「ねえ孝之、すこし休憩にしない? 紅茶淹れるんだけど」
控えめなノックに続いて母さんの声がした。
「あー、うん、もらうよ。すぐ行く」
「わかったわ」
僕は開いていた参考書にシャーペンをはさみ、ため息をひとつ漏らして立ち上がった。
重量感はあるのに抵抗なく素直に動くドアを開け閉めするたび、我が家が立派なものだと感心する。いわゆる地主の家に生まれ不動産や建築業を営んでいた父さんにとって名刺がわりにもなった家だというのもあるが、決して手入れを怠らない母さんのおかげでもあった。たとえ普段使わない物置部屋でも、月に一度は空気を入れ替え、掃き清め、異常はないか目を光らせる。
軋みひとつあげない階段を降り、一階の廊下をリビングへ向かう。南向きのリビングには、初夏の日が射して眩いほどだった。照明を落とした空間は穏やかな日曜の午後である。
母さんは対面式のキッチンで紅茶を淹れ終えると、ダイニングテーブルまで運んだ。盆には紅茶の他にクッキーも載っていた。
小さな音をさせて、母さんはティーポットからカップへ紅茶をそそぐ。細くしなやかな指が、そっとポットの蓋に添えられているのが上品だ。大きな黒い瞳が真剣そうにじっと手元へ向けられており、軽いカールを描いた睫毛が凛とした女性らしさを感じさせる。
「はい、どうぞ」
母さんは僕に微笑みかけてカップを置いた。
「ありがとう」
一口流し込む。紅茶の良し悪しはわからないが、母さんの淹れてくれる紅茶はいつも美味しかった。優しげな香りがふわりと鼻に抜け、胸のあたりがじんわり温かくなる。
母さんは僕が飲むのを見てから自分の分をそそいで正面に座る。ほんのすこし前かがみになった拍子に、チュニックシャツの襟元から首や鎖骨の筋が見えた。そういう細部にさえ、母さんは育ちの良さを感じさせる。たとえば風邪を引いて鼻をすすっていても、それが決して下品には感じず、茶目っ気にみえるものだ。
たぶんそれは母さん自身の生まれ育ちもあるだろうが、椅子に座っていても背中を丸めるようなことはなく、たおやかな仕草のひとつひとつに支えられている。
「それで」と母さんは、両手でそっと支えたカップに口づけをするような、ちいさな一口で唇を潤して言った。
「受験勉強の方はどう? はかどってる?」
「うん……まあ、順調」
「そう、良かった。この間もお父さんに、孝之がお父さんの会社を継ぎたいって頑張ってるって報告してきたの。きっと喜んでくれるわ」
父さんが亡くなったのは僕が小学四年生のときだ。難しい話はまだよくわからなかったが、父さんの経営していた不動産関係の会社は部下だった常盤さんという人に任された。学生時代はサッカーに夢中だったという常盤さんは、壮健な体つきに似合いのハンサム顔で、ボールを追いかける子供のように実直な人だった。自分が指名された社長という地位も、僕かあるいは姉妹のどちらかが跡を継ぐまで、会社を守ることが仕事のように考えているらしかった。
そんな常盤さんだが、以前母さんにプロポーズをしたという話を本人から聞いた。僕は驚いたが彼は、「すげなく断られたけどね」と、肩をすくめて見せた。社長の忘れ形見、つまりは母さんや僕らの生活を支えさせて欲しいと求婚したそうだが母さんは、「あの子たちを立派に育てるのは私の責任ですから」と言ったそうだ。
その言葉を裏付けるように、おそらく暮らしていくのに不自由しないほどの遺産はあるはずだが、生活費のほとんどは母さんが働いて賄っている。そのかたわらで家事をおろそかにはしない、立派な母だった。
僕が父さんの会社を継ぎたいと考えるようになったのは、常盤さんが僕らに譲ろうとしているからではなく、そうして僕らのために身を粉にする母さんを助け、安心させてあげられる一番の道を考えたとき、地元に残って父さんの跡を継ぐことだと思ったからだ。
母さんを安心させてあげたくて……。そのことが頭に浮かぶと、どうしても気が重くなる。あのことを言うべきか、言わざるべきか……。
ぼんやり頭の中で思考が渦巻いていると、
「ねえ」
母さんが僕の様子をうかがうように声をかけてきた。僕はかじっていたクッキーを飲み込んで応じる。
「ん?」
「隆之……何か悩みでもあるの?」
「……え? どうして」
「だってこう……」
と、母さんは顎に指先を添えるようにして、じっと僕の顔を見る。まるで心を見透かすような真っすぐな眼差しにドキリとする。「暗い顔。最近、考えごとばかりしてるから」
「うんまあ……色々とあるよ、そりゃあね。僕ももう十八だよ」
「そうだけど、孝之はいま大切な時期だし……ううん、そうじゃなくたって、悩んでいるならお母さん、力になりたいし……。私には言いづらいこと?」
「うーん……」
僕の抱えた一番大きな悩みは、母さんには言いづらいことではあるが、母さん以外には言いようもないことである。しかしそれを母さんに伝えるべきか、僕がどうにかするべきか、一週間悩んでも結論は得られなかった。
机の上に置いた僕の手を、母さんの柔らかく温かな手がそっと包む。
「言いたくないことなら言えとは言わないけど、言いづらいことなら遠慮しないで。お母さんじゃ力になれないことかもしれないけど、話すだけで楽になることもあるから」
ね? と、母さんは子供をあやすように、優しい微笑みを浮かべた。
敵わないなと僕は自分の中にわだかまっていた重い空気を吐き出して、そのときの状況をわかりやすく、なるべく優しい言葉を選んで伝えた。
それでも話が進むほどに母さんの四十を超えても衰えぬ白い肌から血の気が引いてさらに白くなり、その隙間を埋めるように表情には困惑の色が濃くなっていく。
「そんな……」
母さんは眉間に皴を作ってようやくそれだけを漏らすと、必死に言葉を飲み込もうとするように無言になった。肉感をもってぷくりと膨らんだ桜色の唇が、不安そうに震えている。
辺りはとても静かで、リビングには僕と母さんの途方に暮れた息遣いだけが重く漂っていた。
「それ…………本当? いつ……?」と、ようやく僕に質問する。
「先週の土曜、母さんが月命日で父さんの墓参りに行ってたときだよ。僕も信じられないけど……」
昼過ぎに塾から帰宅したところ、玄関に見慣れない靴があり、姉さんの部屋から物音がした。気を遣って音を立てずに自室へ引っ込もうと通りかかったとき、部屋から甲高い女の嬌声が聞こえてきた。彼氏を連れ込んでいるのだと気まずくなった僕はうろたえ、とりあえず一度家を出た方が良いかと迷って足を止めていると、「ね、次はわたしね」と、甘えた女の声がした。ぎょっとして耳を澄ませた。
なぜならそれは妹の優希の声だったからだ。
形の良い額を撫でるように、ダークブラウンの前髪をかきあげて、くしゃりと揉んだ。それから、そうしなければ落ち着かないというふうに、艶のあるセミロングの髪を左右から束ねて肩にかけ、毛づくろいでもするように指先で梳く。
「優香たちはなんて……」
「なにも。というか……なんて言えばいいのか……」
「そう……よね……」
ぽつりと漏らしてから、母さんはしばらく黙考した。「他人様に見られて恥ずかしくない人間でありなさい」と僕たちを教育してきた母さんのことだ。ショックは相当大きいだろう。そうでなくても、母さんに似ておっとりと優しい姉さんと、気は強いがしっかりした妹の優希が……と思えば、僕も重いため息をつくしかない。
重たい空気をはらうように、長い息を吐いて母さんは「わかった」と、自分に言い聞かせるような強さで言った。
「お母さんから二人……ああ、三人か。三人には話をしておくから。隆之は何も知らないふりをしてあげて。やっぱり……ね?」