全部計画通りだ。
高校教師の虎杖悠仁は、職員用更衣室内に貼られたカレンダーに目をやる。月曜日が祝日なので明日から三連休。顧問を受け持つ陸上部の指導に参加している最中から、身体中が熱を帯び始めている事に気がついていた。薬で調整しているので、うまくいけば今夜か明日の午前中には発情期が始まる。
洗面台の水を勢いよく出して、火照り出した顔を洗う。悠仁は顔から水が滴ったまま、鏡に映る自分を眺めた。
数ヶ月に一度の事とはいえ、どうして自分だけこんな目に……、と時々考えてしまうが、今さら嘆いても仕方がない。悠仁は大きなため息をついて両頬を軽く叩き、柔らかいタオルを掴んで顔を埋めた。
教師も住める寮が隣接している高校に勤務出来て良かったと心底思っている。発情期で動けなくなる前に部屋に戻れるし、通勤時に襲われる心配をしなくていいのは嬉しい。万が一を考えて、満員電車には一度も乗った事がなかった。
悠仁はオメガ性を持った男性であった。
満十五歳になると受けるバース検査で、オメガであると発覚した悠仁は、春休みにバース科のある総合病院で診察を受けていた。この世界には男女の性別とは他の性が存在する。以前に比べると減少傾向にあるが、オメガ、ベータ、アルファのバース性だ。
圧倒的多数がベータ。オメガの出生率は低く、希少とされるアルファのさらに三分の一であり、番を持てないアルファも数多くいる。アルファは劣性遺伝のため、こういった時代の流れもあり、アルファ同士の婚姻がよしとされる傾向にある。
悠仁は、あらゆる検査の後に目眩がして、簡易ベッドのある多目的トイレで休んでいた。待合室の長椅子で休んでいてもよかったが、オメガである事が判明しているので、念のため鍵付きのトイレへ駆け込んだ。女子トイレの手洗い場が、トイレの入り口近くにあるらしく、女性の話し声が聞こえてくる。
『今日、男の子のオメガ来たわよ~。ホント、気の毒よね。私ベータで良かった』
『そんな事言ったら可哀想でしょ。なりたくてオメガになった訳じゃないんだから』
『だって、彼氏がオメガだったら、あり得ないし、無理無理無理。オメガってフェロモン撒き散らして、本当に迷惑極まりないったら』
『……言い方!んー、そりゃ、まぁね。でもオメガは大変なのよ。アルファはアルファで大変だし。ちょっと外来でそんな事言っちゃダメよ』
『言う訳ないでしょー。でも、私が何考えるかは自由。産休の穴埋めでバース科に異動なんて、ついてないなぁ……』
手を叩いて笑いながら、看護師達は去っていった。さっき外来で応対していた二人で間違いない。
心配な事があったら何でも聞いてね、って診察室では言ってたけど……。そっか、そうだよな……。迷惑極まりないオメガ……。優しい仮面の下にそんな本心があるとは。
大抵の奴らはほぼベータで、口々にオメガのことを蔑むような発言をしていた。今までは気にかけたこともなかったが、バース性が判明した後は息苦しかった。
オメガというだけで蔑まれ続ける人生。呪いに呪われた遠い未来のことまで想像してしまい、怖くてどうしようもない。
もう一度深呼吸してから、悠仁は引き戸を恐る恐る開いた。耳の奥では、さっきの言葉がリフレインしている。
───迷惑極まりないオメガ。
悠仁自身、オメガ性について調べあげ、生まれつきの体質は克服してきた。アルファやベータに比べるとオメガは小柄だと言われているが、服の上からでもわかるくらいに肉体は鍛え上げた。
悠仁の身体能力は人並み外れて優れている。公式記録ではないが、五十メートル走は三秒台。砲丸投げは野球のホームラン並みに投げられるのが自慢だ。小柄で華奢、可憐なオメガが多い中で、身体的特徴だけで悠仁をオメガだと疑う者はいなかった。
発情期に放出されるフェロモンは、アルファを狂わせる。誰かの人生を壊してしまう存在になってしまうかもしれない。それを避けるためにも抑制剤の常備は欠かせない。自分がオメガだと知って、少しずつ、色んな事を諦めていった。悠仁は一人で生きていく事を決意していた。
*****
「あ」
「伏黒ー。お前も今帰んのか」
「ええ、まぁ」
悠仁の受け持ったクラスには、アルファが三人いた。伏黒恵もそのうちの一人。教職員玄関前でバッタリ会った。ここを通らないと寮に帰れないルートだ。
「先生……、具合悪い?」
恵から、そう言われてギクリとする。発情期特有の匂いが漏れているのだろうか?先月から抑制剤を、今までよりも、さらに強い薬に変えたばかりなのに。
本当は、誰とも会わずに帰りたかったが、悠仁と恵は寮の部屋が隣同士。置いて走って帰る訳にもいかない。仕方なく並んで歩いているが、つい早足になってしまう。
「いや、具合悪いって訳じゃなくて、昨日の夜、ずっとゲームしててさ。寝不足っつーか、そんな感じ」
悠仁は、頬をポリポリ掻きながら語尾がどんどん小さくなる。嘘をつくのが苦手だが、昨夜は寝付けなくてゲームをしていたのは本当だ。
「先生がそんなんじゃ、ダメだろ。早く寝ろよ」
「だよなー。でも、毎日ログインしないと、ログインボーナスもらえねぇんだよ。でも、さすがに今日は早く寝るわ。じゃあな」
いつものように恵の背中をバンバン叩きながら話をして、しまったと思った。迂闊にアルファに触ってしまい、だんだんと体中に熱が伝わり、呼吸も苦しくなってくる。まずい。部屋の前に着き慌てて自室のドアノブに手をかける。
「先生……、もしかして……」
恵が何かを言いかける。
「ん?」
「いや、何でもねぇ。それじゃ」
「おう。じゃ、また火曜日にな!」
片手を上げてそう言った悠仁は、部屋にするりと消えていった。
恵は悠仁の身に何が起こったのかすぐにわかった。オメガ特有の鼻につくような甘い香りをほんの少し嗅いだだけで、くらくらと目眩を起こしそうになっていた。理性のあるうちに、恵は自分の部屋に逃げ込んだ。アルファ用の抑制剤を飲むと、ベッドに寝転んで両腕で顔を覆い、大きなため息をつく。連休は部屋に籠って読書すると決めた。
悠仁はペットボトルとゼリー飲料数本の封を順に開け、枕元に置く。発情期がピークに達すると手が震えてペットボトルすらまともに開けられなくなる。これまで一人で発情期に対応してきた悠仁なりの知恵だ。
ベッドに倒れ込むように横になり、クラスにいる三人のアルファを思い浮かべた。伏黒恵、釘崎野薔薇、……そして五条悟。
さすが、日本でトップクラスの高校だよなぁ。優秀な奴らのほとんどアルファだ。他のクラスにも何人かいる。最近じゃオメガに負けないくらい、アルファも珍しくなってきているが、よりによって俺が受け持ったクラスにアルファが三人って。
悠仁は五条悟に恋をしていた。
していた、というよりは、悠仁の無垢な魂が恋に落ちていたと言うが正解かもしれない。
会った瞬間にわかってしまった。教室にいた長身の圧倒的な覇気に包まれた男。他のアルファには感じた事のなかった、甘い香りに一瞬で心を奪われていた。初めての感情に、気持ちをどうにか自分でコントロールをしようとして戸惑った。
一回り年下の生徒に本気で恋心を抱くなんて、どうかしている。でも、これが本当の恋愛感情かどうかなんてわからない。俺の小さな恋心なんて、もうどうでもいいんだ。
五条家の嫡男で、長身イケメン、頭脳明晰で能力的に恵まれ、社会的地位が高く将来有望だ。アルファだからという理由を抜きにしても、悟単体でも魅力的な男である。
高校生の時に祖父が亡くなり、両親がいない天涯孤独でオメガで男の悠仁に出る幕はない。
昔ほどではないが、バース性による格差は未だ存在する。アルファに比べてやはりオメガは虐げられる側だという意識が強い。周りよりも、むしろ当人がそう感じてしまうようだ。
それに悠仁自身も男に産まれたからには、女性と付き合ってみたい願望も少しはあった。同じ学年で担任をしている東堂から、好みのタイプを聞かれた時に『ケツとたっぱがデカイやつ』と答えていたぐらいだ。壁に貼ってあるアイドルのポスターは東堂がくれた。
しかし、恋人に関してはすでに諦めの域に達していた。誰がこんな、男でありながら子供が産めるような自分を好いてくれるというのだろう、などと考え、また胸がツキリと痛んだ。
迷惑極まりないオメガ……、その言葉が今でも呪いのように悠仁の耳元で鳴り響いている。
*****
耐えに耐えてやっと月曜日。強力な抑制剤の多用により悠仁の発情期は短期間で終わる。目眩、頭痛と吐き気の副作用はあるものの、発情期が長引くよりマシだ。
土曜日からずっと部屋に引きこもっていたので、外の空気を吸いたくなり、高校近くにあるコンビニに向かう。
「あっ!ゆーじだ!こんな所で何してんの?」
大きな声で話しかけられ振り返ると、おつかれサマンサーと悟が駆け寄ってきた。クリームとティラミスにマカロン、チョコスプレーまで振ったマシマシのクレープを手に持っている。
「何って……、買い物」
「ふーん」
悟は、チラッと悠仁が持っているコンビニの袋に目をやる。
「ね、悠仁。今日は暇?」
「ひ……、ま、だけど。なんで?っつーか、先生って呼べって」
「暇なら僕と一緒に映画観ようよ」
「……観ねぇよ」
皆に言うと驚かれるが、悠仁は一度も映画館で映画を観に行った事はなかった。あの暗くて狭く閉鎖的な空間で、万が一フェロモンが漏れてしまわないか、どうしても気になってしまう。もし突発的に発情期がきてしまったらどうしようと不安しかないからだ。
「なんか顔色悪いからさ、少し気分転換したほうが体にいいって」
顔色が悪いと言われて、悠仁は口元を手で押さえる。外出するには、まだ早かっただろうか。自分では大丈夫と思っていても、そう見えるって事だよな……。とりあえず心の中で気合いを入れた。
「……そんなんじゃ、ねぇし。じゃあな」
早く部屋に戻ろう。こんな時にどんな顔をしたらいいか、わかっている。
先生らしく明るい笑顔を貼り付けて、手を振り踵を返した瞬間、思い切り腕を捕まれてよろける。
「わっ!っぶねぇな。なんだよ、何か用か」
不自然にならないように、さりげなく腕をはらい悟から一定の距離をとる。
「今から、先生の部屋に行ってもいい?」
「……えっ?」
俺は笑顔から一転、もしかしたら険しい顔になっているかもしれない。
「あ、え?なんで?」
「悠仁にちょっと相談したいことがあって……。いい?」
……相談。
俺に、悟が相談?
あー、教室で話せなくて、何でも出来る悟が俺に相談ってことは相当すごいことか?担任冥利につきるってやつだな……!
「はいはい。いいよ、全然オッケー。部屋に来いよ」
最初から家で映画を観るつもりだったらしい悟は、バッグにDVDが沢山入っていた。映画といえば、お菓子と炭酸飲料が必須アイテムとうるさい。
仕方がないのでコンビニから少し歩いた所にある小規模なスーパーで買い物をする事にした。閉店時間が夜中で、入ってすぐのところに惣菜や弁当のお買い得品が並んでいる。独り者には便利な店だ。
甘党の悟は、気に入ったお菓子を何でもかんでもカゴに入れる。デコピンして、こんなに食えないだろと注意し、棚に戻しながら店内を回る。
あぁ、こういうのちょっと楽しいな……、なんて少しだけ思ってしまう。
中学生の頃はまだ発情期がきていなかったが、同級生とは距離を置いて過ごしていた。性に目覚めた年頃の男子は口々に「オメガとヤってみてぇ」と言っていた。誰もが悠仁がオメガであると知らないが故の発言だ。 自分も性的暴行の対象になりうると判り、悠仁は考えただけでぞっとした。
学校では、仲間達とはしゃいで喋っていたが、個人的に友人関係を築く事はほとんどなかった。遊びに誘われても、じぃちゃんが具合が悪いと言っておけば丸く収まっていた。
もし、オメガでなかったら、こんな風に友達と気軽に買い物をしたり、カラオケに行ったり、ゲームセンターで遊んだりしていたのだろうか、と悠仁は買い物カートを押しながらぼんやり考えた。全部やりたくても出来なかった事ばかりだ。
「さっきも言った通り、色んな映画が揃ってるからドキドキハラハラワックワック、泣けて笑えて胸クソ悪くなれるよ。悠仁はどれがいい?何見たい?」
メロンソーダを飲んでいた悟は、悠仁のベッドに腰掛け、当然のように隣を促す。悟が差し出したバッグの中を覗きこみ、入っているDVDを選ぶ。
「ん……、何でもいいけど……。ミミズ人間かな。これマジで超つまんねぇけど、ミミズ人間2はちょっとマシだよな」
「はいはい。これね」
DVDがレコーダーに吸い込まれていった。二人でテレビ画面をただ見つめる。
映画が始まる前に流れるコマーシャルは、一般的に「シネアド」というんだよ、とテーブルに広げたお菓子を食べながら悟は言った。
「へー、そうなんだ。お前、何でも知ってんなぁ」
「ねぇ、ゆーじ。……あのポスター何?」
悟が壁を指差した。
「ん?あれか、高田ちゃん」
「高田ちゃん?誰それ」
「なんだ、知らねぇの?東堂先生からもらったんだ。詳しくねぇけど、人気のアイドルなんだって。あれ、めちゃくちゃ貴重なポスターらしいぞ。プレミアムレア。今度、握手会に誘われたけど、俺、人いっぱいいる所苦手だしなぁ」
「……こういう子が好きなの?」
「好きっつーか、東堂先生から好みのタイプ聞かれてさぁ。タッパとケツがデカイのって言ったら、このポスターくれたって訳よ」
悟はタッパとケツ……、と小さく呟いていた。
コマーシャルが終わり映画の本編が始まった。ミミズ人間、ほんと、この映画なんなんだよ……。見る度に意味がわからない。これ見た事あったから、他のにすれば良かったかなぁ。
「ところで、悟。相談って何だ?」
悠仁はポテトチップスをつまみながら、悟に聞いた。
「教えてほしい事があって」
「おー、いいねぇ、そういうの。俺がわかる事だったら何でも教えてやるぞ」
「ある人の事を考えると、切なくなったり、寂しくなったり。誰かと仲良くしていると嫌だし、色々考えすぎちゃって、気持ちが湧き上がりすぎて胸が苦しい」
悟の真剣な声が聞こえる。
なんだ。
……なんだ。悟も好きなやつがいるのか。すとんと落ちてきた事実に自嘲気味に笑ってしまう。
悠仁が想いを伝える事はないし、想いが届く事もありえないのだから、悟に好きなやつがいる事など、たいして関係ない。
「……そりゃ、あれだ。レンアイ的なやつだな。告ってみりゃいーじゃん。お前から言われて喜ばないやつなんていねーだろ」
何でもないように言うのに必死で、悟の顔を見られない。
つらい。苦しい。
気付かれないように、そっと息を詰める。勘弁してくれと思った。そして、自分の気持ちも改めてはっきりとわかってしまった。
こんな思いをこの先もしていかなくてはいけないのかと、眩暈がしそうだった。近い将来、当たり前のように彼女が出来る。そうしたら報告にくるだろう。その度に相談されようものなら、たまったもんじゃない。
何度もこんな思いにさせられるのか。
あー、映画、ミミズ人間にしといてよかった。この状況で恋愛映画を二人で見るとか最悪だ。最悪オブ最悪。このクソつまらない映画に集中するんだ……。
集中、集中……。あーー、ダメだ、全然集中できねぇ!なんで、この映画こんなにクソつまんねぇんだよ……!
「ねぇ、ゆーじ」
「悠仁じゃねぇだろ。先生って呼べ、先生って」
映画に集中するんだ、俺!
「……。先生……、好き」
「んだよ……、先生って呼べんじゃねーかよ……。……は?」
悟の言葉が悠仁の脳内に入ってくるまで何秒もかかった。聞き間違いでなければ、好きだと言われた気がする。
「なんか、いい匂いするし」
「……!」
悠仁は顔を青ざめさせて、パーカーの袖をスンと匂いをかいだ。自分ではフェロモンがどんな匂いなのかわからないのが、もどかしい。なんてこった。生徒を……、生徒を誘惑してしまう自分の体に呆れてしまう。
「そんなの、気のせいだ」
絞り出した声が掠れる。
「気のせいなんかじゃない」
「フェロモンにあてられたってやつで、俺を好きとか勘違いだ。絶対好きなんじゃねぇよ。お前にまで迷惑かけて悪かったな。これでも一応ガッツリ薬飲んでるんだけどな」
「悠仁。違うって、そうじゃなくて」
「お前……、もう帰れよ」
アルファのお前がオメガの俺に何の用だと、まるでそう言っているような、やけに無感情な悠仁の声だった。表情からも声からも全く感情が読み取れなくて、悟の焦りだけが増幅していく。
*****
「あのー、先生。俺、嫌でもわかっちゃったんですけど」
「うるせぇ」
「ちゃんと話し合ったらいいんじゃないですか?」
寮に帰るのに並んで歩いていた恵はチラリと隣の悠仁に目をやる。
「そんなんじゃねぇし」
「まぁ、先生がそれでいいなら……」
悠仁は、部屋で告白をされてから悟を極力二人きりになるのを避けて過ごしていた。
教室では、見えていないかのように全く目を合わせなかったが、ジリジリとした視線が突き刺さる。どうしても用事がある時は他に人がいる時のみ、声をかける。それでも、逃げ切れない時は恵や野薔薇に声をかけて二人きりになるのを避ける。悠仁は悟に全く隙を見せなかった。
「一応、俺もアルファなんですけど。俺の事、信用しすぎじゃないですか?」
「伏黒と俺が、何かなるとか、ないないないない」
悠仁は一瞬キョトンとした顔をしたが、手を振って大袈裟に否定をしながら笑う。恵は静かにため息をついた。
ふと恵を見上げると、その視線が後ろに向いていた。離れた場所に悟と女子生徒の姿が見える。寮に向かう途中のごみ捨て場は、人目につかない形状になっていて、告白する場所として利用されることもある。
「先生、あれ、いいのかよ」
恵は顎でしゃくって聞いてきた。指定靴のラインの色が違うから他学年女子だ。髪が長くて華奢で可愛い子だなと思って、少し胸が苦しくなる。二人は絵に描いたような美男美女だ。そういえば、あの子オメガだった気がする。保健室で何度かすれ違った事があり、硝子とそんな話をしていた記憶がある。
悟は元々すごくモテるので、こういうシーンも幾度となく目撃している。慣れたことだから、恵にコクンと頷く。
「邪魔しちゃいけないから、あっちから帰ろうぜ」
反対側から回れば、彼らの傍を通らずに帰れる。いつもと違う道に先に進むと、恵も分かったと言って返事をしてくれた。
「まぁ、あれはいいとして。先生、もし困った事があった時に誰もいなかったら、俺でも釘崎でも呼んでくださいよ」
「え?なんだそりゃ?物騒な予言やめてくれよー。怖ぇな。俺がそんなピンチになる事あるか?でも、頼もしいなー。先生、嬉しいぞ!ありがとな、伏黒!」
ぶっきらぼうだけど、恵は意外と優しい。自分の事を心配してくれるなんていい生徒だ。恵と野薔薇はアルファだけど、フェロモンの匂いもしないし、アルファだと意識しなくて接しられるから気が楽だ。同じアルファの悟とは一体何が違うのだろう?
*****
少し体調が悪い。その自覚はあった。
夏休みが終わり涼しくなりかけた季節。ちょうど陸上部の指導の最中だった。新人戦の大会を控えいろいろと準備が大変な時期を過ごしていた。だから少し調子が崩れたのだと、悠仁は思っていた。
「こんなに強い薬飲んで、今後どうなっても知らないわよ。これ、日本で、まだ未承認の薬でしょ」
高校の養護教諭である家入硝子は、ため息をつきながら、悠仁が寝ているベッド脇に置いてある丸椅子に腰かけた。
悠仁は、インターネットで海外輸入品を入手し、さらに強い薬を服用していた。職員会議の最中に、急激な頭痛に襲われ保健室へ駆け込んだ。
「誰か……、番になってくれる人探してみたら?いつまでも薬に頼ってばかりいられないでしょ。副作用もあるんだし、体がもたないわ」
硝子もオメガで、悠仁の良き相談相手だ。今年になり、相手が誰かは聞いていないが番が出来たそうだ。発情期のフェロモンの対象が番だけになるので、抑制剤を多用する事がなくなる。すこぶる調子が良いらしい。
「……俺の都合で誰かを巻き込む訳にいかねぇし」
「気持ちはわからなくもないけど、少しは自分の体を大事にしなきゃ」
円満な同意の上で男性オメガがアルファと番えるわけではないことは想像に難くない。男性アルファ、女性アルファ共に、女性オメガとの番を好む。
悠仁にとって番というものは、非常に邪魔なものであるという意識が強い。さらに運命の番などというのは都市伝説レベルだ。
両親もいない、祖父が亡くなった今となっては、孫を見せたいなどという願望は全くない。むしろオメガ性が子供に遺伝してしまったら、どうしようという不安が大きい。
オメガから番になる事は出来ない。どれだけ自分が想っても……、番になるのも、解消するのも決めるのはアルファ。何の権利もなく番になれないオメガは、生きている価値なんてあるのだろうか……?
体に妙な違和感を感じ始めたのは、しばらくしてからだった。
眩暈や動悸、倦怠感、微熱などが自覚症状として現れた。まだ発情期には早いが、海外製の未承認の薬でサイクルがおかしくなったのかもしれない。今回の薬も合わなかったかと少し心配になる。それでも明日から三連休だから、もし発情期がきても問題ない。動けなくなる前に、コンビニに飲み物などを買い出し向かう。
目の前がグラリと歪み、立っていられなくなり最寄りの公園のベンチに腰掛ける。
どうしよう。誰かに連絡しなければ、ああ、伏黒に連絡しよう。この間連絡先聞いたんだっけ。携帯で伏黒のメモリーを立ち上げた瞬間、ガッチリと腕を掴まれた。
「お兄さん、調子悪そうだね」
「……っ!」
振り返ると見知らぬ小太りの男が後ろに立っていた。近寄られただけで、この中年親父がアルファだとわかった。
「はっ、離せ……!」
「何言ってるの、君。そんなにフェロモン撒き散らして、俺を誘ってるんでしょ。オメガちゃん」
「うるせぇ!さ、誘ってねぇし!キメェんだよ!」
悠仁は渾身の力を振り絞り、手を払いのけた。
「へぇ……、オメガのくせに俺にそんな口聞いていいのかな。そんな態度なら項噛んじゃうよ?ほら、こっち来いって言ってんだよ!」
血相を変えた中年から、さっきよりも力強く腕を捕まれ、体が、足が動かない。蛇に睨まれた蛙もこんな感じなのだろうか。一瞬にして、ぞわっと恐怖が背を這い上がる。距離を取らなくては。何のために体を鍛えていたんだ!しっかりしろ!!俺!
「よし、あそこのトイレに行こう。すぐに気持ち良くしてやるよ」
「やめろ!離せっ!」
ジタバタ動いても、調子の悪さが勝ってしまい、いつもの半分の力も出ない。中年は暴れる悠仁を後ろから抱え込み、ずるずると引き摺りながら、公衆トイレへと向かう。
「テメェ、やめろっつってんだろ!」
「おとなしくしろ!」
「……ん、……んんー!!」
平手で殴られたうえに、口を押さえられ助けを求める事も出来なくなった。トイレの入り口まで近づいてきてしまい、悠仁は少し諦めはじめた。騒いだりしないで、おとなしく目を閉じてたらそのうち終わる。……だけど、想像するだけで身の毛がよだつ。
あー、でも項噛まれたら嫌だな……。こんなオッサンと番とかホント冗談じゃない。死んだほうがマシだ。
望まない形で番にさせられたオメガの自害率は高い。オメガをただの性的な玩具として、人間として扱わないアルファも一定数いるのも事実。男性オメガは特にそうだ。番になったとしても婚姻届までは出さない事も少なくない。
バッグに護身用のナイフでも入れときゃ、こいつを殺せたのに。つうか、殺人犯になるか自殺かなんて究極の選択すぎる。自暴自棄になって犯罪者の仲間入りをする前に死んだ方がいいんじゃないのか。
こんな事になるんだったら、あの時俺も好きだって言っとけばよかったなぁ……。
おとなしくなった悠仁の口から手が離れ、肩にグッと手をかけられ押さえつけられた。覚悟を決めてギュっと目を閉じる。ふいに悟の顔が浮かんできて、悲しくなった。明日学校で、どんな顔をして会ったらいいかわかんないよ……。
「最後に会いたかったなぁ……」
小さな呟きは澄んだ空気に溶け込むようにして消えた。
悠仁はふと押さえつけられた体が軽くなった気がして、恐る恐る目を開けた。
「折られたくなかったら、その汚い手を離せよ。僕の先生に何か用?」
悟だった。腕を信じられない方向に捻りあげている。中年は悟の怒りを孕んだ目を真正面から見て、身体を硬直させていた。アルファはより強いアルファに本能的に従う。
「いててててっ!なんだ、連れがいるのかよ。ったく、オメガ臭撒き散らしてんじゃねーよ!迷惑なんだよ。チッ!」
「テメェ、もう一回言ってみろ」
悟は無表情で、襟元を両手で掴み、絞めながらゆっくりと体を持ち上げる。中年は喋ることすらできない。
「……っく、くる……、し!」
「二度と無駄口叩けないようにしてやる」
中年は宙に浮いた足をバタつかせ、もがきながら苦しそうに悟の腕を何度も叩く。顔色がドンドン悪くなり、口元から泡が出始めていた。
「っつ!……、く、……しい!」
まずい、このままじゃ、たぶん死ぬ。
「悟!……やめろっ!もういいから、離せっ!」
「悠仁、何言ってんの?こいつ死ななきゃわかんないよ」
「っく!る、し……!……ゲホッ!」
そう言って悟はさらに腕に力をこめる。中年親父の顔は苦しそうに白くなりつつある。悠仁はその腕に必死にしがみついて説得した。
「たとえ死んでよくても、人を殺すのは絶対ダメだ!」
「うるさい!こんな奴、さっさと死ねばいいんだよ!」
悟は、腕にしがみついた悠仁を中年ごと、振り回して突き飛ばした。
「うるさいのはどっちだよ!やめなかったらお前なんか嫌いになるからな!アルファの馬鹿!お前ら馬鹿だ!嫌い!大嫌い!」
地面に叩きつけられ、滑った体が擦れて痛かったが、力の限り思い切り叫ぶ。自分でも何を言っているのかわからなくなった。
倒れて動けなくなっている中年の首を、さらに締め上げていた悟の動きが止まる。舌打ちをして腹部を思い切り蹴った。
「……悠仁に感謝しろよ。次、目の前に現れたら必ず殺す」
中年は尻餅をついた状態で後退り、一目散に公園から逃げていった。
「悟……、お前、ただでさえ超アルファ!って感じなんだから、ちょっとは手加減しろよ。いってぇな……」
擦れた右半身が痛い。あー、血も出てるじゃねぇか。
「ゆーじ、ごめんっ!大丈夫?痛いところない?何もされてない?」
「全身いてぇわ……。誰のせいだよ」
悟は駆け寄ってきて悠仁を抱え起こし力強く抱きしめた。悠仁は夢中でその体にしがみつく。
その瞬間、体中が燃えて蕩けていくような感覚があり、うまく体に力の入らない。これはまずい。発情期の初期症状だ。悠仁の体から、オメガのフェロモンが溢れ出て、公園に甘く漂った。
「お……、前、に、げ……、ろ!」
「そんな事するわけないだろ!悠仁っ!薬どこ!」
「……、リュックの……、ポーチ……、の中。っはぁ!ふ、しぐ、ろ……、伏黒、呼んで……!」
悟は息を切らして恵の名前を呼ぶ悠仁に眉を潜めたが、リュックの中からポーチを見つけると、抑制剤を取り出した。
「ほら、早く!飲んでっ!」
悠仁の口に薬を押し込んだけど、飲み物がないので上手く飲み込めない。何度も口元からこぼれ落ちそうになる。悟は自動販売機まで飲み物を買いに走ろうかと一瞬考えたが、さっきの事態を考えるとここに悠仁を置いていく事は危険だ。
悟は迷うことなく薬を口に含み、口付けながら舌で押し込んだ。薬がお互いの口の中を行き来するので、頭を抱え込み角度を変えると悠仁はコクコクと唾液と共に飲み込んだ。
上気した悠仁からは甘い芳醇な香りがさらに強くなり、悟は項に噛みつきたくなる欲求をありったけの自制心で抑え、自分の腕に噛みついた。
「くそっ」
着ていたジャケットを脱ぎ、悠仁の頭の上から被せると、地面に散らばった悠仁の持ち物を拾い、抱えて寮まで連れて帰る。
悠仁のリュックから部屋の鍵を取り出し、部屋の中に入る。うなされている悠仁をベッドに寝かせると、その枕元に薬の入ったポーチと、途中で買ったペットボトルを置いた。
「ゆーじ……」
ジャケットの上から悠仁の頭をなでる。部屋の外から鍵をかけると悟は大きなため息をついて、しゃがみこんで廊下にうずくまった。
自分で噛みついた腕からは血が流れ、肘をつたって床に落ちる。悟は拳を床に思い切り叩きつけた。
*****
カーテンが開いたままの窓から星明かりが見えた。月が出ていないので、星だけが輝いている夜。
無機質な音を立てて鍵が開いた。部屋のドアから長身の影が、当たり前のように中へ進み近づいてくる。悟だった。
公園で中年親父から襲われているところを悟から助けられた。気が付いたら自分のベッドで寝ていて、翌日硝子が見舞いに来てくれた。悟から様子を見てきてくれと連絡がいったらしい。
硝子は延々と文句を言いながら、怪我の手当てや悠仁の身の回りの世話を甲斐甲斐しくして帰っていった。
悠仁は目だけ動かして悟の様子を眺める。もしかしたら都合のいい夢なのかとも思ってしまう。
鍵……、一つ見当たらないと思ってたら、悟だったのか……。渡した覚えはないがいつの間に。
悟はベッドに向かう途中、ふと、壁のポスターに目をやる。隣には悟から借りたジャケットが吊るされていた。何をするかと思えば、ポスターを思い切り破いて剥がし、丸めて握り潰し棒状の固まりにして、ゴミ箱に投げ入れた。
あっ……!え?
呆気にとられていると、悟は悠仁が横になっているベッドの枕元に腰掛けた。手の甲でするりと頬を撫でて、熱でもはかるように額に手をやる。
「お前……、ポスター……。人の部屋で何好き勝手やってんだよ。俺が東堂先生に怒られるじゃねぇか。それにこの部屋の鍵……、返せよ」
「やだ」
「あのなー」
「もう具合いいの?」
心配そうな顔で、悟は悠仁の顔を覗きこんで頬を優しい手付きで触れた。
「あ、うん。色々迷惑かけちまって悪かったな」
「迷惑だなんて全然思ってないよ」
悟は伏せ目がちに呟いた。ふと、悠仁の視界に悟の腕の傷が目に止まり、ガバッと起き上がる。
「おい、腕を怪我してるじゃねぇか!なんだこれ!あのオッサンか?あいつにやられたのか?めちゃくちゃ歯形ついてる……!」
「あぁ、これ?自分で噛んだ」
悟は、忘れてたとでも言うように、自分の腕を眺める。
「はあぁぁぁぁ?自分で?こんなに思い切り、普通は噛まねぇだろ?本当に何やってんだよ!」
ひとしきり大騒ぎした後で、悠仁はハッとした。悟は誰かの項を噛もうとしたのではないかと、気がついてしまった。
え?誰の項?この間、告白されていたオメガの美人女子か?ええ?腕?え?どこ噛んでんだ?
「お前、噛む場所を間違えてるぞ!ちゃんと項を噛まないと番になれないって知らねぇのか?ちゃんと、保健体育で習っただろ!テストに出るやつだ!」
「やだなぁ、僕だって項を噛む事くらい知ってるって」
「だったら、なんで……」
悟なら誰とでも番になれるだろ、悠仁は続けて言った。悟は薄く笑う。
「ねぇ、ゆーじ。僕は身体だけ手に入れたらいいと思ってないの。心も欲しいし、全部欲しいの」
そう言って、悠仁の胸をトントンと軽く叩いた。
腕の噛み跡は、自分に向けられたものだとわかり、悠仁は自分の顔をボッと赤くなるのがわかった。
「え?……何?お前、俺の事好きなの?」
「だから、前からそう言ってるじゃん。誰かのものになっちゃうんじゃないかって、ずっと心配で……。悠仁は僕の事好きじゃないかもしれないけど……」
目を伏せながら寂しそうに拗ねたイントネーションで言う。
「悟……」
悟ならいいと悠仁は思う。触れられるのも、それ以上も嫌じゃないし嬉しい。
ただ、フェロモンの勢いにやられる形でこうなってしまったことを、悟が後悔しなければいいのだけど。頭の片隅で自分がオメガじゃなければ愛されないかもしれないと考えてしまう。
「そのまま動くなよ」
「ん?なんで?」
「いいから、あっち向いて振り返るな」
ベッドの枕元に腰かけていた悟は不思議そうな顔をして、言われた通りに壁のポスターが貼ってあった場所を眺める。
「……っ!」
悠仁は悟を後ろから抱き締めた。借りていたジャケットよりも、もっと、ずっとずっといい匂いで、くっついているだけで幸せな気分だ。
ああ、やっぱり悟が俺の『運命』なのかな。そうだったら、いいのに。
広い背中に顔を擦り付け、深呼吸をした。
「悟……、ごめん」
「どうして?なんで悠仁が謝るの?」
悠仁は恥ずかしくて顔を上げられなかったが、肩越しに悟が振り返ったのが声でわかった。
「この間は、助けてくれてありがとな。感謝してる。それなのに、……ひどい事を言って……、ごめん」
悠仁はウエストに回した腕に少しだけ力をこめた。
「……ありがとう」
好きだ。
伝えられない言葉は心の中で言った。
「許してくれ」
悟はクルリと向きを変え、悠仁の肩を押して、ベッドに身体を押し倒す。そのまま腕をベッドにグイと押し付けた。
「あのさぁ……、ゆーじ。他の奴にも、こんな事するなよ」
「へ?し、ねぇよ?」
上から見下ろされた悟から、意外な事を言われて、悠仁はキョトンと目を丸くした。
「恵にも」
「なんで伏黒?」
「悠仁さぁ、恵の事好きなの?」
両手の指に指を絡めてきた悟は、苦しそうな顔で問いかける。
「え?んー、まぁ?そうなるのか?」
好きか嫌いかで聞かれたら、恵は受け持ったクラスの生徒だし、嫌いな訳はない。かといって、特別好きかと聞かれると微妙なところではある。普通。普通に好き。俺の生徒だ。
「アルファは嫌い?」
「はぁ?アルファ?別に意識した事ねぇなぁ。っつーか、お前これ何の質問だよ。どうした?何か変だぞ」
悠仁が悟の瞳を覗きこむと、眉を寄せながら震えているのが、絡み合った指をつたってわかった。
「……アルファの僕の事は、嫌い?」
表情は痛々しくて、悠仁はこの間の自分の失言を悔いた。いつもの飄々とした悟らしさがなく、見ているこっちも辛くなる。こんな質問をさせてしまうなんて、本当に俺って教師失格だな……。
「アルファとかオメガとか関係なく、五条悟は五条悟で、俺は俺だ」
悠仁がオメガ性で悩みがあるように、アルファ性の悟も知らない所で悩みがあるのかもしれない。悟に言い聞かせているようで、悠仁自身に向けた言葉だ。
『迷惑極まりないオメガ』の言葉に囚われ続けていたけど、自分自身から目をそらしても何も解決しなかった。自分の気持ちに嘘をつくのは難しい。
オメガは他人から受け入れられないと思い込んでいたが、それ以前に自分自身がオメガを受け入れていなかったのだ。そして、オメガ性の前に『虎杖悠仁』がどうなのかが大事だという事に気がついた。
「お前の事は、……嫌いじゃないよ」
……むしろ好きだ、と続ける前に悟からきつく抱きしめられた。
「良かったぁ……」
安堵の声と共に、悠仁の体に悟の体重がのしかかった。重いのに気持ちが良くて、ずっとこのままでいたいと思う。
あー、ホントこいつ可愛いなぁ……。
悠仁も背中に両手を回して抱きしめると、ピクリと悟の体が固まったのがわかった。
「あのさぁ、やっぱり悟でもオメガのフェロモンであてられたりすんのか?」
「んー、まぁ、そりゃ、悠仁だし?」
一般的なオメガに、と聞いたつもりだったけど、まぁいいか。
「まじかー、やべぇな。俺でも可愛く見えたりする?」
悠仁は頬に両手の人差し指をあてて、わざと可愛いポーズをする。
「するする」
「そっか。結構アルファも大変なんだなぁ。俺が可愛いとか末期症状だろ」
悠仁は嬉しそうにフッと笑った。
「じゃあさ、悠仁はアルファの僕の事かっこよく見えたりする?」
「えっ?」
悠仁は驚いて顔を上げると、至近距離で急に問われてドキマギする。耳まで赤くなったのが自分でもわかる。
「あっ、えっと……。かっこよく……、見えたり……、するよ」
「ほんと?良かったぁ。あーーー!そうだ、忘れてた!」
「うっるせぇな、耳元で叫ぶなよ」
「悠仁!ちょっと手を貸して」
そう言うと、悠仁の手を取り悟のズボンの中に突っ込んだ。
「お、まえ!何やってんだよ……!」
「だってさぁ、悠仁、ケツとタッパがデカイのが好きなんでしょ?タッパはクリアだけど、僕のケツはどうなのかなーって思って」
脂肪がなく薄く筋肉質だが、若いだけあって吸い付くようなしっとりとした手触りで、ずっと触っていたくなる。スリスリと撫でると、どう?どう?と聞いてくる。
真っ直ぐに目を見つめられて、思わず笑ってしまった。そういうことじゃねぇんだけどな。ズボンから手を抜き、今度は悠仁が悟の肩を押し、身体が倒れたところで下半身に跨る。
「あのなぁ……」
「ん?」
「……お前バッカじゃねぇの」
悟は困ったように俺を見上げていた。
「俺は大学卒業して教職に就いてから六年ここに住んでる」
「……ん?」
「誰かを部屋に入れたのも、この間、悟がDVDを見に来た時が初めてだ。昨日、家入先生が見舞いに来たけど、番がいるオメガだからノーカン」
「そうなの?」
「このベッドは、俺以外は上がったことはない。お前、あの時、何にも考えないで勝手に座ってたけどな」
「……?」
放心した様子で悟が悠仁を見上げてきて、目が合った。悠仁は体を倒して、悟の頬に自分の頬を擦り合わせた。もう少し横にずれたら、口の端と端が合わさる距離だ。
「……ケツも合格だ」
悟に触れるのは気持ちがいい。声も、吐息も、全部。触れられたいし、触れてみたい。首に腕を回して抱きつくと、優しく抱きしめられた。
「ねぇ、ゆーじ……」
「なに?」
「ここ、予約したい。……今じゃなくて、いい。好きになってもらえるように頑張るから……」
寂しそうに悟はそう言うと、悠仁の首すじにキスを落とした。
「俺……、嫌いじゃないよ……」
頑張れ、もっと頑張れ!俺!
悠仁は深呼吸して、今持っているありったけの勇気を固めた。
「その、……俺、悟の事が、好き……、だから……」
予約しても良い……、最後は聞こえるか聞こえないかわからない程、尻すぼみになっていった。 悠仁の一世一代の告白に悟の体はフリーズしている。
「……良いの?」
「ん……」
「ほんとに?」
「っだ~、から!いいっつってんだろ!何回も聞くんじゃねぇ!しつこい!」
コロコロ変わる悟の表情が可笑しくて、笑いながら、広い胸板に顔を押し当てた。グリグリと顔を押し当て続けていると、体を押されて、ぐるりと体勢が変わり、また悠仁が下になった。
「悠仁」
どこか熱っぽい悟の声が、悠仁を呼んだ。
「キスしたい」
悠仁はゆっくりと悟を見上げる。
「……俺も」
悠仁は悟の首に腕を回し、ゆっくり目を閉じると、すぐに唇が塞がれる。少し離れると顔の角度を変えながら、より深く、深く口付けられた。
ふぁぁ、と小さな声が漏れ出て恥ずかしくなる。手から力が抜けて、悟のシャツを必死に掴んだ。
キスが初めてなうえに、好きな人とキスをするのがこんなに心臓に悪いとは思わなかった。ドキドキが止まらないうえに、少しだけ体が震えた。
他の人とキスをした事がないから、比べる事は出来ないけど、多分悟はキスが上手いと思う。だって、唇と唇を合わせるだけで、こんなに気持ちが良いとかあるのだろうか?何か凄いテクニックでも持っているに違いない。
今までに俺以外ともキスした事あるのかなぁ、なんて小さな嫉妬が芽生えてきて、胸がツキリと痛んだ。
「悠仁、他のこと考えてたでしょ」
「他、か、んがえて、ないよ……。お前の事しか、考えてない」
悟は言葉が出てこなくて、そのまま悠仁の首元に顔を埋めていた。
「……」
「ど……、した?」
「勘違いしないでほしい事あって」
「……」
「そういえば僕、悠仁に言ってなかったなって思って」
勘違い……、何だろう何だろう。
番になりたいだけで別に好きな訳じゃない。勘違いするな。アルファとオメガだからこうなった。勘違いするな……、とか?
そう思うと胸に冷たい物が流れ、手の平に汗が滲んで、体温が上がる。
悟は顔の横に両肘を突くと、悠仁を見つめた。
「僕は『オメガ』が好きなんじゃなくて、『虎杖悠仁』が好きなの。あ、もちろん『オメガの虎杖悠仁』も好きだよ。だから、僕と付き合って下さい」
「……」
「あのー……」
「……」
「もしもーし」
「……」
「虎杖センセー?」
「……」
こんな時だけ先生って呼ぶな。
「ゆーじ?」
「……」
悠仁は目を瞑り、耐えかねたように涙をこぼした。悟は相変わらず困ったように見下ろしている。
「ええと。泣くほど嫌デシタカ」
何で語尾がカタコトなんだよ。
「……う」
「ん?」
「ち……、がう。……嬉しくて」
キュっと胸が苦しくなって、悠仁は自分から悟の首に腕を回す。
「僕と付き合ってくれる?」
「ん」
「大好き」
「俺も……、好きだ」
思いっきり抱き締められて、骨が軋む音がする。
「ばか、いてぇ……」
「アハハ、ごめん。嬉しくて、つい……。そうだ。今度、一緒に映画館に行こうよ。一回も行った事ないんだよね。だから、いつもオウチ映画してるんだ。あの暗闇でオメガの子がいたら、どうしようとか考えちゃってさ」
「……そう、なのか?」
「そうだよ。僕、水族館もスーパー銭湯も、ゲームセンターすら行った事ないんだよ。スーパー銭湯でお風呂上がりにソフトクリーム食べてみたいなぁって、ずっと思ってた」
日常生活で我慢しているのはオメガのほうばかりと思っていたので、意外な告白に驚く。アルファは何でも恵まれていて、悩みもなくてずるいって思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。
いつか行ってみたい。
諦めていたいろんな事を二人でやってみたい。きっと、二人でなら大丈夫。
「映画館のキャラメルポップコーンが美味しいんだって!映画館にカップルシートって個室があるらしいけど、一人で行って一人でキャラメルポップコーン食べて、一人で映画観てたら可哀想すぎるでしょ。僕、せっかくグッドルッキングガイなのに」
「自分で言うのかよ」
悠仁は笑いながら、こっそり涙を拭ったが悟には気付かれていたようで、目元にキスをされる。
オメガに生まれた自分が、こんな幸せに泣ける日がくるとは思わなかった。
星月夜一話 end.
二話に続きます