商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
大きな角笛が宿場町へと向けられた次の瞬間に、そこから奏でられる竜の咆哮にも似た爆音に町にいた誰もが思わず耳を塞いだだろう。
ただ大きな音というだけではない、その音色は呪いを宿し相手に押し付ける、この世で最も忌まわしい力と断言できた。
上空に浮かんでいた雲を押し流し、宿場町に連なる様々な建物の屋根を吹き飛ばし、生者全てに呪いを振りかける音色は美しい天使を中心にまさしく音の速度で広がっていく。
小さな虫は一瞬で朽ち果てる、空を優雅に羽ばたく鳥たちはきりもみしながら落下して、大地に足を付ける人々は予想外の爆音に耳を塞いで蹲った。
呪いの音色がただ鼓膜を震わせるだけで終わるはずもなく、音色が収まって数秒後には宿場町のあらゆる場所から悲鳴が広がっていく。
ある者は眠りに落ちるように意識を失い、またある者は正気を失って隣人に掴みかかる、混乱は一瞬で広がった、まさに音の速度でだ。
この宿場町に存在するあらゆる生命の感覚を狂わせて呪いを打ち込んだのだ、規模も威力も矮小な悪魔が振るう呪いとは根っこから異なるだろう。
呪いの格が違う、まさに猛威、呪いの王と評しても良い。
魂に突き刺さり縛る見えない刃にも等しいのかもしれない、これを防ぐには同じく強力な祝福の力が必要になる。
例えばそれらを体に宿す聖騎士、または神に仕えて日々祈りと共にその力に触れている神官、或いは対抗手段を持っている魔術師、この呪いの波動に耐えられるのはそれらだけだ。
だが、耐えられたとしてどうにもできない、混乱は既に広がっているのだから。
呪いを刺されて眠るように意識を失った者はまだ良い、問題なのは正気を失って暴れまわる人々だろう。
正気を失って加減は忘れてしまっている、冷静な判断は遠くにあり極めて重度の酩酊状態のようにフラフラとしながらも、ゾンビのように他者へと襲い掛かる状況である、宿場町全体がそんな者で溢れていた。
それは駐屯していた守備隊も同様であり、この混乱を収めるのは簡単ではない。
「あッ……うッ……あぁ?」
天使に最も近い位置にいたエミリーの容態も深刻な様子であった、呪いの高ぶりを感じ取って咄嗟に呪いを阻む魔術を行使したのだが、さすがに距離が近すぎたらしい。
意識が飛びそうになる、鍛え抜かれた戦士に顎を殴られたかのようにグラグラと頭の中が揺れ動き、視界が裏返ったかのように定まらなくなったかと思えば、そのまま意識が遠ざかっていく。
前後不覚に陥ったエミリーは体幹を崩してその場に倒れこむ、なんとかかろうじでまだ意識を手放していないのだが、そんな状態ではまともな抵抗はできないだろう。
彼女の体にはミミズが走ったかのような痣が広がっており、強固な呪いに犯されているようだ。
宿場町に広がる混乱もどこか遠く、眠りに落ちる前の抗いがたい睡魔を感じながら、指一本すらも動かせない自らの状態に恐怖していた。
「あ……あ……う」
舌も上手く回らないのかただ呻くだけである、そんなエミリーの頭を当然とばかりに男は踏みつける。
グリグリと押し付けられる踵の感覚も今やエミリーには遠いものだ、彼女の注意は暗くなっていく視界の中で、僅かにだが見える白い輝きにだけ向けられていた。
地面に着地したプリメーラとエミリーの視線が重なる、白く美しい天使の表情がエミリーが最後に見た光景である。
そして彼女は静かに意識を手放した、眠るように落ちていく。
「……エミリー」
心配するかのように名前を呼ばれた気もするが、それは彼女へは届かなかっただろう。
「ふん、どれだけ優秀な魔術師でもプリメーラの前ではこれだ……ふふ、ふはははッ、素晴らしいぞ、これでこそ作ったかいがあるというものだ……見ろこの光景を」
エミリーの頭を踏みつけながら男は両手を広げて混乱の広がる宿場町を眺める、その頬は高揚で赤くなっており悦に浸るかのように興奮しているようだ、それを証明するかのように彼の股間は膨らんでいる。
「素晴らしい、世界の誰にこのようなことができようか……私だけ、圧倒的な暴力を持つ者にのみ許された芸術だ」
正確にはこの惨状を生み出したのはプリメーラなのだが、彼は彼女を己の力だと認識しているらしい。
魔術師にとっての研究成果と考えれば正しいのだろう、エミリーが生み出した炎がそうであるように、彼にとってのプリメーラがそうなのだ。
「思わぬ形で新しい体も手に入った、予備は用意してあったが、こちらの方が素体としては優秀だろう」
そして男はエミリーの体を抱き起してからプリメーラへと押し付ける。
「運んでおけ、大事な体だから傷つけぬようにな」
「……はい、お父様」
そして二人は混乱渦巻く宿場町に背を向けて歩き出す、まるで他人事であるかのように。
だが、プリメーラだけは数歩だけ進むと僅かに振り返る、そしてエミリーを抱えながら混乱する宿場町を眺めてから、少しだけ視線を下げた。
そこに転がっていたのは串の先に飴が付いたものである、先ほどエミリーの買ってもらった飴なのだが、それが踏みつぶされたかのように砕けてしまっている。
すると少しだけ寂しそうな顔をプリメーラはするのだが、すぐに引っ込めてエミリーを背負いなおすのだった。
「……ぴ~」
しかし小さな鳥のさえずりは聞こえなかったようだ。
「緊急報告ッ!! 神官団が赴いている宿場町で天使の姿を確認!! 大きな混乱に陥っているとのこと!!」
遠征隊がその行軍の中心としている後方拠点に一人の聖騎士が慌てた様子で駈け込んで来たのは、次の行軍先を決める軍議の最中であった。
戦士団の代表であるアントニウスと、神官団の代表が話し合う天幕に静かに緊張が走る、天使と言う脅威を誘い出すことも今回の行軍目標であったので、覚悟はしていたのだが想定外の邂逅であったのだろう。
必要以上に目立ちながら遠征を行っているこちら側ではなく、少し離れた位置にある宿場町に現れたというのが解せない。
これでは迎え撃つのではなく突撃することになる、未知の相手に挑む上では前者の方がまだマシであるのだが、そこに文句を言えないのが聖騎士たちである。
危険もある、迎え撃つ準備も無駄になる、それでも行かなければならないのが彼らのありかたなのだろう。
敵が誰であるのか、どんな状況にあるのか、そんなことは関係が無い。
「あちらには当方の神官たちが治療に向かっていたはずですが……安否は?」
生命神の神官のそんな問いかけに聖騎士は首を横に振る。
「一部の、宿場町の外側にいた方々は避難できたようですが、神殿にまで向かっていた者に関してはハッキリとしません」
宿場町にある神殿支部で、意識不明に陥っていた者たちの呪いを打ち払う治療を行っていた神官団の大半が安否不明ということだ。
「見捨てるという選択肢はありません……アントニウス団長」
「ええ、お任せを、まずは我々が先方となりますのでその後に続いていただきたい」
「感謝いたします」
アントニウスは椅子から立ち上がって机に立てかけられていた聖剣を腰にぶら下げる、そして部下と守備隊に命令を出すのだった。
「非番の者たちにも召集をかけろ、全てだ」
「はッ!!」
「それと部隊は二つに分ける、宿場町の出入り口をそれぞれ塞ぐように展開するぞ。片方は私がもう片方は……ううん、聖アンジェリーナに任せよう」
少しだけ不安もあるが、士官教育と経験は積ませているので問題ないと判断したらしい。
「守備隊はどういたしますか?」
「彼らは呪いに対抗する手段がない、宿場町の包囲にのみ徹底させてくれ」
つまり宿場町への突入は聖騎士だけで行うということだろう、彼らならばその身に宿した祝福の力で呪いにも対抗できる。
そんな基本方針を伝えたアントニウスはすぐに中央天幕から飛び出して急ぎ足で軍馬に跨ると、まだ準備が整っていない状況でありながらまっすぐに宿場町を目指す。
単騎駆けなど許すわけにはいかないと他の聖騎士たちも次々に軍馬に跨って駆けだしていく、補給の兼ね合いもあって彼らの拠点は宿場町からそれほど離れた位置にある訳でもないので、辿り着くこと自体はそれこそ十分ほどでしかない。
剣術や戦略だけではない、馬術の訓練も聖騎士たちはしっかりとおこなっているので隊列を組むことも難しくはないのだろう、アントニウスに追いついた者たちから順に美しい列を作り乱れることなくそれを維持していた。
隊列は二つに分かれており、それぞれをアントニウスとアンジェリーナが率いる形である。
「ここで散開する!! 聖アンジェリーナ隊は北門、我々は南門だ!!」
勢いよく走る馬上でありながら右手を横に出して支持を出すアントニウスの命令に、他の聖騎士たちは呼吸を合わせて二つの部隊に分かれていく。
その頃には宿場町はかなり近くにまで迫っており、広がっている混乱も視界に収めることができる位置となっていた。
聖騎士たちが見つけたのは宿場町をぐるりと囲む壁であり、北と南にのみ存在する門である。
そこが出入り口なので混乱の噴出口でもあった、正気を失っているであろう人々が暴れまわっているのが確認できてしまう。
正気はなく、理性もない、強い洗脳状態で闘争本能だけを増幅されたような状況である、へたな傭兵が暴れまわっているよりずっと厄介な存在であった。
呪いに蝕まれた被害者であり、そして聖騎士が守らなければならない市民であるのだ、聖剣で真っ二つにしてそれで終わりとはいかない。
剣で片付けられる問題ならばどれだけ楽だろうか、二年前にもエキドナの呪いで似たような者たちが溢れたのだが、あれを鎮圧するのは相応の苦労があった。
強力な呪いは簡単には取り除けない、最終的には娼婦神の神殿が行った大儀式によって彼らは正気を取り戻したが、もしかしたら今回も似たようなことをする必要があるのかもしれない。
「聖水か、祝福の力で取り除ける程度の呪いであってくれよ」
もし宿場町に存在する者を全てから呪いを取り除こうものならば、娼婦神の神殿にかかる負担は莫大なものとなるはずだ、生命神の神殿に属する癒しての数がそれほど大きくないのと同様に、房中術を扱える神殿娼婦とて幾らでもいる訳でもない。
聖水か、それか祝福の力で呪いを排除できるのなら、それに越したことはない。
「やるしかないか……生命神よ、我に加護をお与えいただきたい」
祈りを行うと彼の体に強力な神々の加護が宿る、半神となったアントニウスに宿る力は二年前と比べものにはならない規模であった。
生命神は武神や戦神といった戦いを司る神ではないので、圧倒的な武力を振るうことはできないが、代わりに不死身とも言えるほどの生命力を与えてくれる。
それこそ、腕や足を失ってもすぐに再生して、心臓を潰されたとしても次の瞬間には立ち上がれる程度には生命力を与えて貰えた。
そしてアントニウスの体に宿る祝福の力に磨きがかかっている、それこそ単純な質であれば戦神の半神となったシャルルを超えるほどには。
彼は馬を走らせながら聖剣を抜き放つと、その切っ先を宿場町の門へと向けてこう叫ぶ。
「突貫!!」
叫ぶと同時に太ももで馬の腹を叩くと、それを合図に軍馬は宿場町の出入り口を塞ぐ柵を軽々と飛び越えてみせる。
着地と同時に彼もまた大地へと飛び降りた、巨体に似合わない軽やかな着地であった。
そんな彼に迫るのは理性を無くした宿場町の住人たちだ、白目を向いてゾンビのように彼へ掴みかかろうとするのだが、その指先が届く前に彼の聖剣が鮮やかに揺れ動く。
刃で切り裂いた訳ではない、聖騎士にそれは許されない、なので聖剣の柄や握りしめる拳を相手の顎先へと打ち付けるのだ。
戦いが専門分野ではない生命神の半神とはいえ、それでも神格を宿した戦士の膂力は一般人の比ではない、それこそ全力で殴りつければ簡単に頭を吹き飛ばせるくらいには力強いだろう。
だから加減に加減を重ねて撫でるように顎先を掠めるのだ、すると正気を失って襲い掛かって来た住人たちが腰を抜かしたかのように蹲る。
次に彼はその身に宿る祝福の力を周囲に放つ、ドーム状に広がった強力な祝福の波動は凄まじい勢いで広がっていく。
「ふむ、呪いは解けないか……効果が皆無という訳でもないようだが」
その祝福の波動に包まれた住人たちは僅かに呪いの効果が薄まったようにも思えたが、完全には呪いを遠ざけられていない。
それだけ強力な呪いということだ、表面的なものならば祝福で押し流せることもあるのだが、魂の奥深くまで浸食した呪いには届かないのだろう。
肉体に宿る呪いならば幾らでも対処はできるのだが、魂の奥深くにまで突き刺さる呪いに関しては大規模な儀式を執り行う必要がある。
ならば、現時点で聖騎士たちにできるのは殴って意識を断つことだけだ、ただ切り捨てるよりもずっと困難な目標であった。
だがそれを押し通すのが彼らの仕事である、愚痴や泣き言の前にその拳を冷静かつ加減しながら住民の顎へと向けるのだ、そこを躊躇する者はこの場にはいないらしい。
「無力化した者は守備隊に任せる、手足を縛って暴れないようにしてから保護を!!」
「りょ、了解!!」
聖騎士たちの迅速な、そして躊躇の無い行動と、それを成す決断力に恐れたかのような返事をしたのは、後方拠点から慌てて追いかけて来た守備隊の男である。
「聖騎士団はこのまま全身、正気を失った者を無力化しながら進むぞ!!」
どちらかと言えば普段は穏やかで不真面目さが目立つアントニウスだが、この時ばかりは思わず背筋がピンと立つような声をしており、心がけてもいるようだ。
殺してはいけない相手を制圧するのはアンデットを灰にするほど楽ではないと、緊張させるかのような力がこもった声である。
その声に背中を押されたのだろう、聖騎士たちはアンデットを前にした時よりもずっと集中した様子で住民たちを無力化していくのだった。
殴りつける、拳を振るう、しかしそこにあるのは配慮と加減である、鍛え抜かれた戦士の拳など少しでも力加減を誤れば簡単に相手を殺してしまうので、それこそ薄氷を踏むかのような慎重な作業でもある。
謝罪はしない、それが必要だからだ、そしてもし後々住民から責められたとしても彼らはまさにと受け入れるだろう、それが聖騎士として認められた者の在り方である。
だから、その拳に配慮と加減はあっても一切の躊躇は無い、やると決めた以上はそれを徹底できるだけの訓練を繰り返しているからだ。
そうやって聖騎士たちは襲い掛かって来る住人たちを無力化しながら進んでいき、意識を失っている者は後続の守備隊に任せて宿場町の中を制圧していく。
おそらくは反対側の隊、アンジェリーナの部隊もまた似たような状況になっているものと思われる、大きな鬨の声が聞こえて来るからだ。
巨大な都市ではなくあくまで宿場町なので住民自体はそこまで多くはない、時間をかければ制圧そのものは不可能ではないだろう。
寧ろ問題となるのは立ち塞がる住民よりも、この状況を作り出した相手の方である。
誰よりも前を進むアントニウスがそれに接触するのは必然であるとも言えた。
「……聖騎士か、また面倒な」
何度も繰り返した殴打の先に、人の壁がようやく途切れた頃合いで、魔術師の男とアントニウスが互いを視界に収めることが叶う。
彼の眼には男もそうだが少し後ろにいる天使の姿と、彼女に抱えられるエミリーの存在も映った筈だ、そしてその瞬間には聖剣が鮮やかな軌跡を残して振りぬかれていた。
会話による駆け引きは無かった、その必要がなかったからだ、何千何万と数え切れないほどに振るわれたそれはただの横なぎでありながら、誰にも真似することのできない戦闘芸術と呼べるほどに美しい剣技である。
聖剣には祝福が、大きな体には神格が、それらが合わさった一撃をいなすのは簡単ではない。
それを証明するかのように、魔術師の男が展開していた連なる六角形の盾はあっさりと切り裂かれて、その先にある男の体へと迫り――。
「させない」
その首を切り落とす寸前に、プリメーラの持つ大きな角笛が阻んで見せた。
「お初に、というのも変だが……こうして挨拶するのは間違いなく初めてだな。美しくも恐ろしいお嬢さん、私はアントニウスだ」
「その情報は頭の中にインプットされている、武力組織の長、危険度、極めて高位……神格を宿した聖騎士、半神、脅威と認識する」
「それはなんとも過大な評価だ、しかし褒められるのは幾つになっても嬉しいものだね」
ギャリンッ、と重なり合う角笛と聖剣が押し合い鈍い音を周囲に響かせ、そしてそれが戦いの始まりであったかのように両者は力をぶつけ合う。
「一応は言っておこうか、できれば投降してもらいたいのだがね」
「……不可能」
「そうか、お嬢さん相手に剣を振るうのは気が進まんのだがね……まぁ、こればかりはどうしようもないか」
聖剣が一息に数度振るわれると、プリメーラの背後から彼へ迫っていた不可視の魔術が切り払われるのだった。
見えない筈の力を、斬れない筈のものを斬った彼は、表情から穏やかさを消して静かに剣を構えた。
「押し通らせてもらおう……悪いが加減はできない。恨まんでくれ……いや、言い訳はいらないな、恨んでくれて構わない」
彼が持つ聖剣が巨大な祝福の力を宿す、そこに一切の迷いはない。