商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
プロローグ 嵐を狙う
曇天が流転する、巨大な何かに引っ張られるかのように渦巻きながら空を黒く染め上げ、暴風はそこにある何もかもを巻き上げながら巨大な竜巻と化していく。
木も、草も、人も獣も、全てを薙ぎ払い吹き飛ばすのだ、まさにそれは自然の猛威であり人にどうにかできる規模を遥かに超えていると断言できる、できてしまう。
それが通り過ぎた後はきっと何も残らないのだろう、築き上げた文明も歴史も願いすらも捻じ伏せて殲滅するだけである。
あの巨大な風のうねりが本当に自然の産物であるのならばまだ受け入れることができるのかもしれない、涙を呑んで次へ進もうという意思を与えてくれるのかもしれない、だがこれは明確な悪意と悪性の産物であり意志を感じられるのだ。
人間など運が悪ければ風が吹いただけで死んでしまうのだ、それを嘆くことはあっても恨むことは少し違うだろう、しかしこの暴風は違うのだ、決定的なまでにどうしようもない悪意が存在している。
「██████████████████」
暴風の中心にそれはいた、受け入れがたく表現しづらい悍ましい咆哮をあげるのは、嵐を束ねる黒い胎児だ。
頭にある輪っかだけを見れば天の使いのようにも見えなくはないが、体の全てがどす黒く染められており、およそ神聖な存在だとは考えられないだろう。
それは間違いではない、この胎児はどうしようもないほどに、完膚なきまでに完全で一方的な悪意をもってその場にある全てを吹き飛ばそうとしているのだから。
これが自然に発生した嵐と、この理不尽な暴風の決定的な違いだろう。
抗う術はない、考えるまでもなくアレは人間の手でどうこうできる規模ではない、黒い胎児からしてみれば人間など睥睨するだけで吹き飛ぶ程度の存在であり、それこそ小さな虫と大差がないだろう。
「████████████」
ただ、彼は今、その睥睨すべき虫に対して全ての猛威を向けているようだ、歯牙にもかけない弱者に対して、強者にあるまじき執着と意思を持って嵐を束ねている。
悍ましさを増す咆哮は絶え間なく、それはまるで何かを恐れているかのようにも思えた。
嵐を束ねる黒い胎児の視線の先、そこにある黄金の輝きに向けて彼は全ての力を向けているのだろう。
そこにいる人間は彼の敵、全身全霊をもってすり潰さなければならない脅威、全てを吹き飛ばす力を振るおうとも折れることなく立ちはだかる黄金の英雄。
彼は暴風の中であっても揺らぐことなく黄金の輝きを纏いながら弓を構えている、番えた矢は神秘を宿し、それは黒い胎児へと届くのだろう。
両者の距離はあまりにも離れている、当然だろう、黒い胎児は空高く嵐を生み出しており、黄金の弓を構える英雄は大地にいるのだから。
百メートルや二百メートルといった距離ではないのだ、天と地に分かれた圧倒的な距離でありながら、それでも両者は見つめ合い向かい合っている。
阻む風は山脈や津波の如く分厚い、決して届きはしない距離。
それでもなお彼の英雄は、嵐に挑むのだ。
これは現代より遥か遠く、神代から語られる、狩猟王の歌の一つであった。
そこは見渡す限りの緑と木々の茶色が広がり、文明の光がどこにも存在しない大樹海であった。
どこに視線を向けようと待ち受けるのは森であり、どれだけ歩こうとも広がるのはやはり森である。
人は見受けられない、その痕跡すらも存在しない、獣の痕跡は至る所にあるのだが文明はどこにもなかった、仮にあったとしても長い時間によって木々に侵食された遺跡らしき物だけであった。
そんな広く深い大樹海に似つかわしくない人間がただ一人だけいる、小さく華奢な体を見る限り少女のようにも思えるが、蝶よ花よと愛でられる雰囲気はなく、彼女の装いは無数の毛皮を繋ぎ合わせて作ったかのような衣服であり背嚢である、一際大きな毛皮で作ったマントで全身を覆っており、靴も帽子も毛皮のように見える。
猪、鹿、狐、兎、狼、本当に様々な毛皮で見繕った衣服を身に纏った少女は、装いから少し浮いた黄金の弓を持っており、そこには既に矢が番えられているようだ。
木々に溶け込みながら気配を馴染ませた、消すのではなく溶かすかのように少女の存在が薄くなっていき、まるで身を隠す木と一体化したかのようであり見つけ難くなっていく。
息を吐き出すと僅かに白く濁り出していた、肌を刺すほどの寒気はまだ感じないが、冬が近づいている証拠だろう。
それを理解しているからこそ少女は、鏃を視線の先にいる獲物へと向けているのだ。
「……ふッ!!」
勢いよく呼吸をして肺一杯に酸素を溜め込むと、そこで呼吸を止めて体の震えを完全に止める、そして鏃の向こうにいる相手を見つめた。
少女の先には熊がいる、冬に備えて脂肪を蓄えたいのか鼻を鳴らしながら食糧を探しているらしい、鼻先をウロウロさせながら熊が辿り着いたのは木々の根っこであり、そこに群生しているキノコを齧り取る。
それを確認した少女は黄金の弓に番えていた矢を引き絞り、しっかりと狙いを定めて解き放つ。
定規で真っすぐと線を引いたかのように、僅かな歪みもない軌道を描いて放たれた矢は百メートルほど先にいる熊の脇腹へと届く。
その矢は不思議な光を放っており、本来あるべき鉄の鏃ではなく魔力の塊であるかのようである、もしそれを魔術師たちが見たのならば魔力の矢と捻りもない名称で呼んだことだろう。
魔力の矢が命中した熊は突然の痛みに体を強張らせたようだ、しかし抵抗することは出来ないようであり、少女もまたただなんとなくそこを狙った訳ではない、しっかりと角度や距離を計算された一撃であり、熊の分厚い毛皮や脂肪を貫き、骨の間を通って鏃が穿つのは心臓であった。
獣の優れた感覚をもってしても認識できない距離からの一撃必殺、見事心臓を潰された熊は抵抗することも出来ずに崩れ落ちると、暫く痙攣を繰り返してやがて動かなくなっていく。
「……はぁ」
それを確認した黄金の弓を持つ少女は、止めていた呼吸を再開して溶け込んでいた木々から歩き出す。
弓で狙撃するには難しい距離を足音もなく進み、射殺した熊の下へ辿り着くと彼女は油断なく足元にあった枝を掴むと動かなくなった熊へと投げてぶつけて、反応が無いことを確認して死亡を確信したのでようやく毛皮のマントの内側から短刀を取り出した。
握りしめる短刀はとても雑な作りをしている、鉄を鍛えた刃ではなく石を割って磨いた作りであり、柄の部分は毛皮を巻き付けただけの有様だ、そこら辺に転がっている石で急ごしらえに仕上げたかのような雑さが出ている。
しかし不格好であっても刃としての性能はそこまで悪くない、相手は動かなくなった熊なのでこれで十分と判断したのだろう。
「ん……大きい」
熊のサイズは二メートルほどだろうか、探せばもっと大きな熊もいるだろうが華奢な彼女からしてみれば巨大と言う他ない、石の短刀で腹を切り血と内臓を掻き出せば軽くなるだろうが、残った肉だけでも少女よりは重い筈だ。
「……今日は御馳走」
血と内臓を取り出して幾らか軽くなった熊の体を彼女は背負う、やはり重たいが転ぶほどではない、本音を言えば内臓も持って帰りたいのだが、腐りやすく持ち運びに向かないので断念したようだ。
ずるずると熊の足を引きずりながら大樹海を進んで行く、秋を通り越して冬が近くなっているが重労働によって肌には汗が流れている。
だがこれを持って帰らないことには今日の食事は勿論のこと、これからやって来る冬を超えることはできないだろう、この熊の肉は彼女の生命線なのだから。
熊の体を背負いながら大樹海の中を歩き、そのまま幾つかの谷や山を越えると水が流れる音が届く、山間に流れる川に到着すると、彼女はようやく背負っていた熊の肉を降ろすことができた。
だが作業はこれで終わりではない、冬の始まりとはいえ生肉など直ぐに腐るだろう、その前に加工する必要がある。
川辺には獣の皮と木の枝で作られた簡易の天幕がありその前には篝火の燃えカスもあった、彼女は天幕の中から幾つかの薪を取り出すと既に炎が消えた篝火の上に組み立てる、そして自らの指先をそこへ向けて魔力を高まらせていく。
指差すこと数十秒、パチッという音と共に火花が散ると、組み上げられた薪に小さな火が宿る。
友人である魔術師を真似ること半年、魔術とはとても呼べない規模ではあるが、入口には立つことができたのだろう。
少女は徐々に大きくなる篝火を呆けたように見つめていると、思い出したかのように顔を上げて熊の解体を始めるのだった。
まずはすぐ近くにある川まで熊を引きずり水の中へと浸ける、血抜きはしたものの流水は瞬く間に赤く染まり流れていく、そうやって暫く放置すると徐々に血の色が薄くなっていき匂いも同様であった、それを確認すると川から引きずり出して石の短刀を滑り込ませていく。
とても慣れた動作である、一流の猟師のようにきっと何度も繰り返したのだろう。
皮と肉を分け、関節を外して複数の肉塊を作る、一部は木の枝で串刺しにして篝火で炙った。
「ん……癖があるけど、うん、美味しい」
焼いた熊の肉を噛みながらも作業は終わらない、剥いだ皮にこびり付いた脂肪を削ぎ落とさなければならず、肉の小分けも終わっていない、解体は重労働であり長い時間がかかるものだ。
皮に付いた脂肪を石の短刀で綺麗に削ぎ落し、残った肉塊を保存に適したサイズに切り分け、長い木の枝に刺して洗濯もののように風当たりの良い場所に放置する。
位置は篝火の丁度真上であった、立ち上る煙と熱気が肉を乾燥させていく、水分を抜いて燻製処理を行えば一日二日で腐ることはない、贅沢を言えば塩漬けにしたり酒や香木で風味を際立たせたりしたいのだが、文明が見当たらない大樹海では届かぬ願いだろう。
気が付けば周囲は薄暗くなり、空を見上げれば星が輝いていた。
作業は一先ず終わったらしい、少し弱くなった篝火に木の枝をくべて炎を維持すると、明かりの前に座り込んで冷えた体を温めていく。
生きる為に自給自足が求められる、文明から遠く離れたこの大樹海では当たり前のことであった。
この森は、この自然はあまりにも広大である、それこそ二年近い時間を彷徨えてしまう程に。
星の位置を頼りに進んでどこまで行こうとも、辿り着くのは朽ちた古代の遺跡くらいのものだ。
獣を狩猟して、星を頼りにして川辺にそって歩き、黄金の弓を片手にいつ辿り着くとも知れないどこかを目指す。
それが華奢な少女の、キャロルの二年であった。