その酒が、全てのまちがいの始まりである。
断続的な乾いた音の中に、くぐもった甘い声が混じっていた。
眼下に広がる細身の背中に舌を這わせると、その身が震えた瞬間、肩にかかった黒く長い髪が流れ落ちる。
「はっ⋯⋯はっ⋯⋯」
規則的なピストンが繰り返され、いつの間にか息は上がっている。腰のくびれに両手を添えて、より深く、深くへとすっかり硬くなったものを出し入れする。
「あ⋯⋯。これっ⋯⋯んっ。つ、よいっ⋯⋯」
俺の枕に突っ伏していた雪乃は僅かに振り返ると、流し目じみた視線でその動きを牽制しようとする。それでも止まらない腰の動きに合わせて、オンボロベッドがギシギシと悲鳴を上げた。
「もうちょっと、声抑えてくれ」
そう言って雪乃に体重をかけると、彼女をうつ伏せにさせる。俺は彼女に覆い被さると、リズムを変える事なく腰を打ちつけた。
「は、んんっ⋯⋯♡ ふ、あぁ⋯⋯ん」
雪乃は右の手を口に当てると、なおも溢れ出ようとする喘ぎを抑えようとする。
俺のアパートでする時は、いつもこうだ。雪乃が住むマンションの一室とこの築三十年を超えるアパートでは、防音性能は天と地の差。一応まだ隣人から壁ドンをくらった事はないが、雪乃の可愛い声を聞かせてやるつもりはさらさらなかった。
「雪乃」
濡れ羽色の髪を耳にかけさせると、顔を寄せて耳たぶを甘噛む。そのまま頬に口づけると、きゅっと膣内が締まった。
「んっ、ふぅ⋯⋯っ♡」
薄桃色の唇から漏れた熱い吐息が、俺の耳にかかる。肩を掴むと、腰の動きを激しくさせていく。
雪乃とのセックスは、もう何度目かも覚えていない。けれどこうして絶頂に近づく度に、感動に打ち震えるほどの強烈な快感に脳が揺さぶられるのは、初めての時から何も変わらなかった。
「はぁ、あぁ⋯⋯。そろそろ出していいか?」
「あ♡ ん⋯⋯。いいわ、出して⋯⋯あ♡」
その言葉に、俺は雪乃の両脇に手を突き直した。一拍だけおいた後、俺は彼女の最奥に向けて腰を動かし始める。
俺がラストスパートを開始した瞬間、雪乃の膣内の締め付けは一層強烈なものになる。いかなる獲物も逃すまいと吸い付いてくるような蠕動に、精液がせり上がってくる。
「はっ、あ、出るっ。雪乃っ、イクっ!」
「ん、あ♡ あぁぁ♡ 出して、んっ、あ♡ 八幡っ♡」
甘く熱のこもった声で名前を呼ばれた瞬間、俺は雪乃の中で果てた。
どくんどくんと膣内に収まったままのペニスが激しく脈打ち、暴れるがままに欲望の残滓を発射し続ける。雪乃の膣内は、震えの応酬をするかのように収縮を繰り返す。
「はぁ、はぁ⋯⋯雪乃」
俺は言いながら背中を撫でると、雪乃は一際大きく背中を仰け反らせた。未だ絶頂から返って来られないのか、息も絶え絶えといった様子で肩で呼吸する。
「⋯⋯すっげぇ、よかった」
「は、あぁ♡ ⋯⋯私も」
振り返った彼女と唇を重ね合わせ、熱を交換し合う。
どちらからともなく舌を絡ませ合い、息もできなくなるぐらいに。
お互いの内包した熱を、ぶつけ合うかのように。
床に脱ぎ散らかした下着を拾い上げ、使用済みとなった避妊具をティッシュで包んで、ゴミ箱に捨てた。
そんな一連の事後処理を終えてベッドに座っている俺に、隣に腰掛けた雪乃がしなだれかかってくる。未だ行為の熱に浮かされているのか、下着を身に付けただけのしどけない姿は、目の保養と言うには刺激的過ぎた。
いつだって彼女とのセックスの後の静寂は、それですらも美しかった。沈黙を壊す事すら躊躇ってしまって、いつも会話は彼女の方からだった。
「昨日、夢を見たの」
まるで今まさにその夢の中にいるかのように雪乃は目を瞑ると、はぁ、と短く息を吐いた。鎖骨を撫でる熱い息に、ひくりと身体が反応を返す。
「どんな?」
「まだ高校に通っている時の、修学旅行の夜の夢よ」
それはまた、と俺の浮かべた笑みに思わず苦味が混じる。そう言われて思い浮かべるのは、一つしかない。
きっと雪乃が言っているのは平塚先生に連れられて食べたラーメンの事ではなく、修学旅行の最終日前夜。俺が海老名さんに虚偽の告白をした夜の事を言っているのだろう。
しかし苦り切った俺の表情とは真反対に、雪乃の口元は微笑みに綻んでいる。
「あの竹林の道でね、あなたが告白したのは海老名さんではなくて、私に告白したの」
「⋯⋯それで?」
「その時の自分に、なりきっていたのでしょうね。私は酷く混乱していて、気付いたら拒否していたわ」
振られちゃってんのかよ、と俺は思わず失笑してしまう。どこか陶然とした表情の雪乃の頬に片手を当てると、親指の腹でその白い頬を撫でた。
俺の手のひらにひと擦り、ふた擦りと雪乃は頬を擦り付けると、瞼を上げて俺を見詰める。
「思えばあの時から⋯⋯いえ、きっともっと前から、あなたの事が好きだったんだと思う」
今以って冷めやらぬ熱に浮かされ、潤んだ瞳に囚われて、俺は動けなくなる。
本当にこいつ、最近は俺を
「あの時に比べたら、あなたの目は随分マシになったわね」
「いやマシて⋯⋯。じゃあ今はどうなったんだよ?」
「多少は濁りが取れてきたかしら。とても死人とは思えないわ。まるで生きているみたい」
「死んでないし超生きてるし⋯⋯。なに、お前誰も居ない部屋で一人事言ってるつもりなの?」
俺が言い募ると、雪乃はくすりと愉快そうに笑う。もはや惰性のような言葉の応酬は、くだらなければくだらないほど愛しさすら感じる。
俺の目の濁りが本当に取れて来ているとしたら、その宝玉のような瞳に見詰められ過ぎたからかも知れない。俺の目まで浄化してしまうとは、雪乃の正体は女神だったか⋯⋯。
いや本当にそうなのかも知れないと真面目に考えだしたところで、雪乃は身体の火照りが取れてきたのか俺からそっと離れた。いそいそを服を着始める彼女を見ながら、俺も脱ぎ散らかした服を手に取った。
「そう言えば、来週の事は忘れていないわよね?」
「ああ」
来週、と言われて思い当たる節は一つしかない。
俺と、彼女の共通の友人──由比ヶ浜結衣の誕生日だ。彼女の誕生日はこの古びたアパートに三人で集まり、お祝いするのが大学に入ってからのお決まりパターンだった。
「酒やら何やらはちゃんと準備してあるぞ」
「そこはまずプレゼントの事を言って欲しかったけれど⋯⋯。みんな堂々とお酒が飲める誕生日は、初めてだものね」
大学の三回生、そしてもうすぐ由比ヶ浜の誕生日と言う事は、俺たちが出会ってもう四年も経ったという事だ。今更ながらそう考えると、長いようであっという間だったと思う。
俺と由比ヶ浜が同じ大学に入ったと思ったら一色も後を追うように入学してくるし、小町は別の大学に入ってしまってちょっと⋯⋯いやかなりがっかりしたり。
雪乃が通う大学は千葉の国公立だから、総武高校に通っていた時に比べたら全員集まる機会なんてほとんどない。それでも俺たちが結んだ絆とも言うべき細い糸は、未だ切れずに続いている。
「そろそろ帰るわ」
身支度を整えると、雪乃は立ち上がりながらそう言った。
「シャワー浴びてかなくていいのか?」
「もう遅いし、帰ってからにするわ」
俺も立ち上がると、手早く服を着る。玄関で靴を履くと、部屋を出る直前に雪乃は振り返って言う。
「それにシャワーを浴びてしまったら、あなたの感覚まで流されてしまいそうだから」
雪乃は口元に笑みを湛えたまま、そう言って唇を寄せてくる。お互いの柔らかい場所で熱を交わすと、文字通り骨抜きになりそうだった。
「⋯⋯駅まで送る」
「ええ、お願いね」
勝った、とでも言い出しそうな笑みを浮かべた彼女は果たして天使か悪魔か。
これりゃ勝てねぇわと思いながら、俺は玄関扉のノブを回した。
* * *
由比ヶ浜の誕生日当日、俺は今にも雨が降り出しそうな曇り空を部屋の窓から見上げていた。
俺が通う大学からほど近いこの街は、東京でも指折りと言っていいほどのレトロな飲み屋街を構え、今頃道行く人々は軒先に並べられた椅子とテーブルを埋め尽くさんとしている事だろう。駅近くは週末になると、そんな光景に出会う機会が多い。
しかし俺の住むアパートはそこまで駅に近くない為、その手の誘惑にはあまり縁がない。そもそも積極的に飲み屋で飲みたいとは思わないし、宅飲みの楽さ安さに慣れてしまえば、ボッチ体質の俺からしたらむしろこちらの方がいいと思うぐらいだ。
──ピンポーン、と。
いくらか音程のズレた間抜けな呼び出し音が鳴る。立ち上がり、玄関のドアを開けると元気のいい声が耳に襲いかかってくる。
「やっはろー!」
「おう」
何年経っても変わらない謎挨拶に、俺も変わらない相槌を打った。ショートパンツにフルジップのパーカーという出立ちの由比ヶ浜は、スーパーの袋を片手に部屋に入ってくる。
「ずいぶん早いな」
「うん。楽しみだったし、買い物もしたかったから」
由比ヶ浜はそう言うと、何やら重たそうなスーパーの袋を上げて見せる。コンビニではなく近所のスーパーを抑えているところが、実に由比ヶ浜らしい。
「なに、酒?」
「そう。あとおつまみもね」
「どっちも用意してあるって言わなかったか?」
「ヒッキーが用意するお酒、甘くないのばっかだもん」
そう言うと由比ヶ浜は買ってきた酒やら何やらを冷蔵庫に仕舞い始める。勝手知ったる他人の家とはまさにこの事だろう。
「おつまみ作るから、台所借りるね」
「ん? いや、すぐ食べられるのもあるんだけど」
「いいから。あたしが食べたいの」
由比ヶ浜はそう言うと買ってきたらしい材料を持って、台所に立つ。最近は雪乃の指導の甲斐もあって料理もお菓子作りもメキメキ腕を上げているから仕上がりに対して不安はないのだが、主役に振る舞ってもらうというのはどうにも格好がつかない。
とりあえず何を作っているのか見てみよう、と腰を上げかけたところで、ポケットの中の携帯電話が震える。俺と雪乃と由比ヶ浜で作られたライングループには、雪乃からのメッセージが入っていた。
『電車のトラブルで少し遅れるわ。先に始めていてちょうだい』
時刻を見ればまだ集合時間の三十分前だ。どうやら千葉からこちらに向かう途中で、足止めをくらっているらしい。
「雪乃、遅れるから先に始めててくれってさ」
「んー」
由比ヶ浜はそう返事をすると、皿と酒を手に寝室兼リビングにやってくる。彼女が作ってくれたのはパイナップルの生ハム巻きと、チーズをのせたクラッカーだ。
由比ヶ浜は俺の隣に腰を下ろすと、はいとチューハイの缶を渡してくる。
「それじゃ、お言葉に甘えて先に始めよっか」
「ああ」
俺は受け取った缶のプルタブを開ける。
ゆるっと集まって飲む時は大体いつもこんな感じに始まるのだが、流石に今日はちゃんと目的のある集まりだ。雪乃がまだ到着していないにしても、一応乾杯の前に言っておかねばなるまい。
「⋯⋯誕生日おめでとう。乾杯」
「うん、ありがと。⋯⋯乾杯」
缶同士を合わせると、ゴンと鈍い音がした。ぐびりとレモンサワーを嚥下すると、爽快感がすっと胃に落ちていく。由比ヶ浜も桃の缶チューハイを一口飲むと、ふはぁと息を吐きながら天井を見上げた。
「なんか、ここも長いよね」
少々言葉足らずだったが、ここに住んで随分経つと言いたいらしい。
俺は「ああ」と返事をして、由比ヶ浜と一緒になって天井を見上げる。オンボロアパートが経験してきた事を物語るように、天井にはいくつものシミが広がっている。
「ヒッキーが一人暮らしするって聞いた時は、結構びっくりしたよ」
「いや、そんな意外な事でもないだろ」
「意外だったよ。家出たくないってずっと言ってたもん」
それを言われてしまったら、確かにそうかも知れない。家を出るつもりもなかったし、何より千葉を出るつもりもなかった。
しかし高校二年の最後、雪乃と付き合うようになってからその関係が深まるほどに、大学選びは混迷を極めていった。彼女と共に歩く将来の事を考えたら、千葉県内だけの大学に志望先を絞るのは正しい事ではなくなってしまったのだ。
「けど、案外ちゃんと生活できてるよね」
「⋯⋯まあ、自堕落な生活してたら速攻で喝が飛んでくるからな」
ここで一人暮らしを始めてからというものどっかの誰かさんに家事能力の低さに呆れられ、徹底的に料理を始めとした家事スキルのことごとくを叩き込まれたのだ。慣れてくると家事に割かなければならない時間も少なくなったし、毎日のように満員電車に揺られる苦痛を味わうより全然マシだった。
「あ、そうだ。あれ聞いた? 笛田くんと大町さん、最近付き合い出したんだって」
「⋯⋯まじ?」
笛田と大町というのは、大学での俺と由比ヶ浜共通の知人だった。友人、と呼べないのは、それほど近い存在ではないし、多分その言葉のハードルを俺が勝手に上げているのだと思う。
彼らとは別にゼミが一緒というわけでもないし、由比ヶ浜と一緒にカフェだの何だの色々行ったが、果たしてそれだけで友人と言っていいか疑問だ。特に由比ヶ浜が居なければできなかった繋がりだと、特にそう感じる。
「マジ。笛田くんの方から告ったって」
「ほー⋯⋯」
以前食堂で一緒に昼食をとった時の様子からして、なんとなくそうなのかとは俺も思っていたが、ちゃんと頑張ったんだな。あいつも。
感慨深くそんな事を考えていると、由比ヶ浜はひっそりと息を吐く。
「いいよねぇ。なんか、大学生活満喫してるって感じ」
その静かな呟きに、俺は僅かに胸の疼痛を感じる。恐らくそれは、俺のものではない、誰かのものだ。
由比ヶ浜はどうなんだ? ──などとは、とてもじゃないが訊けない。大学に入り、寄ってくる男などよりどりみどりの中でもなお特定の相手を作らない理由は、分かっているつもりだ。
いつだったか誰からだったか、比企谷は結衣の男避けに使われてるよね、と言われた事を思い出す。当たらずとも遠からずだと、そう思う。
けれどそれが真実かどうかは、彼女しか知らない。
△ ▽ △ ▽ △
呟いた瞬間、ああ言葉をまちがえたと思った。ヒッキーの表情が少しだけ苦くなったのを見て、あたしはそう気付く。
その言葉自体に、嘘はなかった。恋人は、欲しい。でも偽物なら要らない。それに奪ってまで欲しいだなんて、思わない。
だからこの関係が築けたのだと思うし、築いてしまった、とも思う。それでもあたしが彼と彼女に関わり合う為の一番いいやり方だったって、そこだけはまちがいは無いはずだ。
「そう言えばさ──」
そう言って話題を変えようとした瞬間に、鞄の中から耳慣れた打楽器の音が聞こえた。鞄から携帯電話を取り出すと、発信元の名前を確かめてから受話器のボタンを押す。
「もしもし?」
『もしもし。急に電話してごめんなさい』
ひっそりとしたため息の後に、ゆきのんは謝ることでもないのにそう一言口にした。むしろ全然、もっと電話してくれてもいいのに。ほとんどいつも、あたしの方からかけてるんだから。
「どしたの?」
『ええ、電車のトラブルが長引きそうで⋯⋯。タクシーを使おうと思ったけれど、凄い行列でとても捕まりそうにないの』
え、と思わず声に出してしまうと、ヒッキーが携帯電話でニュースを見せてくれた。画面の中から『復旧の目処がたっておらず』というキーワードが飛び込んでくると、かなり大変な状況だって分かってくる。確か他の路線を使うにしても、相当歩かないといけないはずだ。
『仮にそちらに辿りつけたとしても、帰られるかどうかも分からないから⋯⋯。あなたの誕生日なのに、ごめんなさい。今日は欠席するわ。この埋め合わせは、必ずするから』
「あ、ううん。全然気にしなくていいよ。電車が止まっちゃったんなら、仕方ないし」
あたしがそういうと、呟くような小さな吐息の音が聞こえた。残念だけど、あたしたちでどうこう解決できる問題でもない。
『ええ⋯⋯。彼にも、伝えておいてくれる?』
「うん、分かった。それじゃね」
それじゃ、と短くて優しい声を聞き届けると、あたしは名残惜しさの分だけ時間をおいてから電話を切った。
これで今日は、ヒッキーと二人きり。それはそれでいい誕生日プレゼントだなって。
そう思ってしまうあたしは、きっとずるい。
△ ▽ △ ▽ △
ツマミをのせていた皿はとうに空になり、同じく中身を空にしたチューハイの缶が机の上に並んでいる。
「ヒッキー、お酒飲んでも顔に出ないよね」
「そうだな。お前は出過ぎだと思うけど」
飲み始めて一時間以上も経つと、由比ヶ浜の頬はもうすっかり赤くなっている。そんなに酒に強くないというのに、何故だか今日はやたらと缶を傾ける回数が多い。
かく言う俺もそれは同じで、気の置けない仲とはいえ酒を飲みながら二人きりというシチュエーションは初めてで、缶を空けるペースが早くなっている。
「そんなに赤い? っていうかヒッキーの部屋暑すぎだから」
まあ、確かにこの部屋には熱がこもりやすい。アパートの周りは背の高い建物ばかりで風通しは悪いし、そのくせ何故か冬は隙間風がビュービュー入ってくる。雨の匂いがして窓を閉め切ったままだったから、部屋の中は真夏に近いぐらいの暑さになっていた。
「まあ、これも慣れだな」
「あたしは全然慣れないんだけど」
由比ヶ浜はそう言ってフルジップのパーカーの前を開くと、まるで身体のラインを強調するように身を捩ってそれを脱ぐ。ショートパンツにVネックのカットソーという出立ちは涼しげで、そしてとても目のやり場に困る。
なんでこの子、一人暮らしの男の家にこういう格好で来ちゃうかなぁ⋯⋯。いやまあ、本来なら雪乃もこの場にいるはずだったんだけど。それにしても⋯⋯。
「⋯⋯ヒッキー」
黙ってしまった俺を、由比ヶ浜は半ば睨むような目で見ていた。
「見過ぎだし」
「ふげっ」
肘を脇腹にめり込まされ、俺は喉の奥から変な声を出してしまう。こういう突っ込みの時のガハマさんの一撃は、いつも容赦がない。
「ほんと、ヒッキーって前から⋯⋯」
由比ヶ浜は国定公園に指定されそうな谷間をかき抱くように腕で隠してしまうと、ブツブツと何やら聞き捨てならない文句をいい始める。
「いや前からって、お前⋯⋯」
「高校の時から、ずっと見てたよね。バレてないと思ってたの?」
言い切られてしまうと、脳が沈黙したかのように上手い切り返しも言い訳もできなかった。まあ、言い訳と認めている時点で、色々駄目なんだけど。
「いや、でもですね? そういう、なんと言うか露わな格好? というのは、もはや見せていると言っても過言ではないというか⋯⋯」
しどろもどろで
「あのね、見せているんじゃなくて、この格好が可愛いと思ってるから着てるの。そういう風に思ってるの、男の人だけだから」
「あ、はい⋯⋯」
「すっごいムキムキの人って、よくタンクトップ着てるでしょ? あれと一緒だよ」
ははぁなるほどぉ⋯⋯と納得しかけてしまったが、あれはむしろ「俺の筋肉を見て! そして褒めて! ナイスバルクって言って!」って感じで着ていると思うんですが⋯⋯。その理屈でいくとやっぱり見せているって事になるんじゃ?
どういう事なんでしょう、と由比ヶ浜の方を見ても、彼女はぐいぐいとひたすらに甘ったるそうなチューハイを
しばらく無言の時が流れると、はぁ、と妙に悩めかしい吐息が漏れる。由比ヶ浜が体育座りになると、そのたわわがふにんと形を変えた。
「⋯⋯そんなに触りたいの?」
「⋯⋯っ! げほっ、げほっ」
唐突な問いかけに、俺は思わず咽せ返る。もうちょっと、あるだろう。言い方ってもんが。
「そういう訳じゃなくてだな⋯⋯。男に標準装備されてる自動追尾ミサイルみたいなもんなんだよ」
「ふーん⋯⋯」
嘘か真か、どちらかと言えば明らかに疑っている感じの由比ヶ浜は、またくいくいと缶の中身を飲み下す。
その白い細腕も、照明を照り返す太ももも何も見ないように、俺は度数七パーセントのそれを嚥下した。
△ ▽ △ ▽ △
本当、変わらないなぁって、彼を見ていると思う。
あたしが注意する前からチラチラ胸元や脚を見ていたかと思うと、誤魔化すみたいにお酒を飲んで。あたしが言ってしまった後は、お酒を飲むペースは更に上がった。
ヒッキーはあたしの隣でベッドに背を預けて、さっきから目を瞑ったまま動かない。ストロング系、って言うんだっけ。たまに飲んでるのは見たことがあるけど、今日はちょっと飲むペースが早すぎたのかも知れない。
時計を見上げると、終電まであと二十分。片付けもあるしそろそろ起こした方がいいと思う。
「ヒッキー、起きて」
そう言って肩を揺すった瞬間──。
ヒッキーはぐらりとこちらに傾いてきて、あたしを押し倒すような体勢になる。
「んー⋯⋯」
少しだけ、しゃがれた声。彼の体温。彼の匂い。
その全部が今まで感じたこともないぐらいに近くてあたしは氷づけになったみたいに硬まってしまう。
起こさなきゃ、と思っても口がパクパクと動くだけで、言葉が出てこない。ヒッキーは甘えるみたいに、あたしのうなじに唇を寄せた。首筋に彼の鼻息がかかって、息が出来なくなる。
「雪乃⋯⋯」
その言葉を聞いて、本当に息ができなくなった。
苦しくて、苦しくて、息ができない。
分かってたはずなのに。ゆきのんと勘違いしてるんだって。だから早くちゃんと起こさなきゃって思って──出来なかった。
正直、今までで一番辛くて、きつい。彼が無自覚だからこそ胸にくるものがあって、彼と彼女が下の名前で呼び出した時より、ずっとダメージがある。
「ヒッキー⋯⋯?」
「ん⋯⋯。え、あ⋯⋯っ。すっ、すまん!」
ヒッキーは私の呼びかけに答えると、飛び起きるようにしてあたしの上から離れる。──離れてしまう。
「本当、悪い。寝ぼけてた⋯⋯」
ぐんと心が重くなったその後にくるのは、純粋な憧れだった。
──いいなぁ。
彼女は彼と、いつもあの距離なんだって思うと。それはとても羨ましい事だなって感じる。
だからあたしは、そんなことを言ってしまったのかも知れない。
「そのままでよかったのに⋯⋯」
そう言葉にした後に、妙に深刻な声が出ていて自分でびっくりする。
なーんて、と誤魔化す言葉の前に、ヒッキーは迷う時間もなく答えてしまう。
「そりゃ、駄目だろ⋯⋯」
その答えは、彼の内に向けられたものだった。彼の中にいる、大切な誰かの為の言葉。
本当、そういうところが、ずるいと思う。変に真面目で、律儀で、不誠実に見せかけて誰より誠実で。
だから改めて、好きだなって思ってしまう。
「⋯⋯うん。冗談、だから」
冗談、ならよかったのに。
この想いだって、実は偽物でしたって、簡単に捨てられたらよかった。ずっとずっと大事で、かけがえのないものなんだって、知らなければよかった。
──けどもう、捨てないと。
うっかりでも、お酒の勢いでも、あたしは親友の恋人を誘惑したんだから。こんなのまちがってるって分かってるのに止められない想いなら、誰かを傷つける前に捨てなきゃいけない。
きっと中途半端じゃ、いけないんだと思う。
だからやるなら、徹底的に。
そうしないと、きっとダメだ。
△ ▽ △ ▽ △
由比ヶ浜の表情を見て、やってしまったと思った。ここまで思い詰めた顔をする彼女は、初めて見た。
「⋯⋯あたし、帰るね」
それは何気ない言葉だったはずなのに、それだけの意味とは思えない。
そこに香るのは郷愁。あるいは、惜別。酒に鈍化するどころか鋭敏にすらなってすらいる感覚が、彼女の表情から様々な状況を読み取ってくる。
ひょっとしたら、もう二度と会えないんじゃないか──そう思った時には、もう手が伸びていた。
「なあ⋯⋯。次はいつ集まれる? 今日、雪乃来れなかったし⋯⋯」
俺に手を引かれた由比ヶ浜は一瞬だけ目を見開くと、次の瞬間に諦めたような弱々しい表情を浮かべる。
あまりにも彼女に似つかわしくない表情で、俺は一瞬誰と話しているのだろうかと思ってしまう。
「それは⋯⋯もういいよ。ヒッキーにお祝いしてもらっただけで充分」
やはり、そうだ。予感がにわかに形を得て、言いようもない不安がのしかかってくる。
俺たちの付き合いは、もう短いとは言えないほど充分に長いと思う。俺と雪乃が付き合い出してからというもの、言葉足らずや意思表明不足によるディスコミュニケーションが起きないように、ずっと意識してきた。だからこそ俺たちの関係性が、継続できていたのだと思う。
けれど、今の由比ヶ浜は違った。まるであの時のように、言葉も説明も不充分で、意思表明は曖昧なまま。繰り返してはいけない、あの日々がフラッシュバックしてくる。
「けど雪乃も色々準備して──」
そこまで言って、俺は言葉を詰まらせた。
彼女は慈愛と呼ぶには悲しすぎて、悲壮と呼ぶにはあまりにも優しい表情を浮かべていたから。彼女の覚悟を、知ってしまったから。
四畳半の部屋の中から音が失われて、一体どれだけの時が流れただろうか。由比ヶ浜は「うん」と一つだけ頷くと、酷く優しい声音で言う。
「ゆきのんのこと、大切にしてあげてね」
その言葉を聞いた瞬間から、ガタガタと心は震え出した。
嫌だ、嫌だと泣き喚く子どものように、声無き叫びが喉に
酷く身勝手だと、自分でも思う。余りにも醜い感情に、自分ですら目を逸らしたくなる。
一度は手放す覚悟をしたというのに、今の俺にそんな事ができるとは思えなかった。彼女たちの温かさを知ってしまった俺に──共に過ごす事が当たり前になってしまった俺に、もうそんな選択肢は選べない。
「待ってくれ。由比ヶ浜⋯⋯っ」
「あっ⋯⋯」
気づいた時にはもう、身体が動いていた。俺に手を引かれバランスを崩した彼女を抱き止め、かき抱くように腕に力を込める。
やめろ、この酔っ払い、と自分に言い聞かせる。一体何をしているの? と聞き慣れた声が頭の中を木霊した。こんなやり方はまちがっていると、分かっているのに──それでも俺は、俺を止められなかった。彼女を失いたくないと、その叫びを聞いてしまったから。パンドラの箱は開かれ、飛び出した感情はもう元には戻らない。
「由比ヶ浜⋯⋯?」
黙ってしまったままの彼女に呼びかけるが、返ってくる答えはない。
そしてゆっくりと、その腕が俺を抱き返す。
「ずっとこうして欲しかったのになぁ⋯⋯」
今にも泣き出しそうな、震えた声。抱き寄せられた事によって伝わってくる、彼女の柔らかさ──女性らしさ。
その全てが、何もかもを変えてしまった気がした。若しくは、ただそこにあったものを改めて認識しただけなのかも知れない。彼女を女性として見なかった事など、ただの一度もなかったのだから。
「んっ⋯⋯」
唇を寄せたのは、果たしてどちらからだっただろうか。先に舌を入れたのは、どちらだった──?
溶け合うほどの熱を交わし合っていると、意識まで溶け落ちてしまったのか、何も考えられなくなっていく。
永遠にも思える時間を終えて、俺たちはゆっくりと唇を離した。
彼女が、俺を見る。
俺も彼女を、ただ見ている。
どうか拒絶して欲しいと、理性が言った。
どうか俺を受け入れて欲しいと、心が叫んだ。
「⋯⋯いいよ」
──その言葉を聞き届けた瞬間何かがバチンと弾け、俺は理性の化け物で在る事をやめた。