双葉は、そこから一歩も動くことはなかった。
畳の一室に並べられた三つの布団。彼女たちはまだ目覚めない。死ぬことはないが霊体にまで与えられたダメージが大きいらしく、しばらく眠ったままかもしれないようだ。しかしそれは回復するために必要な休養。心配はいらないと伝えられていた。
それでも気にせずにはいられない。
双葉は、そこから一歩も動こうとしなかった。
「自分のせいだなんて思っちゃいけませんよ」
少し離れて隣に座った喜助が声をかける。
おどけている普段とは違い、淡々とした静かな声色だ。
身じろぎさえしない双葉には敢えて目を向けず、眠りこける少女たちの顔を見ながら話す。
「彼らが来た理由があなたであることは間違いありません。でもアタシらはこうなることを予想できていた。それなのに防げなかったのは準備を怠っていたからです。彼女たちが傍に居るから大丈夫だろうと過信してしまった。これはアタシらの落ち度です」
すみませんでした、と伝えるのだが、双葉からの反応はない。
それも当然。気にせずに喜助が呟く。
「でもね道野さん。彼女たちはきっと後悔なんてしちゃいませんよ。たとえ自分が傷ついたとしてもあなたが無事ならほっとするはずだ。だからあなたがここで諦めてしまうようなら、彼女たちの行動が無駄になってしまう」
目には何も映っていない。ただ呆然と、置物のように座っているだけだ。
「ここにはもう居られないだなんて、そんなことは考えないでください。大丈夫、次は何があろうとあなた方を守りますよ。だから今はただ彼女たちの傍に居てやってください」
反応がないのも承知の上だ。
わずかな衣擦れの音。しんと静まり返った部屋で立ち上がり、振り向いた喜助は入口のすぐ傍に控えたテッサイを確認し、頷く姿を見るとそっと部屋を出る。
町中をほんの少しだけ離れた山の中、隠れ家のように小さな建物があった。
喜助が所有するこの場所ならば以前よりはマシな対処ができるだろう。
表に出ると彼に協力する
「すまんかった。あれでも気を利かしてるつもりやったんやけど、まさかあそこまで一方的にやられるとは想像してなかった」
ヤンキー座りをしている平子真子が意外なほど真剣な声で言い出した。
謝罪している相手は一護だ。
自分に言われていると気付いた彼は動揺を見せ、直後には悔しそうな感情を顔に滲ませる。
「相手を舐めてた。護衛のつもりが、情けない話や。後で話ができるようになったら本人にも言うつもりやけど……悪かった。後手後手の俺らに問題があったわ」
「……やめてくれよ。そんな正々堂々謝られたら食って掛かることもできねぇ」
感情を押し殺すような声で一護が呟く。
重々しい空気は変わらず、どうやら誰もが口を開くことを躊躇っている。
情けなさや虚無感なら誰もが感じていた。自分のせいだと責める気持ちもある。塞ぎ込んでいる双葉の姿を見れば尚更だ。
これからどうするのだろう。どうなるのだろう。
宙に浮いたまま答えの出ない疑問が重苦しい沈黙を作っている。しかし予想して備えておくことはできるはずだ。
喜助はこうした状況に備えて準備していたのだが、策を使う時間がなかった。次があれば必ず反応できる。今度こそしなければならない。
「彼らが来たこともそうですが、裏で手を引いてる人物が居そうなのが面倒ですねぇ……」
「あいつのことやろ? わかっとるわ」
「いえ、確実とは言いませんがね」
「確実やねん。どこに気ぃ使っとんねん。そういう態度が後手に回らしたんやろ、ボケ」
喜助が呟くとすかさず平子が嫌そうな顔をする。
彼らはすでに何かを知っているらしい。考えてみれば浦原喜助は服装や言動や態度からしてあからさまに怪しい人物で、過去に何があったとしてもおかしくない。
そして平子は、もとい
知らないのは自分だけか。否、双葉もそうだ。知っておくべき事情を知らないままこの状況に巻き込まれている。
知っていなければならない。何よりも彼のためにだ。
「誰が居るんだ? 迎え撃つ必要があるんだろ」
一護が喜助へ問いかける。
何も知らないままではいられない。見て見ぬふりはできない。
たとえ彼らが自分たちだけでやるつもりだとしても、それを許すつもりはなかった。双葉を守るために自分も戦う。一護にはそういう覚悟がある。
表情を見るだけで感じ取れただろう。喜助はやれやれと一息ついた。
「苦労しますよ?」
「それがなんだ。目の前で仲間が死にかけといて、はいそうですかって何も見てねぇふりして生きていけねぇよ。嫌だっつっても俺は関わる」
「仕方ない人ですよ、本当に……」
口元に笑みを浮かべて、喜助が佇まいを直す。
「アタシらの知ってることを教えましょ。ほっといたって関わるなら協力する方がずっといい」
「せやな。そもそも俺は関わらせん方向でなんか考えてないし」
「色々と面倒な状況ですがね、アタシらは今回の一件にも絡んでる黒幕のことは詳しいんです。全てを悟らせはしませんが彼に対抗するためだけに時間を費やしてきました。そうしないと
一護の表情が引き締まる。
死神代行。空座町で時折現れる
「一度乗るともう降りられませんよ」
「覚悟はできてる。少なくとも双葉が落ち着くまでやめるつもりはねぇ」
「わかりました。では順を追って説明しましょう。長くなりますが」
「先に要点だけ伝えたらええやろ。小難しい話は嫌いそうな顔しとるんやし」
「どんな顔だ。まあ、そっちの方がいいけど。まず敵は誰かってのをはっきりしてくれ」
「やろ? 気遣いや」
「馬鹿にしてるの間違いだろがっ」
一護と平子は意外に気が合いそうな素振りを見せていた。彼を仲間に引き入れる意味はきっと小さくないだろう。
状況は動き出した。いずれ決戦の時は来る。
喜助が口を開き、雰囲気を変えるため時々小粋なジョークなど交えながら、自分たちの敵とその対処法について語り始めた。
静かに、何も言わずに入ってきたその存在に、テッサイは敢えて敵対意思を見せなかった。
事情は聞いている。立場上、彼らが敵ではないことも。だからといって心底信用することなどできないのだが、空虚に見えるその瞳が彼を捉えている時だけ、人間にも似た優しさを感じるのは気のせいではないと思いたい。
「道野双葉。話がしたい」
唐突に聞こえたその声に、双葉は緩慢な動作で反応を見せた。
顔色が悪く、表情は固まったまま。生気のない目で相手を確認しようとする。
傍らに立っていたのは
おぼろげな記憶の中に姿はあって、詳しいことは知らなかったが、窮地に立たされた双葉を救うために現れた
「俺はウルキオラ・シファー。お前と一体化した
簡潔な説明を受けて、反応は遅かったものの、理解した様子の双葉がぺこりと頭を下げる。
視線はすぐに外れて彼女たちを眺め、何を言うでもなく俯いたままだ。
何を考えているのか、無言で立ち尽くして彼を見ていたウルキオラは表情を変えずに、無表情のままで語り始める。
「諸事情あってルザールはお前と一つになり、人間になった。当時の俺には理解し難い話だったがあいつと共に時間を過ごしたのは変わらない。俺たちは仲間だった。今も俺の中ではルザールは仲間のままのつもりでいる」
他者と話し慣れていないのだろう。淡々とした口調で淀みはないが、何をどう伝えればいいか、深く考えずに喋っている様子が感じられる。
テッサイは口を挟むことなく見守っていた。
今の双葉に届けばいいのだが。無言で見つめながらそんなことを思う。
「別れ際には俺はルザールの考えを理解できていなかった。今もできているとは言えない。だが人間になりたがっていたあいつが本当に人間になった今、その選択と決断を尊重して、理解してやりたいと思っている。だから道野双葉、俺はルザールと一つになったお前を守る」
双葉は黙して語らず、聞いているか否かの心配もせずにウルキオラが続ける。
「お前にその気があるのなら、お前を
逆に言えば、彼が居ると空座町が傷つけられる可能性があるという事実。
この状況で突きつけるのは酷だと思いながらも、いずれ本人が理解しなければならない。すでに事が起こった以上はもう知らないままではいられないのだ。
「無論、お前がここに居たいと言うのなら、その方向で守る方法を考えるつもりだ。これはお前を中心に動いている話だ。お前が決めろ」
そこまで言って、ウルキオラは口を閉ざした。
返事を待っている。沈黙が長く続くが彼は微塵も気にしていない。
やがて双葉が口を開き、声を詰まらせながら、ウルキオラの声に応えようとする。
「俺、は……もう、ここには居られないのかな」
「そんなことはない。お前がそれを望むなら、俺たちは協力を――」
「でもっ! 俺がここに居たら、またあいつらが来る……戦いになって、またみんなが傷つく」
「そうさせないために俺が居る。俺たちが守る」
「戦いは、起こるんだろ……?」
「ああ」
聞かれたから答えた。そんな声色。
テッサイが息を詰まらせる一方、ウルキオラに動揺は見られない。
肩を震わせる双葉は感情的に揺れる声を発していた。
「本物の道野双葉じゃないって言われて……
「お前は人間で、ルザールと一つになって」
「じゃあ、俺はルザールってやつなのか? でも俺はそのルザールの記憶がない……道野双葉の、記憶もない。どっちでもない俺が、今ここで生きてる」
「名前があるだろう。お前は道野双葉だ」
「でもルザールとも呼ばれてた。そう呼ぶやつらが俺を殺そうとしてる。多分、これからも」
「心配なことがあるのか? 身の安全のことなら俺たちが」
「俺はっ――」
言いかけて言葉を詰まらせたのは、自分のせいだなんて思わないで、喜助がそう言っていたのを思い出したからだ。
思わないなんてことができるはずもない。自責の念が大きく、俺のせいで、と明確に責任を感じてしまっている。ルキアたちが自分のためにひどく傷ついてしまって、目を覚まさない事実が心に重くのしかかっている。
双葉の目からぽろぽろと涙がこぼれていた。
その涙を見た途端、ウルキオラが驚いて、初めてわずかな動揺を見せる。
頭を抱え、暴れ続ける感情を抑えられない様子の双葉が声を震わせた。
「俺は……もうここに居ちゃいけないんじゃないのか?」
「違う。ここで暮らしていくために、俺たちが手を貸すんだ」
聞く耳を持つほどの余裕はないだろう。それでも黙って見過ごすことはできなかった。
そうではないと伝えてやりたい。ウルキオラはその一心で口を動かす。
「お前は、人間だ。
初めて感じる衝動。まずいと思って、なんとかしなければならないと思った。それは現世へ来た時もそうだったがその時よりも焦っている気がする。
感情などないと、自身を理解していたはずだ。かつての友はおまえにも心はあると言っていたがそう思った試しがない。だがたった今、本当に自分にも心があるのかもしれないと初めて考える。
ウルキオラは自分の感情に驚き、双葉を庇うために発言し、言葉を選ぼうとさえしていた。
「
「……みんなと話したい。今は、それしか考えられない……」
「わかった」
無理をしても彼のためにはならないだろう。
ウルキオラは考えもせず答えた。
そうした自分に驚きながらも嫌な気はしない。今しばらく待とうと決めて、表情は相変わらず変化がなかったものの、双葉を見る目はやはりどこか優しかった。