第6話
足取りがおぼつかない。まるで雲を蹴ってるような気分だ。
恐らくそれは純夏も同じで、どこか心ここに在らず、といった様子でぼうっとしている。
こんな調子でほとんど会話も交わさぬまま肩を並べ、オレたちは夕暮れ迫る街並みをとぼとぼと歩いていた。
「……なんだか、すごい一日だったねえ」
「……だな」
純夏の声には明らかにそれと判るほどの疲労が色濃く滲んでいる。オレだって似たようなものだ。あまりにスケールのデカ過ぎる話の連続だったせいで、脳みそがパンク寸前に陥ってる。こうして平和な世界に暮らしている己の身が、オレ自身のものじゃないような気がするぜ。
そう、あたかも今ここに居るオレたちこそが胡蝶の夢――つまり『あっちの世界』に居たオレたちの見ている夢なんじゃないか……そう錯覚してしまいそうなほどに。
「結局、何が何やら全然分からないまんまだったな」
あの後、夕呼先生は多くを語らず、程なくしてオレと純夏を物理準備室から解放してくれた。それは先生が知り得る情報のほとんどを開示したから? ――いや。もしかしたら先生はまだ他にも何か、オレたちに隠している事実があったのかも知れない。
後から振り返ってみて何となく思った事だが、先生の話は物凄く深いところまで切り込んでるようでいて、その実肝心な部分をボンヤリさせたままだったような、そんな感触もどこかに残っている。それを深掘りしていけばひょっとして、このハッキリしない感じを解消できる糸口とすることが出来るのかも知れない。
でもそれは先生なりの『編集』なんだ、と思うことにする。オレが純夏に言わぬままでいた、00ユニットやら何やらに関するキツい話があるように。
ただ最後のあの一言は、あれだけは、オレと純夏だけに向けた言葉だったんじゃないかって気がしてならない。
世界はオレたちの『意志』一つで決まる。
あの長々とした説明も、やけに突っ込んだ話も、全てはあの結論一つをオレたちに伝えるためだったんじゃないか?
それがどういう意味を持つのかってトコまでは、さっぱり判らないけどさ。
話は少しだけ遡る。
物理準備室を出て委員長たちと合流した後、オレたちはまりもちゃんのところへも挨拶に行った。そのついでにそれとなく探りを入れてみたところ、まりもちゃんもやっぱりここ数日間、オレたちと同じ『夢』を見ていたようだった。
『その夢の話? あんまり良く覚えてはないけど……でも、夢の中の白銀くんたちはとっても頼もしくて、私の厳しい指導にも根を上げず最後までがんばってくれて。とってもいい子たちだったわ。現実のあなたたちと同じようにね』
それ以上の話を、オレたちはまりもちゃんにしなかった。
知らない方が、思い出せない方がいいことだってある。今のオレにはその言葉の意味が良く分かる。
それにまりもちゃんの中には『あっち』での教官としての記憶と、訓練生だったオレたちの思い出がひっそりと息づいてる。今はそれが確認できただけで十分さ。
もう少し時が経ってオレたちが大人になって、まりもちゃんの気持ちが分かるようになった時、その時に改めてこの話をしようと思う。
その方がきっと、今よりももっとずっと強く、『あっち』の自分たちの想いをまりもちゃんと分かち合える。そんな気がするから。
……それに、まりもちゃんがそうだったのなら。
きっと他のみんなも、そして
「あれから榊さんたちと色々話し込んじゃったけど、タケルちゃんは新しいこと、何か思い出せた?」
「うんにゃ、一つも」
純夏の問いにオレはすげなく首を振る。夕呼先生が言っていた通り、初めから思い出せなかったものは何をどうしようが全く思い出せそうな気配が無かった。強いて言うなら、他の皆と共通していた部分に関する記憶が補完……いや、補強されたってことぐらいだ。
その感覚を例えるなら、友人同士で思い出話に興じていて「そうそう! あの時のお前ってこうだったよなー」ってなるあの感じに近い。それを六人全員で一斉にやったもんだから、個々人では拾い切れなかった記憶情報とやらもだいぶ埋められて、今ではけっこう正確に思い出せるものもある。
例えばそう、基地のPXを切り盛りしてたおばちゃん。確かBETAの侵攻に街がやられる前はこの辺で食堂やってたって言ってたっけな……。そう思いつつ駅から出て踏切を渡り、ふと右手を見やる。
京塚食堂。そう書かれた看板に見覚えはほとんど無かった。――通学路だし自然と目に入る立地の筈なのに。年季の入った佇まいの奥からはほんのりと、出汁と焼き物の良い香りが漂っている。
「なあ純夏。今日の晩メシ、外食にしようぜ。ちょうどいい感じの食堂も目の前にあるし」
「えぇ~? そんな急にぃ」
「まあまあ。話し込んでたらすっかり帰るの遅くなっちまったし、今から作んのも面倒だろ? 今日のとこはサクっと外で食って、家帰ったら後はのんびり過ごすってことで」
「うぅぅ。タケルちゃんがそう言うなら、別に良いけど……」
せっかく食材買ってあったのに~。そんな風にブツクサ言う純夏の手を取って、オレは「ちわーす」と食堂の暖簾をたぐった。時間帯のせいか店内の客はまばらな割に、厨房からはトントンと慌ただしげにまな板を叩く音が響いていた。
「はいよ、いらっしゃい! お二人さんかい? 今ちょっと手が離せなくてねえ、空いてるとこへ適当に座っとくれ」
「は、はい」
厨房の奥から飛んだ威勢良いおばちゃんの声には、やはりどこか聞き覚えがあった。それを純夏も察したのだろう。さっきまでの怪訝かつ不機嫌そうな顔をスッと引っ込ませる。
「ここにしようぜ」
柔らかい西日の差し込む、味わい深げな四人掛けの木製テーブル。店の奥側に位置するここなら他の客に会話を聞かれる心配も無い。尤も誰かに聞かれたところで、あまりに突飛すぎる内容だ。どうせゆうべ遊んだゲームか何かの話、とでも思われるに違いないだろうけどな。
そう苦笑しつつ椅子を引いて腰を下ろしたオレに早速とばかり、対面の純夏がこそこそ話し掛けてきた。
「ここに来るの初めてなのに、さっきのおばちゃんの声、何となく前にも聞いたことある感じしたよ。急に外食しようなんて言い出したのって、ひょっとして?」
「ああ。だからわざわざ寄ったんだ」
通学路の途上にあるってのに、ここには今まで一度も来たことが無かった。というか存在自体、今日初めて気付いたってレベルだ。普通に考えたら有り得ない。が、その『有り得ない』は往々にして起こり得るものだということを、今のオレたちは知っている。まあ今はそんなことどうだっていい。
外観と同様、いやそれ以上に年月の経過を思わせる内装を二人してしげしげと眺めていると「お待ちどうさん」と、お冷やを手にした割烹着姿の女性が厨房からのそりと姿を現した。この恰幅の良さ。豪放磊落な立ち振る舞い。――『こっち』では初対面の筈なのに、やっぱりオレはこの人を知っている。
「見かけない顔だね。学生さんかい?」
「ええ、まあ。昼間遊んでたらハラ減ったんで、帰り掛けにメシでも食おうかと思って。な?」
「ふぇ? あー、ハイ、なんだかすご~く美味しそうな匂いがしたものでぇ……」
「あっはっは、嬉しいこと言ってくれるねえ! ウチは店構えこそ小汚いけど、味には自信があるんだよ。何てったって食堂ってのは味で勝負するもんだからね」
「はは、そうっスね」
二人して適当に話を合わせつつ、オレはそっと純夏と目を合わせ、そして頷き合う。
間違いない。この人こそPXにいた京塚のおばちゃん、その人だ。
「で、もう注文は決まったかい?」
「え?」
「だから注文だよ」
うわ、しまった。さっきから店中の様子やおばちゃんのことばっかり気にしてたせいで、何頼むかなんて全然考えてなかった。
慌ててメニューを手に取り「え~っと」と視線を走らせる。
定食、丼物、そばうどん。中華や洋食もお手の物らしく、ラインナップは意外なほどに豊富だった。
「じゃ、じゃあオレは豚角煮丼で」
「豚角煮丼? そんなのダメだよ」
はっ? ダメ……って、ドユコト?
「若いモンが遠慮すんじゃないよ。アンタみたいな食べ盛りの子はね、安くてタップリ食える方が良いに決まってんだ。ウチは定食ならご飯もみそ汁もおかわり自由だからね」
「はあ」
言われてみれば確かに、メニューに記載された丼物の写真は定食類よりもボリュームが少なめで、値段も少々高かった。比べて定食類は主菜のみならず付け合わせの野菜までてんこ盛り。これでおかわり自由だってんなら、そりゃあ金欠のハラ減り学生は定食一択ってなるのも分からなくはないな。
「じゃあ兄さんの方は、サバ味噌定食で決まりだね」
「――ええ!? 決まりって、オレまだ何も言ってないですよッ!」
オレは度肝を抜かれてしまう。同じ定食にしたってもっと他にあるだろ? それに若いヤツほど魚より肉、ってのが相場なんじゃないのか。
ホラこの豚の生姜焼き定食とか、から揚げ定食とか!
「なんだい、文句あんのかい? サバ定はね、この京塚食堂で一番人気のメニューなのさ。それに兄さんは『サバ味噌』って顔してんだから、これで良いんだよっ」
「は、はぁ……」
な、なんて強引なんだ……!
開いた口が塞がらない。注文を顔で決められたのは人生初だ。だが同時に、ちょっと懐かしい感じもする。
おぼろげではあるが『あっち』のおばちゃんもこんな人だった記憶があるぜ。何つーか、こんな事されてもどうにも憎めないこの感じが特に。
「お嬢ちゃんの方はどうする? 兄さんと一緒のでいいかい?」
「あ、ハイ。それじゃあ私もサバ味噌定食で」
「はいよっ。サバ定二つ、すぐ出来るから待ってておくれ!」
注文を承り……いや一方的に確定させ、おばちゃんは再び厨房へと引っ込んでしまった。その勢いの良さにはオレも純夏も、始終圧倒されっ放しだった。
「どうだ純夏?」
「うん、やっぱ夢で見た通りの人だった。京塚さんのご飯、食べた記憶はあんまり無いけど」
だろうな。00ユニットだった純夏にはそもそも飲食の必要性すら無かったし。そんな風に、オレは胸の内でそっと夢の記憶を振り返る。
純夏がPXのメシを食った回数は数えるほど。しかもそのうち一回は、半狂乱状態の純夏を元に戻すためにと思って無理やり食わせたりしたわけで。だから多分オレや他の連中ほど、おばちゃんに対する印象は強くないんだろう。
「確か『夢』でタケルちゃんと一緒に基地の屋上行ったときも、食べたのサバ味噌定食だったよね。タケルちゃんってそんなにサバ味噌好きだっけ?」
「いや、好きってほどじゃないんだけどな……」
どっちかって言うと、あの基地でまともに食えるのがサバ味噌定食ぐらいだった、って感じだったような。『あっち』のメシは基本的にプランクトンとかから作った合成食材ばっかで、最初からそれに食い慣れてた他の奴らはまだしも、元々『この世界』の住人だったオレには大半の食い物が口に合わなかったんだ。
「正確な味までは思い出せないけど、『あっち』じゃホント、生きるためだけに食ってるって感じだったからな。まあそれだって食えるだけ贅沢ってなモンだったんだが」
「その辺の記憶、私には全然無いんだよね。他のみんなより断片的っていうか、タケルちゃんに関係することしか思い出せないっていうか。やっぱり私、みんなと何か違ってたのかな」
「あんま深く考えんなよ。夕呼先生も言ってたろ? 『夢』での出来事がどうであれ、大事なのは今ここに居るオレたちの意志だ、って」
「うん……」
「それにメシの話で言ったら、夕呼先生や霞だってオレたちと一緒に食う機会なんてほとんど無かったからな。どっちかって言えば純夏は先生たちと一緒に居ることの方が多かったし、おばちゃんに関する記憶が薄いのはそういうのも関係してんのかも知れない。オレだって特殊任務やら何やらで他の連中と別行動してたことも多かったしさ。『こっち』で学生やってたオレたちとは色々違って当然、ってことだろ?」
「そっか。……うん、そうだね」
少し気を取り直したのか、純夏の表情がほのかに和らぐ。と、
「お待たせ。サバ定二つ!」
え? とオレたちが振り向いたその先には、ほかほか湯気の立つお盆を二つ手にしたおばちゃんの姿。
ゴトンとテーブルに置かれたお盆の上にはご飯とみそ汁、そして汁気たっぷりのサバ味噌が――って、ちょっと待て。早くね? さっき厨房に引っ込んでからまだ五分ぐらいしか経ってねえぞ。
「それと、こいつはあたしからのサービスだよっ」
そんなオレの困惑をよそに追加でドンと置かれたのは、大皿に一杯のあんかけ野菜炒め、いや八宝菜みたいなものか?
色とりどりの葉ものや根菜に加え、肉やらエビやらもたっぷり入っていて美味そうではあるのだが、いかんせん純夏と二人で食うにしてはヤバいくらい分量が多いぞコレ。例えて言うなら皿の面積だけでピザのLサイズぐらいはゆうにある。
「さっきも言ったけど、ご飯とみそ汁はおかわり自由だからね。遠慮せずジャンジャン食べな」
「は、はい。いただきます」
「それにしてもねぇ、こーんな若い子がウチみたいなとこに食べに来てくれるのは嬉しいねえ。ちょっと前まではこの辺の学生さんなんかも、けっこう来てくれたもんだけどさ……」
その『ちょっと前』って、具体的に何年前の話だ? 十年ひと昔、なんて言葉もあるぐらいだからな。
「特に贔屓にしてくれてた子がね、今は白陵学園で先生やってるっていうんだから、まあ時の経つのは早いもんだよ。アンタらもこの辺住んでるなら知ってるだろ? あの丘の上にあるでっかい学校」
「勿論です」
まあ、オレたちの母校だし。
その『先生』ってのが誰なのかは見当もつかないけど、この食堂の年季と料理のボリューミーさから察するにゾエさんとかあの辺かもな。あの脳筋ゴリラならそりゃあ当時はモリモリ食いまくってたことだろう。
「おっと、長話しちまったね。さあさあ、冷めないうちに食った食った! 若いモンはモリモリ食べるのも仕事のうちだよ」
ガッハッハ、と高笑いをしながらおばちゃんは厨房へ引っ込んでいった。台風みたいなこの勢いにも何となく居心地の良さを覚えてしまうのは、おばちゃんの人柄のせいだろうか? それともおばちゃんに対してオレの中に根付いている『あっち』での記憶が、故郷の如き安堵の念を抱いているからなのか? ……なーんて、考えてみたところで答えの出るようなことでも無いか。
それにしても、だ。オレは卓上に並んだ料理をしげしげと眺める。野菜炒めもそうだが、この茶碗によそわれた白米の量も尋常じゃない。純夏のをおおむね標準量やや多めとするなら、山盛り一杯はみ出してるオレのはどう見ても二人前、いや三人前はあるぞ。
「なあ純夏、オレってそんな大食いに見えるか?」
「どうだろ。タケルちゃんってタッパはあるから、並の人よりは食べそうに見えるかもだけど」
「だからってこの量はなあ……。運動部ならまだしも、オレにはちょっと食い切れそうに無えぞ」
「私も……」
そう言や記憶の中にあるPXの食事風景も、メシの量は毎回こんなだった気が。ってことは『あっち』の委員長や冥夜たちもこんぐらいの量を毎日普通に平らげてたってことだよな。
いかに日頃の訓練で運動量の多い軍人だったとは言え、毎食こんなんで良くあのスリムな体型を維持出来てたもんだ。
「――まあ、とにかく食うか」
「だねっ」
メシはホカホカなうちに食うに限る。冷めてからこの量を捌くのはあまりにもキツいし、おばちゃんにも失礼だ。
箸立てから割り箸を二つ取って一つを純夏に回し、オレは覚悟を決めるかのような殊勝さで「いただきます」と手を合わせた。
「うわっ! 美味しいぃ~~」
サバを一切れ口に運んだ途端、純夏が満面に幸せの色を湛える。どれどれ。オレも箸を動かし、サバの身を味噌ダレに付けてから食ってみた。
……確かに美味え。特段食材にこだわってるって訳でも無さそうなのに、この味は月詠さんが作ったのと同レベル、いやそれより数段上を行ってる。
特筆すべきはこの味噌ダレだ。甘さとしょっぱさのバランスが絶妙にコントロールされてる上に、生姜やネギの風味がほんのり利いて、それが良いアクセントになってる。
肝心のサバも特有の臭みを全く感じないあたり、煮込みの前に下拵えをしっかりやってあるんだろう。丁寧なトゲ抜きのおかげで骨が歯に引っかかることも無い。ジューシーな脂の乗ったほくほくの身は熱を通し過ぎず、しかして箸を入れればスムーズにほどける絶妙な火入れ加減。
そうやって丹念に仕上げられたサバの身と極上の味噌ダレが絡み合い、噛めば噛むほど旨味が広がって……
「――美味あぁぁぁいッ!!!」
なるほど、こりゃあ一番人気にもなるわけだ。サバ、米、サバ、米、米、そしてサバ。こんな勢いでテンポ良く掻き込んでいける。
それにこの八宝菜風の炒め物もそこらの惣菜とは別格だぜ。中華風の味付けは最低限に抑え込んであってサバ味噌の繊細な味わいを邪魔しない上に、奥から湧き出る旨味がじんわり尾を引く。
さらに付け合わせで出されたシャキシャキの浅漬けは塩味控えめで、これもちょうど良い塩梅の箸休めだ。
みそ汁はにぼしベースの出汁が良い香りを放ってて、じっくり抽出されたであろうこの濃厚さがたまらん。
とにかく箸を付けたものが、どれもこれも美味い。
「ふう……」
とても食い切れないと思ってたのに、いざ食い始めたらオレも純夏も無心で貪り続け、気が付いたら大皿も茶碗もことごとくカラッポになっちまってた。
口の中と胃袋が多幸感でたっぷり満たされてる。
こんな美味いメシ屋が近所にあったのを今の今まで知らなかったなんて、人生損しまくってた気分だぜ。
「どうだい、京塚食堂自慢のサバ味噌定食は?」
厨房の奥からおばちゃんが食後のお茶を盆に載せて出てきた。それを受け取りつつ、純夏が掛け値なしの笑顔で答える。
「はい! と~っても美味しくって、あっという間に全部食べ終わっちゃいました」
「そうかいそうかい! やっぱり良いねえ、若さってのは。しっかり食べて元気で過ごす。そうでなくっちゃ次の時代を担うことなんざ出来ないってもんだよ」
あっはっは、と高笑いするおばちゃんは至極上機嫌なご様子だ。それはオレらみたいな年頃の客が来るのが久々なせいなのか、それとも食いっぷりが良かったからなのか。まあ多分、どっちもなんだろうな。
「兄さんの方はアレで足りたかい?」
「ええ、もうハラ一杯ですよ。でも不思議なもんで、舌がまだ食いたがってるっつーか」
「そうだろうさっ。何てったって、あたしはこの味一つで三十年もこの店の暖簾を守ってきたんだからね!」
そう自信満々に豪語するおばちゃんの言に嘘が無いことは、さっき食った料理の出来栄えが何よりも雄弁に物語っていた。あれを一度味わってしまえば誰もが虜になること間違い無い。ここはきっと、そうやって胃袋を掴まれた客によって支えられてきたんだろうな。
「アンタたちみたいな若い子がたくさん食べに来てくれるのが、あたしゃいっちばん嬉しいんだよ。良かったら、これからもご贔屓にしとくれ」
「今度は友達もたくさん連れて、いっぱい食べに来ます!」
どうやら純夏はすっかりこの味の熱烈なファンになっちまったらしい。まあ、オレも同じ気持ちだけどな。こんな隠れ名店、オレたちだけのものにしとくにゃ勿体無い。そのうち委員長たちもここへ連れてきて、入学祝いだ何だと称して盛大に飲み食いしてやろう。
――にしても、つくづく思う。何でオレは今日になって今さらのようにおばちゃんの存在に、そしてこの店に気付いたんだ?
純夏とおばちゃんの繰り広げる歓談をよそに、湯飲みに湛えられた熱いお茶を一服しながら、オレはそのことばかりを考えていた。
「なあ、純夏」
「なあに? タケルちゃん」
既に日はとっぷりと暮れ、電柱の水銀灯も点き始めている。もうすぐ家に帰り着く、というところでオレは純夏に話を切り出した。
「さっきの食堂だけどさ。お前、あそこにあんな美味い食堂があるって知ってたか?」
「ううん、全然。あんなに目立つ場所なのに、意外だよね」
「だよな」
駅からも近いし、オレたちなら実際に食いに行かないまでも目を付けるぐらいはしててもおかしくない。仮えあそこが御剣の用地買収にギリギリ引っかかって更地に巻き込まれてたとしたって、そんなのせいぜい数か月間の話。それまであの食堂はあそこにあった筈なんだ。
それなのにオレも純夏も、あの食堂の存在をついさっきまで全然知らないままでいた。より正しく言えば、始めから「そこに食堂がある」と意識すらしてなかったって感じだ。
それが解せない。まるでオレたちの認識力に封か何かをしてたんじゃないかってぐらいに。
それに気になることは他にもある。オレたちの食後、おばちゃんはこんなことを言っていた。
『今日が初めての筈なのに、なんだかアンタたちにはずっとご飯食べさせてたって気がするよ。特に兄さんなんか、いつも誰かとワイワイ騒ぎながら食ってたような――不思議なもんだねえ』
その記憶はオレや純夏が覚えている限り『この世界』のものではない。ということはオレたちほどでは無いにせよ、おばちゃんにも『あっちの世界』の記憶が一部流れ込んでるのかも、ってことだ。
そしてオレの中に何となく芽生えた違和感。これと似たような体験をしたことが、実は前にもあった。
「あのな。今日の話を聞いた今だから、もしかしてって思ってることがあんだけど」
「何?」
「実はオレ、冥夜たちが白陵に転校してきた時、ちょっと妙な気分に囚われたことがあったんだよ」
妙な気分? と小首を傾げる純夏に頷きを返し、オレは続きを話す。
「あの日の朝、美琴が久々に学校来ただろ? 例によって親父さんに拉致られてただかで、簀巻きにされてさ」
「あー。言われてみればあったねえ、そんなこと」
「その時オレ、違和感を覚えたんだ。美琴が『女』であることに」
あの日起こったことは色々鮮烈だったせいで、未だにその全てをハッキリと覚えている。当時は分からなかった諸々のことも、今ならば推測に基づいた答えを導き出すことが出来る、と思う。
「おかしいだろ? 美琴が女だなんて、オレたちには当たり前のことの筈なんだ。なのにオレはあの時一瞬困惑した。それとここ数日見ていた『夢』。その中で見た『あっちの世界』のオレも、美琴が『女』であることに、初めのうちは強烈な違和感を覚えていた」
「どうして?」
「分からない。けどそこが肝なんだと思う。もし、もしもだぞ。……もしも『元の世界』、つまり改変が行われる前のこの世界では美琴が『男』だったんだとしたら。そう考えると、全ての辻褄が合うと思わないか?」
「美琴ちゃんが、男ぉ??」
純夏が素っ頓狂な声を上げる。普通に考えれば到底有り得ない話だがそうとしか思えない、そんな漠然とした感触がオレの中には確かにあった。
何故、二つの世界で美琴だけ性別が入れ替わっていたのか? そこまでは流石に分かる筈も無い。だが『あっちの世界』でも『この世界』でも、美琴は女だ。その二つの世界でオレが味わった違和感の正体を紐解くには、「そうであった」と考えた方がより自然だと思える。
「それと同じでもしかしたらおばちゃんの食堂も、元々はここに存在しないものだったのかも知れない。それが『あっち』の世界でおばちゃんとオレたちが関わりを持ったことで改変され、ここで食堂をやってるっていう風に上書きされた。それなら『こっち』のオレらが今の今まで京塚のおばちゃんやあの食堂のことを一切認識してなかったのも説明が付くだろ?」
「ん~~、まあそうかも」
「で、オレのこの違和感が正しいものだと仮定すれば、だ」
ここからが本題だ。自説の信憑性を確かめるように、オレはそこで腹に力を込める。
「世界の改変は冥夜たちが突然やって来たあの日、つまり10月22日を起点に行われた。何がどこまで行われたのかは解らないし、それをハッキリさせる必要も今のオレたちには無い。だけど10月22日以前の世界を知ってるオレたち――いや、もしかしたらオレだけなのかも知れないけど、その無意識下に残ってた『元の世界』や『あっちの世界』の記憶が違和感となって、美琴や京塚食堂に対する困惑を生んでたんじゃないか?」
思いついたことをまくし立ててるうちに段々と、「これが正解なんじゃないか」って気がしてきた。
純夏も似たようなことを思い始めたらしい。始めはオレのぶっ飛んだ説に歪んでいたコイツの表情も、今はすっかり神妙になっている。
「言われてみればあの日のタケルちゃん、ちょっとヘンだったもんね。私のこと見てウルウルしたりさ」
「純夏だけじゃなく、他の連中やまりもちゃんに対しても同じだったけどな。けどそれも『あっちの世界』での体験がオレの無意識下に残ってたせい、って考えれば筋が通る。最後の戦いの後、みんながどうなったかは覚えてない。けどあの時のオレは多分、心のどこかでこう思ってたんだ。またみんなと会えた。みんなの生きてる平和な世界に帰って来られた。そんな風に」
そうと考えれば、あの日が初対面だった筈の冥夜を見て目頭が熱くなったのも道理ってもんだ。
『あっちの世界』の冥夜はオレにとって、オレたちにとって、大切な仲間であり戦友だった。同じ想いを委員長、彩峰、たま、美琴たちは互いに抱いていた。
霞もそう。
そして純夏には、それ以上の……。
「今日、霞とも会っておきたかったな」
「……だね」
今日あの場に霞は居なかった。事情があってその日は来れない……って卒業式の日に言ってたけど、あの時はどうせ大学で会う機会が無い訳でもないんだし、まあ仕方ないさとしか思ってなかった。
今は違う。すぐにでも霞に会って、いろいろと話がしたい。霞本人にこの話をして、アイツからも話を聞いてみたい。
もし霞に何か少しでも『あっちの世界』に関する記憶があるのだとしたら。例えそうすることに何の意味も無いのだとしても、オレはアイツと、それを共有したいと思っている。
「きっと霞とも心の通った仲間、戦友だったんだって、今のオレなら無条件にそう思えるから」
「分かるよ、タケルちゃんの気持ち。根拠なんてないけど、私も今は……そう思う」
一歩分の距離を詰め、純夏が肩を寄せてきた。その肩を抱き、オレは純夏のぬくもりを確かめる。
純夏はここに居る。それをこの上なく嬉しいと思えるオレがここに居る。
『あっちの世界』と『この世界』、二つの世界のオレが共通して、心の底から望んでいたこと。いつだってそれは純夏と一緒に居ることだった。
今のオレに出来るのは、他の世界のオレに出来なかった分まで純夏を愛すること、それだけなんだ。
「純夏……」
「ん?」
「その、さ。明日には帰って来ちまうだろ、親父たち。お前ん家のおじさんおばさんも」
「だね」
長らく不在だったオレたちの両親は十月以来、御剣家の計らいで長期の海外旅行に出掛けていた。
「そろそろ日本に帰る」と連絡を寄越して来たのが一週間前。到着予定は年度の替わる四月一日、つまり明日の午後。
大学に進学してもしばらくの間は実家暮らしをするオレと純夏にとって、二人きりで過ごせる夜は今日が最後と言うことになる。――しばらくの間は、だけど。
「だから、今夜も来いよ。オレん家に」
「……うん」
街灯に照らされた純夏の頬は少し赤らんでいた。
言葉少なでも、互いの想いは通じ合う。
その重みを、かけがえの無さを、今日のオレは何十倍にも感じていた。
愛したいと思った女を力の限り愛する。それが叶わなかった世界の『オレたち』という存在を、今のオレは確かに背負っているのだから。