ごめんね、ヒッキー。
借りた傘、返せそうにないや。
腰掛けたソファから少し離れた窓越しに、あたしは外を見ていた。ヒッキーのアパートを出た時から、雨はしとしとと降り続けている。
約束の時間まで、あと五分。彼女は今頃もう近くにいて、灰色の世界に彩りを与えながら歩いている頃だろう。
結局あたしは、ヒッキーとの約束が果たされるよりも先に、彼女に連絡をとった。たぶん、今まで生きてきた中で一番ずるいことをしていると思う。
それでもあたしには、そうする必要があった。だって絶対、ヒッキーは全部の責任をかぶろうとするから。あたしを悪者にしない為に、今頃色んな手を考えているところだと思う。
──カランコロン、と入口からベルの音が聞こえてくる。
傘立てに畳んだ水色の傘をさした彼女は、あたしを見つけると可憐に微笑む。あたしにそんな表情を向ける価値なんて、もう無いのに。
「待たせてしまったかしら?」
「ううん、全然」
あたしの目の前に腰を下ろすと、ゆきのんはそっと目を伏せるようにしてそう口にした。すぐに水の入ったコップを持ってきた店員の女の子に注文を告げると、あたしと彼女だけの時間が訪れる。
「昨日は行けなくてごめんなさい。本当なら二人でお祝いしたかったのだけど⋯⋯」
「気にしなくていいよ。⋯⋯あたしの方が、謝らなきゃだから」
あたしの言葉に、彼女の顔に疑問の色が差す。それっきり上手く言葉が紡げなくなって、静かなピアノの音だけが目の前を流れて行った。
お待たせしました、と声がしてテーブルの上に紅茶のカップとポットが置かれる。沈黙と湿気に耐えかねたみたいに、水の入ったグラスが汗を流す。
「それはどういう意味?」
問いかける言葉はとても静かで、穏やかだった。
きっと今から話すことは、彼女にとって思いもよらないことだと思う。だからそんな風に、口元に柔らかな笑みだって浮かべていられるんだ。
なんて酷い裏切りだろう。
信じてくれている彼女を、あたしは一番の親友を裏切った。
そんな酷いことをしたのに、あたしは未だに上手く喋られず、震えそうになる唇にぐっと力を入れていた。ふぅぅ、と息を吐いて、吸って──言葉にしようとするのに、それが出来ない。
あたしが全てを伝えたら、彼女はどんな顔をするだろう。彼女を傷つけるのは、間違いがなくて。きっともう見たくないと思っていた、あの酷い痛みに耐えているみたいな顔をさせてしまうと思うと、吐き出す息が震えるばかりで上手く声にならない。
「由比ヶ浜さん?」
傷付いて、失望して、彼女はどうするだろう。
許して欲しいとは、思わなかった。許されるべきじゃないって、そう思う。
それでも、ずっとこうしている訳にはいかなくて。
あたしは膝の上でぐっと手を握ると、彼女の目を見詰めながら言った。
「⋯⋯ごめん。あたし、昨日ヒッキーと寝ちゃった」
ぽかんと口を開け、彼女に似つかわしくない気の抜けた表情。
ひょっとしたら、だけど。
彼女はあたしの言っている意味が、分かっていないのかも知れない。ただうっかり彼の家で寝てしまったと思っている可能性は、彼女なら充分にあった。
「由比ヶ浜さん。それって⋯⋯」
「うん⋯⋯。エッチしちゃったってこと」
彼女の大きな瞳が、はっと見開かれる。信じられないものを見るみたいに、あたしを見る。
目は逸らさなかった。そうすることは、自分の罪から逃げることだと思ったから。彼女の反応を全部受け止めるのが、あたしに与えられる最初の罰であるはずだから。
彼女は言葉を失ったままあたしを見詰め続けていた。一体どれぐらい、そうしていただろう。ひっそりと彼女は息を吐くと、一言だけそう言った。
「そう⋯⋯」
責める訳でもない、温度も感情も無い声。彼女の瞳は、色を失ったみたいにぼんやりとしていた。
その全部が何を意味しているのか、あたしには分からない。彼女のことならほとんどなんでも知っているつもりだったのに、肝心な時には何も分からなかった。
ただ一つ分かっているのは、彼女は優し過ぎるという事だけ。傷付いているはずなのに、それを必死に表さないようにして、あたしを傷付け返そうともしない。
だけど彼女の心に深い傷をつけてしまったのは間違いなくて、あたしのやったことは考えられる限り最低の裏切りだった。
きっと彼女は、あたしを見る度に思い出してしまう。
大好きなあの人に浮気されてしまったこと。他でもないあたしにまで、裏切られたこと。
だからあたしはもう彼女と、彼と一緒にいることはできない。傷付け続けるぐらいなら、離れてしまうことの方がずっといい。
「うん、ごめん⋯⋯」
だけど、ああ──。
なんで、泣きそうになっているんだろう。
泣きたいのは、彼女の方なのに。ここで涙を流すのは、絶対にあたしじゃない。
泣くな。
泣くな。
泣くな──。
ちゃんと言うんだ。
もう、二度と会わないって。
彼にも、彼女にも、もう二度と。
「⋯⋯⋯⋯っ」
知らない内に、嗚咽が漏れていた。ダメなのに。泣いてしまったら、彼女はもっと優しくなってしまうから。だから、ダメなのに──震えも嗚咽も、止まらない。
彼女と彼の人生から、あたしはいなくなる。あたしは本当の友達も、本気の恋も全部むちゃくちゃに切りつけたまま、どこまでも孤独に落ちていく。
それを想像するだけで、身体がバラバラになってしまいそうだった。あたしを形作る何もかもが一つひとつの欠片になって、もっともっと小さくなって、霧にように消えていく。
ずっと大切だなって、何より誰より好きだなって、分かっていた。二人ともあたしがあたしである為に必要なんだって、ずっと前から知っていた。
だから──あたしは二人を失うのが怖い。どうしようもなく、怖かった。
あたしがあたしでなくなったら、それは何なんだろう。
抜け殻、人形──命を持たない、何か。
「由比ヶ浜さん」
彼女に呼ばれて、顔を上げる。
きっとこうして彼女の顔を正面から見られるのは、最後なんだって思いながら──。
△ ▽ △ ▽ △
その言葉の意味が、本当に分からなかった。
「⋯⋯ごめん。あたし、昨日ヒッキーと寝ちゃった」
彼女は、一体何を私に伝えたいのだろう。
昨日、彼女は彼と二人で
いや、その考えはどうかそうであって欲しいという願望が入り込み過ぎている。そんな事は分かっていても、信じたくないという気持ちが勝ってしまう。
「由比ヶ浜さん。それって⋯⋯」
努めて冷静に、言葉を紡ぐ。
「うん⋯⋯。エッチしちゃったってこと」
その瞬間、私の心の内は夜の帳に閉ざされた。ただ唖然と、彼女を見詰め続ける事しか出来ない。
本当にそれは彼女の声だったのか疑わしいほどに、重たい一言。心を抉り取られる、一つの事実。
彼女の告げた事実は、ずっと前に恐れていた、いつか起こりうるかも知れないと考えていた出来事だった。本気で迫られたら、彼は断り切れないんじゃないかって、付き合い始めはそう思う事もあった。
けれど最近は、どこか安心し切っていたのだと思う。彼と彼女がそんな関係になる事はないと、勝手に盲信していたのだ。
思えば奉仕部として過ごしたあの高校時代──彼は間違いなく、彼女に惹かれていた。それはどうしようもないぐらい、隠しようもないぐらい。恋愛経験の無い私にだって分かるぐらい、彼は彼女の事が好きだった事を、私は知っている。
だから彼が私を選んだ事は、嬉しかったけれど信じられなかった。
そして決して短くない時間をかけて私は彼を、彼女を信じ切っていた。そんな事が起こり得るはずがないと、本当に本気で信じていた。
彼のした事は、世間一般で言えば裏切りに当たる行為なのだと思う。事実、私の心にはぽっかりと大きな穴が穿たれてしまった。どんな言葉でも埋め切らない、大きな穴だ。
「そう⋯⋯」
その声は空虚で、なんの響きも持っていなかった。
私は、傷付いているのだろうか。そのはずなのに、そんな事すらはっきりと分からない、どこか現実離れした感覚。
思えばいつも彼女との関係には、満たされない空白があった。埋めたくても埋めきれない、どこまでも続く余白が、確かにあったのだと思う。
それはきっと、自分と他者とを隔絶する壁のようなものだ。溶け合って一つになれたらどれだけ満たされるのだろうと思うけれど、私はその壁を壊す力もなければ、空白を埋める術も知らない。だから今日穿たれてしまった大きな穴なんて、私の手に負えるものではないと思う。
「うん、ごめん⋯⋯」
そう言って頭を下げた彼女の
その表情を見て、私は薄々ながら気付いてしまう。
彼女の、覚悟。
決定的で、不可逆な別離──。
次に彼女が何を言わんとしているか分かってしまって、酷い焦りが渦巻いてくる。
「⋯⋯⋯⋯っ」
声にならない声が、熱い吐息と一緒に吐き出される。耳朶に響く嗚咽が、彼女の本気を伝えてくる。
駄目だ──と、そう思った。
これ以上何かを彼女に語らせるべきじゃない。その決定的な言葉を聞いてしまったら、もう後戻りは出来ないから。
「由比ヶ浜さん」
はっきりとした意思を込めて、彼女の名前を呼ぶ。まるで最後通牒を受け取るみたいな表情で、彼女は私を正視する。
「ひょっとしてあなたは、私たちから離れようとしていないかしら?」
私の問いかけに、彼女の瞳が一瞬揺らいだ。
やはり、私の読みは外れていなかった。彼女はきっと、これを最後に私たちの前から姿を消すつもりだったのだ。
そんな事、看過できるはずもない。
だって彼女は、彼は、私の一部だから。私を形作る、最も大きなピースだから。
三人でいる事は、彼女にとって残酷な事をしているのかも知れないという自覚はあった。それでも私は彼女から離れる選択なんて出来なかったし、それは彼女も同じだったと信じている。
もしも彼女はそうじゃないと、私と彼と離れても平気なんだと言うのなら。
彼に浮気された事実よりも、ずっとその方が堪える。
「⋯⋯そうだよ」
声は震えていた。
私はそれに、少しだけ安心する。彼女は無理をしていると、分かったから。彼女は本気だったけれど、本当にそれを望んでいる訳じゃない。
「だってそうしないと、あたしは側にいるだけでゆきのんを──」
「由比ヶ浜さん」
もう一度意思を込めて、彼女の名前を呼ぶ。
今にも溢れそうな涙を止められるのは、きっと私だけ。壊れそうな彼女の心に触れていいのは、私だけだ。
「私が許せば、あなたは側にいてくれるのかしら?」
「でも、そんなこと⋯⋯」
「できるはずよ。何より三人でいたいと、最初にそう願ったのはあなたなのだから」
いつかのバレンタインデーに、彼女が
それを拒んだのは彼で、それから色々な事があって、それでも結局は三人でいる。彼女が望んだ形とは違ったけれど、確かに私たちは三人でいる事が出来たのだ。
「⋯⋯⋯⋯」
声も言葉も失くして、彼女は目を潤ませたまま私を見続ける。
きっと彼女は、そんな目を彼に向けたのだろう。そんな表情をされて、彼だって平静ではいられなかったはずだ。私だって、こんなにも乱されてしまうのだから。
そしてふとした瞬間、穿たれてしまった大きな穴の正体が分かってしまった。
私は、知りたい。
全てを、余す事なく知りたい。
彼がどうやって、彼女を抱いたのか。彼女を抱きながら、どんな表情で、どんな声を出したのか。
考え出したらもう、止まらなかった。こんな欲が私の中にあるなんて、知りたくもなかった。
けれど私はもう、その存在を認めてしまっている。そして知ってしまったのだ。塞ぐ事なんて無理だと思った大きな穴を、埋めてしまう手段を。
穴を開けたのが彼と彼女であるなら、塞ぐ事も二人でしか叶わない。
「私から離れるなんて、許さない。けどあなたの行いには、相応の行為で返して貰う必要があるわね」
随分と抽出し過ぎてしまった紅茶を、カップに注いだ。カラカラに乾いた喉と心を潤すように、一口それを含む。
私の願いは、大それた物なのかも知れない。おおよそまともとは言えないし、随分と歪んだ感情だと思う。けどそれも、いつか彼が言った歪みの一つだ。
私は不安そうな顔をする彼女を安心させるように、そっと微笑んだ。上手く笑えている自信は、ない。
今から彼女に告げる事は、きっと全て変えてしまうから。それでも私は、彼女を手放したくない。彼女がいつか希ったものを、手に入れたい。
どうしても。
どうしても、手に入れたい。──だから。
「ねえ由比ヶ浜さん。比企谷くんともう一度、寝てくれないかしら。今度は私の目の前で」
今こそ時計の針を巻き戻す為に。
私は彼女に、そう言った。