「――っつぃ」
誰に向けるでもない小さなつぶやきが、がらんとした自室――元はリビングだった――に吸い込まれる。深夜、エリスは暑さで目が覚めた。
上は白いタンクトップ一枚、下は小さな黒い下着。いつもの夏の就寝スタイル。それでも寝苦しくて起きてしまった。
ボレアスの名を捨てて北方大地に暮らし始めて、それなりに長い月日が経つ。だから比較的冷涼なこの地でも、たまに真夏の夜、寝苦しい日があるのをエリスは知っているし、少しイラついた頭でも「今日がそれだ」とわかる。
ため息と共にベットの中で逡巡し、熱のこもった
もうだめだ。
頭が冴えてしまった。イライラに押し出されるように、ルーデウスが珍しく単身で出張に行ってしまったのを思い出した。
つまらない――
「アリエルのところに行くだけだから。それにエリスも授業があるだろ――確かあさって……」
彼の出発直前、やっぱり護衛でついていくとエリスは主張してみたものの、自分の仕事のことを持ち出されてしまったのだった。困り顔で笑いながらそういう彼に、口をとがらせて抗議をしようとしたが、やめておいた。
ルーデウスと、それからロキシーの根回しもあったのだと思うが、ラノア大学の剣の授業を一部担当することになった。剣しかないエリスとしては、一コマとはいえ剣術の講義が持てた事実を大切にしている。
難しいことは分からないが、ロキシーが言うには「なかなか人気ですよ」ということだ。単純に嬉しかった。そうだ、授業がある――確かに、それは大切にしなくてはならない。
深いため息をついて、ベットから出た。ショートパンツを履いて(以前下着一枚で廊下をうろついたところ、シルフィにみとがめられた)スリッパに足を通す。子供たちの部屋を覗いて、ダイニングで水でも飲んでこよう――
・・・
寝息を聞こうと子ども部屋の戸を少し開ける。自分たちの子どもの健やかな寝息を聞いて、エリスは言いようのない満足を感じながら戸を閉めた。気づかないうちに頬が緩んでいた。
気を取り直してダイニングの扉を開けようとした時、中からしのび笑いが漏れ出て聞こえてきた。
シルフィ――?
思わずノブにかけた手を止める。ロキシーの声も聞こえてきた。その内容までは分からないが、ボソボソといつも通りの平調子で何か言っている。それに呼応するようにシルフィのしのび笑いが重なった。
……二人も暑くて眠れなかったのだろうか。
「――から、エリナリーゼさんの――あ、エリス。ちょうど良いところに来ましたね」
「エリスか。子ども達かと思った、ここに」
きなよ――言いながらシルフィは自分のすぐ横の椅子の座面をパンパン叩く。満面の――ややしまりのない――笑みでエリスを誘っている。酔っているようだ。
ろうそくの薄明かりの中、ダイニングでは二人きりの酒盛りが開催されていた。すすめられるままに部屋に入ると、ヒヤッとした空気に迎え入れられる。二人とも魔術に長けているから、どちらかが部屋を冷やしたのだろう。
それにしても――なにやら嗅ぎなれない異様なにおいが立ち込めているのはなんだろうか。
シルフィは黒のタンクトップにハーフパンツ。ロキシーは白いノースリーブのワンピース。
自分も含めて、全員寝巻きだ。
テーブルの上には見たことのあるクセの強いチーズと、酒瓶――こちらは初めてみた――が置いてある。
「なあに、二人とも。こんな夜中に」
「だってえ、暑くて起きちゃったんだもん」
出来上がったシルフィの、出来上がった甘え調子。「結構飲んだの?」二、三割程度減ったボトルに視線をやる。誘われるまま席に着くと「まあね」と、トロンとした目つきのシルフィが答える。結構飲んだのだろう。
対面に座ったロキシーがいそいそと立ち上がり、食器棚から小さなグラスとフォークを引っ張り出してきて、何やら見慣れないことをしている。
「エリスも暑くて眠れなかったんですか」
言いながら、ロキシーはグラスにフォークをそっと乗せて、ちょうど橋を渡すようにした。神妙な顔をしてそこに角砂糖を乗せている。
「ええ、そう。――何よ、それ」
「ふふふ、わたしのとっておき――というか、クセが強すぎて飲めなかったお酒です。魔大陸の香草酒なんですけど」
なるほど、異様だと思った
テーブルの中央に鎮座しているすきとおった緑色の酒。この辺では見かけない魔神語で何やら書かれている。
「でも、この飲み方はミリス大陸式だそうです」
「結構いけるよ、ちょっとクセが強いけど。ロキシーがおばあちゃんから聞いた飲み方なんだって。エリスはどうかな」
そう言って、シルフィはちびりと口に含んで、飲み込んでみせる。「んー」と目をぎゅっとつむって顔をしかめ、うなっている。本当においしいと思っているのだろうか。エリスは首をかしげた。
よく見ると、ロキシーもかなり出来上がっている。酒瓶を持つ手がややおぼつかない。フォークで出来た頼りない橋の上に乗せた角砂糖に向けて、瓶の口をよたよた近づけて、緑色の香草酒を慎重に注ぐ。うす緑色の液体が、角砂糖をつたってグラスに落ち込んでいった。わずかなろうそくの光を反射して、グラスも緑色に輝いている。「いかにも魔大陸らしいな」とエリスは思う。
ロキシーが注ぎ終わると、シルフィが身を乗り出してその指先を角砂糖に近づけた。
「んふふ」
シルフィが笑う。突然、角砂糖に青い炎が灯った。魔術――いや、単にアルコールに火をつけたようだった。
炎はグラスの中につたい落ちて、不定形の青い
「キレイ、まるでなにかの儀式みたいね」
グラスの中の青く柔らかい火を、三人とも無言で眺める。
「ささ、ま、ぐいっと」とシルフィ。
「口にあいますかね」とロキシー。
火が消えるのをまって、ロキシーの説明にしたがって砂糖を中に落とし、フォークで突き崩す。おそるおそる鼻を近づけてみると特徴的な香りがした。
「これ強いの?」
聞くと、二人とも無言でうなずく。
意を決してひとくち――クセの強い香りと甘みが口内にひろがって、鼻に抜ける。続いて口の中がスゥっと冷たくなる。飲み込むと、喉がかっと焼けるように熱くなり、独特の香りが口の中にのこる。少しむせてしまった。
「――んんん…… かなり強いわ」
思わず口をあけて息を吐き、顔をしかめる。
「どう?」
「どうですか?」
二人は興味津々でエリスにたずねる。度数も香りも甘味も、どぎつい独特の味。
「強いけど…… 嫌いじゃないわ」
クセはあるが、嫌なクセじゃない。
「飲もう飲もう」言いながら、シルフィは別のグラスに氷みずを用意してくれた。「柑橘類も合いますし、強いチーズも合いますよ」とロキシー。
唐突に酒盛りは二人から三人になる。
「それでね、さっき四人でした時の話してたんだけど――」
「そうそう。でもシルフィ、エリスはまだ来たばかりですし、その話はもう少し飲んでもらってからにした方がいいのでは」
ロキシーはエリスに目配せをしてから、シルフィにそう提案する。シルフィは「ンフフ」と妖しい笑い。
「なによ、そっちの話?」
「ええ、まあ」
ロキシーがそう答えると、シルフィが横で「ンフフ」と、再びしのび笑い。シルフィはそういう話が結構
嫌いじゃないが、やはり酒の力を借りたいというのが本音である。特にこの二人と話すとなると、意味が全然ちがってくる――ただの痴話じゃなく、
酔っぱらって距離感の妖しくなったシルフィが、やたら足を絡めて肩を叩いてくるのが妙にくすぐったい。自分にこんなに近づいたり、触れてくるのはルーデウスと子ども達をのぞけばシルフィだけだ。普段はきりっとしている彼女だが、酔うといつもこんな調子になる。タンクトップからはみ出て、外れてしまっているシルフィの下着の肩ひもを無言でなおしてやると「あ、ありがと」とはにかんだ。
「やっぱりすごい強いわね」
ロキシーはその様子を見ながら、無言でニヤニヤしている。
エリスの空になった杯を、ロキシーが回収する。またもや一杯つくってくれるようだ。「ありがと」というエリスの礼が聞こえているのか、いないのか。おぼつかない手つき、妙にすわった目つき。普段は口数少なくて理知的なロキシーは、酔うとマイペースになり、どこかひょうきんな感じになる。
エリスは二人が酔っているところに居合わせるのが好きだった。
ロキシーは回収したグラスにそのまま香草酒を注いだ。角砂糖にかけるのはやめたのだろうか。酔っぱらって順番を間違えたのかもしれないと思いながらも、黙って見ていると、そのままフォークをグラスの上に渡して角砂糖をちょこんとのせる。
口の中でもごもごと何ごとかを詠唱すると、手元の水差しの中にあっという間に氷みずができる。
酔っていても水王級。
その氷みずを、ぽたりぽたりと角砂糖に向けて落としている。
「今度は何?」
水滴が入って、グラスの中の緑色の酒が白くにごっている。
「さっきのはちょっとした火遊びです。あれはあれで面白かったでしょう?でも、本当はこっちの方が香草の香りが保たれるそうですよ」
どこか
間違えたわけじゃないらしい。ひとしきり水滴を落とすと、角砂糖をころんとグラスに落として、そのままフォークで突き崩してエリスにすすめた。
「どうぞ」
今度は緑ではなく、白く濁った香草酒。さっきからなぜ白く濁るかについて、ロキシーは滔々と語っているのだがまるで頭に入ってこない。
香りはさっきよりも強く鮮烈だ。
飲んでみると確かにこちらの方がずっと飲みやすいようだった。においの強いチーズとよく合う。
しばらくは二人の妖しい会話を聞きながらロキシーの作ったカクテルを飲むことにした。さっきから会話の内容がかなりきわどい。やれルーデウスが興奮した時の口癖や乗ってきやすい誘い文句のことだの、感じる触り方のことだの……かなり具体的な内容。聞いているだけでこちらまで興奮してしまう。
ろうそくの火がゆらゆらと揺れている。エリスの頭にも香草酒の妖しい酔いが回ってきた。
「――それで、エリスはいつからルディのお尻を攻めるようなったんですか」
「え」
おもむろにロキシーがエリスに切り出してきた。
「この間、四人でした時、ルディのお尻を攻めていたじゃないですか」
シルフィは何かがおかしいのか、さっきからフフフと笑っている。
「あれ、誰かに教わったの?」笑い上戸のシルフィ。
ロキシーと違って、エリスにそんなことを教えてくれる人はいない。
「誰も教えてくれないわ」
「じゃあ、自分で思いついたんですか」とロキシー。思いついたというか…… まぁ、そうと言えばそうだ。
そう答えると横からシルフィが「すごいね」と合いの手を入れる。何がすごいのかエリスには分からない。
「そのことなんですが……」
急にロキシーが声をひそめて切り出す。
「エリナリーゼさんにすごいことを教えてもらったんです」
「なによ」
すごいことと聞いて、ロキシーの話術に引き込まれてしまう。
「指なんだって」とシルフィ。
「指?」
「はい。男性が女性にするのと同じように、です」とはロキシー。
「どういう――」
話が呑み込めないので、更に説明を求める。ロキシーが言うには、女性が指で男性のことを愛撫すると、まるで女性のように
「よがる?」
「はい」
エリスの頭の中に、ルーデウスが眉根を寄せて声を出しているのがよぎった。悪くない。
「でも指でするって、だから、どこを?」
「どこって、だから
「ええー!!」
思わず声をあげてしまった。
二人が揃って口に指をあて、エリスに向けて「しー!!」という
「ご…… ごめんなさい。でも女性のようって、ルーデウスがってこと?」
「だからそうなんだって」
シルフィの真顔。唐突に酔いが覚めた。
「それ、もっと詳しく教えて欲しいわ」
がぜん頭に血がのぼる。
「ほら、エリスは絶対興味持つって言ったじゃん」シルフィはくつくつ笑っている。
「ですね。もちろんお教えします。先日、エリナリーゼさんとお酒を飲んでいたときなんですけど――」
アブサンというお酒がモデル。
ニガヨモギとアニスの強いお酒で、文豪や画家が愛したそうです。
今後
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無色転生二次創作をつづけろ!
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オリジナルも書け!