Chapitre 9
ジュンの17歳の誕生日は日曜日にぶつかっているから,その前夜を,レストランでディナーではなく,キー・アンド・ストリングで楽しく過ごすことにした。6時頃わたしの部屋で待ち合わせ,去年と同じようにワインレッドのドレスを着せる。サキがジュンの中にわたしの面影を見たように,わたしはジュンの中にサキの面影を求めているのだろうか?・・・・それから,ふだん以上に念入りに化粧してジュンを連れ出す。大岡川を渡り,福富町をのんびり歩き,伊勢佐木モールを横切るとすぐ。
店のドアを開けると,ピアノで奏でられる“You’d be so nice to come home to”のメロディーが耳に入った。誰が弾いてるんだろうと思ってピアノの方を見て,一瞬固まった。〔サキ!〕声には出さない。心の中で叫んだ。ジュンも気付いたみたい。つないでいる手をぎゅっと握りしめた。わたしたちはピアノのそばまで歩く。サキは演奏に集中してわたしたちに気付かない。曲の最後の音符をサキが叩くとすぐにわたしは声をかけた。
「サキ,もう一度弾いて。ジュンとデュエットするから」
サキはびっくりしてわたしたちを見上げ
「ジュリ! ジュン!・・・・」
と叫んだ。しばらく黙って見つめあう。それからジュンとわたし,ほとんど同時に
「サキ!」 「先生!」
と語りかけ,またしばらく黙って3人で見つめあう。そしてわたしが声をかける。
「ともかく,もう一度弾いて。話はそれから」
サキはゆっくりうなずいて,弾き始める。わたしたちは歌い始める。ああ,やっぱり,サキの伴奏が一番歌いやすい。
わたしが“・・・・and love”と歌い終え,サキが鍵を押さえ続けて最後の音の余韻を響かせ,そして指を鍵から離した。余韻が断ち切られる。サキは鍵盤から顔を上げる。3人の視線が絡み合う。
「7年ぶり?」
「そうね」
「そして,ジュンは2年ぶり?」
「はい」
そしてまた沈黙が広がりかけたところで,わたしが声をかけた。
「とにかく,座りましょう。サキはどこ?」
サキはカウンターの真ん中あたりを指す。
「移動しない? 一緒のテーブルに」
「もちろん,かまわないわ」
わたしとジュンが隣り合って座り,サキは向かいに座る。
「今恋人どうし,寄り添わせてね」
「まあ,仕方ないわね」
サキは笑う。ちょっと寂しさが混じっているかも。サキは食後の紅茶を飲んでいる。わたしたちは食事と,わたし用の白ワインをオーダーした。
「サキ,ワインは飲めたよね?」
「少しはね」
「じゃあ,一緒に飲もう」
食べながら,飲みながら,わたしはこれまでの経緯をサキに説明する。ジュンと出会ってから今に至るまでの経緯。このワインレッドのドレスの由来も,サキとの関係をジュンに説明済みであることも,そしてもちろん,土曜の夜ごと一つのベッドで抱きあって寝ることも。
「そして,今日はただの土曜日じゃないの。ジュンのバースデイ・イヴ」
「ああ,ジュンは1月27日生まれだったね。モーツァルトと同じ誕生日・・・・じゃあ,あまり遅くならない方がいいわね。早めにベッドインしたいでしょう」
サキは平静な口調で語りかける。わたしに,そしてジュンに。ジュンは気恥ずかしそうにうつむく。こういうところは,いつまでたっても「うぶ」。
「明日の日曜日,何か予定がある?」
「特にないわよ。近くの喫茶店で一緒にブランチするくらい・・・・ジュンは,何か予定があるの?」
「いえ,特に何もありません」
「じゃあ,うちにおいで,明日の日曜日」
「・・・・いいの? 旦那さんがいるんじゃない?」
「いても,ぜんぜんかまわない」
「そう?・・・・」
「ああ,そうね。ジュンは女の子の格好で来てちょうだい。今着てるドレス,そのまま明日の着て来ればいい」
「確かに,旦那様の目をごまかすには,その方がいいね」
というわたしの言葉を聞いてサキは意味ありげに笑う
「そうだけど,そうじゃない」
「?・・・・」
わたしはサキの言葉の意味が分からない。でも,この場で追求することもないだろう。
「じゃあ,そろそろお開きにしましょうか?」
「サキは,それでいいの?」
「うん。積もる話は明日に。今夜は二人の邪魔をしたくない」
「ありがとう・・・・じゃあ,明日は朝起きて,支度をしてすぐに来るから,ブランチの用意をしておいて」
「いいわよ」
7年ぶりの再会は意外に淡泊に終わった。
翌日,日曜日の朝。ジュンの体の温もりを感じながらずっと寝ていたい気もするけど,今日はサキのうちを訪問する日。がんばって起き出す。ジュンも目を覚ましている。
「先生のうちに行くの?」
「うん。でもその前にお支度ね。寝起きの顔じゃ行けないでしょう」
一緒に起き出し,リビングルームのエアコンをつけ,まずわたしが手早く支度する。それから,ジュンを念入りに化粧する。そして,マリンブルーのドレスを着せる。サキは昨日と同じドレスと言ったけど,わたしは着替えさせたい。わたしが着たドレスを着せたい。そして,コートを着せる。これは昨夜着せたキャメルのコート。ジュンは,袖を通してからちょっと考え込む。
「先生のうちに行くなら,ぜひ着たいコートがあるんです。部屋に取りに行ってもいい?」
それは,もちろんかまわない。
ジュンはキャメルのコートを羽織って駆けだし,10分もしないうちに戻ってきた。深い赤色のコートを手にしている。
「先生からもらったコートなんです」
と話しながら着替える。ああ,よく似合っている。
京浜急行の上大岡。高校生時代,毎朝降りた駅。ホームからはサキが住む12階建てのマンションが見えた。
703号室のドアホンを押すと,すぐにサキがドアを開けてくれた。開けた瞬間,サキは自分が与えたコートを着たジュンの姿に目を細める。
「似合ってるわ」
ジュンがそのコートを脱いでマリンブルーのドレス姿になる。サキはハッとして見つめる。
「ほんとうに,あの日のジュリみたい」
わたしはニッコリ笑う。
通されたリビングルームには夫とおぼしき男性がソファーでくつろいでいた。
「サキの学生時代の友人のジュリともうします」
とあいさつする。ジュンは
「ジュンです。ええっと・・・・」
なんと自己紹介するか迷っている。すぐにサキが
「わたしの中学教師時代の教え子よ」
と説明した。
「わたしがいては邪魔ですね」
と言って,ご主人はソファーから立ち上がる。
「申し訳ありません。追い出すみたいで」
「そんな,かまいませんよ。ここにいないといけないわけではないのですから。それにしても,早紀さんが友達を呼ぶのは初めてのことです。ごゆっくりしていってください」
と言って,ご主人は自室に引っ込んだ。
「とても気の利くご主人ね」
「うん」
サキは素直に肯定する。
「リクエストにお応えしてブランチの材料を準備してるわ。すぐに食べるでしょう?」
「うん。おなかすいてる」
「すぐ用意する。ハムエッグとトーストでいいよね?」
「もちろん。作っていただくのに,わがままは言いません」
7年のブランクがなかったかのように,気のおけない会話を交わしている。あの頃,わたしの部屋でこんな会話をしていた。作るのは朝食でなく夕食だったけど。学校を終え,おなかをすかした者どうし,手早く作れるものを作って一緒に食べた。
5分もしないうちに,テーブルにハムエッグとトーストが並べられた。わたしとジュンは向き合って座る。サキはソファーに座っている。テーブルには椅子が2つしかないから。この状況,既視感がある。橘クンがわたしの部屋に来た時もこのパターンだった。
「椅子が2つしかないのね。お客が来ることはまったく想定していないんだ」
「まあ,そういうこと」
「うちも同じだけどね」
わたしたちが食べてる間,サキはソファーでくつろいでいる。食べ終わるのを見計らってキッチンに立つ。
「ジュンは相変わらずカフェオレ? ジュリはコーヒーでいいのかな?」
「はい」
わたしたちは口をそろえて返事する。
コーヒーカップを2つテーブルに置き,サキはさっきご主人が引っ込んだのとは別の部屋のドアを開け,
「食後のコーヒーのBGMを演奏するわ」
と言って,ピアノを弾き始めた。サキの部屋でサキのピアノを聴くのは久しぶり。あの別れの日以来かな。あの日はもちろんこの部屋ではなく,実家のサキの部屋だったけど。その前は・・・・高校時代かな。サキの実家を訪れたことはあまりなかった。こんなことを考えながら,コーヒーを飲み終えた。ジュンが自分のカップとわたしのカップを手にとってキッチンに立つ。
「カップを洗うくらいは,ボクがやります」
ジュン,気を遣ってるのかな? ちょっとおかしい。サキが声をかける。
「洗い終わったら,こっちにおいで。ジュリも」
サキの部屋。シングルベッドと化粧台,そしてアップライトピアノがある。
「ベッドに座って。昔,ジュリの部屋でそうしてたでしょう」
わたしとジュンはベッドに座る。サキはきりのいいところで演奏を終え,開けたままだったドアを閉め,わたしたちに向き合うようにカーペットに座る。そして,話し始めた。
まず,ジュンとの出会い。それはジュンの口からも語られたことだけど,サキの立場からはまた別の見方もある。ジュンがわたしと似ていると認識したのは,出会ってすぐではなく,1年くらい経ってから,たわむれにドレスを着せ化粧した時のことらしい。それから,ジュンのために高校を探したこと。家庭の事情を考えてなるべく経済的負担の少ない高校ということで開明の特待生試験を勧めた。その辺の話はいかにも学校の先生という気がする。わたしが知らなかったサキの一側面。そして,卒業と同時に「もう会わない」と告げたこと。結婚を機にそれまでの恋心を断ち切るため。ジュンだけでなくわたしへの恋心も。
そして話題はお見合いと結婚に移る。今のご主人が見合いの席で言ったことには驚かされた。
「ほんとうに,そんなこと言われたの?」
「ウソついてもしかたないでしょう」
「まあ,そうだけど・・・・でも,それなら,ジュンを隠す必要はないでしょう。女装させなくてもよかったんじゃない?」
「ジュリは意外とイマジネーションが乏しいね」
「えっ,どういうこと?」
「ホモセクシュアルの男がジュンのような絶世の美少年を目にしたら,何が起きると思う?」
「ああ,そういうこと」
「そう。そうなるとは言い切れないけど,可能性は排除しておきたい。澄人さんとジュンが恋仲になるのは,いや。澄人さんが誰を愛そうとかまわないけど,ジュンは困る」
サキのまじめな口調がちょっとおかしかったけど,気持ちは分かる。
「サキはどうなの? 『熱い恋の相手やめくるめく性愛の相手はほかの誰かに求めてください』と言われて,『ほかの誰か』がいるの?」
「いない。いたら,日曜日にここでこんなことしてないでしょう」
と冗談めかして答えてから,まじめな顔になった。
「わたしは恋への欲求も性欲も淡泊みたいね。わたしが本気で恋したのはジュリだけよ」
「ジュンは?」
「ああ,ジュンは・・・・」
サキの目が潤む。
「恋とは違っていたと思う。好きだったけど。ジュリを『好き』というのとは『好き』の意味が違ってた」
サキは軽くため息をつく。
「そもそも,ほんとうにジュンを好きだったと言っていいのか・・・・ジュンの中にジュリの面影を求めていただけかもしれない。ジュンには申し訳ないけど」
「謝らなくていいんだよ。ジュンはサキに愛されて幸せだったんだよ。ねえ,ジュン」
わたしはジュンに語りかける。ジュンはうなずく。
「ほんとう? ジュンは幸せだと思ってくれていたの?」
「もちろんです。先生と一緒にいて,かわいがってもらえて,うれしかったです」
「それはよかった・・・・」
サキはほっとしたように,ジュンに微笑みを漏らす。わたしは語りかける。
「サキは余計な荷物を背負い込まなくていいんだよ。わたしのことだって・・・・」
サキは視線をわたしに向ける。
「ジュリのこと?」
わたしは言葉に詰まる。今さらあのことを話さなくても,わたしもまた後輩の告白に心が傾いていたことを話さなくても・・・・それはかえって,サキの心をかき乱すだけではないか・・・・。
サキは話を促すようにわたしを見ている。
「・・・・つまり,わたしがサキの不安を受け止めきれなかったのも,サキに『大丈夫だよ』と自信を持って言ってあげられなかったことも・・・・わたしはサキを支えきれるほど強くなかった。サキだけの責任じゃない」
サキはじっとわたしを見る。
「こんなふがいないわたしをサキがずっと思っていてくれたと知って,とてもうれしいよ。ジュンだって・・・・見初めた時はわりと軽い気持ちだったかもしれない。思いが堰を切ったようにあふれ出したのは,サキとの係わりを知ってからだよ。かつてサキが愛した子だと知ってからだよ」
わたしはサキを見つめ返す。
「サキ,また始めてもいいんだよ。・・・・サキの思いを邪魔するものはないんだよ」
「ジュンはどうするの? ジュリを愛してるんでしょう?」
「三人で愛しあうんだよ」
サキはびっくりしてわたしとジュンを交互に見る。ジュンはしっかりサキを見つめる。
「ボクも,そうしてほしいです。先生のことも好き,今でも。だから,今日だけにしてほしくない。これからも先生に会いたい。会っていろんな話をしたい。話だけじゃなくて・・・・」
と言いかけて,ジュンは話を中断した。
「話だけじゃなくて?」
とサキから問い返されて,ジュンは戸惑うようにうつむく。色白の頬がかすかに紅潮している。それを見て,サキがフッと笑みを漏らした。そしてまた,考え込むような表情。
「三人で愛しあう・・・・できるかな?」
「できるかどうかというより,それが一番自然だと思います。だって・・・・」
ジュンはここでゆっくり息を継ぐ。
「ジュリさんは先生のことも好きだし,ボクのことも好きです。ボクも,先生を好きだし,ジュリさんも好き。先生だって,そうでしょう? 今もジュリさんを好きなんでしょう? そして,ボクのことも・・・・どうして,誰か一人を切り捨てないといけないの?」
サキは考え込んでいる。
「ジュリは,それでいいの? 今ならジュンはジュリだけのものよ」
「シェアする相手がサキなら,何の文句もないわ。だって,わたしはサキも好きなんだから」
サキはわたしをじっと見つめる。わたしはジュンを抱き寄せる。
「サキもこっちにおいで。ジュンの隣。そして,あの頃のようにジュンを抱き寄せるといいわ」
サキはちょっとためらってから,ベッドに座った。そして,ほとんど密着したわたしとジュンの体の隙間に手を差し込み,ジュンを抱き寄せるというより自分をジュンに密着させた。わたしは空いてる方の手でサキの空いてる手を握って引き寄せる。ジュンのかすかに膨れた胸の前で,二人の手が,指が,絡みあう。握り慣れた手,触り慣れた指。その触感は一瞬のうちによみがえる。
どれくらいそうしていたのだろう。1分か2分くらい? サキが手を離し,ジュンから体を離し,フッと息をついた。
「うぶな女子高生みたいね。これくらいで息を切らすなんて。でも,久しぶりだったから。この程度のことさえ」
サキは照れたように笑う。
「人の体の温もりって,いいものね」
「そうですよ」
ジュンが答える。
「先生が教えてくれたんです。人の体の温かさ」
サキはジュンに微笑みかける。それから,
「ねえ,ジュン,わたしを『先生』と呼ぶの,やめない? もう先生じゃないんだし。学校の仕事を辞めて2年も経つの。先生と呼ばれるのは奇妙な感じ」
「じゃあ,なんと呼べばいいんですか?」
「ジュリみたいに,『サキ』って呼べばいいわ」
「サキ・・・・さん・・・・」
「もう一度」
「サキさん・・・・」
サキはフッと笑った。わたしも。
その時,ドアがノックされ「早紀さん」という声がした。サキはすぐに立ち上がってドアを細めに開ける。ご主人が話しかけた。
「わたしはこれから出かけます。夕食は要らないから」
それから,ドアを開け
「どうぞごゆっくりしていってください」
とわたしたちにあいさつし,ドアを閉めた。やがて,マンションのドアが開いて閉じる音が聞こえた。
「とても礼儀正しい人ね」
サキがうなずく。
「紳士という言葉が人間になったような人。乱暴な態度や言葉は一度もない。10歳も年下の世間知らずなわたしに対等に接してくれる」
「大事にしてあげなさい」
「まあ,大事にしてるつもりだけど」
「朝ご飯だけじゃなくて晩ご飯も作ってあげれば?」
「それも考えたけど,かえって迷惑かもと思ったの。晩ご飯を作って待ってるって,『晩ご飯の時間には帰ってこい』と要求するようなものじゃない? それはある意味,束縛よね」
「ああ,そういう発想もあるね。悩ましいね」
「だから,余計なこと悩まないで相談したの。『晩ご飯を作って待ってるのはかえって迷惑かしら』って」
「なんて,言われた?」
「『じゃあ,わたしがきちんと自分の希望を伝えましょう』って。『晩ご飯は要らないなら要らないと伝える。一緒に食べたいなら何時頃まで待っていてくださいと伝えます』そして,こうも言ってくれた。『人と人は心を直接読み取ることはできない。自分の気持ちはきちんと言葉で表現しないと正確に相手に伝わらない。だからお互い,自分の希望はきちんと言葉で伝え合うようにしましょう。そして相手の言うことはザハリッヒに受け止めるようにしましょう』って」
「ザハリッヒ?」
「うん。ドイツ語“Sachlich”,即物的というような意味だって。よけいな感情を交えないで事実だけを事実として認識する。言葉の裏を読みすぎないで言葉の意味だけを受け止める。そんな意味らしい。たとえば『晩ご飯は要らない』と言われたら,ただそのとおりの意味に理解して,『わたしと会いたくないんだ』とか『一緒にいたくないんだ』みたいなよけいな解釈を交えないようにするということ」
「それって,けっこう難しいね」
「そうね。でも,人間関係を長続きさせる秘訣かもしれない。それに,慣れると快適よ。互いに言葉の裏を読みあわずに済む関係,思っていることを率直に相手に伝えあえる関係って」
「確かに・・・・」
「10歳も年上の人と一緒にいると,いろいろ人生勉強できるわ」
サキは快活に笑う。わたしはふと思い当たる。ジュンもある意味ザハリッヒかも。人の言葉の裏を読むのは苦手で,自分の思いは率直に語る。そして,そんなジュンと一緒にいるのは快適。わたしがこんなことを考えていると,サキは立ち上がり,もう一度ピアノの前に座って,弾き始めた。
「ジュン,久しぶりに歌って」
イントロは“I could have danced all night”。ジュンはニコッと笑って歌い始める。明るい曲想にあわせて,明るい表情で。そんなジュンを見ていて,わたしも心がうきうきする。ジュンが歌い終わり,サキがエンディングを弾き終わる。わたしは拍手する。
「息が合ってるね」
「何度も歌ったからね。というか,わたしが何度も歌わせた。ジュンの明るい表情を見たくて」
そして,わたしの方を向いて,
「ジュリ,歌う?」
「うん。いいね」
「何がいい?」
「じゃあ,“I will wait for you”」
「ひょっとして,わたしへの思いを込めて?」
「そうよ」
わたしは笑みを浮かべて立ち,それからまじめな表情になって歌い始める。
If it takes forever I will wait for you
For a thousand summers I will wait for you・・・・
永遠であって,わたしはあなたを待つわ
幾多の夏を経ても,わたしはあなたを待つわ・・・・
歌い終わり,しばし沈黙が広がる。3人それぞれに歌詞の意味に思いを寄せているのかも。それから,サキがわたしたちに話しかける。
「澄人さんが出かけたから,リビングルームに戻ってもいいけど」
「別に,ここでもかまわないわ・・・・それにしても『澄人さんが出かけたから』って,彼がいたらリビングに戻れないの?」
「そんなことはないけど・・・・」
サキはちょっと間を置いて説明する。
「この部屋はピアノを弾くように簡易防音がしてあるの。だから話し声が漏れない。澄人さんには聞かせたくなかったの。聞こえても,どうってことないかもしれないけど,わたしの色恋に係わること,聞かずに済むなら聞かない方がいいでしょう」
「気を遣ってるのね」
「そりゃあ,お互い,この結婚を壊したくはないから」
「ふーん」
わたしは考え込んだ。
「さっきの話だと,打算で結婚したみたいに思えたけど,お互いに相手に気を配ってるのね」
「それはね・・・・」
静かな,説得するような口調でサキは語る。
「真剣な打算に基づいているからこそ,壊れないように配慮するの。壊れて失うものが大きいから。冷静に慎重に相手に気を配るわ。一時の感情に流されて一緒になったわけじゃないから」
「一時の感情に流されてとは,きつい言い方ね。まあ,そんなカップルもいるけど」
「恋心って,冷めることもあるでしょう。冷めることの方が多いかも。打算の方がよほど堅実な結婚の基盤になると思う。澄人さんと結婚して,わたしも学習したわ」
「サキの恋心,わたしやジュンに対する恋心もいつかは冷めると思ってるの」
「ああ・・・・」
サキはため息をつく。
「そのことは,考えたくない。一般論として恋心は移ろいやすいと思ってる。でも,わたしの恋心は例外と信じたい。都合がいいわね。突っ込みどころ満載かな」
「突っ込もうとは思わない。サキの正直な気持ちだと思うから」
「わたしは,さっきも話したけど,恋愛経験がほとんどないから,ほんとうのところはよく分からない。恋心がどれほど信頼できるものなのか,移ろいやすいものなのか。ジュリはどう思うの?」
わたしは思わず苦笑いした。
「痛いところを突くね」
「えっ,そうだった?」
「意図的じゃなかったのか。まあ,いいけど・・・・わたしは,どっちかというと『恋多き女』の部類よ。これまでいろんな恋をした。そして今,わたしに残っているのはジュンとサキ,この二人だけ。つまり,それ以外の人たちとの恋はみな終わった恋なの。自分のことを問い詰められたら,確かに『恋心は移ろいやすい』と認めざるを得ないね」
「それでいいんじゃないんですか?」
と,ジュンが会話に加わる。
「恋はいつかは終わるかもしれないけど,今お互いに愛しあっているのなら,それでいいんじゃいんですか? 未来のことを心配するより,今この時を幸せに過ごせばいいと思います」
わたしはジュンを見る。わたしも同じ事を考えていた,これまでは。でも今,このジュンとサキとの関係がずっと続けばいいと思っている。サキは,ちょっと考えてからジュンに答える。
「恋なら,それでいいの。未来のことなんか考えないで今を生きればいい。でも結婚は,一応は一生続けることを想定しているの。一生続けるとなると,いろいろ考えないといけないことがあるの」
「そんな面倒くさいものなら,結婚なんて,しなきゃいいじゃない?」
わたしとサキは声をあわせて笑った。わたしはジュンの髪の毛をクシャクシャかき回す。
「ジュンの年頃では,結婚なんて真剣に考えようがないことなのかもしれないね」
笑いが収まって,サキが
「部屋にくすぶっていないで,どこか出かける?」
と問う。ジュンは首をかしげる。わたしも,これといって思いつかない。
「出かけるって,どこに?」
「うーん,そう言われると・・・・上大岡って,交通の便はいいけど,お出かけして楽しい場所って,ないのよねえ」
「ボクは,無理に外出しなくても,ここにいるだけでいいですよ。ジュリさんとせん・・・・サキさんと一緒にいるなら,それでいいんです」
「わたしたちがいれば,それだけでいいの? すばらしい愛の言葉!」
つい,茶化してしまった。サキが
「ジュリ,だめよ。うぶな子のまじめなせりふを茶化しちゃ」
「あっ,ごめんなさい」
サキに謝りならが語りかける。
「7年ぶりなんだから,サキのピアノで思い切り歌いたいな。1時間でも2時間でも・・・・ああ,サキが疲れたら,休んでいいから」
「それくらいじゃ疲れない。ふだんから1時間,2時間くらいピアノを弾いてるんだから」
「じゃあ,そうしよう。ジュンも,いいでしょう?」
「もちろんです」
それから,わたしたちはサキの部屋でサキの伴奏で思う存分歌った。どれくらい時間が経ったのか,お昼はとっくに過ぎ,短い冬の日が傾いている。
「ああ,これだけ歌ったのは高校のジャズ研以来かしら」
「そうかもね。ちょっとお腹が空いたけど,晩ご飯にはまだ早いわね」
サキは時計を見る。そしてジュンに顔を向ける。
「ジュンは今でもアップルパイが好き?」
「好きです」
「買ってあるわ」
「わあ,うれしい」
子供のように無邪気に喜んでいる。17歳になったばかりだから,まだ子供なのか。
「じゃあ,アップルパイ付きティータイムにしましょう」
サキは紅茶を淹れ,冷蔵庫からアップルパイを出してテーブルに載せる。
「ジュン,ピアノの椅子か化粧台のスツールをもっておいで。3人でテーブルに着くから」
「はい」
3人でテーブルを囲む。だれがスツールに座るかでもめたけど,結局,「お客様はちゃんとした椅子に座ってください」というサキの言葉で,サキが座ることになった。
ティータイムはのんびり過ぎていく。そろそろおいとまする時間。わたしたちは席を立ち,服を着る。サキはジュンのコートに慈しむような視線を向ける。
「このコート,気に入ってくれたのね」
「もちろんです」
サキはジュンのコートの襟を整えてあげる。それから,わたしのコートの襟も。
そして,別れのキス・・・・の前に,わたしは大事なものをコートのポケットから取り出し,サキに渡す。
「これは・・・・」
「わたしの部屋の合い鍵。7年前受け取って,そのまま捨てずに持っていた。あの頃と同じように,いつでも好きな時に来ていいよ。わたしがいないかもしれないけど」
サキはちょっと驚き,それから笑顔になった。
「ありがとう」
それから,別れのキス。7年ぶりのサキの唇。軽いあいさつ代わりのキスじゃない。舌を絡めあうディープキス。それから,サキはジュンを抱く。きつく抱きしめ,唇を近づけ,わたしの方を見る。わたしはうなずく。そして,サキはジュンと唇を重ねる。軽く触れあって,離し,じっと見つめ,それからまた唇を重ねる。今度は激しく深く,舌を絡めあわせるように。そして,唇を離す。
「先生・・・・」
ジュンは切ない口調で語りかける。
「先生じゃないでしょう」
「サキさん・・・・」
サキはフッと笑って腕をほどいた。
「じゃあ,さよなら。ジュリ,ジュン」
未来のことは分からないけど,今この時,3人とも熱い恋心。