商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
まず最初に嵐の王が感じたのは疑問であったことだろう、羽虫のような小さな存在だと思っていた妖精に指差された瞬間に、己の領域である空がひっくり返されたのだ。
空がひっくり返る、彼の感覚で言えばその表現がよく似合う、ありえないことだが実際に彼はそう感じてしまったのである。
いつものように嵐を束ねて他者を蹂躙しようとしたまさにその瞬間に、頭上に広がっている筈の曇天と地上を埋め尽くす枯れた森が入れ替わり、ついでとばかりに左右の感覚すらも失って、最後にはきりもみしながら落ちていく。
不思議な現象である、対峙した小さな妖精との距離すらも今は曖昧になってしまっている。
そう、曖昧だ、前後左右は勿論のこと上下すらも不確かであった、両者の距離も同様でありなんだったら時間の流れすら狂っているようにも思えてしまう。
嵐の王は揺れる視界の中で今一度テイタニアを凝視する、やはり小さな存在だが不思議と巨大に見えてしまう、目の前にいるようにも思えるし手が届かないほどに遠くにいるようにも思えた。
彼女を中心に、あらゆる法則が曲がってしまったかのように不規則に流れている。
「へへん、どんなもんよ!!」
自分よりも上空でこちらを見下ろす小さな妖精が、羽虫ではなく自分の敵に足りえるのだと理解した瞬間と、彼がきりもみ状態から体幹を取り戻したのが全くの同時であった。
両者の状況は明確になっていた、見上げる魔王と見下ろす妖精だ、今の彼らの立場をよく表している。
「▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇ッ!!」
「何言ってるかイマイチわかんないけど、私を敬ってることはわかるわね……うぅん、何々? 私には敵いません? 可憐な女王の手下にしてくださいだってぇ? いや~困っちゃうな、偉大な存在っていうのはちょっとしたことで敬われるもんだから!!」
その挑発に対する返答は、巨大な暴風によって巻き上げられた大量の木々であった。
嵐の王を中心に竜巻が吹き荒れて、それによって地上から巻き上げられた大量の枯れた木を、更に渦巻かせながらまとめ上げると、それらを妖精女王へ向けて解き放つ。
それはさながら、嵐の砲弾とも言うべきものであった、大自然の猛威が無秩序に吹き荒れるのではなく、法則を得たことでより破壊力が増してしまっているようだ。
暴風と木々による砲弾は、しかし妖精女王には届かない。
本来ならば必殺のそれを防ぐ術はない、火山の噴火を抑えられないように嵐を防ぐことなどできはしない、だが妖精女王へはその通りが届かなかった。
嵐の砲弾は確かに妖精女王へと向かったのだが、彼女を目前に姿を消してしまう。
テイタニアを中心にぐにゃりと空間が歪んだかと思えば、彼女へ向かっていた暴風とその中に渦巻く大量の木々は吸い込まれるように消えていく。
後に残ったのは静寂だ、吹き荒れる暴力はどこにも存在しない。
「▇▇▇▇▇▇▇▇▇ッ!?」
一体何をしたのかと叫んでいるのかもしれない、少なくとも嵐の王の想定を超える現象であることは間違いないだろう。
それは嵐の王にとってテイタニアが敵から強敵へと繰り上がった瞬間でもあった。
最早、羽虫とは思わない、思えない、小さな妖精は自らを見下ろすことのできる強者である。
どす黒く、そして醜く肥え太った魔王がそんな風に認識を改めた。
そして彼は、様子見を止めて本気になるのだった。
「▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇」
嵐の勢いが一つも二つも増した、空を渦巻く曇天は黒く染まり、雷や雹をまき散らしながら嵐の王を本来あるべき場所まで押し上げていく。
テイタニアと黒い胎児の視線が同等となった、両者は暫く睨み合う形となる。
片や嵐を従え、片や正反対である凪の中を漂う、姿もあり方も異なる両者は、互いに見えない手を伸ばして牽制するかのように引いては攻めても繰り返す。
テイタニアが進めば嵐の王が下がり、嵐の王が前に出ればテイタニアが下がる、そんなことを何度も繰り返す光景は、達人の立ち合いにも似ていた。
互いに決め手にかける牽制の応酬を暫く重ね合う、しかしそれを無意味な時間だと思っているのは黒い胎児だけであった。
彼は気が付いていない、この戦場にいるのはテイタニアだけでないことに。
世界樹から離れてテイタニアと対峙する彼を取り囲むかのように、エルフの戦士たちが地上に身を潜ませながら包囲網を築いており、一際大きな存在感を放つ妖精女王に気をとられてそこに注意を割けていないのだろう。
彼の幼さによる弱点の一つだ、力は巨大だが戦士としての俯瞰性に欠けてしまっている。
その中に天敵と認識しているキャロルの姿もあることにすら気が付いていないのだから、ただ力だけが突出しているのも考えものなのかもしれない。
嵐の王がもう少し戦士としての成長を得ていたのならば、戦いは一対一が基本とは考えなかっただろう。
成熟の全てを犠牲にして力を得る、そうエキドナに生み出された結果の幼さであり力なのだ。
だからこそ、嵐の王は他の魔王の誰よりも強く、誰よりも幼い。
そして幼いが故に加減も知らなければ躊躇も知らない、小賢しさなど不要であり似合わない、ただただ純粋に力を放出するだけである、子供に加減などわかるはずもなかった。
「うぇッ!?」
テイタニアが驚きの声を上げたのは、嵐の王の周囲に巨大な竜巻が巻き上がったからだろう、それも一つや二つではなく幾つもである。
そしてそれは始まりに過ぎなかった、作り出された竜巻は大地を抉りながら嵐の王に集うと一つの巨大な流れと化した、それは木々を巻き上げるだけでなく空からも雹を初めとした大量の水分を引き寄せていく。
巨大な、あまりにも巨大な竜巻は天と地を繋げるほどに長く太い、大地から救い上げられる木々や土砂と、空から吸い込まれる雹や雲や水分が合流する中間地点で、彼は吠える。
「▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇ッ!!」
「ふん、受けて立ってやろうじゃない!!」
およそ対抗策など思いつかない規模の力の奔流であるが、テイタニアに驚きはあっても恐れはない、彼女を中心に広がる曖昧な空間は嵐の王に負けないほどに広がっているようだ。
そして両者は示し合ったかのようなタイミングで力を放つ、それは力と力のぶつかり合いと言うよりは、自らの領域を染め合うかのような衝突である。
形容しがたい衝撃と破砕音が空から降り注ぐと、それは一瞬で収まることはなく大樹海に広まっていく。
吹き荒れる力の余波でさえ必殺だろう、両者の中間地点には生命が生き残れる隙間などどこにも存在せず、それは巨大な力の相克を証明していた。
「▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇ッ!!」
「ふんが、うぎぎぎぎぎぎぎいッ!?」
綱引きなのか殴り合いなのか第三者からはわからない、だが少なくとも観察者であるキャロルが遠目からみた限りでは互角のようにも思えたのだろう。
互角である、魔王に匹敵する力を操るテイタニアを褒めるべきなのか、それとも妖精女王の力を持ってしても押し切れない嵐の王を恐れるべきなのか。
何であれ両者の相克は暫く続くことになる、同時に双方ともに相手の本質を見抜くことにも繋がった。
嵐の王は妖精女王を中心に流れる空間を注視した、自らの力がそこへ侵入した瞬間に緩まってしまうことに苛立ちがあったのだがそれも当然だろう、あちら側は彼の支配する領域ではないのだから。
あれは妖精の領土、領域だ、大地に海が境界を作るかのように別世界となってしまっている。
鳥は海を泳げない、魚は海の外へと出れない、獣は大地を駆けることはできても飛翔や潜水は似合わない、それと同じことであった。
距離や方向が曖昧でわかりづらいはずである、あちらはこちらの世界から切り離された、或いは裏側とでも呼ぶべき場所なのだ、嵐の王がどれだけ巨大な力を振るおうとも支配できるのは空だけであり、言ってしまえばそれだけの力でしかない。
空を統べることができたとして、海や大地を掌握できはしない、それと同じように妖精の領域を支配することなどできはしない、その権利を持つのは妖精女王だけなのだから。
しかしそれは相手にもまた同じことが言えるだろう。
妖精女王もまた、嵐の王の領域を制することができない、だから両者のぶつかり合いはどれだけ繰り返そうとも互角に落ち着く。
仮に丸一日戦ったとしても結果は変わらないだろう、一年でも同じはずだ。
互角だからこそ、そこに割って入る他者の存在が大きいのだろう。
嵐の王は妖精女王を注視するあまりまだ気が付いていない、この戦場に己の天敵ともいうべき輝きがあることを。
「弓神よ、悉くを穿つ力を与えたまえ」
吹き荒れる風の中であってもブレることのない鏃がそこにはあった、目も覚めるほどの黄金の輝きと共に。
キャロルが暴風の中に身を潜ませながら神への祈りを終えていた、その身に齎された加護は巨大であり彼女の体を経由して引き絞られた矢へと集っている。
嵐の王はその段階でようやく彼女の存在に気が付く、そして周囲に広がったエルフの戦士たちにもだ。
「▇▇▇▇▇」
その口から漏れ出た言葉を理解した者はいない、もしかしたら命乞いの言葉であったのかもしれないが、誰にもわからない。
「ん……落ちて」
キャロルは黄金の瞳で捉えた目標に向けて矢を解き放つ、気負いも緊張もなくただ淡々と。
鏃が向けられた方向に嵐の王はいない、いっそ見当外れとさえ思えるほどに滅茶苦茶な方向であったが、暴風吹き荒れるこの戦場において矢が真っすぐ進むことなどありえないだろう。
だからキャロルはその先に何も存在しない空へと矢を放つ、それは四方八方に吹き荒れる風の道に乗りながら左右上下へとうねり、それでもなお吸い寄せられるかのように嵐を泳ぎ切り、最終目標である黒い胎児へと迫る。
何が起こったのか彼にはわからなかった、ただ背筋を震わせる悪寒に従っていつかのように体を僅かに反らしたのだ。
それによって、いつかのように左半身を食いちぎられるだけで済むことになる。
「▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇ッ!?」
凄まじく肥え太った彼の体格は今はかつてとは比べものにもならない、小さな胎児であった時なら今の一撃で心臓をもぎ取られるように絶命していただろう。
世界樹に宿る肉の果実のような姿であったことで的が大きくなったのだが、それによって致命にまでは届かなかったらしい。
だが大きな痛痒であることは間違いない、太った彼の体は左半身が食いちぎられたかのように消失しており、体幹を崩した嵐の王は再びきりもみしながら大地へと落ちていく。
天から地へと真っ逆さまに落下していく彼は、揺れる視界の中に黄金の輝きを見つけることになる。
それは彼にとっての太陽であり、唯一絶対の鋭さを持つ刃と変わらないものだ、破邪の輝きとなって吸い込まれるようにその身を穿つ理不尽の極みであった。
何故ここにいる、どうしてまた帰って来たのか、そんな疑問が黒い胎児の脳裏に去来する、せっかく敢えて逃がしたのだからそのまま逃げればよかったのだと考えていたのかもしれない。
キャロルは彼にとってトラウマそのものだ、かつて自分を殺した一撃を再現できる畏怖そのものである、だからエキドナにも殺すようにお願いしてそれが叶わないのであれば視界に入らないように逃がした。
キャロルがエルフの戦士たちと逃れようとした時、彼にとっても恐怖の象徴を遠ざける好機でもあったのだろう。
だというのに、彼女は今もここにいる、それが嵐の王には理解できなかった。
理解はできなかったが、一つだけ受け入れたことが、受け入れなければならないことがある。
「▇▇」
彼女は、自分と殺し合う宿願があるのだと、どれだけ距離が離れようとも最後にはぶつかり合う結末しかないのだと、黒い胎児は受け入れた。
最早、逃亡に意味はない、どれだけ遠ざけようともキャロルは最後には必ず自分の前に立つだろう、それは偶然ではなく必然でありそして宿命なのだろう。
ならば、ならばだ、今日ここに至っては覚悟を決めるしかない。
あの黄金の輝きを塗りつぶさなくては、己に活路は無い。
幼い魔王は恐怖を乗り越えて飼いならすことをこの瞬間に学んだのだ、それは戦士としての始まりであった。
だが大地に落とされた彼にその成長の時間を与えるほどに、この場にいる戦士たちは幼くはない、攻める時は徹底的かつ一方的に、その鉄則を理解した者たちが多く潜んでいる。
「見事だキャロル殿、貴女こそ弓神の化身に相応しい」
魔王が大地へ落とされたことを確認したカーバンクルは惜しみない賞賛をキャロルへ贈っていた、そして落下地点を囲むように広がる同胞たちへと合図を示す。
「そして魔王よ、貴様から見れば我々など地を這うネズミと大差が無いのだろう……だが追い詰められたネズミは怖いぞ、その無駄に蓄えた肉に噛み千切るくらいにはな」
大地がうねるように波打っていることに気が付いたのは、嵐の王が大地に大の字になって落ちた瞬間であった。
地震のようにも思えるが、それにしては不自然で局地的なもののようにも感じられる、敢えて表現するのならば火山の噴火とでも言うべきなのかもしれない。
そう、これは、地中深くから何かが溢れて来るかのような揺れである、そしてその答えは数秒後に晒されることになった。
「▇▇▇▇ッ!?」
嵐の王が落下した場所を中心に大地が盛り上がり、蜘蛛の巣状にひび割れてその裂け目から淡く輝く何かが漏れ出ていく。
溶岩のようにも見えるがそれにしては輝きが淡い、そしてドロドロとした液体ではなく澄んだ水のように軽やかなものであり、地上に溢れた瞬間に気化したかのように上空へと吹き出るのだった。
その光景は、地上に落ちた嵐の王を貫く光の柱のようにも見える。
膨大な、そんな言葉ですら足らない量のエネルギーの噴出の中心にいる嵐の王は、予想外の追撃に悲鳴を上げているようだ。
エネルギーの正体は地脈であり、それらを操っているのは周囲に散ったエルフの戦士たちだ、地脈に触れて干渉できる彼らだからこそできる、最大火力の攻撃と言えるだろう。
その地脈の噴火は魔王の体をいともたやすく包み込み、醜く肥え太った体を焼いていく。
嵐の王がその身に取り込んだ地脈の何十倍にも匹敵するエネルギーである、その効果は絶大であった。
無駄に分厚い脂肪を焼き払い、抵抗すらままならない程の激痛を与えたことだろう、それでもまだ死んではいないとカーバンクルは確信しているようだ。
だからこそ、ここからの追撃を緩めるようなことはしない。
戦いとは、一方的に終わらせるのが理想なのだから。
「追撃を緩めるな、ここだ!! ここで奴を滅ぼす!! 持ちうる総力を注ぎ込め、二度と奴を空へと逃すな、この数秒に全てをぶつけるぞ!!」
大地へ落とされ、地脈に炙られて、満身創痍といった状態の魔王へ向けてエルフの戦士たちは地脈への干渉を止めて武器を握った、今ならば矢も刃も魔法も届く。
空の支配者が、大地で何するものぞ。
無数の鋼がのたうち回る嵐の王へと殺到していく、そこに魔王への恐怖は欠片も存在しなかった。