商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
エミリーが拉致されていた時に聞いた魔術師の男の目的はすぐに聖騎士団へと伝えられて、彼らは神官団との協議の末に遠征の取りやめを決定したらしい……いや、先延ばしにしたと言うべきだろう。
この遠征で主だった聖騎士と守備隊が動いており確かに聖都の守りは薄い、自分たちの意思で行われたこの遠征が他者の思惑によって引き起こされたものだと説明されたことに少なくない衝撃があったが、それでも混乱することなくアントニウスの鶴の一声で帰還が決定された。
宿場町の情勢もある程度は落ち着いていたのも帰還の判断を出す一因となったのかもしれない、大きな混乱に包まれていた宿場町は既に守備隊と聖騎士たちによって制圧されており、呪いによって理性を失っていた住民たちの身柄は神官団へと預けられている。
従軍娼婦として同行していた娼婦神の神官たちによる大儀式の準備が進められているようだ、住民の引き渡しを完了させた聖騎士と守備隊は一部の戦力と多くの物資をその場に残して帰路を進む。
宿場町の住人たちは神官団に任せ、聖都へ急ぐ彼らの行軍速度は凄まじく早い、危機的な状況を知って急かされているのだろう。
エミリーもまたそんな彼らに交じって聖都へと帰還している一人である、色々とあった上に聖都は最悪戦場になる可能性もあるので無理せず休むべきではと言われはしたのだが、やらなければならないことも出来たので急いでいた。
彼女の工房は聖都にある、戦場であるかどうかはあまり関係がなかった。
馬に跨って巧みに操れる自信はなかったので守備隊が扱う馬車に乗せてもらい、激しい揺れに身を任せながらも頭の中で思い浮かべるのは夜空を埋め尽くすほどの数式である。
そしてエミリーの人差し指は小さく小刻みに揺れていた、まるで黒板に何かを書き記すかのような動きであり、ブツブツと何かを呟いてもいるようだ。
瞼も閉じられており、まさに思い描くように何かを書いていく。
間違いはないか、計算違いはないか、そもそも前提を間違えていないか、そんなことを注意深く観察しながら、見えない黒板に星々ほどの数はあろうかという数式を記す。
聖都までの帰り道を進む間、エミリーの指先が落ち着くことはなかった。
「エミリー様、聖都に付きましたよ」
同じ馬車の中には行きと同じようにマリーの姿がある、どうやら彼女も聖都への帰還組に入ったらしい、あまりに集中するエミリーに配慮して声をかけてこなかったらしい。
聖都の都市門を潜ってようやく帰還しても、それに気が付くことなく指先で虚空に何かを書き込む様子を見かねたのか、肩に手を置いて知らせたようだ。
「あッ……す、すいませんマリー様、知らせてくれて感謝いたします」
「いえ、とても集中なされているようでしたから……私で良ければ何かお手伝いいたしましょうか?」
「そうですね……もしかしたら声をかけさせてもらうやもしれません、その時が来ればお願いできますか?」
「お任せください、私に炎の魔術の深淵はわかりませんが、ほんの僅かでも力になれるのならば、これもまた神々への献身となるでしょう」
おそらく、聖都は遠くない内に戦場となる、空を縦横無尽に飛び回れる敵である以上は後手に回るしかなく、防衛戦となる筈だ。
マリーもまた生命神の神官の一人として戦いに備える筈だ、だからこそ帰還組に加えられたのだろう。
エミリーは一時の別れを惜しみながら彼女の背中を見送り、聖都の片隅にある自分の工房へと足早に進んでいく。
やるべきことは多い、それこそ膨大である。
だが奇妙な高揚感と緊張に支配されており、工房に辿り着く頃には胸の高鳴りは痛いほどに激しくなっていた。
魔術的な防御と施錠が施された工房の扉を開き、普段では考えられないほど雑に荷物や衣服をソファーに投げ出し、胸元に入っていたヘステアを暖炉の中へと移動させる。
「ぴッ、ぴぴッ!!」
暖炉の中に火が無かったことが不満だったのかヘステアが抗議の声を上げていた、彼の部屋と化していた暖炉の中には僅かな温もりもなく過ごしにくいのかもしれない。
「ふふ、今用意しますから少々お待ちくださいね」
エミリーが暖炉の中に指先を向けると、瞬きする間にそこに炎が燃え上がった、そしてその炎の中に幾つかの薪を放り込んでいく。
「ぴ~」
当然ながら炎に包まれた薪はすぐに熱を宿して燃料となる、そんな暖炉の中にあってヘステアは熱がることもなく喜びの声を上げており、薪をベッドにして体を横にしていた。
燃え盛る暖炉はヘステアにとって最高の環境だ、特に炎の魔術で生み出された炎とそれを宿した薪は最高のベッドと言えるのだろう。
機嫌よさそうに暖炉の中で寝そべるヘステアに微笑みを向けてから、エミリーは工房の机に向かい引き出しの中から無数の資料を取り出した、これまで積み重ねて来た無数の研究資料であり、灯の魔術の研鑽の形でもあるそれらを広げて、先ほどまで思い描いていた数式と重ね合わせていく。
問題は無いか、破綻や矛盾はないか、実際に形にする前に何度も何度も確認を繰り返していき、白紙の羊皮紙ぬ上に無数の数式を書き連ねていくのだ。
時間は気にしない、火が灯された蝋燭が溶け消えても気が付くことは無い、カーテンの向こうから朝日が差し込んでも注意を向けることもなく、睡魔すらも遠く感じられたのかもしれない。
こんなに集中したのは師匠に弟子入りして初めて魔術を使えるようになった時くらいのものである、あの頃は目に映るあらゆる現象が新鮮で興味深く思えたものであった。
今もその情熱は失われてはいない、寧ろ好奇心はずっと大きくなっているのかもしれない。
彼女には確信があるのだろう、自分が組み上げているこの魔術が火の魔術の歴史を一歩進めることをだ。
エミリーが生まれる前に存在した幾人もの炎の魔術師がそうであったように、魔術の歴史を進めることができる、最新の世代である彼女にとっては目指すべき場所の一つであるだろう。
炎の魔術師たちが積み重ねた経験や知識の集大成であるエミリーもまた次の世代に渡す物ができた、きっとこれらの技術や知識はいつかどこかでエミリーの弟子に渡されるはずだ。
「……よし」
どれだけの時間、数式を書き記しただろうか、蝋燭はとうに溶けきって火は消えており、暖炉の灯したはずの炎も燻り始めていた。
小さな納得の声をあげてようやくエミリーは周囲を見渡して、かなりの時間をそうやって過ごしていたことに彼女は気が付いたらしい。
自覚すると瞼の奥が重たくなるのだが、それ以上の興奮が眠気を遠ざけているのかギラギラとした目をして工房の中を見渡し、その視線は燻る暖炉の中へと向けられる。
そこには燻る薪をベッドにしたヘステアが心地よさそうにぴいぴいと寝息を立てていた、幼い雛鳥の可愛らしい姿に思わず頬が緩むのだが、要件があるのでずっと放置はできないだろう。
エミリーは両方の掌で救い上げるように暖炉の中で眠っていた不死鳥を捕まえると、その場にぺたりと腰を下ろして座り込んでしまった。
掌に感じるヘステアの温もりはとても心地が良い、冬場に痛むほどの冷気に晒された指先を暖炉で温めるかのように、ただただ穏やかな熱で溢れていた。
「ぴ~?」
自分が救い上げられていることに気が付いたのだろう、ヘステアは寝ぼけながらも体を起こしてエミリーを見上げている。
「ヘステアはとても暖かいですね」
決して熱くはない、少なくともエミリーにとっては。
彼女の掌にあるのは暖炉の暖かさであり業火でも灼熱でもない、人々の歴史に寄り添い続けた明かりであると言えるだろう。
エミリーが求めて形にしようとしているものが、まさにヘステアが身に纏う温もりそのものだった。
灯の魔術は火になってそれから炎になった、戦争運用に特化した成長をして数多の敵や文明を焼き滅ぼしてきた、灰の歴史こそが炎の魔術師の歩んできたものである、そこは否定できない。
燃え盛る侵略、猛る灼熱、灰の蓄積、そんな歩みとは全く異なる炎を生み出そうとしているのがエミリーである。
人や文明を焼くような激しい熱はいらない、草木を焼き尽くす進撃も必要ない、魂すらも消滅させる紅蓮の業火を遠いものである、エミリーが求めるのは炎の魔術師が歩んだ歴史とは正反対のものだ。
例えるのならば、この掌に乗る細やかな温もりだろうか。
暖炉の温もりのように、薪の明るさのように、蝋燭の淡い輝きのように、それでいいのだ、それが良いのだ。
呪いに蝕まれて意識を失っている間に触れることができた生命神の穏やかな掌のように、その温もりこそが灯の魔術に必要なものだったんだろう。
かつて獣を人へと変えた原初の火、人類史の始まりを刻んだ王にのみ握ることを許された炎は、きっとそこまで熱くはなかったはずだと彼女は考える。
ほんの僅かで構わない、小さな温もりで良い、それこそ寄り添うようなもので十分だ。
暖炉や竈の温もりのように、この掌にある不死鳥の火のように、小さく緩やかな火で構わない。
寄り添う熱、それこそが灯の魔術と言えるのだから。
彼はとても苛立っていた、それもかつてない程にだ。
舌打ちと貧乏ゆすりは絶え間なく、歯ぎしりの音も飽きることなく繰り返されている。
それは工房を失ってしまったことも理由の一つではあるが、それだけならばまだ数多くある拠点の一つを失っただけだと飲み込むこともできただろう。
もう一つの理由としては自分が見定めた新しい若い器を奪い返されてしまったこともある、予備は準備してあったとはいえあれだけ才能ある器を逃してしまったことは後悔するしかない。
更に苛立ちの理由を咥えるのならば、色々と蠢動して聖都の警備を薄くしていたというのに、こちらの動きや思惑を読まれた為に遠征が中止になったことだろう、せっかく聖都から釣りだした聖騎士団や守備隊が戻ってしまったのだ。
それら全てが積み重なった結果として魔術師の男はとても苛立っているらしい、傍らにはプリメーラが控えており、どこか冷めた瞳で貧乏ゆすりと舌打ちを繰り返す父親を眺めていた。
既に苛立ちをぶつけられたのか殴打の跡が顔面に広がっているのだが、特に気にした様子もなく穏やかな鼻歌を奏でている様子だ……おそらく彼女の鼻歌も男を苛立たせる要因の一つとなっているのかもしれない。
それを証明するかのように、あまりにも突然に男の裏拳がプリメーラの頬を打つ。
痛みは、正直に言えば感じない、天使の体はそこまで柔ではないのでせいぜい薄い痣ができる程度のものなのだが、衝撃を殺しきれずにその場に尻餅をついてしまった。
寧ろ被害が大きかったのは男の方である、エミリーの熱線で蒸発させられてしまった腕で殴りつけたのだが、治療を終えて魔術で強引に直した腕はその衝撃によって崩壊してしまったのだ。
魔術の効果が甘かったのか、それとも完全に治ってはいなかったからなのか、どちらにせよ肩から先の部分がどしゃりと音を立てて床に落ちてしまう。
「はぁ、はぁ……くそ、この体もボロボロだな」
男は荒い呼吸を繰り返しながら取れてしまった腕を拾い上げると、接続部に近づけて魔術を行使した、すると千切れてしまった腕と肩の肉が引き合って繋がり合う。
繋がりはしたが極めて脆い状態である、それこそ直したようにごまかしていると表現してもいいくらいである。
「四十年は使ったからな、ボロボロか……」
だからこそエミリーを手に入れられなかったのは惜しい、予備は用意してあるとはいえ得難い器であったから逃したくはなかったのだ。
おそらく綻びや摩耗は腕だけではないのだろう、体中が継ぎ接ぎだらけでごまかしだらけの可能性すらある、彼が言うようにボロボロなのだ。
「……はぁ」
体中に巣くった苛立ちと憤りを逃がすかのように深い溜息を吐き出すと、少しだけ頭が冷えたのか魔術師の男は尻餅をつくプリメーラを見下ろす。
自分が生み出した天使、己の研鑽の終着点、魂の魔術の到達点、彼にとっての至高の芸術作品であるプリメーラの存在は、上手くいかない現状を鼻で笑えるくらいの価値がある。
そんな風に自分を納得させて言い聞かせる、そうしなければ苛立ちが消えないのだろう。
「……そうだ、プリメーラがいる、ただそれだけで幾らでも帳尻は合わせられる」
エミリーに乗り移れなかったことも、せっかく聖都から釣りだした聖騎士たちが帰還してしまったことも、全てが許すことができると彼は己を無理矢理納得させるのだった。
「そうとも、警戒など馬鹿らしい……お前がいればそれで片付くのだから、聖騎士がどれだけ守りを固めようともプリメーラには敵わんさ」
男の掌がプリメーラの頬に伸びて柔らかな少女の肌を撫でた、それは大事な宝物を扱うように繊細でありながら、どこか気持ち悪さを感じさせるものである。
もしプリメーラが普通の少女であったのならば、もしかしたら悪寒で背筋を震わせていたのかもしれない。
「お前が敗北することなどありえない……そうだろう?」
「はい、お父様」
「お前はなんだ?」
「プリメーラです」
「そうだ、至高の存在だ」
地上に存在する奇跡を集めて世の理の天秤を壊しながら形作られたのがプリメーラである、かつて存在した勇者と同じ断りの外にいる存在だ……天剣を持たないのでまだ未完成ではあるが。
だが例え未完成であったとしてもそこは奇跡の集合体、魔術師の男にとってこれ以上ないくらいの戦力であることは間違いないだろう。
だとすれば、だからこそ、心配する必要は何もない、彼はそうやって無理矢理に納得させると、プリメーラにこんな命令を下すのだった。
「行け、天剣を手にするのだ……我が魔術の完成へと至る為に」
どれだけ指さされて非難を受け、禁忌と称された魔術であると言われても彼の歩みは止まらなかったのだ。
炎の魔術師が積み重ねた灰と同じくらい、彼の魔術も長い研鑽の上にある。
今更止まれる筈もなく、そもそも止まるつもりなど欠片もない。
その妄執の末にプリメーラを作り出したのだ、愚かな天才という評価が良く似合う男であった。