商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
溶け始めた雪が水分を溜め込んで泥のように重たくなっている、キャロルが身に着ける皮の靴がそれらを踏みつけるとビシャッと弾けて流れていった。
完全な春ではないが降り注ぐ太陽の光は暖かい、雪化粧に染め上げられていた大樹海にも徐々に緑が覗いているようだ。
彼女はぬかるむ地面をしっかりと踏みしめると、視線を上げて木々の隙間から見える空を見上げた。
そして腰の矢筒から一本の矢を取り出して黄金の弓へと重ねる、鏃が向けられる先は空を優雅に羽ばたく鳥らしい。
暫し鏃が揺れ動き、ここぞというタイミングを見極めた瞬間に引き絞っていた矢を解き放つ。
すると、まるでそうなることが決まっていたかのように、放たれた矢は鳥を正確に穿った。
絶命して墜落してくる鳥を確認して、落下場所まで進んで拾い上げる。
どうやらこの鳥が本日の食事となるらしい、それなりに大きな鳥なので二人分の夕餉にはなるだろう。
キャロルはその鳥をぶら下げながら大樹海の中を進み、草と枝で巧妙に隠された拠点へと向かった。
「鳥……取れたよ」
木々の間に枝の柱を立てて、そこに毛皮を被せて簡易の天幕を作り、その上に更に葉や蔦で偽装を施した拠点であった、遠くから見れば大樹海に溶け込んであまり目立たない。
どうやらそこが現在の拠点であるらしい、同じ場所にミューも待機しており、彼女はうつ伏せの状態で身を低くしながら遠くを観察していた。
彼女たちの先にあるのは雲にまで届くほどの大きさを持つ世界樹である、簡易の拠点からそこまでそれなりの距離がある。
何をどうしようが弓は届かない距離だろう、だが彼女たちは特に苦労することもなく世界樹を中心に広がるエルフの里の様子を観察することができている。
「ゴブリンにオーク……ミノタウロスにオーガまで、どうしてあれだけの戦力が我らの里にいるんだ」
苛立ちと焦りを含んだ言葉を聞きながら、キャロルは鳥の羽を毟り取りながら頷きを返す。
「うん……よく喧嘩しないね」
「そうですね……上位者による指揮系統があるのやもしれません」
二人の瞳がエルフの里に群がる魔物の群れから世界樹へと向けられた。
無数の木々と枝によって中を観察することはできないが、そこから放たれる圧倒的な存在感だけは感じ取ることができる。
姿は見えずとも、神威とでも言うべきものが漏れ出ているのだ。
エルフの里に広がる熱狂は、彼らの神を仰いでいるが故なのかもしれない。
「とりあえず……食べよう」
森に潜ませた簡易拠点から観察できるだけでもかなりの数がいる、正面から挑むには最低でも同じ数だけの戦力が必要になるだろう、二人だけではどうしようもない。
最初から無理だとわかっているので、できないことに頭を悩ませるよりも、まずは腹ごしらえだとキャロルは言った。
掘り起こした枯れ木と落ち葉を集めて作った篝火で羽を毟った鳥の肉を焼いていき、細い枝に突き刺さった肉をキャロルは差し出す。
目の前に魔物の群れがいたとしても特に焦った様子もない姿は頼りになるのだが、同じように振る舞うのはミューには難しいようだ。
「ん……どうしようか?」
そんな彼女の焦りを感じ取ったのだろう、キャロルはこれからの道筋を探るようにそんなことを尋ねる。
「……あれだけの群れを相手取るのは厳しい、森に潜み端にいる浮いた駒を徐々に削っていく策しか今は考えられません」
「援軍とかも、難しいかな」
「はい、我らの同胞がいればそれも叶うのですが……生きているのか、森に潜んでいるのか、ハッキリわからないのが現状です」
可能性としてはありえるだろう、ミューのように嵐に流されながらも生き残った実例があるのだ、他のエルフたちが同じように森に潜んで機会を探っていたとしても不思議ではない。
そして故郷を取り戻したいという理由が彼らにはあるはずだ、接触さえできれば共闘も不可能ではないだろう。
見つかれば、という最大の問題はあるのだろうが。
「ん……じゃあ、端っこから削っていくで、良い?」
「或いは潜入して世界樹に近づき、あの神威を放つ存在を討つか、でしょうね」
どうやら両者共に正面から戦うつもりはないようだ、森に潜んでゲリラ的な攻勢を仕掛けるか、懐に忍び込んで暗殺するか、二人にできるのはそれくらいだった。
ミューは最終的な判断を託したらしい、キャロルは鳥の肉を齧りながら瞼を閉じてどうしたものかと悩んでいる。
ゲリラ的な攻撃をしかけた場合、殲滅できるまでにどれだけの時間がかかるかわからない、そして潜入の場合は無視できない危険がどうしても付きまとう。
暫く悩んだ後に、時間はかかるが危険は少ないだろうと、前者よりの作戦で行こうと決断するのだが、そんな彼女の耳につんざくような悲鳴が僅かに届く。
「……悲鳴?」
聞き逃してしまう程に遠くから聞こえて来る悲鳴である、神秘を宿したことで研ぎ澄まされた五感を持つ彼女だからこそ気が付けたのだろう。
身を顰めて偽装した拠点から世界樹の周辺を探る、黄金の瞳が暫し左右に揺れてから悲鳴の主を発見した。
「ッ!! あそこ!!」
キャロルが指さしたのはエルフの里の一角だ、木造の蔵と思われる場所に大きな体躯の魔物がおり、その肩にはエルフの少女らしき者が担がれている。
大きな体の魔物、オークと呼ばれる存在は、そのまま担いだ少女を蔵へ放り込むように投げ捨ててから、自分も中へと入っていった。
ミューもまた指先の先で繰り広げられている凶行を発見したのだろう、眉を顰めて険しい表情となっていた。
「知り合い?」
「おそらくは……里の者は、皆が顔見知りですので」
あの少女はもしかしたらキャロルたちと同じように森に潜んでいたのかもしれない、そして見つかってしまったのだろう。
だとしたらあの大きな蔵は檻のように扱われているのかもしれない、他にも捕らわれている者がいても不思議ではない。
同胞が捕らわれていることにミューの焦りは最大となった、今にも駆けだしてしまいそうな怒気と力みが体中に広がるのだが、その手に握られている黄金の槍の淡い輝きが視界に入ったことでなんとか自制した。
焦るな、冷静になれ、そう言い聞かせて力みを解していく、しかし隣にいたキャロルから予想外の言葉が飛び出る。
「ん……助けよう」
「えッ……いや、しかしそれは」
「……助けないの?」
「そうではありません、そうではありませんが……危険、だと判断します」
「嘘……今にも走り出しそうだった」
「キャロル殿……優先すべきは魔王を討つことかと考えます、私個人の感情は別にすべきかと」
「ん……じゃあ、助けに行く言い訳を作ろうか」
僅かに首を傾けて思案してから、キャロルはミューにこう言った。
「ほら、戦力が必要だから……うん、それじゃダメかな」
そこでミューは、自分が配慮されているのだと気が付いたようだ、同胞と故郷の危機を前にして焦りは当然であり、キャロルはその感情を汲もうとしているのだと。
仲間がいればできることも多くなる、だからこそそんな言い訳を用意しているのだろう。
「……感謝いたします」
黄金の槍を持つ手に力が入り、封じ込めようとしていた怒気が再び溢れだしていく。
そして彼女は、その場に跪いて首を垂れる。
「キャロル殿、私は同胞を救いたい、貴女の力を貸していただけないだろうか」
「ん……行こう。このまま放置しても、ミューは必ず後悔するだろうし、それで良いと思う」
危険であるかどうかは関係がないのだろう、それよりもミューの感情を優先させている。
困難であっても、どれだけの脅威があっても、臆することなく踏み出し、それを成すという意思を示すこと。
勇気と表現しても良いのかもしれない、英雄と呼ばれる存在には不可欠な物である。
その片鱗は確かにキャロルの中にもあるようだ。
「ならば問題は、どう救出するかですが」
「……どうしようか」
「魔物の群れとは戦闘を避ける、この大前提を守りながら潜入するしかないでしょう。狩猟の時に使う魔術があるのでそれを使いましょう」
魔術師ではないキャロルにはそれがどういったものなのかわからない、しかしミューが僅かに指先を揺らして虚空に何かを描き魔術を構築すると、彼女たちの周囲が途端に静かになった。
大樹海に広がる様々な音や気配が遠くなったかのようだ、匂いすら希薄になったようにも思える。
「完全に透明になることはできませんが、夜に紛れて行動すれば発見され難いかと……ただ、完璧ではありません」
何もしないよりはマシと言うことなのだろうか、実際にこれがあると無いとでは敵地での状況が大きく異なる筈だ。
空を見上げると紫紺色に染まり始めていた、すぐに夜が来るだろう。
キャロルとミューは互いに頷き合い、偽装した簡易拠点から離れて、大樹海と夜の暗闇に紛れながらエルフの里へと進んでいく。
魔物たちが蠢く領域に辿り着く頃には、辺りはすっかり夜に包まれていた。
気配や音や匂いはミューの魔術で薄くなっているが、彼女の言葉の通り完全な偽装には遠い、身を低くして視界から外れることが必要となる。
呼吸を殺し、周囲を見渡して、魔物がいないことを確認してから数メートル進み、また周囲を注意深く観察していく、潜入とはその繰り返しだ。
「……あれは、闇神殿か?」
嵐によって深刻な被害を受けた上に、魔物たちに占領されてかつての美しさを失った故郷を見てミューは険しい表情を見せた、何よりも苛立ちを大きくするのが里に作り上げられた闇神殿と思わしき建築物だ。
大きな柱が悍ましい光を宿して輝いている、ゴブリンやオークといった魔の眷属たちはその柱に跪いて万歳を繰り返しているようだ。
故郷を邪悪で汚される様は怒りが溢れて来るが、そのおかげもあって魔物たちの視界から外れることができているのだろう。
今は見逃すことしかできない、いずれ然るべき時が来たら粉砕してやると心に秘めるしかなかった。
それよりも今は同胞の救出である、二人は嵐に襲われながら健在であった蔵を目指して慎重に進んでいく。
時折、魔の眷属たちと距離が近づくこともあったのだが、ミューの魔術と夜の暗闇のおかげか発見されることはない。
潜入そのものは順調に進んでいる、里の地理に詳しいミューが先導しているので迷うこともない、だが極度の緊張からか彼女たちの頬には冷や汗が伝っていた。
それを拭い取って更に歩を進めると、いよいよ大きな蔵が幾つも連なる区域へと近づくことができた、元々は里のエルフたちが食料や武器などを保存する共有の蔵であったらしい、連なるそれらはざっと十はあるだろうか、もし全てに捕虜が収監されているのならかなりの数がいるのかもしれない。
蔵に近づくにつれて中からくぐもった悲鳴のようなものも聞こえて来た、わかってはいたことだがまともな扱いはされていないのだろう。
「躊躇なく……一気に行く」
中には高い確率で魔の眷属がいるはずだ、ここばかりは戦闘が避けられない。
音も気配も無く、僅かな残り香すらも残さない速度で制圧する必要があった。
頑強な作りの蔵の扉に手をかけて、その向こうを見透かすかのように黄金の瞳が煌くと、大きく深呼吸をしてから二人は中へと踏み込んでいく。
最初に、二人に届いたのは淫臭だ、凌辱の気配に満ちたそこには倒れ伏す幾人かのエルフと、彼女たちに圧し掛かる魔の眷属たちがいる。
エルフの数は四人、魔の眷属たちはその倍はいるようだ。
「戦神よ、戦場の王よ、力を貸し与え下さい」
それを見たミューが祈りと共に一歩距離を詰める、すると黄金の槍先が揺れ動き無数に枝分かれした鋭い突起が最も近くにいたオークの喉元へと食い込んだ。
それで終わりではない、ミューの動きが止まることはなく、枝分かれした槍先は蔵の中に軌跡を残しながら次々と魔の眷属を屠っていく。
静かに、音もなく、喉を貫かれ裂かれるのだ、オークたちは何が起こったのか知る由も無かっただろう。
八体のオークと数体のゴブリンが一呼吸の間に倒れ伏して亡骸と化した、キャロルが何もしなくてもそれくらいは造作もないようだ。
元々、戦士としての教育を受けた上に本人の才能もあったのだ、そこに神性を宿せば戦士として一皮剥けても不思議ではない。
「ん……凄い」
ミューの戦いぶりを見てキャロルは素直にそう思ったようだ。
大きな騒ぎもなければ悲鳴や物音一つ出ていない、これならば想定よりも大きな障害なく救出できるかもしれない。
魔の眷属たちの多くが闇神殿に夢中であることも有利に進んでいる、だからなのか少しだけ気が楽になったのだろう。
キャロルは別の蔵も確かめる為に外へと出て周囲を伺った、やはり魔の眷属たちの多くが闇神殿に集っているのか気配は遠い。
油断している訳ではない、瞳も肌も鼻も、五感の全てが脅威を探しているのは間違いないのだ。
だが、それでも、彼女の警戒をすり抜けるかのように、大きな羽音が耳へと届く。
「あらん? どこかで見た顔じゃない」
魔王との邂逅は、あまりにも突然であった。