商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
森に沈んだ廃神殿で発見したエルフの女性を、キャロルは迷うことなく保護した。
人としての当然という判断もあるのだが、二年近く一人で過ごしてきた彼女にとってようやく出会えた会話の成立する相手である、他者との関わりに飢えていたキャロルからしてみればようやく出会えた他人である。
この寂しさを紛らわせることができるのならば、少ない食料や厳しい冬が目前にまで迫っていることにも目を瞑れる、その分は苦労すればいいと割り切っているようだ。
「ん……聞こえてる?」
捕らわれていたエルフの女性へ房中術を使って生命力を流したのだが、酷い衰弱状態を僅かに改善できただけで全回復には届かない、このまま放置してしまえばまた弱るだろう。
声をかけてみるが返事は帰ってこない、しかし僅かに瞼を開いておりその向こうに緑色の瞳が見えるので、完全に意識が飛んでいる訳ではないらしい。
朧げな意識のまま自分を抱きかかえるキャロルの存在を、エルフの女はしっかりと認識できているようだ。
だが喋ることはできないらしい、手足も沼に使っているかのように重たい、体力もそうだが気力が尽きているのだろう。
一先ず、キャロルは彼女の体を背負いあげると、薄暗い廃神殿の奥から外へと運び出す、そのまま木の根に浸食された廊下を進み、大きな横穴の空いた礼拝場へと辿り着く。
横穴から太陽の光が差し込む場所なのでまだ過ごしやすいだろう、残滓のごとく残る神域の気配も無いよりはマシである。
エルフの女性の呼吸も僅かに落ち着いたかのようにも思えた、錯覚かもしれないが気休め程度にはなったのかもしれない。
「……寝てて良いよ、色々準備するから」
冬に備えての準備もそうだが、彼女の療養も必要だろう、足りない物を数えればキリがないのだが、文句を言ってもいられないだろう。
まずは生命線である水の確保、これは近くに川があるので困ることはないのだが、ボロボロの状態であるエルフの女性を清めるにはそこまで運ぶ必要がある。
次いでゴブリンの死骸の処理、廃神殿の周囲に広がる死骸を放置しておけば腐って病の元となる、埋めるなり焼くなりする必要があった。
更に廃神殿を拠点として扱うには整備が求められる、本格的なことは大工ではないキャロルには難しいが必要最低限の清掃はやるべきである、今年の冬はここで過ごすことになるのだから住居の状態は優先順位が高い。
特に、あの汚物部屋を放置はできないだろう、ゴブリンの死体と一緒に焼き清めねばならないと決意を固めてから、キャロルは休憩を終えて再びエルフの女性を背負う。
そのまま昨日の熊のように川辺まで運んで、冬を目前にした冷たい水で彼女の体を清めていく。
ゴブリンたちに弄ばれて汚濁に汚れた体にはとても新鮮で刺激的な感覚だったのだろう、死体のようにピクリともしなかった彼女の体が震えている。
「うッ……あッ」
意識が覚醒したのだろう、半開きだった瞼が開かれて空へと向けられた。
「ん……喋れる?」
キャロルがそう尋ねるがハッキリとした返事は帰ってこない、僅かに唇が動いているのだが疲れきっているのだろう。
「今、体を洗ってる……食事はいる?」
「……」
やはり返事はない、だがキャロルは特に気にした様子もないようだ。
誰かに喋りかけることができる、今のキャロルにとってそれだけで幸福なのだから。
「私はキャロル……そっちの名前は?」
「……」
「そう……ミューって名前なんだ」
その時だけ、キャロルが返事を返さない彼女の名前を言い当てた時だけ、明確な反応が返って来る、会話も成立していないのに名前を看破されたことに驚いたのだろう。
ほんの僅かな動揺であった、冷たい川の水に浸されて震える体に隠せてしまえるほどの。
その段階でキャロルがミューと呼んだエルフの女は、緑色の瞳で目の前にいるキャロルを観察するかのように動く。
これまでも見えてはいたのだろうが、観てはいなかった、よくわからない誰かがいる程度の認識しか持てなかったのだろう。
彼女の美しい緑色の瞳がキャロルの華奢な体を下から上まで眺めて、最後に瞳へと吸い込まれていった。
そこにある、奇妙な輝きに、隠せないほどの震えが走った。
疲れと折れた心では舌が回せないのでまともに喋れないのだが、もしミューがこの場で言葉を発するとするのならば、みっともなく悲鳴を上げたかもしれない。
キャロルの瞳は金色に染められていた、黄金を溶かして注ぎ込んだかのように派手な光を宿している、ただそれだけならば珍しい瞳の色だと納得したのかもしれないが、その中にある神秘の気配に背筋が震えてしまった。
こちらの全てを見透かすような、心の奥底にある核を握るかのような、ある意味で神の視点にも似た力がそこから感じ取れてしまう。
もしや半神か? ミューがそう思ってしまうのも不思議ではないほどの神格をキャロルは発しているのだった。
「年齢は? ふうん……五十四歳、エルフだからそれでも若い方なんだ」
「……ッ」
ミューの体を洗いながら続く会話……と言うには少しばかり一方通行だが、キャロルが何か発言する度に恐れるような反応が返って来る。
その神秘を宿した金色の瞳が、ミューの何もかもを覗き込んでいるかのようだ。
「はい……綺麗になったよ」
川の水で汚れを洗い落とされたミューは寒さと少しばかりの恐怖で震えているようだ、キャロルはそんな彼女の背中に掌を当てて再び房中術を使って相手へ活力を流していく。
暖かい、背中で感じる熱にそんなことを思ったミューは、不思議な安心感を覚えながら強烈な眠気に負けて瞼を下す。
こんな穏やかな気分で眠れるのはいつ振りだろうか? そんなことを思いながらミューは強制的な眠りに落ちるのだった。
「ん……しばらく眠ると良い」
房中術による精神干渉で意識を強制的に奪ったキャロルはそんなことを言った、掌から感じ取れるミューの精神状態が非常に不安定であった為に、そうせざるをえなかったのだろう。
冷えた彼女の体に自分が着ていた分厚い毛皮のマントを巻き付ける、そして再び背負いあげると来た道を戻って拠点と見定めた廃神殿へと戻っていく。
まともな食事をしていなかったのだろう、ミューの体は女性の中にあってもなお軽く感じられてしまう、もしかしたらキャロルとそう変わらないのかもしれない。
痩せた体は肉と脂肪に乏しくあばら骨が浮き出ているほどだ、定期的に活力を譲渡しながら食生活を改善しなければならないだろう。
孤独を晴らしたいという彼女個人の都合もあるのだが、ミューの存在はこの広い大樹海において道先案内してくれるのではないかという期待もあるのだ。
エルフは排他的な種族だと聞くが、命の恩人に対してまさか排除しないだろうと頭の中で計算しながら、キャロルはミューの体を廃神殿の床へと下す。
このまましばらくは寝かせておくべきだろう、彼女の世話も大事だがキャロルにはやらなければならないことが多い。
一人で冬を超える前提で行動して準備していたのだがそれが早くも崩れてしまっている、特に食料はもう一人分を確保しなければならないだろう。
拠点の清掃や調整もある、休んでいられる時間はないと断言していい。
まずはゴブリンの死骸を処理することにしたのだろう、病の元になって困るのはキャロル自身なので廃神殿から離れた位置に穴を掘って埋める必要があった。
それが終われば汚物部屋の清掃が待っている、地を這うような気分になりながらも、やるしかない。
「はぁ……寒いな」
彼女の吐息は白く濁る、冬は目前である。
それはある時、前触れもなく突然やって来た。
いつもと変わらない毎日、いつもと同じ晴天、普段と変わらない故郷での目覚めであったことをミューはよく覚えている。
朝起きて身支度を整えて家族に見送られながら彼女が向かうのは、大樹海にあるエルフの国の中央、そこにそびえ立つ巨大な大樹のうろであった。
世界樹、と称される大樹は雲に届くほどの高さと、それを支えられるだけの太さを有し、神域に近い場所でもある。
この世に数えるほどしか存在しない、神の膝元と呼ばれる場所の一つでもあった。
世界を支える柱とも称される世界樹は、神々がこの世界に最初に植えた木とされており、ただ巨大な木というだけではないらしい。
長老曰く、世界樹には様々な植物の起源が保存されているそうだ、ミューには漠然としか理解できなかったが、神々が最初にこの木を世界に植えたことによって、土しかなかった大地に様々な自然が広がったのだと言う。
様々な木々や花々、人々が当たり前のように口にする果物や野菜、世界中に存在する数え切れないほどの植物の全てが、この世界樹を起源にしているらしい。
その世界樹を守ることが、この地に住まうエルフたちの使命であり生き方なのだと、ミューを初めとして若い世代は教えられて育ったのだ。
管理と言っても難しいことではない、そもそも世界樹は見た目通り巨大で強靭な生命力を持っているので、病や寿命とは無縁の大樹である。
なので管理とは、主に魔の眷属からの防衛であった。
神の膝元であり、全ての植物の起源であり、膨大な生命力を宿した世界樹は、常に魔の眷属から狙われる立場にあったからだ。
かつて勇者と魔王が戦っていた神代の頃から続く、長い長い争いの延長線上にミューも生まれたのだろう。
彼女自身の素質と努力もあって世界樹を守る役目である戦士階級となり数十年、慣れ親しんだ順路で警邏を行い、それが済んだら里の外へ出向き増えすぎた獣の処理や木々の管理をして、畑や里の様子も見て回る。
そして家に帰り、家族と語らいながら眠りに落ちていく、どこか退屈でありながらも充実した日々をミューは繰り返していた。
「ミューリアン……実は私、外の世界を旅してみようと思っているの」
そんなことを言って国を出る友人もいたのだが、ミューはエルフの国の戦士階級であることに誇りを持っていたのでそんな願望もなかったのだろう。
森に生きて、森の中で死んでいく、それがミューリアン……ミューと呼ばれ女の人生であった。
「なんだ……あれは?」
だからその日も当たり前の朝が来ると信じて疑わなかったのだ、彼女の日常は崩れないのだと信じていたのだろう。
捻じれるように曇天が渦巻く空が、彼女の目の前に突然現れるその日までは。
「ただの嵐じゃない……魔力の流れを感じる!?」
ミューの暮らす里を襲った巨大で強力な嵐が、悪意によって作られたものだと察した瞬間に、戦士である彼女は己の誇りと責任を胸に戦うことを選んだのだが……何をどうしようが抗える規模ではなかった。
同僚も、家族も、友人も、仕える主も、そして生まれてからずっと住んでいた故郷すら、暴風が押しつぶして吹き飛ばす。
「ミュー……逃げのびるのだ、そして聖都へ迎え、この事態を周辺の国へ伝えるのだ、あれはただの悪魔ではない、間違いなく魔王の一角だ」
「ですが若様、私も共に!!」
「誰かがそれを成さねばならん、お前は若く強い次代の担い手だ……だからこそ里と同胞たちの未来を託すぞ」
ミューの主はそう言って彼女を里から逃した……いや、既に里はどこにも存在しなかったが、追い出されるかのように仲間たちから離れてしまったのだ。
嵐に飲み込まれる、これまでの自分を作って来た全てが、風と雹と竜巻と雷によって粉砕されていく。
その光景を風に弄ばれながら絶望と共に見送ったミューは、地面に叩きつけられた衝撃で意識を失い、気が付けば周囲を魔の眷属たちに囲まれているような状況であった。
それからのことを彼女はよく覚えていない、筆舌に尽くしがたい凌辱をその身に受けて汚れきったのだと理解した瞬間に体と心が別離した。
汚濁に汚れる自分がどこか遠くの存在に感じられたのならば後はそれを眺めるだけである、完全に壊れてしまえば楽になれたのかもしれないが、ミューリアンの中にあったエルフの戦士としての矜持がギリギリの所で体と心を繋ぎ止めたのだろう。
蹲って、泣いて、鳴かされて、そんな日々がどれだけ過ぎ去っただろうか、自分を嬲るゴブリンたちの姿がいつの間にか消えたことに彼女は気が付いた。
気が付いてはいたが、立ち上がって逃げ出そうという気力はどこにもなかったのだ。
あぁ、もう疲れた、この胸にある矜持も捨て去って、完全に眠ってしまおうか。
倒れ伏しながらそんなことを思うミューの肌に、奇妙な感覚が走り抜けていく。
それは彼女が久しく得られなかった温もりであり、心に火を灯したかのように活力が四肢へと広がっていった。
凍えそうだった体にも熱が宿り、今すぐ死ぬことはなくなったらしい。
「―――ッ」
自分を抱き起す誰かに何かを伝えようとするのだが、舌が上手く回らなかったのだろう、絞り出すようなうめき声にしかならない。
助けてくれと言おうとしたのか、それとも殺してくれと願ったのか、彼女自身にもわからなかったが、縋るような思いがあったのだろう。
もし再起の機会を得られるのならば、戦士としての責務を果たせるのならば、心の奥底にしまわれていた決意に受け取った熱を流していく。
視線を彷徨わせる、自分を抱き起して川まで運んだ誰かを探して――そして彼女は月のような黄金の輝きを発見して呼吸を止めた。
不思議な光を宿したそれは、闇夜を突き刺す月光のようであり人間の瞳ではない。
ある種、神の瞳にも近いのかもしれない、何もかもを見透かすかのような鋭さがあるのだ。
ミューは、その黄金の瞳に恐れを抱く。
そこに秘された力に、背筋を震わせたのだ。
強制的な眠りに引っ張られて瞼を落とす瞬間、黄金の瞳を持つ相手が装備する弓が視界に入って来る。
彼女の瞳は、その弓の輝きとよく似ていた。