「こ、これはどうしたことだ!? 小島水色君!」
「確かに、大事件ですね! 浅野啓吾隊長!」
声を小さくしているが動揺は抑えられず、小さいながらも勢いは強い。
顔を寄せ合う二人の男子生徒はわなわなと震えながら教室の一角を凝視していた。
時間は朝のホームルームも始まっていない頃。普段とは明らかに違うある一人の生徒から目を離すことができなくなり、彼らだけでなくその変化にはクラスの全員が気付いていた。だがあまりにも変化が大きいため、気を使って誰も声をかけることができずにいる。
有沢竜貴ではない。相変わらず不機嫌そうでいまだに気持ちの整理ができていない彼女だが、しかし今日に限っては他の生徒と同じように不思議そうにしている。
浅野啓吾と小島水色が見つめる生徒を見て、同じ疑問を持っていたからだ。
「くっ、くく、朽木さんが……!? あの清廉潔癖、品行方正、優等生を絵に描いて美少女を足して完璧に完成された我らが星が、まるで溶けたドロドロのスライムのようにぐったりした挙句に、机に突っ伏したまま動かなくなっている……! あの姿勢はどうしたことだ! 昨日までの絶好調クール&ビューティー&キューティーはどこへ!?」
「君ほんと女の子が相手だと表現力豊かになるね」
「これは事件だぞ、何かあったに違いない! ということは……双葉!?」
「そうだろうね。何があったかは知らないけど、双葉のことだとしたら、昨日の間に何かあったことは間違いないんじゃないかな」
水色の呟きに啓吾はハッとした顔をした。
表情には焦りが浮かんでいて、赤くなったり青くなったりと忙しない。しかし仲間を気遣う優しい彼だからこそ心中は複雑であったようだ。
「ひょっとして別れたのか!? だとしたらそれはそれで気を使うっつーか……! 仮に朽木さんがフリーになったんなら男としては大喜びしたいところだが、あの姿を見るとそうやって言うのもちょっと違うし、双葉が落ち込んでるようならざまあみろと言うこともできないし、いや、ここは敢えて言ってやって元気になるならそれはそれでありかもしれんが……!」
「ほんとに付き合ってたのかもわからないけどね。っていうか結構双葉にも優しいじゃん」
一人で百面相を続ける啓吾には些か感心しながら、水色はいつになく乗り気になって考える。
ルキアは机に突っ伏し、全体重を預けた状態で体のどこにも力が入っていない。付き合いは浅くともこれまでの教室での姿を見ていれば異常事態であることは理解できる。となれば原因もあるはずなのだが、思い当たるのは一人の友人しかなかった。
転校してきてから常に非の打ちどころのない姿のみ見せてきた彼女の、驚くほど打ちひしがれた姿は初めて見る。
教室内にはどんより重い空気が漂い、心なしかみんなの表情も暗い。
啓吾と水色の会話を聞く一方、厳めしい表情でルキアを見つめる一護は、今度こそ何かあったのかと双葉の身を案じていた。
思えば、ルキアが彼の家に居候するようになってから、碌な報告は聞いていない。会話自体が消え失せたわけではないとはいえ、時折思い出したように死神の仕事についていくつか話すことこそあれども、双葉が抱える異常について話し合う機会は少なかった。
まだ経過観察の段階ということか。やり切れずにため息が漏れる。
近頃、確実に
何かが起こっている気がするものの、その“何か”がわからなかった。
「ねぇ、一護は何か聞いてない? 朽木さんと仲良いよね」
思考に埋没しつつあった一護を水色が呼び止める。
ルキアが気になって仕方ないのか、彼と啓吾は興味津々に見つめてきた。
自身の髪を乱暴に掻きながら、心当たりのない一護は素直に告げる。
「知らねぇよ。最近あんまり喋ってねぇし、俺だって驚いてる」
「なるほど。そういえば、一護と朽木さんが付き合ってる説ってすっかり消えたね」
「その説だって知らねぇぞ。どうせどっかの誰かが勝手に言ってるだけだろ」
「じゃあやっぱり双葉に聞くしかなさそうだね」
「そういやあいつ、最近付き合い悪いよな。なんか疲れてるみたいだし、声かけても全然覇気が感じられないっていうかさ」
啓吾がぽつりと呟いた言葉に、そういえばと思い出す。
以前まではクラスが違っても何かと顔を合わせる機会はあった。大抵は放課後が多くて、一緒に遊んだり、何は無くとも一緒に帰ったり、何も考えずに駄弁っている時間は多かったはずだ。昼休みには同じクラスの生徒と過ごしていることが多かったようだが、最近ではふと気付けば姿を消していることが多いため、今もそうなのかさえわからない。
自分たちは確かに友達だったはずなのだが、気付けば最近になって急に関係が変わってしまっている気がする。
少し寂しげに、啓吾は誰に言うでもなく呟いた。
「なんとなく遠くに行っちまった感じがするよな。最近の双葉は」
不意に脳裏へ浮かぶ過去の映像。
決断する前に席を立っていた。
唐突に動き出した一護に驚く二人は、彼が教室を出ようとするのを見てさらに驚く。
「俺が聞いてくる」
「お、おい一護!?」
「珍しい。なんて聞くの?」
「わかんねぇけど、普通に話すだけでもいいだろ。それなりの付き合いなんだし」
「もうホームルーム始まるぞ!」
「ちょっとくらい平気だ」
勇み足で遠ざかる一護を止めることができず、啓吾は呆然としながら、水色は微笑みを浮かべて手を振りながら見送った。
席が離れていても、それとなく会話を聞いていたのだろう。眉間に皺を寄せて、複雑であるのは確かだが心配する様子で竜貴も一護を見送っていて、彼女の傍に居る織姫はそのどちらをも戸惑いがちに見つめていた。
距離が離れたと言ってもすぐそこに居る。会いに行くことは簡単なのだ。
何をうじうじ悩んでいたのだと、一護は鼻息も荒く彼が居る教室へ向かう。
自身のクラスとは違い、そちらの教室は普段と変わらない様子だった。
唯一、少しだけ盛り上がりを見せるのは双葉の周辺だ。近頃どこぞへ消えていることが多かったが自分の席に座っていることで、友人であろう生徒数名が寄ってきて話している。
「双葉」
「ん? あぁ、一護。どうした?」
自分から見れば知らない人ばかりであったが、一護は物怖じせずに入っていった。声をかければ以前に比べて不調は感じない双葉が迎えてくれる。
ルキアの様子を思い出せば、やはり反比例している気がして、不思議には思いながらも今は敢えて考えもせず、いつものように話そうとした。
「いや、体の調子どうかと思って様子見に来た」
「俺は平気だよ。特に変わったこともないし」
「そうか? あー、そのことなんだけどよ」
一護が一瞬言い淀んだのを見て、聞かれたくない話なのだろうと悟った。双葉の友人たちは咄嗟に「またな」などと言って静かに離れていく。
彼らの気遣いに感謝しつつ、一護はわずかに声をひそめて尋ねた。
「今日来たらルキアの様子がおかしいんだけど、何か知ってるか?」
「あー……まあ、ちょっと」
名前を出すと途端にバツが悪そうな顔になった。
知らないわけではなさそうだ。ただ言いたくないという様子も見られる。
質問はやめようかとも思った一護だが、彼が止める前に双葉はぽつぽつと語り出し、はっきりとはしないものの後悔の念が感じられる。
「喧嘩した、ってほどじゃないけど、冷戦状態っていうか……うーん、というより、俺が勝手に拗ねてるだけなんだけど。昨日から話してなくて」
「ああ、それでか」
一護が呆れた様子で顔を上げる。
絶望したと言いたげな顔でぐったりして動かなくなり、声をかけても反応はなく、一体どれほどの異常事態があったのだろうと心底心配していたのに。理由を聞いてみれば想像以上に普遍的で、言ってみればどこにでもありそうなものでしかなかった。
そんなことで落ち込んでいたのか、というのが即座に浮かんだ感想だった。
突然肩の荷が下りて、妙に疲れてしまった気がする。
結局はまた
表情から険しさが薄れた一護を見て、何かを悟って今度は双葉が尋ねた。
「なに、そんなにわかりやすい態度なの?」
「ああ。机に突っ伏して動かない。クラスの連中、みんな噂してるよ。フラれただとかお前と別れたんだとか、ルキアの話で持ち切りだ」
「あ、あー……そうなのか」
「なんせ普段と全然違うからな。それもしょうがないんだろうけど」
「噂って怖いな……そもそも、別に、付き合ってるってわけじゃ――」
言いながら双葉はぴたりと固まってしまった。
思考がぐるぐる廻って、はて、自分たちの関係とは、一体。そんな疑問を持った瞬間にこれまでの経験や出来事が思い出されて、余計に胸に痛みが走る。
嫌な思い出ではないのだが、もっと普通に生きるのだろうという想像とはあまりに違う。
ううむと唸り出した双葉まで机に突っ伏してしまって、彼は彼で悩み始めたようだ。
「どうした? 大丈夫か?」
「一護ぉ……恋愛ってなんだろうな……」
「は? なんだそれ……お前、まさか」
一護が疑念を抱いた時、タイミングよく予鈴が鳴って、ホームルームの時間が始まる。
教師はまだ来ていないが、いつまでも他のクラスに居る生徒は迷惑だろう。一護は双葉へ簡単な言葉を投げかけて、ひらひらと力なく振るわれる手に見送られて教室を出る。
考えてみればそれほど不思議なことではないのかもしれない。特殊な事情があるとはいえ、男女が一つ屋根の下で暮らしていて、死神の年齢は一旦忘れるとしても、高校生という若さを持て余した青少年が異性を意識するのは何らおかしいことではないはずだ。
考えないでもなかったが、双葉は以前から恋愛というものに対して興味を示さなかったため、まあないだろうと勝手に判断していた。わざわざ確認しなかったのは、一護自身もそうした事柄にあまり興味を持てずにいたからだ。
多分、そういった何かがあったのだろう。
一護は一応の納得をして、少し胸の内が軽くなった気がする。
それだけの情報で真相に辿り着くはずもなかったが、今まで興味を持たなかったはずの双葉が恋愛について考えるようになったのなら、きっといいことだ。
自分のことは棚に上げ、まるで父親のようにそんなことを考える。
教室に戻った一護は真っ直ぐ自分の席に向かい、教室にはまだ教師が来ていなかったため、すぐさま啓吾と水色が近寄ってくる。
さて、しかし、なんと説明すればいいのか。
面倒なのは嫌だと考え、一護は少し困った様子で言葉を選んだ。
「で、どうだった?」
「収穫はあった?」
「大したことじゃねーよ。軽い喧嘩らしい」
「喧嘩ぁ? なんで双葉と朽木さんが喧嘩するんだよ」
「俺が知るか」
「バカだな、お前。そういう時は理由までちゃんと聞いてこいよ」
「誰がバカだ」
スキンシップのつもりで啓吾の顔面に拳を押し当て、悲鳴を上げて転がる彼を無視する。
水色はまだ興味が尽きないようで、当然の如く啓吾を無視して聞いてきた。
「ただの喧嘩であんなに落ち込むかな。相当ショックが大きいみたいだけど」
「まあ、双葉は喧嘩とかしないからな。そりゃショックなんだろ」
「そうかなぁ……もっと深い関係なんじゃない? 朽木さん見てるとそんな感じする」
一瞬ドキッとした一護だったが、水色が言っているのはそういう意味じゃないと理解して落ち着きを取り戻す。
あまり多くを語りたがらず、一護は静かに会話を終わらせたがっていた様子だ。
「さあな。それはあいつらにしかわからないだろ」
「気にならないの?」
「好きにすりゃいいだろ。無事ならそれでいい」
「やけに無事かどうか気にするよね。双葉って病気なの?」
「そんなんじゃねぇけどさ」
一護を見つめて会話を気にしていた織姫は、ちらりと竜貴を見て、意を決して動き出した。
以前から思うことはあったようで、しばらく様子を見ていたものの、いまだに竜貴が本調子を取り戻せていないのだ。近頃は空手部の練習にも身が入っていないらしく、インターハイを目指せると期待されているにもかかわらず、見るからに様子が違っているためにひどく心配されており、かといって近寄り難いため声もかけられない。
なんとかしなければと思っていたところだ。
ここで彼女のために動かなければ。
織姫は動かないルキアの席へ駆け寄っていき、膝を折って、顔を近付けて声をかける。
「朽木さんっ」
「ん……あ、井上さん……?」
「今日、時間ある?」
今にも消え入りそうな弱々しい声で反応したルキアがわずかに顔を上げる。
間近にある織姫の顔はなぜかやる気に満ちていて、にこりと友好的に笑いかけていた。