インターホンを鳴らす。
本来なら一度鳴らせば十秒とかからず中から「はーい」と返事があるか、表に出てきて鍵を開けてくれるのが常だった。
返事はなく、嫌に静かだ。すでに十秒以上経っている。
数十秒玄関の前で立ち尽くして、たつきは表情を歪めて心配を露わにしていた。
ここ数日間、双葉が学校に来ていない。何かあったのなら連絡があってもいいはずだ。だが携帯に連絡しても返事の一つさえ寄こさない。
あれで結構マメな男である。特に人間関係においては適当に済ませる男ではなく自分と関わった相手は大なり小なり大切にするのが当たり前だった。
連絡が返ってこないということは何かあったはずである。
しばらくは敢えて家に近付かなかったが、その日、たつきは改めて家へ行ってみた。
そして誰も出てこない。いよいよ不安になって苛立ち始める。
「何やってんのよ……早く出ろって」
やはり家には居ないのか。踵を返そうとした時、かすかな物音を聞いた。やがて扉の向こうに誰かの気配を感じ、カチャンと鍵が開けられる。
まさかと思った。居たのに今まで出てこなかったのならよっぽどの状態だろう。
驚くたつきは改めて扉に向き直り、ゆっくりと開けられたその向こうを見た。
「ふたっ――!」
ほんのわずかでも顔が見えた瞬間、それが双葉だと確信して、咄嗟に名前を呼ぼうとしていた。
その次はどうしようか。まず文句を言ってやろうか、心配してやろうか。何も言わないというのも納得いかない。絶対に説教してやろうと思う。
事前に考えていたことがあって、いざその時を迎えた一秒にも満たない一瞬、彼女の思考は混乱した状態で素早く動いていた。しかしその全てがどうでもよくなって消えてしまった。
顔を覗かせた双葉は、まるで別人のようにひどい状態だった。
頬がこけて、目が窪み、眠っていないのだろう疲労が色濃く身体に現れている。
想像もしていなかった姿を見てたつきは絶句し、視線が合った時、ぐちゃりと潰れた思考では彼のためを思う行動を導けなかった。
「あ……たつき。ごめん、俺――」
「いいからっ」
文句を言おうとか、叱らなければならないとか、そんな考えはすでになかった。彼の顔を見た瞬間に変化に気付き、まずいと思って、咄嗟に止めていた。
理由は知りたいが、辛くなるのならいらない。言い訳なんてもっと必要ない。
彼の顔を両手でそっと挟んだたつきは、立たせている現状にすら焦りを抱いたらしく、押し込むようにして家の中へ入れる。
「色々言いたいことあるけど、とりあえず座ろ。ね?」
「……うん」
「入るけど、いいよね?」
「うん」
頷く双葉を連れて家の中に入り、玄関の扉を閉めると、普段の印象とは違ってぬぼーっと立ったまま動かない双葉を見やり、やはりおかしいと思わずにはいられない。
目の前に自分が居ても視線が合わないのは、今までならあり得ないことだった。
双葉は幼少期から一護やたつきに教え込まれたことにより、他人の目をよく見る癖がある。急に忘れたわけでもあるまいし、俯いて視線を落とす素振りには何らかの理由や意図があるはずだとすぐに結論付けられた。
黙り込んで何も言わず、動き出そうともしない彼の手を引いて歩き出す。
双葉の家だが勝手知ったる場所であった。
たつきは双葉を先導して、彼の妙に遅い歩調に合わせていつもより長く感じる廊下を歩く。
リビングに到着して真っ先に彼をソファへ座らせた。
自分は座るか、それとも立ったままでもいい。特に悩みもせずにたつきは敢えて双葉の目の前で床に膝をつくと顔を覗き込む。
繋いだ手を離そうとはしなかった。そうしてしまうと彼が壊れてしまいそうで。
「双葉……元気、そうじゃないね。ちゃんと寝てる?」
「いや……あんまり眠れなくて」
「そっか。ご飯は? 今日は何か食べた?」
「どうだろう……どうだっけ。わからない。食べてない、かもしれない」
「そうか」
話しかければ返事はしてくれるのだが、声も表情も虚ろであり、思考がはっきりしていないように感じられる。
それでも彼はこのままではいけないと思ったのか、表情を変えようとした。ぎこちなく笑みを浮かべてたつきに気を使うかのような素振りを見せ、彼女は反射的にむっとする。
「えっと、ごめん。連絡すればよかったんだけど、何もしなくて……」
「いいから。そんなのどうでもいい」
「あ、ああ」
「何かあったんでしょ? あたしに気ィ使わないで。絶対」
双葉は力が抜けると笑みが消えてしまい、疲れた様子に戻る。
やはり無理をしようとしていた。考えなくてもただ見ればわかることだ。有耶無耶にできる状況ではないのだから無理など欲していない。
「喋りたくないならそれでいいから。あんたは、今は、とにかく休んで」
「うん……」
「してほしいことがあったらするよ。平気?」
心配そうな顔で見つめて、問いかける。
たつきの目を見つめ返して双葉は逡巡を見せ、しかし耐え切れずに口を動かした。
「怪我、したんだ……ルキアたちが、俺のせいで」
「……うん」
「俺のせいじゃないって、大丈夫だって言われたんだけど、考えずにはいられないんだ。俺が居たからなんじゃないかって」
何があったのかがわからない。そんなことはないと言ってやりたいが不用意な発言が果たして彼のためになるのかと考え、たつきは何も言えなかった。
代わりに彼の手を強く握って、行動でそんなことはないと伝えようとする。
「ここに居ない方がいいんじゃないかって言われたりもして」
「なんでそんな……!」
「俺を守るためらしいんだ。だから、その」
言い辛そうにした双葉は、意を決して呟く。
「た、たつき……俺が、もし」
「うん。何?」
「昔の事故で、本物の道野双葉はもう死んでて、今居る俺が偽物だったら――」
「それはない」
腹の中にある物を吐き出したくなるほどの気持ち悪さを感じていたが、勇気を出してそう言い、たつきは意外な反応を見せた。考えもせずに否定したのである。
次の言葉を紡げなくなって双葉が顔を上げる。
たつきと目を合わせて、力強くも優しい眼差しで見つめ返され、焦ることなく落ち着いた声色ではっきりと伝えられた。
「もしあの時一度死んでて、記憶を失って、それまでと別人みたいになっても、あたしが見てきたのは今ここに居るあんたでしょ? あんたは双葉だよ。偽物なんかじゃなくて、あたしが知ってる本物の双葉」
虚を衝かれた。感情を抑えられない。そんな表情だった。
力が抜けて俯いた双葉は自分の目元を手で押さえる。
溢れ出す涙。不安で、自分を責めて、よほど余裕がなかったのだろう。常々弱音を見せないように努めていた双葉がそうした姿を見せることに驚きを隠せなかった。だがたつきはあっさりと受け入れて、彼の肩に腕を回すと自分の下へ抱き寄せる。
何があったかは知らない。それでも今の彼に必要なことはすぐにわかった。
不安に苛まれる彼を認めてやれるのはずっと見てきた自分だけだ。
たつきは頭を寄せ、双葉の小さな嗚咽を聞いて目を閉じる。
「大丈夫。何があってもあたしはあんたの味方だから」
「うん……うん」
「誰が何と言おうとあんたは道野双葉だ。ここに居ていいんだよ。みんなそう思ってるってこと、忘れないで」
双葉は頷き、しかし感情は不安定なままで、心情を吐露する。
そう言ってほしかった。だがだからこそ胸中は複雑である。
「俺も、ここに居たい……! でも、みんなを巻き込みたくない……俺のせいで誰かが怪我するのはもう嫌なんだ。だから、いつか、ここに戻ってこれるんなら」
その言葉は聞きたくなかった。たつきがぎゅっと力を込めるのだが双葉は止まらない。
「俺は、この町を出るよ」
しばらく経った後、ルキアは目覚めた。
義骸は修復され、ダメージを負った魂魄が回復したのである。
布団に寝かされていた彼女はうっすらと目を開けて、何度か瞬きを繰り返して視界にある風景を認識すると、ゆっくり辺りを見回す。
すぐ傍に双葉が座っていた。正座をして、わずかに顔を覗き込む姿勢で、ルキアと視線を合わせると穏やかに微笑む。
ずいぶん久しぶりな気がした。ルキアは気の抜けた声で呟く。
「双葉……ひどい顔だ」
「なんてこと言うんだよ」
「ふふ。すまないな。だが泣くな」
「別に、泣いてはないよ……」
「私は平気だ。なあ、もっと近くで顔を見せてくれ」
頷いた双葉は彼女に顔を寄せる。
妙に重い気がしたが、そっと上げた右手で頬に手を触れ、するりと撫でる。
多くを語らずに無言で見つめ合う。何があったかは覚えていた。それなりの時間を眠っていたのだろうとも理解している。だからこそ、双葉の目を見て感じるものがあり、彼をずいぶん困らせたのだと静かに悟った。
「辛かったか?」
「いや……あぁ、やっぱ、嘘言っても仕方ないよな。うん、辛かったっていうか寂しかった」
「そうだろう」
「ふっ、なんだよそれ」
目覚めただけで安堵している。少し休めば無事に起きると言われていたとはいえ、その時が来るまで片時も心が休まらなかった。
ようやくほっとして、肩の力が抜けた双葉は表情を緩めている。
「体は平気か?」
「ああ。眠り過ぎてだるいくらいだ」
「それだけ、時間が必要だったってことだろ」
「そうだな……二人は、無事か?」
「うん。まだ寝てるけどちゃんと目覚めるって」
言われてみれば確かに同じ部屋にウルルとひよ里が寝かされていた。状況から考えてまだ一度も目覚めていないのだろう。最初に目覚めたのがルキアだったのだ。
何日経ったかわからないが一人で待ち続けていたのか。
双葉の手を握ったルキアは、彼の力を借りて体を起こすと布団の上に座る。無理をするなとは言われたがその程度ならどうということはない。
「とりあえず、無事でよかった」
「……うん」
「お前のことだ。私たちを心配して碌に寝ていなかったんだろう。ひどい隈だ」
「まあ……なんか、色々考えちゃって」
「そうか」
「うん……」
視線を合わせていたものの、ともすれば双葉は視線を落として俯いてしまう。
言いたいことがありそうに見えた。しかし戸惑いか、もっと単純に疲れているのか、彼は何も言い出せずにいる。
ルキアが目覚めたばかりで気遣っているのもあるのだろう。
眠っていた間のことはわからない。知らなければいけない情報がきっとあるはず。しかし全ての優先順位を度外視して、まず知らなければいけないのは彼の気持ちなのではないか。
握ったままの手を放さず、わずかに力を入れて握り、ルキアが尋ねた。
「私なら平気だ。話してくれ」
やはり戸惑いはあったが、他ならぬ本人からそう言われたため、双葉は小さく頷く。
「たつきに、全部話したいと思うんだ。心配してくれてるし、幼馴染の一護は知っててあいつが知らないのはなんか……申し訳ない。俺の、家族みたいな人だから」
「そうか。無暗に明かすのは感心しないが、お前たちの関係性を考慮すれば致し方なしか」
「うん……」
「巻き込むことになるぞ。もしかすると危険が迫るかもしれない」
感情が揺らぐのが伝わる。だが意外なほどに些細な反応だった。
眠っている間の変化は見て取れた。やはり何かあったのだろうと思わずにはいられない。
「そうかもしれない……でもやっぱり、何も言えないままっていうのは嫌だから」
「ふぅ、わかった。まあなんとかなるだろう。心配するな、私も居る」
「それで、さ」
勢いで言ってしまわなければならない気がした。双葉は再びルキアの目を見て言う。
「俺は、あいつらと一緒に行こうって思ってる」
「……それは」
「特別な事情があったのに何も知らなかった。ルザールってやつのこともわからないままだ。それに今回みたいなことがあって、俺は守られるばっかりで、何もできてない。黙って見てろってみんなに言われて、本当に見てるだけなんだ」
溜め込んでいた想いなのだろう。一度吐き出せばすらすらと言葉が出てくる。
彼女が目覚めるまでずっと待っていたはずだ。
誰にも聞かせていない。ルキアに聞いてもらおうと思って待った。
「俺が人間なのか、
「……ああ、そうだな」
心当たりがあった。そのせいか、ルキアは強く言い返すことができない。
大事な人の危機に何もできない無念は痛いほど知っている。だからこそ強くなろうとした。自分にとっての大切な人が危機に見舞われた時に後悔しないように。それこそ今回のように、自分の命すら投げ出すつもりで助けたのはそうした経験があったからだった。
双葉はすでに覚悟を決めた目をしていた。
言葉だけでは止められないと知り、ルキアは小さく嘆息する。
「俺、
返事はしない。というよりできない。胸中は複雑で何を言えばいいかわからなかった。
それでもルキアは敢えて否定はせずに彼の体をぎゅっと抱きしめる。
病み上がりにこれくらいはいいだろう。そんな風に思ったのだ。