予兆と異変
「やあ」
扉を開けてすぐの場所に水色が立っていて、その背後にチャドが居る。学校帰りなのだろう制服姿でビニール袋を一つ提げていた。
出迎えた双葉は些か驚き、気のない返事をしてしまう。
「おお、どうした?」
「どうしたじゃないよ。学校休んだでしょ? お見舞いに来たんだ」
「あぁ、なるほど。そうか」
「思ったよりっていうか全然元気そうだね。何かあったの?」
「あー……とりあえず中入れよ」
双葉に迎え入れられて家の中へ入る。
勝手知ったる様子のチャドはビニール袋の中身、ちょっとした飲食物をひとまず冷蔵庫へ入れておこうとキッチンへ向かって、何度も訪れた一人暮らしの友達の家とあって気を使わない水色も、そそくさとソファに座って落ち着き始めた。
どこか気まずそうな双葉からは戸惑いが感じられ、何かありそうだと察する水色が尋ねる。
「体調は悪くなさそうだし、ショック受けてる感じでもないね。朽木さん?」
「まあ、そうとも言えるんだけど……」
「喧嘩した、とかじゃないか。あの時はあからさまにへこんでたし」
「それは忘れていい。正直、俺もよくわかってなくてさ……」
自分の髪を力なく掻いて、双葉は所在なさげに言葉を選んでいる。
どうやら彼自身、納得した上で学校を休んだわけではないらしいことが伝わってくる。自分でもよくわからないと言うのは嘘ではなくて、少なくとも体調不良だったわけではないようだと知って安心した。
差し入れを冷蔵庫に仕舞ったチャドもやってくる。
二人が自身の言葉を待っているのはわかった。わずかに嘆息して双葉は言う。
「なんか、俺に結構大変な変化があったらしくて、学校に行くと色々危ないから行くなって」
「何それ。超能力にでも覚醒した? 爆発系とか」
「それだったらお前らだって危ないだろ」
「確かに。今みたいに僕らが会いに来るのはいいの?」
「いや……どうなんだろう。そもそも誰か来ることについては何も言われてないし」
ふぅん、と相槌を打って水色は質問をやめる。
理解はできないがルキアが何かを言ったことは間違いなさそうだ。双葉が否定しなかったところを見るとそう考えるのが正しい流れ。であればどんな理由にしろ、双葉ではなくルキアの意思で学校を休むことになっている。
双葉本人も理解できていないのならば聞いても仕方ない。現時点で理由はいくつか考えられた。水色は独自に思考する。
理由はないが家で二人きりになってイチャイチャしたかった、すでに恋人デレデレ説。
ただ単に好きな人を独占したい、自分以外の人に会ってほしくないヤンデレ説。
本当に何らかの理由があって、けれど双葉に知られるのがまずい説。
理由を知っているけど、恥ずかしくて双葉が真相を隠している説。
いくつかのパターンを考えてみたが、結局は双葉に聞いてもわからないだろう。
双葉が嘘をついているようには見えない。悩んでいるのではなくただ困惑しているだけだ。
真相を知るにはルキアに聞くしかないだろうと考え、水色は推測をやめる。
「なんだ。双葉が超能力者になったら面白い展開だったのにね」
「面白くないだろ。そんなのフィクションだからいいんであって、いざ超能力なんか持ったら碌なことないぞ。変な目で見られるし、最悪逮捕とかされるかも」
「そうかなぁ。一躍ヒーローになれるかもよ?」
「俺はそういうの興味ない」
呆れたため息交じりで双葉はキッチンへ向かおうとして、そちらに立っているチャドを見た。
どうせ何度も訪れて勝手知ったる相手だ。自分が動かずとも頼んでしまえばいい。
「なんか飲む? チャド、中にあるの適当でいいから取ってくれるか」
「ああ……それはいいが、双葉」
「何?」
「……何か、居るか?」
チャドは窓の外を見てそう言った。
目を向けたきっかけは気配のような違和感を感じたからなのだが、目を向ければ景色がわずかに歪んで見えるような気がする。言っていいものかどうか、多少迷った。だが言っておいた方がいい気がしたのだ。
前にもアレを見た覚えがある。同じかはわからない。しかし景色の一部が歪み、そこに何かが居るのだろうという感覚には心当たりがあった。
チャドは、双葉が学校に来なかった理由はこれだろうと予想する。
アレを学校に連れていって、何もしないとは限らない。本人がわかっていないのならルキアが気付いて止めたはずだ。
そして何よりチャドは、双葉にもアレが見えているはずだと知っていた。
まだルキアと同居する前のこと、頻繁に夜の寂しげな町を散歩して、寂しさを紛らわせるように静かな闇の中を歩いていた頃がある。
その時、双葉は何もない空間に目を向け、何かに気付いた様子を見せていた。隠そうとしていたのだろうが二人きりで歩いているのだ。気付かないはずはない。
時には誰も居ない空間へ向けて、小さくひらりと手を振ることさえあった。
指摘された直後、水色はチャドが見ている先を確認するより早く双葉を見た。
平然とした顔で首を傾げて、わからないという顔をしている。しかし返事は遅かった。その前にはわずかに息を呑んだのも感じている。
「いや? 別に何も居ないけど」
「ム……なら俺の気のせいか。気にしないでくれ」
「おう」
双葉は嘘をついた。
チャドもおそろく気付いていて、敢えて追求しようとはしなかった。
何か理由があるのだろうと水色も触れないように努める。
この場に啓吾が居たならば話を広げてもっとそれについて話せたかもしれない。気味悪がって話題を変えてしまうかもしれないが、今とは違った展開があっただろう。
たまに鬱陶しいくらいうるさい時もあるが、改めてこんな時には必要な男だ。実の姉の命令でパシリに使われているのを初めて残念に思った。
この場面では気遣っておいた方がいいだろう。
今は啓吾が居ない。当事者の双葉やチャドでは性格も相まって難しい。
仕方なくということもなかったものの、水色は双葉に向けて、意図して口角を上げてから少しだけ声を大きくした。
「ねぇ双葉。思ってたより散らかってないね」
「掃除くらいできる。一人暮らしも長いんだから」
「そうだけど、もうちょっと手掛かりくらい見つかるかと思ったんだけどね。女性物とか」
あからさまに体がびくついた。
嘘が下手なんだなぁと水色は呆れて、彼自身も洞察力が優れているとはいえ、少しつついただけでわかりやすく態度に出す双葉を心配してしまう。
「お前……本当はそれが目的か」
「そんなことないけど、ふと気になってさ」
「なんだよ。ほんとにちょっと嬉しかったのに」
「ごめんって。心配してたよ? 双葉が尻に敷かれてないかって」
「余計なお世話だ」
やはり否定はしない。わかっていたとはいえルキアとの仲は確実なようだ。
別に邪魔がしたいわけではない。
あの双葉も変わるものだな。そんな風に思う。
元々を言えば一護や竜貴が過保護に守ろうとする彼に、異性への興味やオナニーを教えたのは気を利かせた水色である。それまで彼はいまいちピンと来ていないまま育っていた。
今になってあの二人の心境がわかる気がする。
彼の親になったつもりはないが、成長を感じて、なんとなく微笑ましく思うのだ。
くすくすと笑う水色に居心地の悪さを感じ、双葉は拗ねた様子でそっぽを向いてしまった。
「双葉は嘘が下手なんだから、気をつけた方がいいよ。浮気とかすぐバレちゃいそうだから」
「あー……」
「あれ? もう心当たりある?」
「いや、ない。断じてない」
ないのは嘘ではなさそうだが複雑そうな表情だ。何かしら問題はあるのだろう。
まだしばらく見守る必要がありそうだと判断して、水色は肩をすくめる。
話している間にチャドがコップにお茶を入れて運んできた。双葉と水色に手渡してから、彼自身もソファに腰を落ち着けて会話に耳を傾ける。
「今日、朽木さんは?」
「さあ……用事があるとかで出てるけど」
「ひょっとして一緒に住んでる?」
「す、住んでない」
「あー……それでか。ね、チャド」
「ム……」
「おい、なに勝手に言ってんだ。違うぞ。絶対、違うからな」
「はいはい」
途端に動揺し始める双葉の反応が楽しくて仕方がなく、水色は笑みを深め、チャドは頷いた。
付き合いが悪いのはつまりそういうことなのだろう。
だんだんと理解されていく気がして落ち着かなくなり、何を言っても誤魔化せそうにない。これ以上余計なことを言わないようにと双葉は再びそっぽを向いた。
「でもよかったね。双葉に春が来たみたいで」
「うるさい。来てねぇよ」
「つい最近まで恋愛なんて興味ないって感じだったのに。ただ僕は一護とか有沢さんがずいぶん過保護だなって思ってたから、いいことだと思うよ」
「そーですか」
言ってみてはたと気付いたのだが、竜貴はどうするのだろう。水色は急に表情を変える。
視線を逸らしている双葉は気付かない一方、隣に居るチャドは目敏く気付いていた。
双葉は気付いていないだろう。本人から聞いたわけでもない。だが水色は、有沢竜貴も彼のことが好きなのではないかと思っていた。
ルキアとの関係が確定的だと察した今、なんとなく微妙な心情になる。
なるほど。浮気とは違うがすでに面倒な状況だ。
おそらく双葉はそれを理解していないはずで、彼が抱えている問題は他にもあるのだろうと想像するのだが余計な詮索はしない。ただ、状況は荒れるのではないかと想像した。
「うーん……啓吾じゃないけど、面白がっていいのかどうか。ね、チャド」
「……そうなのか?」
「何考えてんのか知らないけど、面白がっていいわけないだろ。余計なこと言うなよ」
「大丈夫だよ。双葉はそのままでいいから。いや、あんまり良くないのかな?」
「わけわかんねぇ」
双葉が大きく嘆息する。
その後になって水色が思い出してあっと声を発した。
「そうだ。丸太郎のこと忘れてた」
「ム……そうだった」
「丸太郎? どうかしたのか?」
「双葉に会わせてあげようと思って連れてくる予定だったんだ。丸かったよ。でもチャドの家に寄らずに来ちゃったから」
「ああ、そうか。でも俺別に知ってるし」
「成長は、見ていないだろう。連れてくる」
いつになくチャドが能動的で、速やかに立ち上がると止める暇もなく出ていってしまう。
よほど会わせたかったのか。呆然とする双葉は玄関の扉が閉まる音を聞き、待つしかなさそうだと嘆息する。
にやにやする水色に気付いたのはその後だ。
「なんだよ」
「んーん。なんか、双葉も成長してるんだなって」
「そりゃするだろ。十代だぞ。お前と同じで」
「オナニーとかしてる?」
「ぶはっ」
双葉が唐突に茶を吹き出した。あーあと言いながら水色は動じない。
「朽木さんと付き合ってるなら、もうしてないのかなーって、ちょっと思ったんだけど」
「お、お前、何を平然と……!」
「よく言うよ。僕が教えてあげたらずいぶんハマってたじゃない。気持ちいいやり方教えてとか良いオカズがどうとか、双葉の方から頻繁に言ってきてたのに。一時は二人っきりになったら必ずそれだったよ」
「う、ぐ……忘れてくれ、そんな過去」
「まだ一年も経ってないけどね」
恥ずかしいことを思い出さされた。できれば忘れさせてほしかった。しばらくは言及を避けていたが忘れていたわけではなかった事実である。
あの頃の自分はどうかしていた。高校生になって水色に会い、性知識に疎い双葉の下へこそこそと近付いてきて、保護者同然の一護や竜貴、騒ぎを大きくしかねない啓吾などに隠れて、実はこんなものがあるんだよと教え込まれた。
生まれて初めてのオナニーを体験して、なんて気持ちいいんだろうと感動した。
にこにこと楽しげに教えてくれる水色に多大な感謝をして、彼に懐くのは誰よりも早く、どうして一護は教えてくれなかったんだと不満さえ抱く。そうしてしばらくの間、彼はオナニーを好んで悶々とした感情を抱くようになった。
恋愛に興味がないというのは嘘ではない。恥ずかしいから偽っていたわけでもない。
異性とのセックスには同意が必要だ、とも水色から教えられていて、いくらか面倒に思ったのである。それなら自分のしたい時にオナニーすればいいのではないか、というのが彼の結論だった。
「あの頃はどうかしてたんだ。知ってるのがお前だけでよかった……いや、お前が知ってるのが一番ヤバそうではあるんだけど」
「僕は結構好きなんだけどな。ああいう話とあの時の双葉。最近してくれなくて寂しいくらい」
「やめてくれ。あれはなんていうか、俺だけど俺じゃないんだ……」
「最初の一回目は、僕の目の前でしたんだよ。一部始終見てあげたんだから」
思わず水色に目を向けた双葉は、彼のにこやかな笑顔を見て、顔を真っ赤にした。
わなわなと震えてしゃがみ込むと頭を抱え、俯いてしまって顔を上げられない。
水色はそんな彼の反応を楽しげに眺めていた。
「ああぁ、あああああぁ……!? こ、殺してくれっ。頼むからっ」
「ふふふ、そんなに気にしなくても。いい思い出として覚えておくよ」
「忘れろ! 今すぐ!」
「朽木さんとのことで困ったら何でも聞いてよ。詮索はしないけど教えてあげるから」
目に涙を浮かべる双葉が顔を上げ、にこやかな水色をキッと睨みつけた。
「俺はお前が嫌いだっ」
「僕は好きだよ。なんならまた見てあげよっか? オナニーして射精するとこ」
「ぐふっ、ぐはぁ……!?」
双葉は体を丸くしてうずくまり、動かなくなってしまう。
そうした姿も見守る者としては可愛いものだ。
上機嫌な水色は、たまにいじめると楽しいなと思い、羞恥心に押し潰されようとしている双葉をいつまでも見ていた。