商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
それは底の見えない深い沼に沈んでいくかのような光景であった、思わず息を止めてしまうような浮遊感と粘度の高さがあり、溺れてしまうのではと錯覚してしまうような閉塞感を肌で受けることになる。
実際には呼吸は問題なくできるのだが、突然のことに動揺してしまった二人は溺れてしまうのだと錯覚してしまったのだろう。
「……ん」
やがて浮遊感がなくなり、足の裏でしっかりと大地を踏みつける感覚が戻った瞬間に、キャロルは右手にミューの存在を感じながら閉じていた瞼を開く。
彼女の視界に広がっていたのは、先ほどまで彼女たちがいた冬の大神殿ではない、その全く逆である春の神殿であった。
だが何かが異なる、それは流れる空気の匂いであったり、肌で感じる熱であったり、廃神殿全体を取り巻く空気であったりと様々なのだが、共通しているのは何もかもが逆さまであることだろう。
或いは、対になっていると表現すべきなのか、妖精の世界はキャロルたちが当たり前としている世界の裏側とでも言うべきなのかもしれない。
例えば季節、冬から春へと変わってしまっている、例えば空、青から赤へと変わってしまっている。
他にもキャロルが知る草花だったりが微妙に色や形が変化していた、鏡に映されたかのように左右が反転しているようにも感じられてしまう。
ここが妖精の世界、世界の裏側と呼ぶべき場所なのだろう。
「……なんだか神秘的」
神殿にも似た特殊な空間である、もしかしたら神域の一部なのかもしれない。
「やぁやぁようこそ我らが世界へ!! あッ、歓迎の印に桃でもあげよっか?」
困惑している二人の目の前で、妖精の女王はヘラヘラとした笑顔を振りまきながら浮遊していた、それを見たキャロルはその小さな体を鷲掴みにするのだった。
「ちゃんと……帰れるの?」
「痛ッ!? イダダダダッ!? ちょ、やめて、私これでも偉いから!! けっこうな偉さだからぁ!!」
「急に連れ込まれたから仕方ない」
「キ、キャロル殿、本当に尊いお方なので、何卒ご譲歩を!!」
「……それはテイタニアの返答次第」
「帰しますぅ~!! ちゃんと帰しますから!! 約束するって、イダダダッ!!」
言質は取れたので解放すると、テイタニアは女王らしからぬ媚びた表情で神を前にした時のように揉み手を作る。
「へへへ、でもちゃんと会合に参加してくれたらねって……いや~、拒否されると私が怒られちゃうからさ、まぁどんな用事があるかは知らないけど顔くらい出していってよ」
「……わかった」
自分たちがここにいることに神意が関わっているのならば、キャロルとしては拒否することが難しい。
神官ほどの真摯な想いはなくても、キャロルとて神を敬う一人なのだから。
「それで、妖精女王よ、我らが神獣の会合に参加するとして……その、問題はないのでしょうか、不快に思う方もいるのでは?」
「その辺は大丈夫だと思うけど、呑気な連中ばかりだし……一応は世界の調停者な訳よ。まぁちょっと前に大暴れして神様に追放されたドラゴンとかいたけど、あれは頭が悪かったからね」
テイタニアに案内されると、不思議なことに周囲の景色が引き延ばされるように流れていく、自分たちの感覚では普通に歩いているだけなのだが、矢のように世界が流れていくのだ。
どこか遠い場所に強制的に運ばれているようであり、乗り物酔いにも似た気持ち悪さを感じてしまう光景である。
やがて矢のように過ぎ去る世界が元に戻る、すると彼女たちの目の前に広がっていたのは穏やかな花畑がどこまでも広がる幻想的な空間であった。
木々と、花々と、太陽の光が常に降り注ぐ、そして突然現れた三人へと視線を送るのは無数の小さな妖精たちである。
「ここが私たち妖精の国よ、どうよ、凄いでしょ!!」
テイタニアが胸を張って見せつけるように両手を広げた、そんな彼女の周囲には無数の妖精たちが群がっており、肩や腕のマッサージを始めた。
「はぁ~、疲れたわぁ、妖精使いが荒くてさぁ……あ、桃を持ってきて桃、お腹すいちゃったてさ」
「はい女王様、すぐに持ってきますねぇ~」
「やっぱ地元はいいわぁ、神に顎で使われることもないし、ぐーたらしてても甘やかしてくれるしさぁ」
「女王様はいつも忙しそうですねぇ~」
「あ、そうだ、この前の人間の領域から持ってきたお酒とかありますよ、テイタニア様もどうですか?」
「マジで!? やるじゃないアンタ、乾杯しましょう!!」
部下と思われる妖精たちに囲まれながらワイワイと騒ぐ、やはりキャロルからしてみるとその姿に威厳の欠片もないのだが、どうやら仲間の妖精たちには慕われているらしい。
「あぁ、それと、鹿神様とぉ、熊神様がぁ、ようやく見つかったみたいです」
「えぇ……それじゃぁこれまでの私の苦労は何だったのよ」
「桃持ってきましたぁ!!」
「でかした!! うぉぉぉぉ!! この一口の為に生きてるのよねぇ!!」
妖精たちからしてみれば巨大な桃に抱き着き、噛みつくように果肉を頬張っていく。
「アンタたちも食べなよ、うちの国で一番の果物なんだから」
「ん……ありがとう」
「……これは大丈夫な物なのでしょうか? 妖精の国にある果物を食べたら最後、帰れなくなるとも聞きますが」
「そんな悪質な噂を誰が広めたのよぉ……あ、でも大昔に迷い込んできた人間はやけにこの桃を気に入ってたわね。もとの場所に帰してやるって言ってんのに種を絶対に持ち帰るって長い間ごねてたような気も……あれって何年前のことだったかしら」
その話を聞いてミューは手に持つ桃を怪しげに凝視する、美しさも度が過ぎれば魔術となるのだから、美味しさも限度を超えればある種の呪いや魔術となるものである。
極上の美酒を求めて戦争が起こった歴史すらあるのだ、妖精の国にあるこの桃がその至高の領域にあっても不思議ではない。
口にしたら、魅せられても不自然ではないのだろう。
だがミューのそんな警戒心を無視するかのように、キャロルは小さな唇を精一杯開いて、二年ぶりとなる甘味を頬張って見せる。
「ん……これは……美味しい!!」
二年近くこういった物を口にしていなかったこともあるが、それを抜きにしてもこの桃は美味であった、森の中で入手できる酸味や苦みを含んだ果物とは根っこの部分から異なりただただ甘く、それでありながら全くしつこさを感じない。
「……幾らでも食べられそう」
「種までしっかり食べるのよ、万病に効いて寿命も延びるって話だからさ」
「……本当に危ない物なのでは?」
ミューは警戒しながらも、好奇心には勝てなかったのか桃に齧りつく。
「あぁ……これは美味だ、至高の領域に近い果物なのですね」
自分が、これまでの人生で口にした果物は全て腐っていたのだ、そんな確信を得てしまうような甘さと瑞々しさを舌で感じながら、胃へと落としていく。
同時に、警戒心は最大にまで高まる、この桃は人間の世界に持って帰ってはいけない類の物なのだと理解したからだ。
万人に手渡せるのならばまだ問題はないのだが、少なければこれを巡って争いが起こっても不思議ではない果物であり、恐ろしいとすら感じてしまっている。
「キャロル殿、やはりこれは危険な物かと―――」
そんな彼女の考えを知ってか知らずか、キャロルはおかわりを要求して頬を膨らませていた。
「……美味しいものは、難しく考える必要ない」
「そうそう、楽しんでお腹いっぱい食べればそれでいいのよ」
ミューの警戒はキャロルには届かないようだ、幸いにも桃に酔っているようには見えないのが救いだろう、彼女の中にある神格のなせる技なのかもしれない。
主、と認識している少女の様子にエルフは溜息を吐く―――そんな彼女の背後から草を踏む足音が届く。
距離はすぐ後ろ、戦士であるミューがそこまで近づかれてしまう程の何かがそこにいた。
「誰だッ!! なッ!?」
慌てて振り返り、そこにいた存在にミューは驚愕した。
「あれ、狼神様じゃん、おひさ~」
テイタニアの呑気な声が証明するように、そこにいたのは白銀の体毛を持つ大きなオオカミだ、それも正しく巨体である、頭から尻尾まで軽く五メートルは超えるサイズであった。
狼という種を逸脱した体と、輝く白銀の体毛、何よりその体から放たれる神威とでも呼ぶべきものが、この狼の格を示している。
神獣の一柱、大神である生命神の忠実な眷属、神の先触れ、自然の調停者、様々な呼び名があるだろうが、ミューは口を開く前に勢いよく花の丘に跪いて頭を垂れる。
そんな彼女の頭頂部を、狼神は鼻を鳴らして匂いを……いや、存在を嗅ぎ取ろうとしていた。
「あぁ……懐かしい匂いだ、森の子か……以前に会ったのは……何百年前のことか」
巨大な狼は、その荒々しい野性的な存在感とは正反対の、澄んだ女性らしい声を花の丘に響かせる。
声だけを聴けば、酸いも甘いも知り尽くした老婆のようにも思えたかもしれない、そんな落ち着いた声であった。
「狼神様、拝謁の栄誉を賜り、心より感謝いたします」
「うむ……そう固くなる……必要はない……我らも、其方らも……皆……等しく神の子なのだから」
そこで狼神の瞳はキャロルへと向いた、僅かに目を細めて彼女を観察すると、緩やかに近づいて先ほどと同じように鼻を鳴らして存在を嗅ぎ取っていく。
「そちらは、奇妙な……人の子だ……我々と同じ……神格を有しているのか……以前にも……似たような男が……いたような……確か、あれは」
何かを考えて思い出すように狼神が視線を彷徨わせていく、そんな彼女に答えを授けたのはまたも異なる声であった。
「狩猟王と呼ばれた男のことかにゃ? 鹿神の角を折って弓を作った阿呆にゃあ」
狼神が現れた方向とは真逆の場所から現れたのは、膝に乗せられるほどの黒猫である。
ただ普通の猫と異なり言葉を話し、尻尾が二本あるのが特徴だろう。
当然、この黒猫もまた神獣の一匹である。
「あぁ……そうだ……あの男と……気配が……よく似ている」
納得したのか狼神は大きく頷いてから、ゆっくりとその場に横になると、妖精たちが用意した桃を口に含む。
「うむ……やはり……美味である」
「私にも桃が欲しいにゃあ~」
そして猫もまた花の丘の頂で桃を齧った、すると桃の香りに誘われたかのようにその場には様々な獣たちが集うのだった。
それは形も種族も異なりながらも、誰もが神威を発しているという点において共通している存在たちである。
大きな鷹が花の丘に着地して積まれた桃を啄み、黄金色の狐がいつの間にか狼神の背中で丸くなっており、毛むくじゃらの兎が同じようによじ登ろうとしていた。
空を見上げれば、日光を遮るかのように巨大なクジラが穏やかに空を遊泳しており、他にも大小様々な魚たちがそれに続いている。
無数の神獣たちが花の丘に集い、まるで世間話をするかのような気軽さで話し合っているのだ、大量の神威に充てられてしまったのかミューは額を大地にひっ付けた状態のままプルプルと震えており、そこから動こうとしない。
椅子か何かに思われてしまったのか、神格を持った蛇がその背中に身を下して寛いでいた。
「あぁ、やっと来たわね、どれだけ待ったと思ってるんだか」
神獣たちに囲まれながらも緊張した様子もなく呑気に桃を齧っていたテイタニアが、とある神獣を見つけてそんな声を上げた、彼女の視線の先には立派な黄金の角と体毛を煌かせる鹿神の姿がある。
「あ……久しぶり」
見知った存在を認識したことでキャロルも桃から離れて声を発した、かつて自分が切り落とした巨大な角はすっかり生え変わっており、以前よりも立派な姿になっているようだ。
「うん? おぉ……いつぞやの小さな勇士ではないか、よもやこのような場所で再会するとは、うむ、良いことだ」
体毛や角と同じ金色の瞳がキャロルを細かく観察するかのように移ろう、瞳だけを見れば両者は鏡合わせのように瓜二つである。
「ふむふむ、なるほど、随分と馴染んでいるようだな。あの男もそうだったが、人の子は本当に面白い」
何かに納得したのかうんうんと頷きながら鹿神は輪の中に加わっていく、それは震えて蹲るミューと桃を齧るキャロルの真ん中であり、巨大な神威を感じ取ったのか鹿神の巨体の向こうからか細い悲鳴が届く。
「勇士よ、再会を祝おう、この前ぶりであるな」
キャロルにとっては二年の歳月であったとしても、神獣の感覚ではこの前という感覚なのだろう、それこそ十数年と言う時間でも同じことを言うのかもしれない。
「うん……久しぶり。見て、弓にしたよ」
かつて切り落とした角、今はキャロルの弓を鹿神へと見せつけると、鹿神は穏やかに笑い声を響かせて来る。
「ははは、役に立っているのならば良いことだ、小さな勇士の器にもよく馴染んでいる」
全てを見通すかのような金色の瞳が彼女を見定めていく、当然ながらキャロルの体に宿る神格をも認識したことだろう。
キャロルと同じ瞳をしているのだ、魂を観察することなど造作もない。
両者は思わぬ再会に笑い合い、分け合うよう桃を口にするのだった。