着替える?・・・・うっ,うん。分かった」

 ベッドルームで,ジュリさんはクローゼットからドレスを取り出している。

「ジュン,今日はドレスを着なさい。彼氏に一番フェミニンな姿を見せなさい。ワインレッドとマリンブルー,どっちにする?」

ボクはちょっとためらって

「ワインレッド」

と答えた。

 ドレスに着替え,化粧してもらい,リビングルームに出る。ボクを見た瞬間,橘クンが息をのんだ。

「美しいでしょう」

ジュリさんが語りかける。橘クンは言葉が出ず,黙ってうなずく。

「素顔のジュンは『かわいい』けど,化粧したジュンは『美しい』のよ。ワインレッドのドレスがよく似合う」

橘クンはまた黙ってうなずいた。

 

 キー・アンド・ストリングまで歩いて10分くらいの道のり。時おり,すれ違う人が振り返る。

「篁を見てるんだね」

「そうね。わたしやキミを見てるんじゃないね」

それからちょっと間を置いて,ジュリさんが橘クンに話しかけた。

「キミはジュンを男として見ているの?」

「えっ,それはもちろん,そうですけど」

「ふーん・・・・わたしはジュンを男と意識したことないなあ」

「女と思ってるんですか?」

「女とも思っていない。・・・・初めのうち,目で追ってた頃は女と思ってた。そうじゃないと分かった時も男だと認識が切り替わらなかった。性別の意識が消えたというのが一番しっくりくるかなあ。ジュンは男と言えない,女とも言えない,ジュンはジュンとしか言えない。性別なんてつまらない仕切りを超越した存在」

橘クンはフッと笑った。

「それって,すごい褒め言葉に聞こえるんですけど」

「もちろん,褒めてるのよ。最高の褒め言葉よ。ジュンとわたしの愛は同性愛とも言えないし,異性愛とも言えない。名前の付けようのない,この世でただ一つの愛」

「それを言うなら,ボクだって・・・・篁とボクの愛だって,この世でただ一つの愛だよ」

橘クンは不満げな口ぶりで答える。

「確かに,この世の愛はすべて,ただ一つの愛ではあるね」

こんな話をしているうちにキー・アンド・ストリングに着いた。

「あら,ジュリさん,今日はボーイフレンドもつれてるの?」

「そう。両手に花よ」

ジュリさんとママさん,冗談を言い合ってる。

「3人なら,カウンターじゃなくてテーブルでいい?」

「いいよ」

ジュリさんと橘クンが並んで座り,ボクが向かいに座る。

「わたしとジュンが並んで座ったらキミがご不満だろうし,ジュンとキミが並んで座ったらわたしがご不満だからね。でも,こうやってると,キミとわたしが恋人どうしみたいね」

と語りかけられて,橘クンは即座に

「それは困る」

と答えたから,ジュリさんが吹き出した。

 いつものように,食事を取りながら,ジュリさんはワインも飲みながら,一緒にいるお客さんのピアノ伴奏で何曲かデュエットする。

「篁,意外と歌がうまいんだな」

「人様の恋人に向かって『意外と』は失礼でしょう」

「あっ,済みません・・・・と言うか,ボクの恋人でもあるはずです」

「それならなおさら不適切発言よ」

こんな冗談めかしたやりとり。橘クンはジュリさんと打ち解けたみたい。よかった。

 1時間半ほどして,店を出た。通りを1本越えて伊勢佐木モール。

「ここで別れようか。キミのうちはモールをまっすぐ行ったところでしょう?」

「うん。まあ,モールからちょっと入るけど」

橘クンはちょっと名残惜しそうだけど,ジュリさんは

「じゃあ,ここで,さようなら」

と手を振る。橘クンも手を振るけど,

「二人はこれから・・・・」

と言いかけて

「いや,何でもない」

と言葉を打ち切って,モールを歩き始めた。ボクたちも歩き始める。

「土曜日に会うことにしたのは,かわいそうだったかな・・・・済んでしまったことだから,今さらしかたないけど」

 

 翌々日の月曜日,高校からの帰り道,

「篁,今日はうちにおいで。うちで本を読んで,晩ご飯も食べていくといいよ。と言うか,そうしてほしい」

「いいよ」

断る理由はない。それに,二日前,伊勢佐木モールでボクたちに別れを告げた橘クンの寂しそうな態度を思い浮かべると,ボクにできることはしてあげたいと思う。

 リビングルームのテーブルでボクは本を読んでいる。本を読むなら,橘クンの部屋のベッドに座るより,リビングルームのテーブルの方が楽だから。橘クンは向かいに座って英語や数学の教科書を開いている。時おり,

「篁,質問してもいいか?」

と声をかける。

「いいよ」

ボクの方が勉強ができるわけではないけど,橘クンが理解できなくてボクが理解できていることもある。もちろん逆パターンもある。そんなボクたちを見て篠原さんが話しかける。

「弘樹さん,篁さんが来てくれる方が勉強がはかどりますね」

「それって,ふだんはボクが勉強しないみたいだね」

「間違ってはいないと思いますけど」

橘クンはふくれっ面する。そしてボクの方を向いて,

「ということらしいから,これからもボクの勉強に協力してくれ」

「いいよ」

ボクは答えた。

 2時間くらい,そうやっていたのかな。ちょっと疲れて伸びをした。

「篁,ちょっと休もうか? まあ,もうじき夕食の時間だけど,それまでボクの部屋で音楽を聴いてよう」

橘クンは教科書やノートを片付ける。ボクも本をバッグにしまう。

 部屋に入ると,橘クンはレコードラックからレコードを選んでターンテーブルに置き,針を落とす。ボクはこの部屋ではいつもそうしているようにベッドに座る。橘クンも隣に座る。音楽が流れてきた。モーツァルトのピアノ協奏曲20番。モーツァルトにしては珍しい暗くドラマティックな曲想。しばらく,二人黙って聴いていた。それから,橘クンはボクの方を向き,背中に手を回して抱き寄せ,キスをした。そして,ベッドに倒れかかり,ボクをきつく抱きしめる。

「いやなら『いや』と言ってくれ。篁が嫌がることはしない。ジュリさんとも約束したし。いやじゃないなら・・・・」

 いやじゃない。決して,いやではない。ただ・・・・薄いシャツブラウスを通して触れあう体。どうしてもジュリさんの体と較べてしまう。そして,はっきり意識する。ジュリさんに抱かれる方が気持ちいい。橘クンに抱かれるのが気持ち悪いとは言わないけど。ジュリさんが言ってたように,どちらか選択を迫られたらジュリさんを選ぶ。心はともかく,体は。〔だから,橘クン,そんな選択を迫らないで〕

「橘クン,優しくハグするのは構わないけど,あまりきつく抱きしめないで」

橘クンはハッとしてボクを見る。そして,腕をほどき,ベッドから立ち上がり,ボクに手をさしのべ,ボクを起こした。そして,言われたとおり優しくハグする。

「これなら,いい?」

ボクはうなずく。

「キスも,いい?」

ボクはうなずく。橘クンはそっと唇を重ね,優しく舌を絡めてきた。

 

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