商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
朝日よりも早くキャロルは目を覚ますと、毛皮で出来た小さな天幕と敷き詰められた毛布の中から顔を出して、薄暗い森に向けて白く濁る吐息を零す。
突き刺すような寒さ、と表現するにはまだ足りていないが、冬の足音が聞こえてくるくらいには冷気が漂っている。
大樹海に無限とも思える程に広がっている木々も紅く染まり始めており、そう遠くないうちに雪がチラつくことだろう。
「ん……んんんッ」
そうなる前に冬を越す為の拠点を見つけなければならない、キャロルは背伸びをして体を解すと天幕から這い出て近くの川へと向かった。
まずは冷える水で顔を洗う、そうして眠気を吹っ飛ばすと、柔らかな木の繊維を束ねて作った歯ブラシで歯を磨く。
水流を中心に旅をしているのはこういった時に便利だからという理由もあるのだろう、様々な面で人の生活に欠かせない空間であり、だからこそ川の先に文明圏があると判断したのだ。
身支度を整えたキャロルは拠点の片付けを始めた、昨晩に燻製処理を行っていた熊肉を毛皮で作った大きな背嚢へと放り込む、そして寝床や天幕に使っていた多くの毛皮も束ねて革紐で丸めると背嚢へと括り付けていく。
それら全てを背負うとかなりの重量になるが、どれもこれも捨てることのできない物なので放置はできない、華奢な体で運ぶしかないのだろう。
キャロルは少し体幹を崩しながらもなんとか踏ん張って見せる、そして最後に黄金の弓を首にかけるとその場から歩き出すのだった。
いつもならば川の流れに沿って進むのだが、白く濁る吐息を見れば冬が近いことがわかる、なので彼女は無理して文明圏を目指すのではなく、冬を越す為の拠点を探す為に進んで行く。
この大樹海を二年近く彷徨ってわかったことなのだが、遥か昔に存在していたであろう文明の名残のようなものが幾つか存在している、気が遠くなるほどに長い年月を放置された結果、森に侵食されて多くが崩壊しているが、それでもかつての文明の名残を感じさせる部分もあった。
去年の冬を過ごしたのも朽ちた神殿らしき場所であり、今年の冬もまた似たような場所を確保する必要があるだろう。
或いは洞窟などでも良いのかもしれないが、朽ちた文明の名残や洞穴などにはゴブリンやオークなどの魔の眷属が巣くっている場合が多い、そういった場所を確保する為には奪い取る必要がある。
彼女もまた生き残る為の生存競争の中にいる、この大樹海では当たり前のことであった。
生命線の川がある方角を見失わないようにしながら森の奥へと進んで行く、水源が遠すぎては生活が不便になるので決して深入りはしない、この辺りの失敗は去年にしているのでとても慣れているらしい。
拠点候補を探しながらもそこにだけ集中しない、キャロルは周囲を観察しながら必要な物を採取していくのだ。
それは小さな木苺であったり、木の根に群生する食用のキノコであったり、もしくは香草や油分の豊富な木の実であったりする、必要であると考える物はとにかく背中や腰の雑嚢へと突っ込んでいく。
何が食べられて、何が毒なのかは去年の経験で大体が理解できているようだ、食中毒で死にかけたことも多いのでその辺りは抜かりがない。
その場で食べられる物を口に入れながら暫く森の中を探索すること半日、大樹海の中に点々と存在するかつての文明の痕跡を見つけることができた。
森の木々と地形の変化、蔦や苔に侵食されて過去の栄光は影も形も無いが、おそらく石造りの大きな建物であったことがかろうじて窺える場所であった。
千年、或いはそれ以上か、何であれ途方もない時間を放置されたのだろう、半分以上が森に埋まってしまっており全容はハッキリとしないが、石造りであることから昔は重要な建物であったのかもしれない。
神殿か、もしくは行政機関、そう考えるとかつてはこの周辺は村や町といった営みが広がっていたのだろうか、だがキャロルには関係のないことであった。
「……いる」
森に半分ほどが沈んだ石造りの建築物、それを遠くから草木に身を潜めて観察していたキャロルは、そこに蠢く存在を鋭い視力で観察することができた。
そこにいたのはキャロルよりも小さな体と、緑色の肌をした魔物、ゴブリンと呼ばれる魔の眷属である。
遠く、勇者と魔王が争っていた神代においてとある魔王の一柱が生み出した存在であり先兵だ、極めて薄くではあるが魔王の因子を引いており、かの時代においては猛威を振るったらしい。
しかしそれも大昔の話である、勇者に魔王の多くが討ち取られてからは率いる存在を失い、星の数ほどいた魔の眷属たちも徐々に数を減らしていき、世界各地へ散って最後には野生化してしまったそうだ。
あのゴブリンたちはその遠い子孫なのだろう、ごく稀に魔王の因子を覚醒させて強力な個体が生まれることもあるのだが、キャロルが観察している限りでは通常のゴブリンしかいないらしい。
だが数が多い、森に沈んだ建築物を巣にしているらしく入り口付近で十匹ほどが暇そうにしながらも何やら騒いでいた、ゴブリンに言語があるのかキャロルにはわからないが雑談しているようにも見えなくはない。
雑な作りの棍棒や尖った木の枝を槍に見立てたような粗末な武装だが、十匹もいれば一人を殺すことなど容易いだろう、それに表に確認できるゴブリンだけで十匹、朽ちた建物の奥にはまだいる可能性が高いのだ。
慎重に行動する必要がある、そして冷静な判断も必要であった。
まずこのまま突っ込んでゴブリンと戦うのは論外だ、複数に囲まれながら殲滅できると思うほど腕が立つとは思っていない、やるとしても遠距離から一匹一匹確実に処理していく必要があるだろう。
戦いではなく、狩りである方がキャロルとしては好ましい、対等な戦いではなく一方的な殲滅にすべきだ。
それにこの距離は、剣による白兵戦よりも、距離を置いての射撃戦の方が圧倒的に優位である。
攻撃すべきか、一旦引いて様子を見るべきか、どうすべきかと悩むキャロルは吐き出す吐息が白く濁っていることを確認して、あまり時間が残されていないことを改めて自覚した。
雪が降る前に拠点を確保しなければならない、あまり時間は残されていないだろう。
悩んだ末に、キャロルは背負っていた毛皮の背嚢を地面に下すと、黄金の弓を構えて魔力の矢を形成する。
グッと、握り拳を作るとそこに魔力が集う、すると薄氷を踏んだかのような奇妙な音が響くと、彼女の手には結晶で作られたかのような矢が握られていた、それは物質化するまで圧縮された魔力の塊であった。
同じ方法で複数の矢を生み出すと疲労感が広がっていく、本格的な魔術師ではない彼女にはあまり乱用できる方法ではないのだろう。
キャロルは呼吸を整えて意識をしっかりと保ち、そして草木に身を隠しながら鏃をゴブリンの一匹へと向ける。
「……弓神よ、悉くを穿つ力を与えたまえ」
猟師や狩人といった者たちから幅広く信仰される神への祈りを行うと、加護が降りてきてキャロルの力へと変わった、これは決して外すことのできな一撃には欠かせないものだろう。
遠くにいる筈のゴブリンたちが目の前にいるようにも思えるのだから、加護によって得られる力は絶大であった。
引き絞った弦を指から離す、そこに番えられていた魔力の矢はキャロルの想定通りの軌道を描いて遠く離れたゴブリンの頭を穿つ。
ついでとばかりにその背後にいたゴブリンにも矢が届く、これで二匹を仕留められた。
当然ながらゴブリンの群れはざわついた、何が起こったのかハッキリと理解できていないようだが自分たちが攻撃されたことは間違いがない、オロオロと周囲を見渡すのだがどこへ視線をやろうとも木々に隠れたキャロルは発見できない。
それだけの距離を確保しているからだ、通常ならばこの距離を維持しながら淡々と処理していくべきなのだろうが、キャロルの持つ矢には限りがあり、どうしても近寄って殺す必要がある。
だからキャロルはもう一度矢を放つ、先程と同じように遠く離れたゴブリンを穿つのだが、今度は警戒していたこともあってか相手も矢が放たれた方向をしっかりと認識できていたらしい。
あっちだ、あっちだ、そう群れに伝えるかのようにゴブリンの一匹がキャロルの潜む方向を指差す、細かい位置はわかっていないようだが間違いではない。
そして表の騒ぎを聞きつけたのだろう、森に沈む石造りの建物から更にゴブリンたちが顔を出す、群れは三十匹ほどまで膨れ上がると、キャロルが潜む方角へ一斉に走り出すのだった。
これは予想外の事態という訳ではなく、矢に限りがある以上は全てを射殺すことができないのだ、だからこれで良かったのだろう。
群れに単騎で挑むような真似はしない、身を隠せる木々を使って暗殺者のように処理していく算段であった。
深い森の隙間を通ってこちらを目指すゴブリンたちだが、どれだけ探してもキャロルの姿は見つけられない、発見できたのは彼女が背負っていた毛皮の背嚢だけであり、姿はどこにも存在しない。
当然だろう、キャロルは木々の上に渡って枝から枝へと音もなく移動しているのだから彼らの視界に捉えられる筈もない。
音はない、葉っぱすらも落ちない、華奢な体であっても木から木へと飛び移ればそれなりの痕跡が残っても不思議ではないのだが、狩猟の加護を降ろした彼女は重さを忘れてしまったかのように飛び移っていく。
そしてキャロルがいないことに苛立つゴブリンの一匹へ、樹上から石の短刀を片手に飛び降りる。
群れの端っこで彼女を探していたゴブリンの背後に降り立ったキャロルは、鮮やかな動きで喉を掻き切った、ついでにそのゴブリンが持っていた木の槍も奪い、近くにいたゴブリンへと投擲する。
先端を尖らしただけの粗末な槍であったが、加護の力があれば喉を貫くには十分。
音も無く、悲鳴すら上げさせず、二匹のゴブリンを処理したキャロルは再び樹上へと移動した。
後はこれを繰り返すだけである、群れの端から徐々に処理していくのだ、彼女は戦士ではなく狩人なので真っ向からの戦いなど興味がない。
殺せる相手を、確実な手段で、徹底的なまでに優位を維持する、これは戦いではなく狩りであった。
手段も選ばない、手持ちの矢が少ないことも手伝って殺害方法は実に多彩であり、必要があれば投石や植物の蔦を使っての絞殺なども行っていく。
ゴブリンたちとの戦いはそんなことの繰り返しだ、彼らが自分たちの数が減らされていると気が付いた頃には群れの機能は無くなっており、囲んで叩くということができなくなっていた、そこまでくれば正面からの戦いでも勝てるのだが、キャロルは残った魔力の矢で群れにトドメを刺す。
ゴブリンたちの目にキャロルが映ったのは片手で数えられる回数だろう、静かに密やかに狩られた彼らは本当に訳もわからないまま処理されてしまうのだった。
倒した数は三十二匹、まだ朽ちた遺跡の中に残党がいる可能性があるので、全滅とは言い切れない。
「ん……まだいるかな?」
誰に言った訳でもない独り言と共に、キャロルは森に沈む建物へと向かう、ゴブリンたちが出て来た入口らしき場所はおそらく建物の壁と思われる。
正規の出入り口は見た限りはない、あったとしても沈んでしまっている、この朽ちた石造りの建築物は長い年月を森と共に過ごしたからなのか僅かに傾いてしまっており、木々や苔や蔦に絡みつかれてそれを支えにしてなんとか形を保っているらしい。
キャロルが発見した横穴は、その過程で崩れて出来上がった穴なのだろう。
穴の手前で耳を澄ます、鋭い五感を持つ彼女の耳に異音は届かない、聞こえるのは自分の心臓の音と森の中に響く鳥のさえずりくらいのものだ。
危険はなさそうではあるが油断して死にかけたことは何度もあるので慎重に中へ踏み入る、絞りだすように魔力の矢を形成すると黄金の弓へと番えた。
穴の中に入ると建物の内部をしっかりと観察できる、石造りの頑丈な建物なので重要な場所なのかと予想していたのだが、彼女のそんな予想は間違いではなかったようで、どうやらここは元は神殿であったらしい。
入った瞬間に、ほんの僅かにではあるが神域の気配を感じ取れた、僅かな残滓であり既に意味をなさないものではあるが、かつての信仰の搾りかすのような物が建物にこびり付いている。
大昔は、この神殿を中心に村や町が広がっていたのかもしれない、今となっては森に呑まれてゴブリンの住処になってしまっていることが哀愁を誘う。
「ん……酷い」
幸いにも屋内にゴブリンは確認できない、脅威はなくなったが中は酷い状態であった。
この神殿も長らくゴブリンたちの巣になっていたのだろう、彼らが食い散らかしたであろう獲物の骨が至る所に放置されており、それらが乱雑に積み上がって広がっている。
異臭も漂っており口が裂けても清潔とは言えない空間だ、神を模したであろう石像や祭壇場らしき場所が僅かに神殿の名残を主張するのだがそれも汚されてしまっているのだ。
しかし冬が到来するまで大きな時間は残されていない、キャロルにはここを拠点とする選択肢しかないのだろう。
川に近く、雨や風や雪を遮る天井があり、欠片ほど残った神域の気配が僅かな安らぎを与えてくれる、食い荒らされた骨などは片付ければいい、何よりこれ以上の拠点が見つかる保証もない。
「ん……ここで良いか」
キャロルはそう決めたようだ、ならばまず気が済むまで安全を確保する必要がある、この朽ちた神殿はそれなりに広く奥に部屋なども確認できる、最後の最後まで油断なく躊躇なく、森で生きる鉄則でもあった。
一先ずキャロルが向かったのは傾く神殿の奥、大きな木の根が壁を突き破って浸食しているが、その向こうには幾つか個室が確認できる。
一つは、元々は保存庫だったのだろうか、酷く錆びついていながらも頑丈な金属の扉で蓋された部屋であったのだが、そこを開いた瞬間にキャロルは鼻を抑えて扉を閉めるのだった。
「……うッ」
どうやらそこは汚物部屋であったらしい、つまりゴブリンのトイレだ。
鼻奥を焼いて突き刺すかのような異臭から逃れるようにキャロルは扉を閉める、そして逃げるように向かいの部屋へと視線をやった。
そちらの部屋には扉はない……いや、廊下に転がるボロボロの木片を見るにかつてはあったのだろうが、今は存在しない。
そちらは礼拝所と大して様子は変わらない、ゴブリンたちが食べ散らかしたであろう獣の骨が散らばるだけである。
そうやってキャロルは、部屋を一つ一つ探索してゴブリンの残党がいないか確認していき、崩壊して木の根に塞がれた場所以外は細かく調べていく。
「……」
だが最後の部屋で問題が一つ見つかった、朽ちた神殿の最奥で、ある存在を発見してしまったからだ。
ボロボロであり傷だらけの、元は白かったであろう肌、衣服は剥がれており細い身体はゴブリンたちの体液で汚れており、長く凌辱されていたであろうことが窺える女性がそこにいる。
死んでいるのかと思う程に身じろぎ一つしない、だが小さな呼吸音をキャロルの耳が拾っていた。
「……エルフ?」
そして汚れた様子で倒れ込む女の耳はキャロルのそれよりも長い、エルフと呼ばれる種族の特徴でもある。
人よりも精霊に近いとされており、排他的で潔癖な存在、そんなエルフの女が汚されきった状態で横たわっているのだ。
キャロルはそんな彼女の傍まで近づき、ボロボロの体を抱き起す。
そして、今にも消えてしまいそうな生命の炎を再び大きくするかのように、肌の接触による房中術を発動して、彼女へ自らの生命力を流していく。
完全回復にはまだ遠いが、これですぐに死んだりはしないだろう。
なにせ二年ぶりとなる他者との関わりである、キャロルとしても死なれては困る。
「ん……食糧、足りないな」
彼女が背負う背嚢に詰まった食糧は一人が冬を越せる量しか入っていない、それだけが気がかりであった。
明日から拠点作りと、食糧の確保に忙しくなる。
だが、彼女が抱えていた孤独や寂しさは消えているのは間違いないだろう。
あまり表情を変えない彼女にしては珍しく、縋るかのような顔をしているのだから。