※この作品はR-18です。

視えている   作:アルビノ鮫

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視えない彼女は怯えてる

 

 

 「…ああ、本当に……」

 

 止めておけば良かったかもしれない。いくら目にいれても痛くない可愛い可愛い、家族である猫の為とはいえ。

 買い忘れていたメインではない添え物、食事を進ませる為の促進剤のふりかけを買いにこんな雨降る夜に出掛けるのは。

 自身を怯えさせる色んな怖い想像が頭からどうしても離れない。

 

 それでもなんとか近くのコンビニエンスストアで目当ての魚のふりかけを買い、家へと足を早める。来る時は何ともなかった街灯が切れそうなのか、チカチカと瞬いている。

 

 シトシトと降り続く雨粒が傘を打ち、周りの世界から私を遮断している。まるでこの小さな円形状の範囲だけが、私の息が出来る世界みたい。

 

 

 音が、無くなる。

 

 ……あ、ああ。そんな。そんな。

 

 

 

 ほんの数メートル先、電柱の影に、いる。

 

 

 真っ黒姿の、縦に向いた目玉だけがギョロギョロと私を見つめる……大きなモノがそこに、いた。

 霧を固めたようなぼんやりとした人の形をした、人でない影のようなもの。横にある自動販売機より遥かに長く大きな体を、地面近くまで屈ませながらこちらに身を乗り出して長い長い腕をこちらに伸ば……

 

 

 気が付いたら私は叫びながら走っていた。差していた傘をどこで放り出したのかもわからないまま、どこを通ったのかもわからないまま、水滴を落とすほどずぶ濡れでアパートの玄関前に戻ってきていた。

 

 呼吸が大きく乱れて苦しい。季節がら濡れてしまえば凍えそうな程寒い筈なのに何もわからない。落ちているのが水滴なのか冷や汗なのかもわからない。

 心臓を押さえ、壁に凭れながら落ち着くのを待って震える手で鍵を取り出し開ける。

 

 

 「ひッ…!」

 

 開けた玄関の奥、二つの光が光った。反射的に体が仰け反り玄関扉にぶつかりガシャンと無慈悲な音が鳴る。その光は、何事もなく近付いて、きて……

 

 

 にゃぁん、と。小さな声をあげながら可愛らしい腹ペコの彼が近寄ってきた。

 

 ……安堵で涙が落ち、崩れ落ちながらも彼を抱き上げて強く強く抱き締める。多少の抵抗をされても関係ない。こぼれる涙を擦り付けるように、彼を抱く。

 

 

 

 ああ、私はもう……限界なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 ** 視えないまい子は怯えてる **

 

 

 

 

 

 

 私にとって一世一代、一大決心とも言える告白をしたというのに……行冥様には軽ーく冗談を吐かれてしまった。

 やはり信じられていなかったのだろうか。幽霊なんて有り得ないと……やっぱり、馬鹿にされてしまったのだろうか。勿論行冥様はそんな事をするような酷い人ではない……けれど。

 信じられないのは、仕方ない。誰が……あんな、意味の分からない存在を私の根拠もない言葉だけで信じるというのだろう。

 

 

 「幽霊が視えるなど……嘘、でしょう?だって貴方からそんな事を聞いた事など無いですよ」

 

 体が、背中が信じられないない程冷えている。寒い訳ではなく震える程意識が怯えている。

 嫌われてしまった、と。それだけは、それだけは嫌だったから言わずに堪えていたというのに結局…!

 

 

 なのに。

 

 「それはそうだろう。そのような証明の出来ぬ事実を言ったとて、それは無意味に怯えさせるだけでしかない。だが私は、決して弱くはないとだけ言っておこう……南無…」

 「……」

 

 そんな事をいつも通り大真面目な、吊り眼の瞳から溢れる大粒の涙を流している顔で言われてしまえば、冗談じゃなく本気で言ってるんだと逆に私が困惑してしまった。

 行冥様が弱いなんて、出会ってから一度も思った事はない。姿形ではなく…彼は大きく優しく、強い心を持つ人だから。

 

 「……あっ! もしやそれでいつも、霊に向けて南無阿弥陀仏と唱えていたのですか」

 「……いや。それは、そういう訳ではないのだが……」

 「え、あ……はい」

 

 それは違うらしい。だとすると……数珠をジャリジャリさせていたのも、違うのかな。それっぽいのに。

 

 

 行冥様はそういうのを信じる側の人間だとすら思ってなかった。だって彼はお寺の息子で……けれど出自であるそれを差し置いても思いつく限り一番頼りになる人間が行冥様で。他に、なんて。

 けれどまさか、行冥様が幽霊を見える人……霊感持ちだなんて。ええ、まさかそんな。

 

 「えっと、では……今、近くにいるのですか?幽霊は」

 「うむ。と言うかだな、いない場所等ほぼいないと言っていい。ただこちらに関わってきたり害を加えて来るのがその一部だと言うだけで」

 「……は、ぁ…」

 

 ぐるりと周りを見渡して見てもやっぱり私には何も見えない。何もいない、天井しか見えない。改めて行冥様を見てみる。

 誰よりも大きな体躯、短い黒色の髪。額を横切る大きな一本の傷と吊り上がった、視線の見えない眼は怖い部類に入るのだろうか。なのに本人は全くと言っていい程乱暴な人じゃない。  私はそれをわかってるから何も怖くない。

 今私が怖いのは付きまとって来ている、あの不気味な真っ黒な幽霊の存在だけだから。

 

 ……行冥様にはああ言ったけれど、やっぱりああいう良くわからない、関われない存在はどうしても……怖い。

 背筋を、首筋を。氷よりも冷たい手で撫で回され包み込まれているように、凍えているみたいだ。

 

 

 行冥様は私の戸惑っている反応はわかっているだろう、それでも、言葉を続けてきた。

 

 「嗚呼、それにだが。今住んでる場所は、いわゆる……そのような場所なのだ。昨日電話した時騒がしかったろう?」

 「あっはい、どこかのパーティに出席してるのかと思う程に……」

 「違う。あれは自宅で一人だった」

 「……えっ?」

 「そういう所なのだ。今の家は」

 

 当然とばかりに行冥様は告げてきた。何事もないかのように……下げた太い眉と共に涙を流しながら。

 追い詰められていた私が堪えきれず、昨夜電話した時確かに行冥様の声の周りで様々な声や音がしていた。

 若い男女や年を重ねた男女、年端も行かないだろう子供の声。老若男女それらが……全部室内にいるような騒がしい声。好き勝手に色々と喋りまるで叫んでいるような聞き取れもしない程に騒がしい声がしていた。

 

 ……なのに、一人だった……?自宅…?

 ……ならばあれは、初めて聞いた……霊の声だったとでも言うの?

 

 

 「え?え…ほ、本当に?」

 「うむ。本当だ」

 「……え、え…だ、大丈夫なんですか?」

 「うむ。黙るようにと音をたてたら、黙らせる事が出来たろう?私達は、そのような力関係だからな」

 「………」

 

 彼の顔を見て、どう見ても嘘をついてる顔ではないと確認する。そもそも行冥様は嘘をつくような人ではないから当然ではあるけれど。だとするなら……本当なんだ。行冥様……幽霊が出る物件に住んでいるのですか。

 ……ええ…なぜまたそのような場所に。修行ですか?それもヒエラルキーは圧倒的に行冥様の方が上なのですよね。

 ……幽霊との関係性で立場で上とは……凄くないですか。本人に強い……人。

 

 

 「まぁ日々適当にやり過ごしているし……害を及ぼそうとせんばかりの者達には適当に、"判らせて"いるから心配しなくて良い。それで、まい子のいう黒い影とやらの者なのだが」

 「……あ、はい」

 「今私にはそれのような者は視えていない。幾つかこの世の者ではない人影はあれども……その影とやらは近くにいないと思うんだが、どうだ」

 「………」

 

 言われた言葉に呆気に取られている内に、今一番大事であろう事を何気なく聞かれていた。行冥様は視える。今はいないが、それも退治出来る、と。

 ……それならば、退治してもらった方が良いかもしれない。勿論あれが私に害を及ぼさない良い影ならば別ではあるけれど。

 

 言われて改めてその影を探す。近くて数メートル、遠くて数十メートル離れてるそいつを探すのは一苦労で……だけどどうやら今はいないみたい。

 もう…本当になんとタイミングの悪い。見えていれば行冥様は有言実行、どうとでもしてくれただろうに。

 

 「はい、いないみたいです。近頃は結構な確立で見るのですが」

 「ふむ……やはり私がいる為に隠れたのかもしれぬ。勘が切れるのか、臆病ゆえに慎重なのかはわからないが」

 「…えっ、では行冥様を見てターゲットだった私を諦めたって可能性もありますか?」

 「無い、とは言い切れないな。視た感じ今現在、まい子が憑かれてるとは全く感じれていない」

 「本当ですか!」

 

 叫ぶように出してしまった私の声に、何事かと店内にいたお客さんがこちらを振り向いた。何でもないと謝罪し、恥ずかしさを誤魔化すようにほとんど飲めていない紅茶をマドラーで混ぜて一口飲んだ。

 ほんの十数分前、良い香りだと思った筈のそれをほとんど感じない。ああ失敗した。恥ずかしい……

 

 

 でも、まさか行冥様の偉大さで追い払えるなんて。そしてそれは……もしかして私は持ちうる中で最善のカードを切れたのかな。行冥様に相談するという最善のカードを。

 だとしたら私がするべき事はただ一つ、もっと早くすればと後悔する事でも、改めて怯えていた事を告げて彼に甘える事でも困らせる事でもない。

 

 「大した事は出来ませんが、お礼をさせてください。何か欲しいもの…望みはありませんか」

 

 私に出来るのは、お返しとお礼を精一杯やる事。

 だから訊ねた、どんな高級な品物の購入やそれこそどんな事だって私に出来ることならばいくらでもと。

 

 「いや別に私は何をした訳でもないのだが……嗚呼、では。夕食分を奢って貰っても良いだろうか?」

 「はい勿論です。しかし……本当にそれで宜しいのですか?」

 「うむ。心配しなくとも昼は私が出す」

 「いやお金の心配をしている訳ではなくてですね……」

 

 しかしあっさりと受け流され……そのまま極々簡単な条件を差し出される。

 行冥様の欲しいもの、という難関は聞き出せず奢りというお礼にありふれたものに落ち着き、それに全てではなく二つの内の一つとなればそれはただの折半でしかなくて……ん?

 

 「……あれ?そもそもお昼じゃなくて夜ですか?」

 「うむ。まい子は時間は平気か?」

 「それは大丈夫ですが……」

 「今確認出来ないだけだからな、一応長時間見張り本当に去ったのか確認したい」

 「ぁ…ありがとうございます」

 

 ああ…本当になんて優しい人なのだろう。今更放り出すような事は当然に、話が終わったそれのアフターケアに似た低い可能性を想定して時間をとってくれるなんて。

 きっと忙しいだろうし、他にやりたい事も沢山あるだろう。なにせ昨日急遽私から連絡して無理矢理お願いしたようなものなのに。

 

 うん、なんだか気が楽になってきた。一人だと何だか吸い込む空気すら重くて弱い体が尚一層弱々しくなっていたような気がしていたから。

 案外思っていたより気を張り続けていたのだろうし、気が滅入っていたのだろう。情けないなぁ。

 

 

 

 そして私はお昼、夜、と一日久しぶりにゆったりと羽根を伸ばせた。それは他でもない行冥様のおかげなのだろう。

 だってどれだけ路地裏や部屋の隅の暗がりを見つめようとも一秒たりとも、あの影を見かける事はなかったから。

 

 

 

 満月にも等しい真ん丸な月明かりが夜道を穏やかに照らしている。街灯はあるけれどきっとそれがなくても安全に歩く事は出来そうな程に明るい。

 お腹はいっぱい、財布はちょっとだけ軽くなりはしたものの足取りは軽く終電にはまだまだ時間はある時間帯。

 街中から少し外れた家へと続く帰り道の途中で私は行冥様と別れようとしていた。

 

 

 「そんな事気にしなくて良い、家まで送る」

 「平気ですよ。ここからは慣れた道ですし、今日一日影の一つも見なかったのでしょう?」

 「うむ。そのようなモノは視なかったな。違うのは散々視てたが」

 「ぇ……あ、そう…ですか」

 

 心配をしてくれる優しさはとても嬉しいけれど、家まで来てもらえば行冥様の帰りが遅くなる。いきなりの呼び出しだったというのにこの時間まで拘束してしまって本当に申し訳ない、僅かなる時間だけどもう解放してあげたい。

 そんな優しい人なのになぜ最後に夜道でちょっと怖い話を……ああ、行冥様は怖いと思っていないからかな。

 私があの影は怖くないと言ったから、他の霊はそれ以上に怖くないものに分類されてしまったのかな。余計な強がりを言った私のミスでしかない。

 

 実際は結構怖い。だけど……今更訂正するのも、何だか情けなくて恥ずかしい。そんな聞かれてもいない事を語り出すなんて。

 

 それに私は結局あの黒い影しか見えない人なのだろう。他の霊がどこにどんなのがいると、教えて来ないそれが優しい。

 ……時期的に虫なんていないだろうに、時折何かを手で軽く払うようにしていたのは……きっと。その優しさに最後まで甘えさせてもらおう。

 

 

 そして途中までで大丈夫だと言い切った私のその言葉に、優しい彼は涙を流しながらも結局折れてくれた。

 ごめんなさい、我が儘ばかり言ってしまって。それでもいくら強い人だからといって頼ってばかりもいられない。

 

 

 「それでは行冥様。また何かがありましたら…その、申し訳ないですが」

 「構わない、すぐに連絡をしてくれ。どんな小さな事でも構わない」

 「勿論です。でも何事もないのを祈りますよ、幽霊はいなくなったのでしょうから」

 「……そうだな。そうであれば良い。だが何もなくとも連絡して大丈夫だ。私からも、こっちからも連絡する」

 「……ありがとうございます」

 

 大きな手のひらがまるで頬を包み込もうとせんばかりに近付いてきて……触れずに、離れた。私も、その手をとる事はしなかった。

 

 行冥様はとても優しい友人。でも……それ以上でも以下でもない。だから甘えすぎてはいけない、彼を縛り付けてはいけない。私の都合で振り回すなんて……本当に駄目。

 いつかこうして友人として甘えれない時がきた時に悲しまないようにしなければ。あの時は情けなかったと笑い飛ばせれるように強くならなければ。

 

 

 行冥様と別れ、少々の時間は過ぎながらも私は家へと向かって歩いていた。人通りの少ない夜道は危ないと言うけれどその危険の大部分であろう人間への恐怖は今はさほど感じていない。

 寧ろ街灯の明かりが届かない暗闇に何かがいるかもしれないという元々の漠然とした恐怖が、私では対処出来ない存在がいる事が確定して怖さが増した気がする。結局見えないのが救いだけど。

 

 現在の時間を確認しようとバッグからスマートフォンを取り出し、画面を付けて確認する。

 順調に、あと一つ角を曲がれば家へ辿り着く、という場所まで来て……自然に足が止まる。

 

 ……なんだろう……物凄く、嫌な予感がする。首筋がちりちりする。

 

 

 「……ひっ!」

 

 嫌な予感に身を任せ、いつもならスタスタと進む道をゆっくり、覗き込むように曲がり角から顔だけ動かす。

 そして口から弾かれるように漏れそうになった言葉を両手で押さえて飲み込む。

 

 

 明かりのついてないアパートの廊下、二階の私の部屋のベランダ。その扉の前にいた。

 黒い影が立っている。

 

 のっぺりと高い背を曲げ、中を覗き込むように扉にぴったり顔を付けて。

 私を探しているようにごそごそと腕と指を動かし、まるで隙間をこじ開けんとばかりにしている。

 

 

 「ッ…!」

 

 今まで見てきたその影はこっちをただジッと見つめてくる姿のみ。いつどんな時でもあの影はこっちを見ていた。

 だから、初めて背中を見た。初めてこっちを向いていない姿を見た。

 まさか…背中にびっしりと、鋭い牙を覗かせる口があるなんて思わなかった……ガタガタ震える身体を抑え込めれない。

 

 漫画やドラマであればここで物音をたてて気付かれるのだろう。木の枝を踏んで折ったり誰かや何かにぶつかって声を出したり、だから私は細心の注意をして気を付けていたのに。

 

 

 「!」

 

 影は、急に振り返り私を見つけた。

 

 その顔には昨日までなかった鋭い歯剥き出しの口を添えて。

 

 

 「……ぅ、ぁ…」

 

 脚が震えている。動かない。体が震えている。寒い。震える声が漏れる。暗闇に溶けていく。

 

 何で物音を立てていないのに気付かれたの?何故ここにいる事がバレたの?何であんな姿になってるの、口とか無かった筈なのに。

 

 

 ……ぃゃ、それよりも逃げなきゃ。逃げないと。あの影はこっちにゆっくりと近付いてきている。高さなんて関係なく飛び降りてきた、歯をガジガジ鳴らしながら。

 でも、でも足が動かない。何も出来ない、逃げれない。

 

 

 なにを、どうすれば…………ぎ、ょ…。

 

 

 『もしも── 「ぎッ、行冥様!」

 

 震える腕と指を動かし手に持ったままだったそれを使い、昨日と同じ所へ繋げる。彼はすぐに出てくれた。なのに理性も間に合わない大慌てな私は挨拶もせず返事も聞かずに助けを乞う。

 けれどそのおかげか私が急を要していると理解したみたい。電話越しの声のトーンが変化した。

 

 『!? ……出たのだな!』

 「し、しっ、進化し……私を食べ、よ、と……」

 『落ち着きなさい、目は合っているのか?』

 「…あ、合ってます…」

 『ではそのまま目を逸らさず、見つめ合ったままゆっくり後退して離れなさい』

 「……は、い…」 

 

 行冥様の低い声をスピーカー越しに聞いている間にも影は近付いてきていた。どれだけ近付いてもそれは影を固めたような真黒で細かな造形はわからなかった。

 それでもその声色が何らかの引き金になったのか震えて動かなかった足が、数ミリ動いて、それから一歩、また一歩と後退出来始めた。

 

 

 「ぁ、動い……で、でも向こうのが、速く動い、こっちに近付いて、ガジガジとして……」

 『……訂正する、本格的に良からぬなら全速力で逃走しなさい。走れ。こちらもすぐ行く』

 「は、はい。わか……ひっ!」

 

 目を合わせたまま逃げる、その方法はどこかで仕入れた知識としてある。幽霊や影ではなく……確か、熊だったかな?でも熊は死んだ振りが駄目なように目を合わせたままでも襲われるってのも聞いた事があるような気がする。

 そしてどうやら、影もそうみたい。

 

 最初はゆっくりだった足取りが徐々に速くなってきている、地面を引き摺る足の回転が速くなっている。このまま見合い続けた体勢のままでは追いつかれてしまう。

 翻して全速力で行冥様がいる方向へと走る。私は足が遅いし身体能力もかなり低い、走りながら電話越しに喋れる余裕なんてものは微塵もない。

 だからきっと通話中の電話を通して彼が聞こえるのは遅いながらも私が必死に走る風の音と喉から出ている異常な呼吸音だけだろう。

 

 

 影の声は聞こえない。今まで口がなかったから喋れるかどうかなんて知らない。

 影の足音は聞こえない。そもそも足の裏がなるかなんてわからない。

 

 ただ迫ってきている事はわかる、すぐ後ろから首筋をヂリヂリ焦がすような気配がする。

 

 

 「ひゅ っ  ! っぁ 」

 

 思い切り力の限り走ったのはどれくらいぶりだっただろう。そもそも日常に激しい運動をする機会もなく、底辺のような体力が尽きるのはあっという間でどれだけも走っていないのにもはや見える範囲に限界が来ていた。

 呼吸が大きく荒く乱れ、吸い込む事も吐き出す事も厳しい。胸の奥の心臓が飛び出し潰れたように苦しい。

 

 今すぐ地面に受け身も取らずに倒れ込んでしまいたかった、それでも気力を振り絞りなんとか走っていた。

 

 

 だって殺される。止まれば酷い目に遭わされる。

 きっと、きっと私は憎まれている。だってあの目は。私を殺そうと睨ん……

 

 

 「い゛ぁッッ!」

 

 激痛。それは右肩と、右腕の一部に。

 あまりの痛みに足が崩れ落ち、コンクリートの地面にへたり込んでしまった。

 

 見れば黒い影が長い長い腕を伸ばし、私の腕を掴んでいた。物凄い力でへし折り握りつぶそうとせんばかりにギリギリと締め付けてきている。

 それは動いていた体を強制的に止められる程の力。反動を一身に受けた肩が痛い、けれど、同じかそれよりも大きな痛みが掴まれている部分に走っていた。

 

 抜け出せれない、逃げられない。嫌だと大声を上げて叫んでも離してと言っても何も聞き入れない。だって向こうには耳がないから。

 

 

 瞬きをする間に、真ん丸に見開かれた目をギョロギョロ動かし鋭い歯を鳴らしながら影はすぐ目の前に迫っていた。

 殺される?…違う。定めて、狙われていたんだ、食べ物として。私を食べようと…!!

 

 

 「やっ、助け……ぎょっ、め様…!」

 

 

 唇が揺れ大声も出せず…囁くよりも小さく漏れた声と共に、私は強く目を瞑った。

 何も見たくない、見なければ消えるなんて安直な考えではなく反射的にしてしまった。見えない方が怖い事もあるというのに。

 

 

 ………。………。

 

 ………。

 

 

 なのにどれだけの時間を待っても、何も起こらなかった。噛まれる事も傷つけられる事も、襲われる事も。

 待っているのだろうか、私が目を開けるその時を。耐えきれず、恐る恐るとばかりに目を開けた瞬間に待ち構えていた影が大口を開き私を飲み込もうとしているのではないか……そう、一度頭によぎってしまえば目を開く事が出来なかった。

 

 

 どれくらい時間が経ったのだろう。……私はまだ、食べられてない。齧られてもいない。

 体のどこもかしこも少しずつ傷んでいるような気がするけれど、致命的に痛む所は無い。掴まれていた筈の腕はいつの間にか解放されていた。

 近くに何も、感じない。気配を探る事なんて出来ないけれど何もいない……気がする。

 

 

 殺されるのではないかと覚悟していた、硬く瞑っていた目を恐る恐ると、ゆっくりと開ける。一応影が目と鼻の先に影がいる事を想定して……驚かないように覚悟を決めて。

 

 けれど触れそうな程近い位置に影はいなかった。

 影は私の手を掴み大きく口を開いた体勢のまま、距離を取って固まっていた。そして口を閉じた後まるで私を鋭く睨むかのように……ゆっくり後ずさりしていく姿のまま……暗闇に溶けて行った。

 

 

 な、んで…?狙っていた獲物を食らう、絶好のチャンスだったというのに…影は諦めた、の……?

 

 

 「まい子!」

 「!」

 

 そんな困惑している最中、遠くから先程までの聞いていた声が響いてきた。動かない体そのまま首だけを動かし、その方向に振り返り確認する。

 全速力で走って来てくれたからかちょっとだけ上ずっている、それでもあまり疲れを感じさせない安心させてくれる低音の声の持ち主を。

 

 明るい月と街灯の合間合間に照らされながらこっちに駆け寄ってきてくれている行冥様の姿を。

 

 

 ……良かっただとか、助かっただとか、こんなに早く来てくれたのだとか、もうあの影は姿形も無いだとか、どうしてこんな事になってしまったとか、怖かったとか、押し殺していた色んな感情が溢れてきて。

 

 ボロボロと零れてきた涙そのまま、何も考えずに駆け寄りしゃがんでくれた行冥様に抱きついた。そうしなければ耐えきれなかった。

 

 零れ落ちる色々なもの、それらが全て抱き付いている彼の迷惑になるだろうとどこかわかっていた。それでそんな微かな感情を抑える気持ちがもはや働かなかった。

 大きくたくましい彼の暖かな優しい体に抱きついてわんわんと喚きながら泣かないと耐えれなかった。戸惑う彼の様子なんて考えれなかった。

 

 

 気付いていなかった。気付けなかった。

 

 自分では理解していなかった私の心は、もう……度重なる恐怖で彩られた出来事でポッキリと折れる寸前だという事に。

 

 

 

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