商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
アナスタシアは目の前で流麗に剣を振るうシャルルを見て自然と両手を結んでいた、瞳がないので見ることは叶わないが、流麗という表現が出て来るくらいには感じ取ることができる。
彼女とシャルルの間にある縁、首なし騎士とは異なりながらも宿命めいた繋がりができていた、それは彼女の髪で作ったお守りを介して作られた絆であった。
魔術師が契約書に力を込めて、契約神の加護を降ろした強力な契約書と比べてもなお強力と言えるような、ある種の呪いのようなものである。
シャルルを害する類のものではない、両者の間にある繋がりは恨みつらみで相手を毒するようなものではないのだ。
それを契約と呼ぶか、呪いと呼ぶか、人によって異なるだろうが、アナスタシアの認識としては奏上である。
そう、奏上だ、それも相手は天上の神々に向けてのものであった。
願い、祈り、奉り、縁を結ぶ、その先にある結果を求めてそれを繰り返す。
アナスタシアとシャルルの間にある強力な縁は、アナスタシアからの一方的な祈りによって成立しているのだろう。
契約には必ずと言って良いほどに契約神の力が大なり小なり含まれることになる、ちょっとした口約束だとしても僅かながら神の力が宿るものだ。
最上級の契約ともなればそれを結ぶこと自体が神域に近づくことを意味する、人類の歴史においても数えられる程度しか結ばれたことのないある種の特異点である。
当然ながらそれだけ強力かつ神の力が込められた縁を作ることは難しい、奇跡と評してもいいくらいには困難なものであった。
逆に言えば結ぶことが難しい契約だからこそ、その効果は因果や運命を捻じ曲げるほどに強力なものとなる。
代償として山のような黄金を積み上げて、永遠とも言えるような祈りを捧げて、そこに神々のほんのちょっとの気まぐれが合わさり、契約神による最高の縁が結ばれることになるのだ。
本来なら簡単なことではないのだが、シャルルとアナスタシアの間にある契約はそれほどの強固で神聖なものである。
「……どうかこの方の戦いに幸運と栄光を」
アナスタシアが小さく呟き両手を組んで祈りを捧げると、貧血のような感覚と共に不可視の力がシャルルへと流れていく、もう幾度も繰り返した祈りは契約を介してシャルルへとしっかり届いた。
この祈りを絶やしてはならない、それが契約を結ぶための条件なのだから。
「……あぁ、私がこんなにも熱心に祈るだなんて」
自らの過去を思い出しながら、人生とはわからないものだと、アナスタシアは思うのだった。
この世界は美しい、そのことにアナスタシアが気が付いたのは物心ついてすぐのことである。
乳児を超えて幼児となりほんの僅かにだが世界が広がった頃にふと空を見上げると、冬の空に広がっていたのは数えきれないほどの宝石を散りばめたかのような星空であった。
子供ながら大自然の輝きに呑まれて魅入られたのだろう、それからというものの彼女の瞳に映るあらゆるものが美しいのだと認識するようになったらしい。
木の葉を巻き上げる風も、緑が広がる草原も、純白に染め上げる雪も、何もかもが美しい。
瞳を輝かせてあっちへこっちへフラフラするアナスタシアを両親も心配していたが、活動的で好奇心旺盛な彼女を見て逞しい子だとも思っていたのだろう、可能な限り広い世界を見せてあげようと努力していた。
生まれは帝国の片田舎にある平和な村であり、畜産業と農業で日々の暮らしを支える豪農だ、大きな農地と沢山の家畜を育てる環境によりそれなりに豊かな生活を送れるくらいの収入もあったようだ。
例えば好奇心旺盛な娘の誕生日に画材を贈るくらいには、余裕のある生活を続けていたらしい。
そんな両親の理解と善意もあってかアナスタシアは昼は家畜の世話をして、夜には絵を書きながら世界を眺めるという生活習慣となり、それは日常となっていた。
この世界は美しい、ありとあらゆるものが輝いている、四季折々の変化を眺めて観察しながらその光景を絵に残す。
幸福であったとアナスタシアは思う、穏やかで甘い幼少時代であったと思い返す、そして人生の絶頂期であったとも。
変化が訪れたのはそれから三十年後……いや、もしかしたらもっと早かったのかもしれないが、明確な変化があったのがその頃であり、自覚が生まれたのもその頃だ。
アナスタシアはある時期から老いなくなった、両親や歳の近い兄弟姉妹は相応に老けていくのに、彼女だけは成人ほどの外見で止まったままなのである。
エルフのように長寿な種族でもないのにそんな状態であったので、周囲の者たちはさぞ不気味に思ったことだろう。
両親が皺だらけになって眠るように旅立ち、兄弟姉妹たちが孫を持つ年齢になっても、彼女だけは若々しい外見のまま過ごすことになる。
幸運だったのはアナスタシアの家族が不気味に思いながらも決して追放などをしなかったことだろうか、そして不幸であったのは彼女の状況が長い時間の中で周囲に広がっていったことだろうか。
どこかで噂を聞きつけた魔術師がアナスタシアに近寄ってきて何やら調べまわったかと思えば、次の日には百年ほど過ごした実家を中心に焼け野原となっており、彼女はその魔術師たちに拘束されていた。
意味がわからなかった、罪を裁くでもなく恨みを晴らすでもない、何故その魔術師たちがそのような凶行に及んだのかアナスタシアの理解の外であったことだろう。
世界は美しく、そこで暮らす人々もまた美しい、これまでそう信じて疑ってこなかった彼女の価値観が崩壊した瞬間でもある。
魔術師たちは興奮した様子で祝の器と彼女を呼び、丁寧かつ慎重に身柄を拘束すると、そのまま薄暗い地下室へと押し込まれることになった。
アナスタシアは魔術師ではなかったので相手の言葉や思惑はさっぱりであったが、この魔術師たちにとって自分は何らかの価値があるのだと理解することになる。
髪を一房、血液を少し、爪や皮膚、それらを採取して興奮する魔術師たちをどこか冷めた瞳で眺めていたのだが、一般人に抵抗などできる筈も無くしばらくは地下室での生活が続く。
十年か、あるいは二十年か、老いないアナスタシアには外見的な変化も感じられないので、時間の流れというものが希薄に思えるのだろう、だからハッキリとしたことはわからないがそれなりの時間を魔術師たちに飼われることになった。
幸運だったのは自分に価値があったことであり決して死なせることなく世話をされたこと、不幸だったのは自分に価値がありすぎて色々な物を提供……いや、奪われたことだろうか。
魔術師たちはアナスタシアを祝の器と言った、全てにおいて祝福された完璧な肉体であると、やはり彼女には意味のわからない話であったが、その価値によって瞳を失うことになってしまう。
彼女は魔術師たちに瞳を繰り抜かれたのだ、これまで髪や血や爪先といったものばかり求めていたのだが、魔術師たちは何らかの言い争いの末に大胆に瞳を求めた。
その時のことを今でも鮮明に思い出せる、スプーンのような器具を瞼に滑り込ませると、そのままアナスタシアの両眼を奪い去ったのだ。
髪くらいは許せた、血だって別に構わない、伸びた爪くらいは幾らでもくれてやれる……だが瞳だけは受け入れることはできない。
この世界は美しいのだから、四季の移り変わりや星の輝き、穏やかに生きる人々の営み、まだ見ぬ光景、ありとあらゆるものが輝いている。
例え地下室という薄暗い場所であったとしても、瞼の裏側には美しい光景がいつだって広がっていた。
だが瞳は奪われた、広がるのは永遠の暗闇である。
その絶望は、暗黒は、永遠の暗闇は、言葉にならないほどの恐怖と共にアナスタシアに寄り添うことになる。
子供の頃に空を見上げれば当たり前のように存在した星空や季節の移ろいも、家族や隣人たちとの穏やかな営みも、全てが無限に広がる漆黒に呑まれて消えていく。
恐ろしい等と言う言葉では表しきれない、瞳を失うということは世界との別れなのだと理解した瞬間に、アナスタシアの生きる意味が薄れたのだった。
瞼の裏にいつも思い描いていた美しい世界はどこにもない、瞳を失った違和感と恐怖によって思い浮かべることも叶わない。
深く暗い沼に沈んでいくかのようだ、きっとこのまま溺れて死んでいくのだろう、気力も無かれば拠り所であった美しい世界とも切り離されてただ暗闇に落ちていくだけである。
ここが終わりか、これが人生の終着点か、最後に満天の星空を瞼に描こうとするのだが……やはり上手くは行かなかった。
世界は美しい、だというのにそれを眺めることはもう叶わない……ならばもう絶望を抱いて死んでいくしかないだろう。
自分を連れ去り地下室に押し込んだ魔術師たちに復讐しようという思いすら薄い、世界と別れてしまった彼女が望むのは終わりであった、どうしようもない孤独と暗闇を打ち払えないのならばせめて穏やかに死んでいきたい。
そんなアナスタシアの望みは……残念ながら叶えられることなく生かされることになる。
「アンタがこのバカどもが利用してた祝の器って奴かい?」
彼女を魔術師の集団から救い出したのは酒によって喉を焼いた妙齢の女であり、神殿騎士として神の威光を広げていたミリアであった。
当時は四十歳ほどの年齢でありそろそろ引退を考えていた頃合いであった彼女は、最後の仕事で悪質な研究と実験を繰り返して不安をまき散らしていた魔術師たちの討伐を引き受けたらしい。
「……」
「なに黙ってるんだい? 口がきけないのかい?」
「……」
何かを喋ろうとするがここ数十年はまともに人と話していないので咽が張り付いてしまったかのように動かない、それ以上にアナスタシアの心が体に付いていなかった。
既に精神は死んでいる、後は体が滅びるだけである……だが彼女は老いないのでそこにいたのは心が死んでしまった人形である。
ミリアからしてみれば空っぽの眼窩から涙を流して意味不明なうめき声を上げる人形である、正直恐ろしかっただろう。
だが彼女はそんな状態のアナスタシアを肩に担ぐと、そのまま自分の所属している神殿で保護することにしたらしい。
しかし神殿に保護されたとしてアナスタシアにできることなど何もなかった、何もなければ農場で穏やかに暮らしていた人生を歩んでいた女なのだから縁遠い場所でもあったのだろう、部屋の隅で身じろぐこともなく虚空を眺める彼女を見てミリアは盛大に溜息を吐いたそうだ。
「アンタこれからどうするつもりだい?」
「……」
「薬酒で喉は癒せるだろうからそのうち喋れるだろうけど、失った目ん玉はどうしようもないんだ……食って行くには働かなきゃならん、だが部屋の隅っこでボーっとしてるだけじゃ腹がへるばかりだ」
「……う~……あ~」
何かを喋ろうとするが、長く喋ることのなかった咽と舌は動きが悪い。
「殺してくれとでも言いたいのかい? 冗談じゃないよ、私の剣は神殿の為にあるんで無駄な血は流せない」
「……」
「ふぅ……まぁ、人間なんて食って寝る生き物だ。なら目ん玉がなくたってどうにかなるもんさ、そう気を落とすもんじゃないよ」
気を使ってくれているのだろう、酒で焼けたざらついた声であったが不思議と安心できるのは、彼女の本質が善性だからだろう。
それからというもののミリアは事あるごとにアナスタシアの支えとなってくれた、補助と呼ぶには少々厳しい言葉や態度もあったが彼女が今も生きていられるのは間違いなく彼女のおかげだろう。
年齢はアナスタシアの方が高いのだろうが、地下室暮らしが長く物を知らないアナスタシアにとって先達であり、どこか亡き母を思わせる母性と頼りがいを感じさせてくれるのだ……そんな母性が絶望の沼からなんとか這い上がる綱となってくれたのかもしれない。
永遠の暗闇が広がっていたとしても、掌にしっかりと温もりが感じられたのならば、ボロボロになるまで引きずられた心であっても進んで行ける。
それからまた十数年の時間がかかった、なんとか穏やかな心を取り戻せるようになったのだが、それは無限の暗闇がいつだってすり寄って来る恐怖に耐えながらの十数年であった。
いつしか満天の星空も、雪で満たされた純白の大地も、春の木漏れ日も、輝く太陽も、遠い過去になっていくのだろう……いや、実際になっているのは間違いない。
もはや彼女の世界は無限に広がる暗闇だけである、かつてあれほど美しいと衝撃を受けた世界の輝きはどこにも存在しないのだ。
あぁ、このまま完全に忘れてしまうのだろう、美しかった世界は黒く塗りつぶされて消えていく。
そうなる筈だった、全ては過去になる……しかしそんな彼女の暗闇を切り裂くかのように光が差し込む。
瞳は無くとも感じられる鮮烈な輝きは、忘れてしまった太陽を思い出すことができた。
アナスタシアという人間にとって、シャルルは忘れてしまった世界の美しさであった。
空に浮かぶ本物の太陽よりもなお眩しく、夜空を静かに照らす満月よりも穏やかで、無限に広がる星の海の如く煌めいている。
忘れてしまった美しさがここにある、無限の暗闇を切り裂く輝きであった。
ならば祈る他ないだろう、アナスタシアにできるのはただそれだけである。
己の体に宿る、魔術師たちが求めた神秘はシャルルの為にあるのだと……彼女はそう思うのだった。