泣き崩れた今にも折れそうなまい子のその体に抱きつかれた時、私は深く深く後悔していた。
大人しく折れるべきではなかった。どれだけ何を言われようとも最後まで見守るべきだったと。
……その最後が、どこまで含まれるのかは永遠の疑問になりそうではあるが。家の中にも出ると言っていた。ならば最後…は、いつになるのだろうか?
私が流す感涙や悲痛に嘆くものとは全く違う恐怖でボロボロと大きくこぼす涙ごと、その身体を抱き締め返す。嗚咽混じりに殺されるかと本気で思ったと漏らす彼女の泣き声ごと思いをどうにか受け止めようと。
「しかし今家はどう……」
「い、嫌ッ!帰りたくない!」
「待っ…落ち着きなさい!……大丈夫だ、そうではな、く……」
地面に座り込んでいるまい子がいたこの場所は彼女の自宅の近くではあるが、前ではない。家の中に例の霊が出現し逃げてきたにしては距離が離れすぎている。
特に彼女の足の速さと体力では厳しい、きっと帰宅途中で現れたのだろう。だが「家」の単語を出しただけでここまで嫌がるそれは……もしや家の側で襲われたのだろうか。
だから連想され関わる家に帰りたくない、と。そうして怯えきり、私の首筋を両腕で締め付けるかのようにしがみついて来ているのだろう。苦しくはない、哀れな彼女が愛おしいと思うだけ。
起きた悲劇に怯えすがり付く、その出来事そのものも、彼女も何も悪くない。
ただ……場所と、言葉が宜しくなかった。
街中から外れた住宅地。つい先程までまい子は大声で悲鳴を上げ助けを呼んでいた。
口から離されながらも通話越しの私に聞こえていたそれが……周りの住民に聞こえない筈がない。
実際カーテンを開き何事かとこちらを見ている生きた目を幾つも感じる。その目は見付けているだろう。
悲鳴を上げていたであろうか弱い女性に、覆い被さるような体勢の巨躯の男を。
首筋にしがみつかれれば体格的に仕方なく屈み込む事になるとはいえ……そんな言い訳、善意の第三者には関係ない。
女性が襲われている。そう思い可能性として、既に通報を……
……南無三!
すがり付いている彼女を地面に転がる荷物まるごと抱き上げ、足早にこの場を走り去る。彼女の家とは逆方向に。
これもまた、誘拐事件に見えるかもしれないがなりふり構っていられない。それほどまでに今このままでは非常によろしくない。私の社会的立場と、彼女が良からぬ噂の的になる確率と、まだ近くに霊がいるかもしれないという状況と。
どこか室内に運ばねばならない。弱りきり今にも折れてしまいそうな彼女を休ませれるのが可能な場所に。
屋外では駄目だ、寒風吹き渡る今夜は下手な場所では芯まで凍えさせてしまう。こんなひ弱な彼女にそんな真似はさせれない。ならば他の家屋…どこか飲食の出来る場所ではどうだ?
……否、下手な場所では彼女の尊厳を傷付けてしまう。笑い者にも注目の的にもさせれない。させたくない。
だが私の家に連れて行くわけにはいかない。仔猫のように震えている彼女を招くには距離も離れ、霊がいる我が家には……流石に。
だからといって他に何がある、どこがある。この状態でどこに行ける?泣き崩れた弱りきった女性を……終電が尽きんばかりのこの時間帯に。
どこに行けば彼女を落ち着かせれる場所に行けるのだろうか。
多数の目に晒され見られる事の無い……人前に出たくない、誰にも干渉されない二人きりの場所にと涙混じりにねだる彼女の願いを叶えれるにはどこに。
彼女を抱き抱えての移動事態は私には容易い。だが行ける場所が……選択肢がどうにも狭まれて。
……南無、多大なる自己嫌悪と彼女に対する憐憫(れんびん)が止められない。頭を抱え、顔を覆う手を退けられない。この涙は何の涙になるのだろう。
もっと他に無かったのだろうか。崩れきった女性を他の誰も人に会わず、締め切られた室内は。
追い込まれて駆け込んだ、こんな……連れ込み宿の他に。
** 視える悲鳴嶼は影の正体をも視た **
「あ、の……行冥様…?」
壁に額をつけて反省しながら念仏を唱え続けていた私の背に彼女が声を掛けてきた。
その声色は聞いた誰でも解るほど濡れており、今の今まで泣いていた事がわかる。……その頭を、髪を撫でる事は、私に許されてはいない。いたのだろうか。
だが……すべきではなく、こうして触れなくとも落ち着いたのだからそれで正しかったのだろう。そう思わねば、やるせない。
「……泣き止んだのか」
「ぐす……すみません……」
他に座る場所が無かったとはいえベッドの上に座り込み、枕元にある塵紙……ティッシュで鼻をかんでいる彼女に私はまた小さく息を吐き出す。
嗚呼、本当になんて事だ。このような事起こりえて良いわけがない。なんて不幸で哀れな事になってしまったのだろう、他でもない……彼女、まい子は。
「ああ、もうきっと顔がグチャグチャですよね……酷い顔になっているでしょう、あまり見ないでください……」
「……何をそのような。気にしなくとも平気だ、少なくとも私は」
ベッドに緩やかに倒れ込むその体に大きく息を吐きながら声をかける。
多くの涙が流れ、目元も頬も化粧が少し溶けていた。柔らかな頬に残る、普段隠されている大きな傷でさえ目を凝らさなくとも見えそうな程彼女は泣き腫らしていた。
だが、それがなんだというのか。まい子が感じたその恐怖を、どうして否定出来ようか。
それよりも赤らんでしまった目元や鼻の痛々しさが、どうにも尊く、優しく傷付けないよう安心させる為に撫でてあげたい。しかし彼女に触れるのは……場所が場所だけにそのような箇所に気安く、心情を考えず触れ合うべきではない。
此処は情愛乱れ、それらを望む者達が入り乱れる場所なのだから。
弱り切った……この場所にいる事情も理解も及んで、安らもうとせん彼女の為に、私がしっかりしないと駄目だ。
当然に。それらは連れ込んだ私の責任だ。……連れ込ん……嗚呼、南無阿弥陀仏!願我身浄如香炉…!
……心中で念仏を頑なに唱え続けていれば、多少落ち着いてきたのだろう。大きく息を吐き、ベッドの上に座り私を見ている彼女を壁近くに立ち尽くしたまま見つめ返す。天井がどうにも低く頭が付きそうで落ち着かないが動く事も出来ない。
そして……現れた霊の事を考える。まい子の言う……影か。
「食われんとばかりになった、と聞いたが?」
「はい……今まで無かった口が出来ていまして、私を捕まえてそのまま……きっと頭から食べようとしていたのでは」
「ふむ……そしてそんな絶好の好機を止めてまで逃げたと。……やはり私相手では及びないという事なのだろう」
「んぅ、きっとそうなのですね……しかし本当に良かったです、行冥様がいてくれて……」
精神的に疲弊しているのだろう、目元を何度か手の甲で拭った後ベッドにパタリとまい子は倒れた。
宿の備え付けのベッドは、まぁ大きい。私の身長と体格に合わせるように注文した普段使いの布団よりも。つまり、この大きさは幾人も寝るのを想定した大きさなのだろう。
それは、それは。大きさも存在も……これに関してはどこの誰にも罪はない、仕方の無い偶然に似たモノだ。
私自身がこの壁付近から動く事を推奨してはいけないだけ。大人しく守るべき立場にいれば良い、それが私が彼女に出来る全ての事だ。
怯えさせず何も考えさせないように……私の手をいつの間にかすり抜けていく、彼女に出来る事。
「……でも、行冥様が傍からいなくなれば…また、今度こそ死んでしまうかもしれないのですよね……」
「死なせなどしない。まい子は私が、必ず守る。……安心なさい」
「……ありがとうございます」
私が安心させようと微笑みかければ、まい子はそれを覆い包み込むような柔らかな笑顔で微笑み返してきた。
そしてそのまま、緩やかに朧気な表情に変化させる。嘆きも呻きも全てを受け流すような儚げな表情で呟いた。
「……ですがそれは永遠には、不可能な話なのですよ……いつか私が不振な死体として見つかった時、貴方だけその真相をわかってください……」
「まい子…」
確かに彼女の言う事に間違いはないのだろう。如何に心配して守ろうとしようとも……常に共にいる訳ではない、私では守り続ける事は出来やしない。
万一に例え共に住もうとも、血の繋がらぬ家族に戸籍上だけでなろうとも……彼女の全てを囲い、守れる訳ではない。
だが全てを諦めなくとも良いのではないか。例え霊に日々心を削られ疲弊しすぎて……折れてしまったとしても、諦めてはいけない。人は、人の命は何にも変えがたい高尚なものなのだから。
私に頼ろうとして欲しい。なりふり構わず何度でも、一言遠慮せず言ってくれれば私は……私は。もっと……
「……頼って、くれ」
「……ありがとうございます、でも……いえ、すみません。大丈夫ですから私の存在などもう、どうでもい……」
「ッ、またそのような!……どうした?」
まい子の全てに絶望し諦めたかのような発言に反射的に血が頭に登る。様々な事に疲れ果てて、絶望の縁に発せられた言葉だとしてもそれは全てを侮辱するようなその発言を許せなかった。
その言葉に食って掛かろうと身を乗り出せば……言葉の途中で固まっているまい子のその表情に違和感を覚える。
「…ぁ……」
更に壁から数歩勢いにまかせ離れていた私と見合っていた筈のまい子。泣いて泣いて赤く染め上げた瞳を大きく見開き、何かを見つめていた。
私、ではなく、私のすぐ後ろを。……凭れかかっていた後ろは壁の筈。その壁に注目するような絵画や壁画も何もないのは確認済みだ。
……と、なれば。
弾かれるように壁から離れ、ベッドの上で顔色を青白いを通り越し真っ白に染め上げ恐怖に固まっているまい子を抱き寄せる。
風が吹き込む場所から移動しそれなりの時間が過ぎた。体が冷えるには……遅すぎる。私の力の限り抱いてしまえば華奢な柔らかい身体を潰してしまう事間違いなく、だが緩めもせず離せない強さで抱き続けた。
やっと視界に捕らえる事の出来た、影を相手に見せ付けるかのように。怯え震える小さな身体の隅々まで腕を回し、離さんとばかりに開示する。
私がいるのによく来られたと、それ程まい子を見失う事が我慢ができなかったのか。それとも私相手に勝てる自信が出来たのか。
そう……言わんばかりに彼女を抱き、目線を真っ正面。影がいるであろう場所へと向けた。
そして、その影をやっと、見た。
その時の私の顔を見る事は一生適わないだろう。
だが。間違いなく、零れんとばかりに目を大きく見開いていただろう。