「本当に俺は見たんだ。この目ではっきりとな」
そう豪語する友人の語り口はこうだ。
村の近くにある月桂樹の森の奥、そこには小さな湖があり、一本の大樹が湖の中から聳え立っている。
友人であるラトン・クミュはその場所を朝の散歩中に見つけたのだが、彼の目を惹いたのはもっと別のものだった。
なんとその湖に立つ大樹の木陰で、きめ細やかな金糸の髪を手櫛でとかしながら水浴びをする女の姿を見たのだ。
彫刻の様に美しい曲線を有するくびれと、ハリがある形の良い乳房を持つ裸体の女の姿を見ていたラトンが気配を察し、反射的に草陰に隠れたのは無論。
そのまま女の美しさに釘付けになったのは語るまでもないだろう。
「あれはきっと湖に住まう女神さまに違いねえ」
ラトンは今日何回目になるのか、件の水浴びする女の話を永遠と聞かせてきた。
最初こそ胡散臭いと思い、適当に聞き流していた。
しかし女が少ないこの村で、状況によって性的な渇望を抑えつけられてきた男たちが、ラトンの話に食いつくのも時間の問題だっただろう。
もし彼の話が本当だったら?もし本当にそんな美しく無防備な女がいるのなら?
日に日に邪な想像を抱き、それが顔に表れ始めるのにそう時間は掛からなかった。
そして情けない事に最も早く行動を起こしたのは、その噂話の出所であるラトン・クミュとその友人ミール・ウール。
つまり僕であった。
僕はラトンの背を追うかたちで森に入っていった。
何度も何度も後をつけてくる男たちがいないか確認し、最初は慣れない月桂樹の森の仲をゆっくりと、しかしラトンの言葉に急かされ最終的には半ば早足で湖に向かった。
*
ラトンと僕が件の湖に着くころには既に、太陽が半分ほど姿を現していた。
きっと起きてきた村人たちが僕たちが居ない事に気付き始め、ちょっとした騒ぎになっているかもしれない。
でもそんなことはどうでも良かった。今目の前に広がる光景に比べれば...
「枯れた大樹が一本...見事なものだねラトン。村の男たち皆を湧きだたせる嘘を語るとは」
僕は嫌味を込めて、枯れた大樹に歩み寄りながら言った。
しかしラトンからは一向に反応が返ってこない。
不審に思った僕が後ろを振り返ると、ラトンは茫然としていた。
いや正確には口だけは動いていた。
ただしその口から出ているのは僕の嫌味に対する反駁ではなく、この惨状に対する現実逃避じみたものだった。
「なぜ湖がない?なぜ女がいない?なぜ大樹が枯れている?あれはただの幻だったのか。
いや、あり得ない。あんな生々しい幻があるわけがない」
そんなラトンの姿を見た僕は呆れかえり、嘘だとバレないようにまだ演技を続けると負けたよ。
と言いながら僕はラトンの許まで歩き、肩を置いて帰ろうと促した。
しかしラトンは動く気配がなく、まだ現実逃避の言葉を呟き続けていた。
苛立ってきた僕は、いい加減にしろ!とラトンに初めて怒鳴った。
それでも僕の声はラトンに無視され、ついにラトンを置いて僕は月桂樹の森へ戻り村へ戻った。
その時、微かに甘い蜜の香りが鼻孔をくすぐったが、今の僕の頭にはそれが何か突き止めようとする理性も好奇心も欠けていた。
*
僕が村に戻ってから約2時間経った頃、大嘘つき者ラトン・クミュその人が村に帰ってきた。
彼が帰ってくる前に僕から早朝にあった事を村中の男たちに話していたため、ラトンが帰ってきても誰一人として無事を喜ぶ者はいなかった。むしろ代わりと言わんばかりに陰口をたたかれていた。
しかし当のラトンはすっきりとした表情を浮かべ、時に何か思い出したかのように恍惚とした笑みで顔を崩すのであった。
それは一昔前に流行った阿片中毒者の笑みに似ていて、どこかうすら寒いものを村人たち皆が感じた。
以来ラトンは人が変わったように働き、休憩時間には月桂樹の森の方を眺め恍惚とした笑みを浮かべていた。
この村唯一の娯楽でもある複数の男と一人の女による濡れ事にも参加せず、月明かりに照らされる月桂樹の森を眺めるのが常であった。
村人たちはあの日あの場所にラトンを置いてきた僕の様に呆れかえり、ついに誰も彼を気に掛けなくなった。
でも僕だけは違った。
あの恍惚とした笑みがどうしても演技に見えなかったのだ。
もしあの時のラトンの現実逃避じみた茫然と立ち尽くす姿が演技ではなく、
過去が保証する現実に裏切られた結果であるとしたら?
怒った僕がラトンを置いていった後、過去という保証人が彼の許を訪れ、件の湖と女の姿を現実というスクリーンに映し出したなら?
あぁ僕は何て愚かなのか。なぜ帰ったフリをして、離れたところから彼の様子を伺うということも思いつかなかったのか。
満月の日の夜、ついに僕はラトンにあの日のことを謝罪し、もう一度あの時間にあの場所へ共に行くことを熱望した。
「いいだろうミール・ウール。何よりこの俺ラトン・クミュとミール・ウールは、一生の友だろ?」
そう言って笑う彼の顔は、初めて出逢ったときを思い出させる裏表のない正直者のものだった。
*
翌朝、ラトンと僕は月桂樹の森を抜け、枯れた大樹の許まで来ていた。
山の影から姿を現す太陽が、半分ほど見えてきた頃ラトンは深呼吸をし始めた。
それから僕にも深呼吸をする様に促してきた。
僕は素直にラトンの指示に従い、深呼吸を繰り返す。
ふとあの日嗅いだ甘い蜜の香りが周囲にあふれ出してきた。
その香りの発生源は疑う余地もなく枯れている大樹からであり、よく見ると大樹の表面に樹液の様なものが濡れ出してきていた。
樹液?何故枯れている樹から?と
深呼吸を止め考え始めた僕を尻目に、ラトンはいきなり大樹に抱き着いた。
そして大樹にそっと愛の言葉を囁き、蜜をついばむと徐に自身の性器をズボン越しに擦り付けた。
それは理解が追いつかず茫然としている僕の目の前で起きていて、止める者がいないことをいい事に、ラトンの行為はどんどん激しさを増していった。
そしていつか村人たちに見せたあの恍惚とした、阿片中毒者が見せる特有の笑みを浮かべ...
彼は倒れた。
ついに果てたのか。目の前で絶頂に達したらしいラトンは、それと同時に糸が切れた操り人形の様に倒れてしまった。
僕は急いでラトンの側に駆け寄ると、胸に耳を付けた。心臓の鼓動は聞こえない。
あぁ...とまたしても茫然とする僕を見守る気配に気づいたのは、彼の死を悟ってから数分後のことだった。
僕はゆっくりとその気配のする方、大樹の方へ目線を向ける。
そこには大樹から溢れんばかりに漏れ出す蜜で四肢を濡らし金糸の髪に、彫刻の様に美しい曲線を有するくびれと、ハリがある形の良い乳房を持つ裸体の女が両手を広げて立っていた。
僕はその腕に抱かれたいという欲望が、湧き出てきていることに気付いた。
そして同時にその欲望が自然なものでは無く、薬物的な作用によって作り出されたものだと気付いていた。
しかし抗う事は出来ず自ら、女の乳房を大樹の蜜をついばみ、己の性器を擦り付け絶頂へと導いた...
成る程、快楽によって与えられる死とはこうも美しく、忌まわしく嫌うべき死が黄金の財であるかの様にさえ思えてしまう。
僕は強まっていく快楽の波の中で反比例して、段々と弱っていく心臓の鼓動をかすかに感じながら死に絶えた。
後悔はない。美しい黄金の乙女とでも呼ぶべき死をこの肉の体で抱くことが出来たのだから。
─ 完 ─