スニーカーを履いてから、僕はやはり心配になって振り返る。僕を見送りに玄関まで来た母さんも、左右にわけた前髪から、やはりどこか不安げにかげった表情で僕を見ていた。
「本当にいいの? やっぱり……」
母さんに報告したその週末、話し合いのために「姉さんの彼氏」らしいその男を自宅へ呼ぶことになっていた。今日は姉さんも優希もそれぞれに用事で、家には僕と母さんしかいない。
「ありがとう、大丈夫よ。それに、込み入った話になると思うから。隆之も今日はお姉ちゃんたちのことは忘れて、ゆっくり息抜きしてきて」
本当は今日も塾の予定だったが、集中できないでしょうから一日羽を伸ばしたらどうかと、母さんにお小遣いまで渡されていた。それを使うつもりもなかったが、しかし勉強などする気にもなれなかったのは確かだ。
「……わかった。それじゃあ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
母さんは穿いているロングスカートのようにふわりと手を振って僕を送り出してくれた。
芝生を張ったささやかな庭に、玄関と門扉をつなぐ踏み石が続いている。そこから望まれる周囲の邸宅は、どれも立派なものだった。
小高い丘になった高級住宅地の一画に僕の家はある。車がやっと一台通れるという道々が葉脈のように張り巡らされ、古めかしい屋敷やモダン建築が不思議と調和をとって広がっている。
高校の友人はこんなところに住んでいるのかと羨ましがるが、駅からは遠いし坂道だし、スーパーだって坂の下だし、特別良い場所だとは思わない。それでもどことなく時間がゆったりと流れるような雰囲気がして、僕はこの町が好きだった。
「あらぁ、孝之君」
おばさんの声がして視線を向けると、近所の木場さんが買い物袋を持って歩いてきた。
「あ、こんにちは」
僕はぺこりと頭をさげる。
「大きくなったわねぇ」
「それ、こないだも言ってましたよ」
「本当? ああ、そう。こないだといえば、千里さんにお礼言っておいて。コーヒーありがとうございましたって。主人はすごく喜んでた」
「いえ、頂き物で、うちじゃ誰も飲みませんし。伝えておきます」
「よろしくねぇ」
のんびりしているのだか忙しいのかわからぬ様子で、坂道を上っていく。余裕はあっても贅沢をするわけではない。そういう気風に、この町の優雅さはあるのだろう。
そんな場所で、のんびりする気にもなれず、余裕もなく、どんより重たい気持ちを抱えたまま、僕はふらりと公園に足を運んだ。山肌にどうにかこしらえたようなそこは、決して大きな公園ではない。
砂場と滑り台とブランコと、それからシーソーがぽつぽつと設置され、中央でどうにかキャッチボールをできるという程度の広さである。ただ、ちょうど景色の開けたところにあって、ブランコに揺られながら街並みを見下ろすのは、どことなく心地が良い場所だ。
小学生五年生のある日、僕は友達と喧嘩をした。どうしてとか、どうなったとか、そんなことはまるで覚えていないけれど、学校帰りにブランコに揺られるふりをして泣いていると、ふいに隣のブランコがキィと揺れた。横目でうかがうと母さんが座っていた。買い物帰りに僕を見つけたらしく、足元にはスーパーの袋が置いてあった。
母さんは何も言わず、僕も何も言わず、しばらく二人してブランコに揺られ、僕が泣き止んだころを見計らったように、「帰ろうか」と、絹でくるむように優しい声をかけてくれた。
そんなことをぼんやりと思い出しながら見つめていた道路に、男が一人通りかかった。
清潔感よりも威圧感を与える短髪に、よく焼けた筋肉質の腕で、ポケットに手を突っ込んで歩く姿は粗野である。近所ではまず見かけない風貌。外来種という印象を抱いた。
こいつだ――と、考えるより先に直感する。
それを証明するように、彼は僕らの家がある方へと歩いていく。その背中を見失わぬように後を追った。年齢はおそらく僕よりも上……姉さんと同じくらいだろう。
男は迷う素振りも、周囲を確認することもなく、まっすぐ僕の家までたどり着いたところで塀のかげに消えた。鉢合わせないように時間を置いてから追った。
庭先には誰の姿もない。ポケットに入れた携帯電話を確かめる。他人の家で姉妹と行為に及ぶ男だ。それだけでも不愉快なものだが、なにより目にした印象がとにかく悪い。こいつは敵なのだと、本能が告げていた。万が一のときには、僕がなんとかしなければいけない。
そう自分を奮い立たせ、家の中へと戻った。
やはり見知らぬ靴が脱いであった。バスケットシューズを思わせる分厚いスニーカーだ。
耳を澄ませながら、そうっと家の奥へと進む。キッチンから物音がする。そっとガラス戸から中を覗くが、ポットの湯をそそぐ母さんの姿があるばかり。
まずい……。救いを求めて振り返った我が家の廊下が、薄暗い洞穴のように感じられた。風呂場の脱衣所に逃げ込んで息を殺した。
何も悪いことはしていないはずなのに、気付かれたらどうしようと自分が何かとてもいけないことをしている気がしてくる。
しばらくすると母さんは、キッチンから出て階段を上って行った。そして二階へ着くとすぐに、ドアを開け閉めする音がした。だとすれば母さんの寝室だ。
呼吸が震えた。他人の家に迷い込んだかのような緊張感が僕を包んでいた。
僕はゆっくりと階段をのぼり、扉に阻まれくぐもった声がする母さんの部屋を素通りして、その隣にある自分の部屋に入った。奥のベランダが母さんの部屋と繋がっているのである。
硬いタイルの床材に膝をつき、這うようにして母さんの部屋に向かい、けっして出すぎぬように注意しながらガラス窓に顔を寄せた。
ベッドに我が物顔で腰かけてエクレアを食べる男と、その正面に所在なげな様子で佇む母さんの姿があった。男は最後の一口を放り込むと指先についたチョコを舐り、ベッドサイドチェストに置かれたコーヒーカップを手にした。
「で、どうしろって言うんすか。また別れろって?」
侮りを含む低い声で問いかけ、そのくせ答えなどどうでもいいというふうにコーヒーに口をつける。そんな男に訴えかけるように、
「……節度を持ってお付き合いしてくださいって言ったはずよね」
面倒くさそうな表情で男は、カップを無造作に置いた。
「だからァ、ナマも我慢してんでしょ? 近所の目がどうとかうるさいから、ちゃんと家にも帰してるし」
「そうじゃなくて……」
母さんは言いあぐねてもじもじと、相手の様子をうかがいうかがいしながら、口にするのも憚れるというふうに言った。「その……シてたんでしょう、三人で」
「……ああ。どっちに聞いたの? 優奈? 優希?」
「息子が見たの」
「息子? あー、弟か。優奈もなんか言ってたな」
「あの子、いま三年生で受験もあるから……優奈たちのことで心配させたくないの。だからうちには近づかないでって……」
「へえ、塾で遅いから家でいいって言われてたんだけど、見られてたのか。ま、童貞君には刺激強すぎたかな」
男の嘲るような言い草に腹が立つ。しかし、言い返すこともできない事実が僕を縛めた。
「そんな言い方しないで」
母さんは自らを励ますように、固く手を握りしめる。
「隆之は私の大切な子供なのよ。いえ、隆之だけじゃなくて、優奈も優希も……本当なら、あなたみたいな人と関わって欲しくないの」
しかと男を見据え、ぴしゃりと言った。しかし男には叱られるような殊勝さはまるでなくて、母さんがどう出るか楽しんでいるふうですらあった。
「俺と優奈に、あんな説得されちゃったらなぁ」
男はにやにやと母さんの体を舐め回すように見ながら言う。怒りからか母さんは、硬い表情を紅くさせる。
「……ええ、だから交際は……認めたでしょう。隆之はいま、大切な時期で、いい子で、だから……、木嶋君みたいな人と優奈ちゃんがお付き合いしてるなんて知ったら――ッ!?」
あまりに突然のことに、僕も母さんも驚きに目を見開いたまま動けなかった。
母さんの言葉をさえぎって、男が唇を奪っていた。
男は強引に腕を引いて、座ったままに母さんを抱き寄せて唇を重ねたのだ。
我に返った母さんは、男を突き飛ばして距離をとった。後ろに傾いだ男はなお余裕たっぷりの態度で、
「俺みたいなって、こんな?」
「ふざけないで。私、本当に怒ってるのよ」
恥じらいに眉根を寄せて赤らめた顔で、きっと男を睨む。
「へえ」と、男は意に介したところもなく、またぐいっと母さんの手を引くと、今度は後ろから抱き締めるように広げた脚の間に座らせると、するりとシャツを下ろして投げ捨てる。
「だったら好きに怒っててよ。俺もしたいようにするから」
「きゃあっ!?」
男が無造作に母さんの胸を鷲掴みにする。母さんはノースリーブニットを着ていて、ぐにゅりと変形する胸の形まではっきり見えた。身をよじって逃れようとするのだが、男の腕の中でもじもじとするのがせいぜいだ。その反応を楽しむように、男は母さんの首筋に噛みついた。
「いやっ」
悲鳴にも似た声。そうだ、助けないと……!
一度呆然としてしまったせいで、すっかりどうしていいかわからなくなっていた。警察に……それよりも早く玄関から、いやここから飛び込んで……飛び込んで……?
母さんが少しでも離れようと顔を背け無防備に開けた首筋に、まるで吸血鬼のように口をつけた男は、筋肉の逞しい腕で母さんを抱いて胸を弄びながら、もう片方の手は必死に閉じる母さんの太ももを撫でている。カマキリやクモが美しい蝶を捕食するような、どうしようもない現実を突きつけられているような気がして、僕の足はすっかり竦んでしまった。
でも助けなくちゃ……。
考えるほど口が乾き、鼓動が早くなる。