※この作品はR-18です。

Riverside Story:岸辺の物語   作:松村順

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Chapitre 8

          Chapitre 8

 

 3学期が始まったばかりの1月上旬,わたしは母につれられてお見合いの場所に向かっている。これで4度目かな。最初は確か,音大の4年生の時。ジュリとの関係に夢中だったわたしは,翌日には相手の顔も名前も忘れていた。それから,2度目と3度目は中学教師になって2年目と4年目。そしてこれが4度目。今回も気乗りがしない。でも,こうやって気乗りがしない見合いを繰り返しているうちに,いつか流されるように結婚するのだろうか。これまでの人生,たいていは親に言われたとおりに生きてきた。親に言われてピアノを習い始め,うまいと言われ,音楽大学に進学し,でも結局,演奏家として独り立ちできるレベルではないと言われて,中学の音楽教師になった。わたしが自分の意志で選んだのはジャズピアノくらい。でも,それだって,クラシックこそ一流,ジャズやポピュラーは二流,三流という親の意見で音大に入るとやめさせられた。ああ,それともう一つ,なんで忘れていたんだろう。ジュリ。ジュリとの恋はわたしが自分で選んだ。そして,自分で断ち切った。

 こんなことを考えながらお見合いの場所に指定されたホテルのラウンジに着くと,もう相手は席に着いていた。わたしを案内してきた母は相手方の母とあいさつを交わして,二人揃って出て行った。わたしは見合いの相手に向き合って座る。何も話すことはないから黙っている。すると相手の方から話を切り出した。

「あまり,気が乗らないみたいですね。親に言われて受けたお見合いなんて,そんなものかもしれませんが,一応自己紹介しましょうか。増田澄人,37歳です。仕事は,医者をやっております」

「ああ,ご丁寧に,ありがとうございます。新村早紀,27歳,7月に誕生日が来て28歳になります。中学校の音楽教師をやっております」

そこでまた沈黙。そしてまた相手方から話を切り出した。

「結婚は,あまり乗り気でない?」

「そうですね・・・・増田さんは,乗り気なんですか?」

「まあ,できるなら,してしまいたいですね。この年で結婚もしないでいると,親がうるさくてしかたない」

わたしは,その話し方がおかしかった。

「親を黙らせるために結婚なさるんですか」

「わたしとしては十分な理由なんですけどね。・・・・思うに,現代人は結婚に多くを求めすぎます。過剰な夢を描きすぎます。ざっと数えても,日常生活を共に過ごす相手,物質的・経済的に支え合うパートナー,悩みの相談相手,恋愛の相手,そしてセックスの相手,これだけのものを求めますね。盛りすぎでしょう」

「じゃあ,どれくらいが適切なのでしょう?」

「最低限,結婚という世間体を整えることに同意し合えること。そして,一緒にいていやじゃないこと。いやな人と一緒に暮らすのは堪りませんからね」

「それだけでいいんですか?」

「まあ,最低限は・・・・でも,よく考えてみてください,一緒にいていやじゃないというのは意外と高いハードルじゃないですか? たまに会うんじゃない。毎日ですからね。まあ,仕事が忙しくて家には寝に帰るだけになるかもしれませんが,それでも毎日顔を合わせていやじゃないというのは,けっこう高いハードルだと思いますけど」

「確かに・・・・」

「ああ,自分のことばかり話してますね。新村さんは何か結婚の条件みたいなもの,考えたことないんですか? 結婚のメリットでもいいですけど」

「結婚のメリット・・・・考えたこともないです」

「それはまた,率直なお答えですね」

彼は笑みを浮かべている。わたしもなんだかおかしくなった。とてもお見合いの場とは思えない。気軽な世間話をしている気分。

「増田さん,わたしのために何か考えてくれませんか? 結婚のメリット」

ほとんど,その場の弾みで口にした。このセリフがこれ以後の流れを決めたのかもしれないと,今から振り返って思う。彼はそれなりにまじめに考え込んだ。そして

「新村さんは今,実家でご両親と一緒に暮らしておられるのですよね?」

「はい。両親と兄と姉と一緒に暮らしています」

「ひょっとしたら失礼な言い方になるかもしれませんが,もし仮に,実家があまり居心地のよい場所でないのなら,結婚は実家を離れる機会を提供できます」

「ああ・・・・」

わたしはうなずきそうになった。確かに,わたしにとって実家は居心地のよい場所ではない。そんなわたしの様子を見て彼は,

「ひょっとして,図星を指してしまいましたか?」

と問いかける。わたしは,はっきりうなずいた。

「それは,それは・・・・」

彼はちょっと考え込むようにうつむいた。それからまたわたしの方を向き直り,

「繰り返しますが,結婚は実家を離れる口実になります。それは,わたしにとっても同じことなのですが。それから,先ほども申しましたが,医者をやっております。それなりの収入はあるので,あなた一人くらいは養えます。今のお仕事,中学校の音楽教師とのことですが,生きがいをもって打ち込んでおられるのなら続けてくださってもかまいませんが,できることなら辞めたいと思っておられるのでしたら,お辞めになってもかまいません。専業主婦になっていただいてもかまいません」

「三食昼寝付き?」

「まあ,昼寝は,無理にとは申しませんが,趣味に打ち込む時間もある程度は残るでしょう」

「趣味?・・・・」

「趣味はないんですか? 音楽は,趣味じゃなくてお仕事になるのかな・・・・」

「そうですね。子供の頃から親に言われてピアノをやっていて,うまいと言われて音大に進学して,でも結局プロとして通用するほどではなくて教師になって・・・・音楽を趣味と思ったことはないです。高校時代はおもしろがってジャズピアノを弾いてましたけど」

「じゃあ,またジャズピアノを始めればいいでしょう」

「そんな・・・・どうせ仕事にできるレベルじゃないのに」

「趣味なんだから仕事にする必要はありません」

「えっ?・・・・」

ほとんど,虚を突かれる思いだった。趣味でピアノを弾くという発想が抜け落ちていた。高校のジャズ研は高校というモラトリアムの時代に許されていたこと,大人になっても許されることとは思っていなかった。心の一部が乗り気になっている。そんなわたしに彼は邪気のない笑みを見せる。

「ひょっとして,口車に乗せられているような気がしていますか?」

「いえ,口車なんて,とんでもない」

「じゃあ,少しは前向きに検討していただけるのでしょうか?」

「ええ」

わたしは素直に肯定した。それから,ふと思いついたことを口にした。

「ただ,子供ができたら,育児に追われて趣味どころじゃなくなるかもしれませんけどね」

彼は,何か考えるような表情。そして,

「子供はほしいと思いますか?」

と問いかけた。

「えっ?・・・・それは,結婚すれば子供を産むものじゃないでしょうか?」

「産まないという選択もあり得ますよ」

「えっ・・・・でも,ふつうは・・・・」

と答えて,わたしは言いよどむ。そんなわたしに視線を向けながら,彼は

「『ふつう』ですか・・・・世間一般のふつうではなくて,あなたの本心はどうなのでしょう?」

と問いかけ,

「どうせ,お断りすれば二度と会わない人間なんです。遠慮なく,思ってることをお話になってかまいませんよ」

と言葉を続ける。

 わたしの本心は・・・・子供を産むことよりも,その前提となる行為に嫌悪感がある。ジュリと抱き合うことには抵抗なかったけど,男を受け入れるのは抵抗感が先立つ。でも,さすがにそれは話せない。それで,理由は省略して結論だけ話す。

「本心を言えば,子供はあまりほしくないんです」

彼は笑みを浮かべてうなずいた。

「意見が一致しますね。わたしも,仮に結婚しても子供はほしくない。作りたくない」

「それは,どうして?」

彼は考え込む。それから,

「それに答える前にご自身の理由,新村さんがなぜ子供をほしいと思わないのか,その理由をお聞きしたいのですが,でもそれは,あなたのプライバシーに深く立ち入ることになるのでしょう。今日初めて会った相手には話しづらいでしょう」

彼は穏やかな眼差しでわたしを見る。確かに,その理由は説明しづらい。沈黙したわたしに,彼は元の快活な口調で語りかける。

「ともかく,お互い意見が一致する部分は多いようです。新村さんは前向きに検討していただけるとも言われた。それなら,これから何度かお会いしませんか? 仮に結婚するとしたら,相手に求めたいこと,自分がしたいことを率直に語りあいませんか。そうやって互いに相性を確かめあってはいかがでしょうか?」

「デートのお誘いですか?」

「まあ,世間一般で言うデートのような甘い雰囲気にはならないかもしれませんが」

わたしは笑った。

「わたしもそう思います。でも,それでかまいません」

 

 それで,翌週「デート」をした。彼の言ったとおり甘い雰囲気のものではなく,結婚した場合の具体的な条件を話し合う場になった。

「家事はお任せしたいのですが,最低限やってほしいのは朝ご飯を作ること」

「昼,夜はいいんですか?」

「昼は仕事場で食べます。夜も,外で済ませてきてもいいです。ただ,あなたが料理が好きで,ぜひわたしに食べさせたいということであれば,食べずに帰宅します」

「特に料理が趣味というわけではありませんよ」

「じゃあ,朝だけでけっこうです。ただ,ふと気が向いて夕食も作ろうということになったら,連絡をください。食べずに帰ってきますから」

「分かりました」

「お掃除は,わたしの部屋は自分で片付けるので,ご自身の部屋とリビングルームや浴室などの共用部分をお願いします。隅々までピカピカに磨き上げる必要はありません。ぱっと見に散らかっていなければけっこうです。それと,洗濯はお願いします。そんなにたいへんな仕事量ではないと思いますよ」

「そうですね」

こんな会話が交わしていると,ふとおかしくなる。

「ほんとうに,とても世間で言うデートの雰囲気じゃありませんね。事務的でさばさばした話し合い」

「大事なことでしょう。結婚というのは,ひょっとしたら一生にわたる共同生活なんです。その条件をきちんと詰めておくのは大事ですよ」

「ええ,もちろん・・・・ただ・・・・」

「ただ?」

「それだけなら,結婚しなくても,家政婦を雇えばいいことじゃないですか?」

「そうかもしれませんが・・・・先週の話の中で,結婚に求める最低限のこととして『結婚という世間体を整えること』と話しました。覚えていますか?」

「はい」

「率直に言うと,それがわたしにとって一番重要なことなんです。それなりのステイタスのある男が37歳にもなって独身でいることは,それだけで一種のリスクというか,いろいろ面倒くさいんです。その煩わしさから逃れたい」

と言って,彼はわたしに静かな視線を投げる。

「憤慨なさいましたか?」

「憤慨はしません。ただ,とても率直な人だなあと・・・・」

「あきれた?」

「いえ,あきれるというより,むしろ感心しました」

「それは,ありがとうございます」

彼がこれほど率直に自分のことを語るのなら,わたしもまた自分のことを率直に語るべきなのか? でも,その勇気がない。こんな考えに沈むわたしに彼は明るい口調で語る。

「感心していただいたのなら,またお会いできますか? 来週あたり」

「はい」

 

 翌週,「デート」の待ち合わせ場所に向かう道すがら,わたしは考えていた。〔彼はあれだけ率直に語ってくれた。わたしも率直に自分のことを語るべきだろう〕でも,ありのままを語るのは難しい。わたしは,待ち合わせ場所にしたホテルのラウンジで彼に問う。

「先週のお話で,『結婚という世間体を整えること』とお話になりましたけど,それはつまり,結婚は世間体のこと,実質は家政婦と考えてよろしいのですか?」

彼はおかしそうに笑う。

「ずいぶん率直に語られますね。まあ,そのとおりです」

「それなら」

わたしは一歩踏み込む。

「主人が家政婦に性的な関係を求めるのは,違法というか社会規範に反することですよね?」

彼はやはりおかしそうに笑いながら答える。

「そのとおりです・・・・つまり,そのようなことは望んでおられない?」

彼は穏やかな表情でわたしを見る。わたしはゆっくりうなずいた。彼もうなずく。

「ひょっとして,あなたは男を愛せない,少なくとも性愛の対象として男を愛せない人なのでしょうか?」

「たぶん,そうだと思います」

「たぶん,というのは?」

「つまり,まだ経験がないんです。でも,どうしても抵抗感があって・・・・」

「抵抗感のあることを,無理にしなくてもよろしいです・・・・女の人とは?」

「一度だけ,一人だけあります」

「なるほど。つまり,あなたは性に淡泊というか,性的な事柄に関心が薄い人なんですね」

「そうかもしれません。変ですね」

「変・・・・まあ,確かに今の社会は,大人になれば異性とセックスするのが当たり前,しないのはおかしいという風潮ですけど。無理にその風潮に迎合しなくてもいいのですよ」

彼は静かな口調で語る。その語り口はわたしを安心させる。

「あなたがそこまで率直に語られたのだから,わたしも自分のことを包み隠さず語らないといけませんね。わたしも女を愛せないんです,少なくとも性愛の対象として愛せない」

わたしは息をのんだ。

「驚きましたか?」

「はい」

と答えながら,わたしは心のどこかでそれを予期していたかもしれない。

「増田さんこそ,よくそのことを打ち明けられましたね」

彼はちょっと考え込む。

「確かに,わたしと同じような指向の持ち主,簡単に言えば同性愛者には,そことを隠して偽装結婚する人たちもいます。それぞれに事情があってのことだとは思いますが,でもやっぱり,それは避けるべきだと思います。形式的ではあれ,結婚というのは生涯にわたる共同生活のパートナーとなることなのですから,その相手にこんな大事なことでウソをつくべきではない。それに,この点を隠して結婚すると,当然のことながら相手から性交渉を求められます。それはわたしたちにとってとても辛いことであるはずなのです」

わたしはそう語る彼を見る。率直で誠実な人。さらに言えば,穏やかで紳士的。親といるより,この人と一緒の方がわたしは安らかに暮らせるかもしれない・・・・。こんなことを考えている時,

「ともかく,そういうわけなので,熱い恋の相手やめくるめく性愛の相手をわたしに求めないでください。それはほかの人に求めてください」

と言われて,わたしはまた驚いた。

「よろしいのですか? それは,つまり,浮気をしていいということですよね」

彼は穏やかに微笑む。

「しかたありません。わたしが与えることのできないものです。それをあなたが求めるなら,ほかの誰かに求めていただくしかありません。ただ,わたしの体面は守ってほしい。第三者にもおおっぴらにするのは,避けてください。わたしが気付くのは,ぜんぜんかまいませんが」

「それでよろしいのですか?」

「むしろそれが自然でしょう。一緒に暮らしていれば,特別な隠しだてをしなければ,いずれ分かることでしょう。もちろん逆パターンもあり得ます。わたしの恋にあなたが気付くこともあるでしょう」

「確かに」

「ああ,話が先走りました。まるでもう結婚が決まったかのような話し方でした。まだ承諾をいただいていませんね。この場で返事をしろとは申しません。大事なことですから,よく考えてお返事ください。ただ,あまり長く待たされるのも」

「では,1週間のうちに」

「1週間でよろしいのですか?」

「はい」

わたしはかなり気持ちが傾いている。でも,彼の言うとおり大事なことなのだから,もう少し考える方がいいだろう。

 

 6日目に「承諾」を伝えた。そして,学校に退職を申し出た。

 承諾を伝えて最初の「デート」の場でわたしは澄人さんから願い事をされた。

「実は,あなたに悪役になってほしいのですが」

「わたしが悪役に?」

「はい」

と答えて彼は説明を加えた。

「親,主に母親ですが,結婚後,わたしたちが一緒に暮らすことを望んでいます。わたしはまっぴらごめんです。わたしにとっても実家は居心地の良い場所ではありませんから。それで,親を説得する口実の一つに,あなたがそれを望んでいないと主張したいんです」

わたしは笑った。

「よろしいですよ。ウソではありませんし」

「もちろん,そうでしょう。結婚相手の実家に舅や姑と一緒に暮らしたいなんて望む女性はいませんよね。事情が許せば,どちらの親からも独立した所帯を持ちたいと願うでしょう」

「はっきり,おっしゃいますね」

「間違っているとは思いませんが」

「もちろん,間違ってはいません」

わたしは微笑んだ。そして,

「では,わたしからも,あなたに悪役になってほしいお願いがあるのですが」

「おや,何でしょう?」

「うちの親は盛大な結婚式を挙げたいと望んでいるんです。でも,わたしはいやなんです。盛大といっても,参加者の多くはわたしの知らない親の関係者。わたしはそんな仰々しいセレモニーじゃなくて,こぢんまりした親密な式にしたいんです」

「わたしも同感です。では,わたしがそんな大げさなセレモニーには強硬に反対していると伝えてください」

そして,彼はいたずらっぽい笑みを見せる。

「お互い,相手のために悪役を演じあいましょう」

それから,彼はまじめな表情になった。

「今回のことに限らず,これからも,お互いの願い,希望はきちんと言葉で伝えるようにしましょう。以心伝心なんて例外的にしかあり得ないことです。例外的なことを当てにせず,きちんと言葉で伝えるようにしましょう。その手間を惜しまないようにしましょう。そして,相手からの提案にはYes,Noをきちんと伝えましょう。特にお願いしたいのはNoをはっきりNoと言ってくれることです。女の人はNoと言わないように躾けられている傾向があります。内心ではNoと思っていても表向きはYesと答える。これはとても困ります」

「どうして?」

「YesをYesだと信じれないからですよ。Yesと返事されても,それは本当はNoかもしれないと余計な気を回さないといけないからです。それはとても疲れます。わたしを疲れさせないでください」

彼は穏やかな,でも真剣な表情でわたしを見る。わたしはうなずいた。〔率直で合理的な人〕恋愛感情を交えない共同生活のパートナーとしては理想的かもしれない。

 

 3月末までの1ヶ月半,淡々と仕事をこなす。夜,ふとジュリのことを考えてしまう。彼はわたしに同性愛を公言した。なら,わたしもジュリとの恋を復活させてもいいのか? 学校も辞めるのだし・・・・。わたしは頭を振ってその考えを追い払う。5年前,自分で終わらせたのだ。むしろ,この機会に,親元を離れて新しい生活を始めるこの機会に,きっぱり過去のことにしてしまおう。そして,ジュリの身代わりとしてジュンを愛するのも終わりにしよう。

 結婚して住む場所は,彼の仕事場から「近いけど近すぎない」ということで上大岡にした。カリタス学院にほど近い2LDKの分譲マンション。半額くらいは頭金で払ったらしい。わたしの部屋には簡易防音を取り付けてくれた。夜中はともかく,昼間なら隣を気にせずにピアノを弾ける。新しいピアノを買ってもいいと言われたけど,子供の頃から弾き慣れたアップライトピアノを運び込んだ。

 

 4月に挙式,そしてすぐに引っ越し。前もって約束したとおり,朝ご飯はきちんと作る。「昼と夜はご飯ものが多いから,朝はパンで」というリクエストなのでイングリッシュ・ブレイクファースト。わたしもその方が好み。それから洗濯と掃除を済ませると,あとはわたしの自由時間。

 気ままにピアノを弾く。クラシックも弾くけど,ジャズを弾く方が楽しい。ピアノを弾くのが楽しいと思うのは久しぶり。ジュリの歌の伴奏をしていた頃以来かも。気が付くとお昼をとっくに過ぎていることもある。食事も忘れてピアノに打ち込むなんて,ひょっとして生まれて初めて? わたしは,ほんとうはピアノが好きだったのかもしれない。なんの義務感もなく,コンクールや試験にせき立てられることもなく,ただ好きな曲を弾く。ただ,弾くのが楽しいから弾く。そして弾き疲れたら,のんびり音楽を聴く。こんな生活を与えてくれた彼には素直に感謝する。そして,ジュリとの別れの辛さが少しずつ薄らいでいく。

 彼は特に音楽を聴くのが好きなわけではないけど,たまにわたしの演奏をそばで聞いている。

「素人目には,というか素人耳には,十分プロで通用しそうですけどね」

「残念ながら,プロの世界はそんなに甘くないんです」

「そうなんですねえ・・・・それにしても,ピアノを弾いていれば幸せとは,安上がりな人ですね。世の奥様方みたいに,やれファッションだ,グルメだ,旅行だなどと言わないから,あなたの貯金が積み上がっているよ」

彼は,家計費とは別にわたしの小遣いとしてそれなりの額をわたしの口座に毎月入れてくれている。そのことを言っている。

「じゃあ,いつかあなたに感謝を込めて何かプレゼントしましょうか?」

「いや,それは・・・・気持ちだけでうれしいよ」

「それなら,わたしは何を・・・・わたしはこんな,贅沢とは言わないまでも,安らかで心豊かな生活をあなたから与えられている。わたしは何をあなたに与えているのかしら?」

「結婚というステイタスを与えてくれている。以前にもお話ししたとおり,ある程度の年代の男にとって,そしてある程度の社会的地位と評価を持つ男にとって,独身であることはそれだけで一種のリスクなんだ。それを避けられる。ましてわたしの場合,ホモセクシュアルの噂を否定することができる。これはとても大きなメリットなのですよ」

「そうかもしれないけど・・・・あなたこそ,好きなことをなさればいいわ,仕事の余暇に。それこそ,恋だって」

「それは,まあ・・・・恋人に入れ込んで家計を傾けるようなことはしないから,心配しないで」

「もちろん,そんな心配はしてません」

新婚カップルの会話ではないかもしれない。でも,心安らぐ。熱く激しくとも移ろいやすい恋ではない,静かで堅固な友愛。始まりは打算だったけどやがて信頼関係で結ばれるようになった。

 

 こうやって1年が過ぎる頃,聴く人の前で弾きたいという思いが芽生えてきた。何百人とか何千人という大聴衆でなくていい。ほんの2~3人,4~5人でいい。拍手喝采は要らない。ただ静かに聴いてくれればいい。何も言葉を発しなくても,弾く側と聞く側でコミュニケーションが成り立つ。音楽は本質的に孤独の営みではなく,コミュニケーションの営みなのかもしれない。どこかそんな場所がないものかと考えていて,思い出した。高校時代,ジュリが誘ったピアノバー。確か「キー・アンド・ストリング」という名前だった。わたしは「バー」という名前と,親不孝通りにあるという立地に怖じ気づいて誘いを断った。ジュリは

「バーと言っても昼の3時から営業していて,お酒じゃなくてコーヒー,紅茶でもいいんだよ」

と言って笑ったけど,無理強いはしなかった。ママさんがピアノを弾くこともあるけど,客が自由に弾いていいらしかった。

 行ってみようかと思って,実際に足を運んだのは5月も半ば。地下鉄の伊勢佐木長者町駅から歩いてすぐのビルの2階。12~13人くらい座れるカウンターと4人掛けのテーブルが6~7卓くらい。奥にピアノがある。小型だけどグランドピアノ。G2かな,G3かな? 開店間際で客はまばらだけど,4~5人くらいは入っている。カウンターの中にいるママさんらしき中年の女性が

「初めてですか?」

と声をかけた。

「はい」

と答えてカウンターの端に座り紅茶を頼む。2~3口飲んでから,

「ピアノを弾いてもいいんですね?」

と尋ねる。

「どうぞ」

とママさんは答える。わたしはピアノの前に座る。人前でピアノを弾くのは1年ぶり。中学の授業を別にすれば,大学の卒業演奏以来,何年ぶりかしら。

 “You’d be so nice to come home to”を弾きかけて,やめた。悲しい恋の歌よりも・・・・わたしは“I could have dances all night”を弾き始めた。ジュンの明るい笑顔を思い出しながら。それから“Swanee”,そしてアップテンポにアレンジした“Sentimental journey”。でも,やっぱり最後は“You’d be so nice to come home to”を弾いた。

 弾き終えると,ママさんが拍手してくれた。

「お上手ですね。ひょっとして,プロ?」

苦笑いが漏れそうになる。「鳥無き里のコウモリ」という言葉が浮かぶ。それから頭を振った。だめだめ,何もわざわざ自虐することはない。褒め言葉は素直に受け取ろう。

「ありがとうございます。褒めていただくのはうれしいのですが,プロで通用するレベルじゃないんです」

「そうかなあ?」

という声が返ってくる。この日はこれで終わった。

 それから時々,週1回くらい通うようになった。開店間際から夕方5時くらいまでの時間帯。夜は家に居るようにした。あらかじめ澄人さんに伝えておけば,夜出歩いても何も文句を言われないことは分かっているけど,何となくわたし自身のけじめとして夜は家に居るようにした。それに,夜でないと出かけられない事情もないのだし。

 2ヶ月が過ぎ,3ヶ月が過ぎ,わたしはしだいにキー・アンド・ストリングに馴染んでいった。ママさんはわたしに話しかける。

「サキさん,平日の午後だけじゃなくて,週末とか平日でも夜とか,もっとお客の多い時間帯にも来ればいいのに」

「どうして?」

「サキさんのじょうずなピアノ,もっとたくさんのお客に聴かせたいもん。サキさんは謙遜するけど,プロ級でしょう」

「ありがとうございます。まあ,セミプロ級ということで」

と答えて,わたしは特に習慣を変えることはない。この頃になると,この時間帯に顔を合わせる何人かのお客とは顔なじみになっていた。わたしのピアノ伴奏で歌ってくれる人もいる。昔のジュリみたいに。ジュリほど息が合ってはいないけど。

 この時間帯に来る人たちは3つのグループがあるようだった。まず,学生たち。授業をサボってると決めつけてはいけないかもしれないけど,授業を早めに終えてここにたむろしている。それから,水商売の女性たち。仕事の前にくつろぎに来ている。歌がうまいのは商売柄かもしれないけど,ピアノを弾ける人もいるのには驚いた。でも,それはわたしの浅はかな偏見かもしれない。ピアノを弾ける女が水商売をやって,ないも悪いことはないのだから。そして,子供が中学生か高校生くらいになった年代の主婦たち。子供の帰宅時間が遅くなったか,帰宅時に親がいなくても気にしない年頃になったのか,夕方5時くらいまでは家を空けられる立場の主婦たち。この3つのグループが適度な距離を保って棲み分けている。その雰囲気をわたしは好き。だから,おそらく昼の仕事を終えた勤め人たちが主流になるのだろう夜の時間帯に来ようという動機はなかった。

 こうして秋になり,冬になり,年が暮れ,年が明けて,1月も下旬になってわたしが土曜日の夜に来ようと思ったのは,あれからも忘れた頃に繰り返されるママさんの

「サキさんのじょうずなピアノ,もっとたくさんのお客に聴かせたい」

というセリフにほだされたのと,ふだんとは違う人たちにも聴いてもらいたいというわたしのささやかな見栄,野心のせい。

 その日,6時頃に店に入ると,カウンターもテーブル席も半分以上うまっており,ピアノを弾いている人がいた。わたしがふだんの定位置にしているカウンターの隅もすでに客がいて,カウンターの真ん中に座った。軽い食事を摂り,紅茶を飲んでいる頃,ピアノが空いた。

 ピアノの前に座る。まずは,一番自信のある曲。“You’d be so nice to come home to”。興に乗ってアドリブの間奏を加える。何人かの視線を感じる。そして,弾き終えた時,すぐ脇から声がした。

「サキ,もう一度弾いて。ジュンとデュエットするから」

びっくりして脇を見上げる。

「ジュリ! ジュン!・・・・」

 

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