うっすらと目蓋を開けると、染み一つない真っ白な天井が広がっている。
見慣れた壁面に調度品。そして慣れた重さが、俺の右腕の上で微笑みを浮かべていた。
「やっと起きた?」
僅かに右に顔を傾けると、雪乃は桜色の唇を動かしてそう言った。
カーテン越しの柔らかな光を纏う彼女は、何度見ても見慣れる事がない。どんな名画や高名な彫刻よりもなお美しく、現実離れした光景には毎回息を呑んでは固まってしまう。
それだけなら、奇跡的で明媚ないつもの朝の出来事だ。けれど今日は、左腕に慣れない重さが加わっている。
「あたしはもうちょっと見ていたかったけど」
左を見ると彼女も──由比ヶ浜もまた
昨日俺は由比ヶ浜結衣を、そして雪ノ下雪乃を抱いたのだ。信じられない事に、一晩で二人とも。その行為に至るまでの経緯を思い出してみても、未だに何故そうなったのかが分からない。
「⋯⋯おはよう」
余りに神々しい光景の中で言う汎用な朝の挨拶は、酷く間が抜けて感じる。彼女たちはそれぞれに挨拶を返すと、身を起こすかと思いきやそのままの体勢で俺を見続けていた。
「身体の方も起きたみたいね。あなたが目覚める前からだったけれど」
そう言って雪乃が俺の身体に手を滑らせた先は──隆々と盛り上がった、昨晩役目を全うしたはずの部分だった。
「う、ぉぉ⋯⋯」
「昨日あれだけしたのに、まだ元気なのね」
裏筋をつっとその細い指で撫でられ、俺は思わず声を漏らした。その行為自体も初めての事ではないのに、三人というシチュエーションもあってか、妙に敏感になっている。
「これが⋯⋯。“朝勃ち”ってやつ?」
「やめろよそれ真顔でそんな事訊くんじゃねぇよ⋯⋯」
由比ヶ浜の発言に思わず両手で顔を覆いたくなるが、あいにく両腕に彼女たちの頭がのっているせいでそれも叶わない。それにしてもこいつ、勃ち過ぎだろ⋯⋯。
「残念ながらもう避妊の用意がないのよね。誰かさんが全部使い切ってしまったから」
昨晩の事を思い出すと、何も言い返せる事がない。俺は雪乃の家にストックしてあったコンドームを全て使い切るまで彼女たちと愛し合い、その中に出しては放出された精液を彼女たちに飲んでもらっていたのだ。
最後は二人とも失神しかけていたような気もするし、まさか一日であんな回数をするとは思わなかった。⋯⋯よくよく考えるととんでもない事してるな、俺。
「だから手でもいい?」
「へ⋯⋯?」
雪乃の発言に、俺の口から気の抜けた声が漏れる。まるで一気にアクセルが踏み込まれたかのように、心臓がバクバクと脈打ち出した。
「由比ヶ浜さんも、一緒に」
「えっ⋯⋯。う、うん」
雪乃がその白魚のような指を硬くなったものに絡みつかせると、促された由比ヶ浜はその上から華奢な指を重ねてくる。両手で握っているような状態になると、彼女たちはそれをゆっくりと上下に動かし始めた。
「ちょっ、ま、う、おぉぉ⋯⋯」
両側から見詰められながら手で愛撫されて、俺はまた堪らずに声を漏らしてしまう。
言うなればダブル手コキというやつなのだろうか。余りにも非日常的な行為に、勃起し切っていたと思っていたペニスが更に硬くなった気がした。
「ヒッキー、その声キモい⋯⋯」
由比ヶ浜は蔑むような言葉を言いながらも、その目にはうっすらと愉悦のようなものが浮かんでいた。
まるでデジャブだ。昨晩、雪乃の事を本当に俺が知っている雪ノ下雪乃なのかと疑った時のように、今俺の性器を擦り上げている彼女は本当に由比ヶ浜結衣なのかと疑いたくなってくる。
「でも⋯⋯ちょっと可愛いかも」
「可愛いかどうかは置いておくにしても⋯⋯愛嬌はあるわね」
二人ともが同じ表情をして、情け容赦なく俺の肉棒をしごき上げる。
しっかりと竿全体を動かすようなストロークは自分で致すのとは一線を画した気持ちよさで、自由を奪われたままの俺はビクビクと肉棒と身体を反応させる事しかできない。
「贅沢者ね。二人がかりなんて」
「いやこれお前から⋯⋯。は、うぅ⋯⋯っ!」
「ヒッキー、痛くない?」
由比ヶ浜の問いかけにコクコクと頷きながら、俺は快楽の奔流に争っていた。
睾丸はきゅんと上がり、放って置けばあっという間に尿道を精子が駆け上がろうとしてくる。そうする事は余りにも情けないし、勿体無いと、そう思ってしまう。
「ちょっ、待った。は、あぁ⋯⋯。もうちょっと、ゆっくり⋯⋯」
「別にすぐに出してしまってもいいのに⋯⋯。あなたの勃起をおさめる為にやっているのよ?」
「んー⋯⋯。あたしはもうちょっと見てたいかも」
そう言って見詰めてくる由比ヶ浜は、自分が今どれだけエロい発言をしているのか自覚しているのだろうか。身体だけじゃなく顔までぷるぷる震えてきそうなのを抑えながら、俺は彼女たちの手から
深呼吸をして意識を向ける先を変え、なるべく彼女たちと目を合わさないようにして。
そうやって最後の時間を先送りにしようとしても、容赦なく快楽の波は足元まで押し寄せてきている。呆れるほど充血した性器の中に、精液が装填されていく気がした。
「は、あぁ⋯⋯。もう、出そ⋯⋯」
俺がそう告げると、くすりと淫靡な笑みが右隣から漏れる。雪乃は俺を見ながら、追い詰めるように唇の形を変えた。
「いいわよ。私と由比ヶ浜さんで、ちゃんと出すところを見ていてあげる」
続いて由比ヶ浜のいる左隣からは、息を吸い込んで止めた事が雰囲気で伝わってくる。こくりと小さく頷くと、じっと真剣な目でこちらを見詰めていた。
皮が突っ張り過ぎないように優しく、しかし大きな動きでペニスがしごき上げられ、心臓の脈動は加速する。俺は最早射精を止められる段階を既に通り越し、ただ気持ちよく放出する為だけに我慢を続けていた。
「八幡」
そう呼ぶ声がして、視界の端で雪乃の顔が近付いてくるのが見えた。そして反対側にいる由比ヶ浜と目を合わせたかと思うと、二人は微かに頷く。
「ヒッキー」
呼ばれて振り向く余裕もなく、俺は彼女たちから与えられる快楽をただ享受していた。下腹部に力を入れて、ひたすらに射精を遅らせようと最後まで足掻き続ける。
もう無理だと、そう思った瞬間──。雪乃と由比ヶ浜はほとんど同時に、俺の頬に唇を落とした。
「は、あぁ、う、ぁぁ⋯⋯っ!」
俺は断末魔のような喘ぎを漏らしながら、彼女たちの手の中で盛大に射精する。想像もしていなかった行為に馬鹿みたいに興奮してしまい、その昂りを示すかのようにビュービューと生殖液が放物線を描きながら飛んでいく。
「うわぁっ! わ⋯⋯え、なにこれ。すっごい飛んだよ」
「あ⋯⋯っ。ふふっ。出し過ぎよ。自分の顔にまでかかっているわ」
射精を実況されながら、俺は息も絶え絶えになってビュンビュン精液を飛ばしていた。顎にまで熱いものがかかって、いわゆるセルフ顔射をしてしまうぐらい、勢いよく発射してしまったのだ。
やがて精液が出なくなり、ようやく強烈な快感が霧散していく。なおも彼女たちの手の中でビクビク脈打っては空撃ちするペニスから、二人は名残惜しそうに手を離した。
そしてペロリ、と。
雪乃は俺の顎にかかったザーメンを舌先で舐め取った。それを見ていた由比ヶ浜は、腹筋の辺りに撒き散らかされた精液を舌で集め出す。
「お、おい⋯⋯」
雪乃は猫のようにしぺしぺと、由比ヶ浜は犬のようにペロペロと舌を動かし、出したての精液を口内に集めては少しずつ飲み干していく。
俺は完全に言葉を失って、口をパクパクと動かしながらその光景を見守る事しかできなかった。未だに心臓は早鐘を打ち続け、下半身に血を送り続けている。
「流石に昨日よりは薄いわね」
「でも、こっちの方が飲み込みやすいよ」
雪乃と由比ヶ浜は俺が自らの身体に撒き散らかした精液の全てを舐めとると、口々にそんな感想を述べていく。目の前に起きている事が現実だとは、とても思えなかった。
「それで、あなたはどうしてまだ勃起を続けているのかしら?」
雪乃は鈴口から垂れそうになっていた精液を指先で受けると、ぺろっとそれを舐めとった。
さっきからやる事なす事全部、アブノーマル過ぎる。⋯⋯まあ出された精液は飲み干すもんだと嘯いたのは、俺なんだけど。
それでもこれほど綺麗にしてもらった事は稀だったし、雪乃のいやらしさは余りにも飛躍している。きっと由比ヶ浜という強烈なファクターが俺たちに混じる事で、彼女をそう変えてしまったのだ。
「いやー⋯⋯うん。無理だろ、これじゃ」
「はぁ⋯⋯。まあ私たちがいつまでも裸でいたんじゃ、そうかも知れないわね」
雪乃はそう言って床に落とされたままだった下着を手に取り、それに倣って由比ヶ浜も大事な部分を隠していく。
それを若干、ほんの少しだけ名残惜しさを感じながら見ていると、雪乃は由比ヶ浜のブラジャーを拾い上げて絶句していた。カップサイズの表示を見てしまったのかも知れないが、雪乃も高校の時より少しは大きくなったんだからそんなに気にしなくてもいいと思うよ!
「えっと、どうしよっか」
それぞれに下着だけ身に付けると、由比ヶ浜が戸惑いがちにそう言った。まさか追加のコンドームを買いに行こうとか言い出さないよな、と心配した俺は相当あれだし頭を冷やしてきた方がいいと思う。
「そうね、まずはシャワーを浴びて⋯⋯」
雪乃は下着姿のままベッドから立ち上がると、俺たちの方を振り返った。
その美しい肢体を惜しげもなく陽光に晒したまま微笑みを浮かべ、少しだけ悪戯っぽい声で提案する。
「久しぶりに三人で、デートしましょう」
* * *
途切れる事のない人波と、どこまで行っても消えることのない雑音。林立する天を摩する程の高層ビルたち。
あれから俺たちはそれぞれにシャワーを済ませると、雪乃の提案で東京へ向かった。都心に入ってから山手線へ乗り換え、降りる駅も彼女に任せて目抜き通りを歩いている。
デート、と言って思い浮かべるのは千葉だったが、俺が東京の大学に進学してからというもの雪乃とのデートは東京と千葉の半々だったから、彼女に取っては自然な選択だったのかも知れない。知っている千葉のデートスポットはあらかた行き尽くしてしまった、というのもあるのだろうけど。
「まだお昼には早いけど、あたしちょっとお腹空いたかも」
「そうね。私も少しお腹が空いたわ」
雪乃はマキシ丈のスカートに淡い水色のシャツを合わせ、今朝の様子からは想像も出来ないぐらい清涼感のある出立ちだ。由比ヶ浜は昨晩泊まりになる事が分かっていたのか、オフショルダーのトップスに膝上丈のスカートを身に纏い、その裾をひらひらとビル風に遊ばせている。
俺の前を歩く彼女たちの姿は、全くもっていつも通り。三人で東京に出かける時と、寸分の違いもない。
その様子に違和感を感じているのは、俺だけなのだろうか。昨晩から今朝にかけてあれだけの事をして、そしてそれ以前に俺は雪乃を裏切る行為をして。
それは雪乃から見たら、由比ヶ浜にも言える事であるはずだった。いくら事の発端は俺にあるとは言え、雪乃から見たらいわゆる“浮気相手の女”で間違いないのだ。
しかし、一つだけ理解ができる材料があるとすれば。
雪ノ下雪乃は、虚言を吐かない。つまりこうすれば許すと言ってそれを相手が履行したなら、言葉通りになるのだろう。それが彼女の本心からくる言葉なのかどうかは、分からないけれど。
もし俺なら、どうなのだろう。そんな事をふと考えてしまう。
俺には雪乃にとっての由比ヶ浜のような、一蓮托生とも言える間柄の男友達はいない。だからどうしてもリアリティのある例え話は出来ないわけだが、もし雪乃が誰かと浮気していたらなんて考えると──どす黒いもので胸の内に広がり、ただの想像だというのにその絶望の大きさに圧倒される。思考を無理矢理にでも中断しないと、今すぐにでも吐いてしまいそうだった。
それほどまでの事をしてしまった自覚はあるし、言い訳だってするつもりもない。ただずっと深いところまでの理解ができなくて、ずっと喉奥に引っかかっているような異物感に苛まれていた。
「ヒッキー、ここでいい?」
「え? ああ⋯⋯」
その声に顔を上げて、ようやく俺は彼女たちが立ち止まっている事に気付いた。彼女たちが視線を向けているのはそこそこ立派な店構えのカフェの前で、店内の席は半分ほどが埋まっている。
じゃあここで、と雪乃が言うと、俺たちは店内に入った。一番奥の席に通されると、四人がけのテーブルを囲んで座る。
注文を終え、それぞれが頼んだスイーツや飲み物が届くまでの間も、彼女たちの様子に大きな変化はなかった。あれやこれやと由比ヶ浜が話しかけ、雪乃は彼女なりに突っ込んだり同意したりと、仲睦まじい事この上ない。
もちろん雪乃と由比ヶ浜がギスギスしているところなんて見たくもないし、高校の時のすれ違いだけでもトラウマレベルに神経をすり減らしたのだから、仲がいいに越した事はないのだが。
「んー、これ美味しい」
注文の品が届くと、由比ヶ浜は生クリームがたっぷりのったスフレフロマージュを一口食べ、見ているこっちの方が緩んできそうな笑みを浮かべた。隣に座った雪乃もブルーベリータルトを一欠片だけ口に入れると、口元を押さえてふむふむと小さく頷いている。
そんな彼女たちを見ながら、俺も届いたばかりのスコーンを一口齧った。キッチンで温め直してくれたのか、熱々のスコーンはほろりと口の中で崩れていく。
「ね、これも自分で作れたりするのかな?」
「レシピが分かれば、大丈夫じゃないかしら。今度一緒に作ってみる?」
二人のこうしている姿を──見慣れた姿を見ているのは、とても安心する日常の一コマであったはずだ。
それに違和感を感じているのは、きっと俺の問題なのだろうと思う。
俺は大きなまちがいを犯し、それでもなお雪乃と関係を続けたいと願った。そして彼女は交換条件を出し、それを受け入れた。その結果、目の前の光景がある。きっと望んでいたよりも、ずっといい結果であるはずだ。
ブラックコーヒーで口の中の甘さを押し流すと、ふと気付く。
──俺は罰を受けたいのだろうか?
答えはきっと、イエスだ。
いつも以上に鋭利な言葉で立ち直れない程に罵倒されれば、俺は彼女の負った傷の深さを少しでも知る事ができただろう。けれど彼女はそれをしなかった。
だから俺は分からない。
雪ノ下雪乃の事が、分からない。
本物が欲しいと望んだ俺の隣を歩んでくれたのは他ならぬ雪乃で、全て知っていたいという酷く身勝手な願いにも寄り添ってくれた。
けど今はどうだ。
一番大事な事が分からないまま、日常を再現しているだけ。類推し導き出した答えが真であるかなんて、当の本人でなければ知り得る訳がないのだ。
「ヒッキー?」
二人を見ながら沈思黙考していた俺に、由比ヶ浜は疑問の視線を向けてくる。
思えば由比ヶ浜は、何故これほどまで自然に振る舞えるのだろう。俺の与り知らないところで二人の会話があったのは確かで、その答えが今この時なのだろう。
「えっと、食べる?」
じっと見てしまっていたのを、一口食べて見たいと思ったのだろうか。由比ヶ浜はそう言うとフォークでスフレフロマージュをすくい、俺の眼前に差し出してくる。
「あら。ならこっちも食べてみる?」
そう言って雪乃は切り分けたブルーベリータルトの欠片をフォークに刺し、同じく俺の口元に差し出した。
こっちは絶賛懊悩中だというのに、目の前には頭お花畑になりそうな光景が広がっている。
「さあ、どっちから食べるのかしら」
雪乃の試すような言葉に、由比ヶ浜はふふっと小さく笑いを漏らした。
⋯⋯いや本当君たちなんなの。こっちが真剣に悩んでるのが馬鹿みたいになるでしょうが。
そしてこの場の正解は一体どっちだ? 差し出した順番通り由比ヶ浜から食べるべきなのか、後が怖そうだから雪乃の方から食べるべきか。あとこれガハマさん間接キスになるんだけどいいの? とか、そんな事を考えるのは今更──。
「比企谷?」
聞き慣れない、しかしはっきりとした呼び声に、俺の思考は中断される。
声のした方を見ると、声をかけてきた女性はウェーブのかかった髪を肩口に纏わせ、唖然とした表情で俺を見ていた。Aラインのスカートにボーダー柄のシャツといった大人びた格好をしているが、その顔と声は見間違えも聞き間違えもできそうにない。
俺たち三人に見詰められながら、折本かおりは彼女の作り上げたイメージ通り実にサバサバと、そしてはっきりと疑問を口にした。
「⋯⋯二股?」
* * *
「ねぇ、ここまで来ればもうよくない?」
「⋯⋯そうだな」
余りに純粋で、そして答えに窮する折本の質問のあと。
俺は折本をカフェの店内から連れ出すと、目抜き通りを歩いていた。折本の言葉に俺は肯定を返すと、比較的閑散とした路地に入って、何かのテナントの壁に背中を預けた。
「で、さっきのあれ、なんなの?」
折本はショルダーバッグを肩にかけ直すと、俺の隣で同じように壁にもたれかかる。
硬直してしまった雪乃と由比ヶ浜から折本を遠ざけようと思わず連れ出してしまったが、正直その答えは俺も持っていないのだ。むしろ俺が訊きたいぐらいなのだから。
「⋯⋯よく分からんけど、何かの冗談だろ」
「いや、そうじゃなくて」
やれやれ、と言った調子で折本は短く溜め息をついた。何か雪乃に呆れられている時みたいな反応だなと感じながら、俺は視線で彼女の言葉の続きを促す。
「あたしが訊きたいのは、あの二人との関係のこと。雪ノ下さん⋯⋯だっけ。あの子と付き合ってるって、風の噂で聞いたけど」
なんだその何処の馬の骨とも知れない風の噂は。陰日向で暮らそうと必死な俺の噂まで飛ばしちゃうとか偏西風レベルかよ⋯⋯。
しかしその質問であれば、明確に答える事ができる。俺が付き合っていると明言できる相手は、一人しかいないのだから。
「まあ、その噂は合ってる。俺が付き合ってるのは雪ノ下の方だ」
「じゃあもう一人の子の方は? 冗談でも彼女の前であんな事しないと思うけど」
その真っ当すぎる質問の前に、またも俺は答えを紡ぎ出せなくなっていた。
今の俺と由比ヶ浜の関係性を正しく形容する言葉を、俺は知らない。思い浮かべたくもない言葉や倫理に反する感情がいくつも心中を駆け巡り、やはり一つして言葉になって出て来てはくれなかった。
ちらりと折本の方を見ると、彼女は目を逸らす事なくじっと俺を見ている。
何せまだ注文もする前から店から連れ出されてしまったのだ。俺が何か答えない限りこの時間は終わらないのだと、その強い視線が言っていた。
「友達以上、恋人未満、とか?」
「いや訊かれても知らないし⋯⋯。っていうかそれ、ガチクズじゃん」
ありがちで
ガチクズ、か。
言われてみてこれ程すっと胸に落ちる言葉はないような気がする。往来を気にしてか折本は爆笑こそ我慢していたが、口元とお腹を押さえ
「いや、ウケ過ぎだから⋯⋯」
「ウケるでしょ、こんなの。あんな可愛い子たちに二股かけるとか、比企谷モテ過ぎだし」
あー苦しい、と折本は未だ笑いの奔流に飲まれていた。
しかし『モテる』というキーワードには少し違和感がある。なんと言うか、そんなに単純な問題でもないし、言葉が軽々し過ぎるのだ。
折本は一頻り笑うと、自分を落ち着かせるように長く息を吐いてから俺に向き合う。
「本当に変わったね。比企谷って」
急に真面目なトーンになって、しみじみと折本はそう言った。
一見しただけの関係性を以って変わったと言われるのには不服があるが、確かに変わったのだと思うし、変われなかったとも思う。
昔の俺は、ちゃんと選べていた。大切なものを、信念を持って手離す覚悟だって持っていた。
今はどうかと問われれば、きっと出来ないし、そもそも今現在できていない。抱え切れない程の大切さを知ってしまった後にそれができるなんて、思えるはずもなかった。
「なんかあの子たちと一緒にいるの見る度にさ、ひょっとして逃した魚は大きかったのかーって思ったりしたけど⋯⋯。やっぱないなー。二股かけてくる彼氏とかありえないし」
何も本気で責めている訳じゃない、とでも言うように、折本は笑いながらそう語りかける。まあ当事者ならいざ知らず、折本はたまたま三人でいるところを見ただけの傍観者だ。彼女にとって本気で相手をしていない人間の恋愛事情なんて、真剣な非難を向ける対象にはならないのだろう。
「⋯⋯まあ、そうだわな」
本当にこんな中途半端なやつは、誰に取っても恋人として相応しくないだろう。俺は自分自身に呆れるように自嘲の笑みを浮かべると、折本は壁から背中を離してこちらを向く。
「あたし、別の店行くわ」
「え? あ、ああ⋯⋯。なんかすまん⋯⋯。気を使わせたな」
「なに謝ってんの。ウケる。⋯⋯ま、確かに気は使ってるけどね」
折本は踵を返して二、三歩だけ歩くと、くるりと振り返って言う。
「じゃあね。あの二人によろしく」
俺が応ともうんともつかない言葉をもごもごと返すと、折本は今度こそ振り返る事なく雑踏の中へ消えていく。目抜き通りの人影はさっきより目に見えて増えていて、あっという間に折本の背中は見えなくなった。
二人によろしく、ね。
一体俺が二人に何をどう伝えればいいというのか、今を以ってしても分からないまま、俺は彼女と反対方向へと歩き出した。
* * *
カフェの中に戻ると、もう二人の前の皿は片付けられており、テーブルの上には飲み物と食べかけのスコーンだけが残っていた。
「悪い。遅くなった」
俺がそう言って席に座ると由比ヶ浜はううんと首を振り、雪乃は俺の胸の辺りをじっと見詰めている。
微妙な居心地の悪さを感じながらすっかり冷めてしまったスコーンを手に取ると、雪乃はフラットな声で問いかけてくる。
「随分時間がかかっていたけど、何を話していたの?」
スコーンを口に運ぼうとして手を止め、俺は正面から雪乃の視線を受け止めた。
雪乃の言うところのデートを別の女性と抜け出して、何を話していたのか。なるほど疑問に思うのは至極当然で、単純な質問だ。
しかし質問が単純だからと言って答えが簡単にはならないのが世の常だ。折本との会話の内容を
「まあ、なんというか⋯⋯。俺たちはどういう関係なのか、って話だな」
だからと言って何も話さないのは、不誠実に過ぎる。当たり障りないところから話し始めると、それを聞いた由比ヶ浜の表情にすっと影が差した。
「あはは⋯⋯。確かにどういう関係なんだろうね」
力無く笑う由比ヶ浜の姿に、俺の胸の内に重たいものが広がっていく。
俺が折本に対して答えた由比ヶ浜との関係性の名前は、とてもじゃないがこの場で言えるものじゃない。それにその答え自体だって、合っているかどうかなんて分からないのだ。
雪乃はふむと顎に手をやり何やら考えていたかと思うと、俺を見ながら小さな声で、しかしテーブルにいる者誰もが聞き漏らさないようにはっきりと言い放つ。
「このままだと私とは恋人で、由比ヶ浜さんはセックスフレンドという事になるわね」
「──せ、ふれ⋯⋯」
雪乃の余りな物言いに、由比ヶ浜はドン引きを通り越して唖然とその言葉を繰り返す。俺も雪乃の口から出るには予想外すぎるキーワードに、開いた口が塞がらなくなっていた。
いや、ねぇ、雪乃さんさぁ⋯⋯。世間一般的に見たら確かにそうなるのかも知れないけど、もうちょっと言い方考えましょうよ⋯⋯。
「けどその質問には早めに答えを出した方がいいでしょうね。特にあなたは答えをはっきりさせるまで時間がかかり過ぎるから」
その指摘に俺は返す言葉もなく、うぐぐと声に鳴らない
思い返せばはっきりとした言葉にして好意を伝えたのも雪乃からで、俺がちゃんとそれに応えて言葉にできるまで随分時間がかかった。更に言うなら恋人同士であると言い切れるようになるまでだって、相当彼女を待たせたのだ。
雪乃の責めは甘んじて受け入れる必要があるし、言い訳は一つもない。彼女の言う通り、俺は結論を急ぐべきなのだろう。
黙り込んでしまった俺を、由比ヶ浜はまるでこちらの身を案じているかのように心配そうに見ていた。そんな彼女の手を、雪乃はそっと握り込む。
「大丈夫よ由比ヶ浜さん。八幡があなたとの関係を、そんな不実な言葉で終わらせるはずがないもの」
その言葉は祈りのようでいて、しかし確信に満ちている。
もちろん俺だって雪乃が言うような関係を続けるつもりも、それで終わらせるつもりもない。
ただ俺がそれを上手く言葉にするのも、明確な着地点も見出せていないだけ。
だから俺は考えて、考えて、考え抜いて。
大事なものを大切にするにはどうしたらいいか、答えを出さないといけない。
* * *
夏の兆しを含んだ太陽の光が、燦々と俺たちの上に降り注いでいた。
ここが東京である事を忘れさせるほど視界を遮るものは少なく、辺りは緑に満ち溢れている。心地よいそよ風が吹くたび、彼女たちのスカートは僅かに裾を広げ、二人の会話が耳に届いた。
カフェを出た後、俺たちが訪れたのは新宿御苑だった。
少し考える時間が欲しいと言った俺に対して、雪乃が散歩をしながら考えてはどうかと提案してくれたのだ。高名な詩人や作曲家たちも散歩中にインスピレーションを得る事が多々あったというし、確かに思案にくれるにはベストな提案のように思えた。
入園料の必要な施設だけあって、庭園内はさほど人も多くない。そぞろ歩きながら時折目の前の景色に意識を集中し、また思考の海に戻っては答え探しの航海を続ける。
「八幡」
庭園内を暫く歩いた後、雪乃は振り返って俺を呼んだ。
「少し、由比ヶ浜さんと二人で話がしたいの。そこで待っていてもらっていい?」
彼女が指し示した先は、人気の無い東屋だった。ひょっとしたら雪乃は、俺に一人で考える時間をくれたのだろうか。
おう、と頷くと、雪乃は由比ヶ浜と連れ立って池の方へと歩いて行った。俺は促された通りに東屋に行くと、彼女たちが見える位置を探して腰を下ろす。
さて、あれからずっと考え続けて未だ上手く言葉にならない感情とこの想いを、どう整理していけばいいだろうか。余りにも考えるべき事が多過ぎて、何から手をつけたらいいか途方に暮くれてしまう。
ただ単純に俺が雪乃と付き合っている時は、もっと簡単だった。きっとこのまま恋人と言う関係が続いて、いずれは籍を入れて──と考えると、未だにぞわぞわとした自分が自分でなくなるような感覚に陥るのだが、本当にそうなるのだろうと信じていた。
しかし今は、その展望もリセットをかけなければならない。もう二人だけではない、三人の未来を描き直す必要がある。
選択肢は、数だけ数えればたくさんあるように思える。
まず最初に消えるのは、何もかもを無かった事にするという選択肢だ。検討するだけ馬鹿らしいし、誰も望んでいない答えだろう。
次に消えるのは雪乃が言葉にしたように、由比ヶ浜との関係を曖昧にしたまま、現状を続ける方法。これもあり得ない。それを避ける為に、俺は現在進行形で懊悩しているのだから。
考えるだけでも暗澹たる気持ちになるが、二人と、あるいは一人と縁を切るなんて事も──出来ない。出来る訳がない。
折本の言葉を借りれば俺はガチクズでボケナスで八幡だが⋯⋯いや、そこまでは言ってないな。とにかくガチクズにあの二人は勿体無いないから潔く別れろ、それが彼女たちの幸せだ、と側から見た人間ならば言うだろう。俺だって赤の他人相手ならそう思う。
ふと、二人のいる方を見る。
雪乃と由比ヶ浜は何やら話し込んでいるが、その言葉が風にのってこちらまで届く事はない。遠目に見えた雪乃は優しく微笑み、由比ヶ浜はどこか儚げな笑みを返した。二十歳を越えたというのに、彼女たちの美しさも可憐さも落ち着くどころか、出会った頃よりずっと増してきているように思う。
俺なんかに勿体無い、と言ったら彼女たちはきっとまた呆れる事だろう。そのぐらい、二人の気持ちの大きさも真摯さも分かっているつもりだ。
やがて二人は、手を繋いでゆっくりと東屋の方へと歩いてくる。
雪乃と由比ヶ浜は俺の目の前に腰掛けても、繋いだその手はそのままだった。
「考えはまとまったかしら?」
口元には笑みを浮かべたまま、雪乃は柔和な声で問い掛ける。その隣で由比ヶ浜は、僅かに震えているように見えた。
雪乃は大丈夫、とでも言うように、由比ヶ浜の手を握り込む。
「私と
その呼び方の変化に、俺はハッとして由比ヶ浜の顔を見る。
彼女は俺と目が合うと、こくりと頷いた。
雪乃は、そして由比ヶ浜はもう、覚悟を決めたのだろう。
俺がどんな答えを出しても、茨の道になる。それでも構わないと、どんな事があっても、彼女たちは──。
「あなたがどんな答えを出しても、私と結衣は一緒よ。絶対に、離れる事なんてない」
雪乃の視線は射抜くように強く、その決意を俺に伝えてくる。
答えは今、決まった。
きっと最初から、それしか選びようがなかったのだ。
全く、雪乃に背中を押して貰わないと決断できないとは不甲斐ない。己の覚悟の中途半端ぶりが嫌になる。
雪ノ下雪乃は強く真っ直ぐで、そして美しく儚い。そんな彼女の隣を、自ら離れる事なんて出来ない。
由比ヶ浜結衣は優しく健気で、そして可憐で賢い。そんな彼女の全てに触れ、大切さを知ってしまった今、どうやって手放せと言うのだろう。
選んだつもりでいて、その実どちらも選べていなかった。
一度ついてしまった火は燻り、蓋をして待っていたって消えていなかったのだ。
「俺は⋯⋯」
この先の言葉は、酷く傲慢で強欲だ。あり得ないと、誰もが口を揃えて言うだろう。
今もまだ、自問の内なる声は止まらない。
本当に出来るのか?
雪乃だけではなく、由比ヶ浜までちゃんと幸せにできるのか?
お前にどこまでの実力がある? ポテンシャルはあるのか? 本当に彼女たちが納得してくれると思うのか──?
「⋯⋯俺は雪乃とはこのまま恋人として続けていきたい。その上で、なんだが」
喉がひりついて、声が
もう得意のまだるっこい言い方で逃げたり、言葉に囚われ過ぎて気持ちを伝え切れないなんて事は、あってはならない。
俺が由比ヶ浜を正視すると、彼女も真正面から見返してくる。そして俺は、どんな誤解も生まないように、答えを言葉に変える。
「⋯⋯
由比ヶ浜はその大きな目を更に開くと、
「言った通りでしょう?」
「うん⋯⋯。でも」
由比ヶ浜はもう一度俺を見ると、にわかに顔を伏せた。
色彩のないコンクリートを見詰めながら、弱々しい声で彼女は問う。
「ヒッキーは、本当にそれでいいの? 多分あたしたちよりずっと、辛い思いをすると思う」
「それでも、答えは変わらない。すげぇ欲張りだし無茶苦茶かも知れないけど⋯⋯。手放すなんて出来ねぇんだよ」
それはまるで、一世一代の告白だ。
無防備なほど赤裸々に、胸の内を曝け出す。方便も自意識も外聞も捨て去って、ただ目の前の女の子を大切にしたいと、切に
結衣は瞳を濡らしたまま、ぎゅっと雪乃の手を握り返した。
そして静かにはっきりと、彼女の答えを口にする。
「あたしでよければ、喜んで。えっと⋯⋯よろしくね。ヒッキー、ゆきのん」
「ええ」
雪乃は目を瞑ると身体を傾かせ、そっと結衣に寄り添う。
微かに微笑んだ口元が動き、ことほぎを紡いだ気がした。
そして暫しの後、ぱっと目を開くと、雪乃はおかしそうに言う。
「これで正真正銘の二股谷くんね」
「お前⋯⋯。ここでそれ言う? 空気読むって言葉知ってる?」
俺が言い返すと、雪乃は今度こそ小さく声に出して笑った。つられて結衣も、さっきまでの緊張をほぐすように笑顔を咲かせる。
つられて俺も笑うと、胸を締め付けられるほどの郷愁を覚えた。場所も時間も関係性も、何もかもが違うのに、ここがあの紅茶の香りに満たされた奉仕部の部室のように感じたのだ。
事実こうして素直に笑い合っている時間があったなんて、覚えがない。俺はいつも自虐的でアイロニカルな笑みばかりで、雪乃はどちらかと言えば微笑むというよりも嘲笑で──そしてそんな俺たちを見て結衣は、困ったような顔をして、ずっと笑っていた。
「けど⋯⋯。雪乃も本当にそれでいいのか? その、きっかけだって⋯⋯」
互いの顔を見合わせながら笑みを交わす時間が終わると、俺は雪乃に向かってそう問い掛ける。
彼女たちの答えは、もう聞いた。けれどその胸の内は未だ霧がかったように見えず、何も読み取れてはいない。
「八幡。こっちに」
雪乃は結衣の手を握ったまま立ち上がると、俺の方へ向かって歩き出した。俺も彼女たちを迎えるように立ち上がると、東屋の中心で向かい合う。
雪乃の手が、そっと俺の左手を握る。雪乃は視線で促すと、結衣もまた俺の右手を握った。
「浮気は確かにショックだったわ。相手が結衣じゃなければ、何をしていたか分からないぐらい」
その言葉にひゅっと俺は息を呑んだ。ちらりと見えた瞳の中の青白い炎が、その一瞬で俺を焼き殺さんばかりだった。
恐ろしい⋯⋯。相手が結衣じゃなかったら俺はどうなっていたのだろう? 未だかつてここまで背筋が冷えた経験はない。
「けれど何をどう考えたって、あなたと離れるなんて選択肢は、なかった。それは結衣に対しても同じよ。私はあなたたちが居ない世界なんて要らないの。⋯⋯身勝手かも知れないけれど」
何が身勝手な事だろうか。そう希ったのは俺も同じで、きっかけを作ったのも俺で、責めを受けるべきもやはり俺なのに。
雪乃は俺に
「でもそう思っていたのは、私と八幡だけだったのかも知れないけど」
「う⋯⋯。ゆきのん、今それ言うの、ズルい⋯⋯」
結衣は意地の悪い指摘に、眉尻を下げる。
雪乃はそれ以上は何も言わず、じっと彼女の言葉の続きを待っていた。
「⋯⋯あたしだって、二人と離れたくない。けどそんなこと願っちゃいけないって、思ったから」
その時の気持ちを思い出しているのか、結衣の声は繕いようも無いぐらい震えていた。
雪乃の手が結衣の手をまた強く握り、優しく緩慢な動きで頷く。
「けどそう考えたのも、二人が大事だからだよ。あたしが居る事で傷付いたり、して欲しくなかった」
結衣は雪乃をじっと見た後に、俺に強い視線を向けた。
告白、あるいは決意表明。その瞳に浮かぶ覚悟と熱は、瞬く間に俺の胸の内に入ってくる。
「⋯⋯分かってる。出した結論が違うだけで、思っている事は一緒なんだよな」
俺がそう言うと、一陣の風が吹いた。
東屋の中を、俺たちが作った三角形の中を通り抜けていく。
そんな風に負けまいと、俺たちは握り合った手に力を込める。
「あなたは、不安?」
そんな俺の様子から内なるものを読み取ったのか、雪乃はそう言って首を傾けた。
まったく、情けない。本来なら俺が彼女たちの不安を拭ってやらないといけないのに、逆に心配されるなんて。
「まあ、な⋯⋯。不安が無いって言ったら嘘になる。お前らだって誰になんて言われるか分からないわけだし」
不安なんて、あるに決まっている。
俺が周りにどう思われるかなんてどうでもいい。これから彼女たちに降り掛かる出来事にどんな事があるのか、考え出すと止まらなくなる。
その全てから彼女たちを守り通す事は、きっと無理だ。三人の関係性を完璧に隠匿するのは至難の業だろうし、ずっと付きっきりで過ごせるわけでもない。いずれ彼女たちに何らかの負担をかけてしまうのは、必定だった。
「やっぱり私たちの事を考えてくれているのね」
「⋯⋯うん」
雪乃と結衣は見詰め合い、ふと破顔した。この場には不釣り合いなぐらいに、明るい表情だった。
「そんなの、好きに言わせておけばいいわ。私たちの関係は、一見で理解も共感もできるものじゃない。周りの人の価値観に合わせて生きていても、きっと幸せになれない」
鈴が鳴るような声で語り部が、物語の展望を描き出していく。
「こういう事は、あなたの方が得意でしょう。常識の外に出るのよ。そして私たちの目で見て考えるの。大事なものは何か、守るべきものは何かを」
「⋯⋯その言い方だと俺が非常識なやつって事になってない?」
「今更何を言っているの? 恋人の目の前でもう一人恋人を作ったばかりじゃない」
その指摘は俺にクリティカルヒットして、反論も何もできやしない。
黙ってしまった俺を見て雪乃が小さくふき出すと、結衣もくすくすと笑い始める。
「あたしもゆきのんと一緒だよ。どんな風に思われたり言われたりしても、きっと三人なら大丈夫だよ。⋯⋯あたしたち、奉仕部だったんだから」
その懐かしいキーワードに、俺の心は強く反応を示す。
──ああ、そうだ。結衣の言う通りだ。
俺たちは舞い込む無理難題やどうしようもない相談も、一つひとつなんとかこなして来た。最良とは程遠い結末や手酷いすれ違いも乗り越えて、今ここでこうして手を繋いでいるのだから。
「なんか⋯⋯すげぇ情けないな。本当は俺が全部守ってやるって言えたらよかったんだけど」
「あら、珍しい事を言うものね。必要以上にリアリストのあなたにそんな事は求めてないわよ」
何か必要以上に棘のある言い方のような気がしたが、雪乃は変わらずに笑みを浮かべている。なんで俺が、励まされているんだか。情けない話ではあるが、心強くもある。
「私たちはちゃんと自分の手で幸せを掴み取るわ。あなたに期待するのは、私たちの手を離さない事だけ」
「うん⋯⋯。あたしもそれだけでいいかな」
その言葉に、ぐっと胸の内が狭くなる。
本当に、なんて事なのだろう。二十年以上生きてきて、こんな気持ちになるのは初めてだ。
大事な人ができた。それも二人も。
その想いの強さの分だけ俺は何でも出来るような、決意を礎にした全能感のようなものを感じていた。
「離すわけねぇだろ⋯⋯。離してくれって頼まれても、出来る気がしねぇよ」
「ええ。その答えで充分よ」
「うん。約束、ね」
まるで指切りでもするみたいに結衣は繋いだ手を振り、雪乃は俺に頷きを返した。
胸のつかえが取れてほっとした瞬間、一気に疲れが押し寄せてくる。
どちらともなく結衣と雪乃は手を離すと、俺を真ん中にしてベンチに腰掛けた。
「では仕切り直しをしましょうか。まだ由比ヶ浜さ⋯⋯結衣の誕生日会も終わってないし」
まだ慣れないのか、雪乃は言い直すと少しだけ頬を赤くする。
んんっと咳払いすると、彼女は気恥ずかしさを吹き飛ばすように、俺と結衣を交互に見て問いかけた。
「ひとつ訊きたいのだけど」
「なに?」
首を傾げた結衣に、雪乃はしっかりと彼女を見る。
そして僅かに頬を染めたまま、予想外の質問を口にした。
「高校の時の制服って、まだ持っているかしら?」