商人と冒険者と娼婦 作:にやまな
大きな角笛の音が聖都に響き渡る、空から音が落ちて来るかのような重低音であり巨大な竜の咆哮のようにも思えた。
ズンッ、と肩に見えない何かが押し付けられるかのような重圧は聖都に残っていた全ての者が感じ取ったことだろう。
「……来たか」
アントニウスが肩を回しながらそんなことを呟けば、周囲の聖騎士たちは一斉に聖剣を鞘から抜き放つ。
「総員警戒!!」
アンジェリーナは声高にそう叫ぶ、住民が疎開して閑散とした聖都にはやけに大きく広がるのだった。
「ふむ、住民が去った頃合いを見計らったかのようなタイミングだが……何故だろうな」
「はい、我々が最も嫌がる作戦を行わないのは解せませんね」
住民が操られて聖騎士たちに襲い掛かる、それがアントニウスたちが最も避けたい状況であることは間違いなく、天使にはそれができるだけの力がある。
そうさせない為の疎開なのだが、天使からしてみればもっと早く襲撃することもできた筈だ、相手が最もして欲しくない手段を行使するのが戦術ならば、既に最初の一歩が躓いている状況であった。
「我々にとっては都合が良いのは間違いないがね……だが相手の考えがわからんのは気味が悪い」
手加減しているのか、こちらを舐めているのか、それともやる気がないのか、聖騎士たちは相手の考えが読めないことに少しだけの恐ろしさを感じているようだ。
「団長!! 報告いたします!! 西側より天使襲来!!」
「正面から堂々とやって来たか、小細工はなしとでも言いたげだな」
無策で来たのか、或いはそんなものは必要ないという自信の表れか、おそらくは後者だろう。
「背後にどす黒い球体らしき物が浮いており詳細は不明とのこと!!」
そんな報告を受けてアントニウスが大きな体に不釣り合いな跳躍と速度で身軽に大神殿の屋上へと這い上がる、指先を石材の間にある僅かな隙間に引っ掛けて体を持ち上げるという方法でだ。
そうやって聖都の中心に聳え立つ大神殿の尖塔までやってくれば、街並みは勿論のこと都市壁やその向こうに広がる広大な大地も一望できる、当然ながらこちらに迫るプリメーラの姿も小さいながらも確認できた。
それ以上に注目すべきなのは彼女の背後にあるどす黒い太陽だろうか、アントニウスの目もそちらへと釘付けになってしまっている。
黒い太陽、と彼は心中で表現したが、近づくに連れてそれが粘性を帯びた黒いヘドロのような物であると理解できた。
アレは拙い、説明されるまでもなく全ての聖騎士がそう理解しただろう。
アントニウスは状況を確認すると大神殿の尖塔から地上へと飛び降りる、着地の衝撃で神殿の入口付近にある石畳が大きく罅割れたが、そんなことを気にすることなく思考を加速させていく。
彼が取りうる判断としては二つある、都市外で迎え撃つか都市内で迎え撃つかだ。
あのどす黒いヘドロの塊を聖都に迎え入れて良いのかと悩んだのは一瞬である、住民を疎開させたことで人気の無くなった都市ならば彼らも気兼ねなく戦えるだろう。
そもそも相手は空を飛べるのだ、戦いの主導権を常に握れる立場にある、ならば都市外で迎え撃ったとしても結局は中に入り込まれることは間違いない、ならば当初の予定通りに大神殿で決戦を挑むべきだ。
例えあれが聖都に振りまかれたとしても、受け入れるしかないのが地上を歩くことしかできない聖騎士の限界である。
「作戦変更は無しとする、観測班をこちらの合流させるんだ、予定通りこの大神殿で迎撃するぞ……それから神官団は神殿の結界を強化するように伝えておいてくれ」
聖都にある無数の神殿はそれぞれが神の領域であり領地だ、邪気や妖魔がおいそれて汚すことはできない、呪いも同様である……勿論、限度はあるだろうが。
重要なのはこの都市にある無数の神殿があり、それらの結界が幾重にも重なり密集しているという点である。
あのエキドナですら聖都で活動する為に地下深くに闇神殿を作って対抗した、そうしなければまともに動けないほどに神秘的な守りが濃いからだろう、それこそ聖都全体を包む見えない傘のように広がっているのだ。
天使であるエキドナはともかく、その背後にあるヘドロは弾けるのではないか、そん幻想を思い浮かべるのだが、近づく度に肌をザワつかせる悪寒がそれを否定してしまう。
あれは呪いだ、その塊だ。
あのヘドロが一滴でも大地に落ちれば、そこは向こう数百年に渡って汚染が広がる、そんな類の劇毒である、アントニウスはそう思った。
「エルフの里に救援要請をしなければならないな」
きっと聖都はあの呪いのヘドロに汚しつくされる、まともに人が住めない場所となるだろう、そう言った時に備えて人間たちとエルフの間に結ばれた約定の一つに、世界樹の苗木を提供する項目がある。
かつて猛威を振るった呪いの魔王が大地の悉くを汚染したことがあり、その時にも世界樹の苗木を提供されたと記録に残っているのだ、おそらくこの戦いが終わった後に必要となるだろう。
「まぁ……勝てたらの話をしても仕方がないか」
全ては勝利の後の話である、あの黒い太陽と見間違う呪いの塊とプリメーラを排除したらそういった方針が必要となる。
眺められるくらいの距離に位置していた黒い塊と天使の姿ではあるが、数分もしない内に聖都の上空までやって来た、人々の営みや都市の歴史を見下ろすかのように睥睨しており、地上で待ち構える聖騎士たちを一人一人見つめていき、最後にアントニウスをじっと観察するのだった。
「各々、祝福の力と加護を切らすな、常にだ!!」
プリメーラの掌が地上へと向けられる、するとそれを合図にしたかのように背後にある黒々とした塊が落下していく。
まるで聖都という器に黒い液体を流し込むかのような光景である、ドロリとした粘性のある黒いヘドロは糸を引きながらも重力を思い出したかのように落ちていく。
それが近づく度にゾワゾワと肌が波打つ感覚に襲われながらも聖騎士たちは聖剣を構えて待ち受けていた。
まず最初にその黒いヘドロの触れたのは聖都に幾重にも重ねられた結界である、無数の神殿が連なるこの都市では神の守護が薄い場所などそうはない、だから最初の接触は当然ながら結界である。
都市に注がれる黒い液体を遮るかのように不可視の力場が邪魔をすることになった、誰の目にも映ることのない結界であり悪性を持たない者には何の意味もない領域でもあるのだが、普段は見えることにないそれはしっかりと黒い液体を遮った。
まるで透明な傘が聖都の上空に存在しているかのようだ、黒いヘドロはその傘に遮られて聖都の外側へと流れていく。
「……耐えきれるか?」
上空を見上げながら一人の聖騎士がそんなことを口にする、一滴たりとも聖都には落ちてきてはいないが、おそらくヘドロが流れていく都市壁の外側は酷いことになっているだろうことを想像したらしい。
注がれる黒い液体と、聖都を包む聖なる結界のせめぎ合いはそのまま永遠に続くかと思われたが、拮抗を破るかのように響いたのは大きな角笛の音であった。
大気を震わせるほどの轟音に思わず聖騎士たちは自らの耳に両手を当てて耐え凌ぐのだが、そんな彼らの頭上に嫌な感触が落ちてきてしまう。
ぽたっと言う音と共に黒い液体が兜に付着する、それの意味する所は聖都を守る結界が突破されたことに他ならない。
改めて空を見上げると黒い液体を遮っていた不可視の傘が崩れ始めたのか、ところどころ穴が開いたかのように侵入を許している状態であった。
染み入るように不可視の領域を犯し、雨のように聖都の街並みに降り注いでいく。
その黒い雨を浴びた聖騎士たちが咄嗟に神殿の内部へ退避したのも当然の判断だ、僅かに頬や頭に付着しただけではあるが、ただそれだけで彼らは気分や体調を害してしまった。
体が異質に熱を持ち、呼吸は荒くなり、発汗が以上に促されてしまう様子は、病や毒に蝕まれているかのようだ。
「うッ、ぐッ……おえッ!!」
中には嘔吐する者もおり、黒いヘドロが持つ毒性の強さを物語った。
毒なのか、病なのか、それとも呪いなのか、おそらくはそれら全てを混ぜ合わせたものだろう。
あのヘドロは世界を汚す悪性の塊だ、ともすれば地上に存在する緑や生命を飲み込んで腐らせるやもしれない。
呪いに対して強い耐性がある聖騎士たちでさえ蝕まれてしまっている、ほんの僅かな接触でもそれなのだ、全身が呑まれればおそらく耐え切れないだろう。
「大丈夫かね?」
アントニウスは黒いヘドロに蝕まれて大神殿の床に思わず膝を付く聖騎士たちの肩に手を置いて、突出した祝福の光を流し込んでいく。
体中に広まっていた病魔の気配は僅かに減退したようではあるが、今の聖都の状況では焼け石に水でしかない。
「呪いであり、病であり、毒でもあるか……厄介だな」
魂の奥深くにまで突き刺さり魂を縛るような呪いではなさそうではあるが、その代わりに広く濃いようにも思えた、例えるのならば一人でも多くの者を死に至らしめる為に存在するかのような悪意を感じ取れてしまう。
黒い雨となって聖都に降り注ぐそれら全てが汚れた呪いであるとするのならば、この都市は人の住める場所ではなくなってしまうはずだ。
呪いであり毒であり病の塊でもある、ともすればあの黒いヘドロは大地を汚しつくして生存権を奪ってしまうような劇物であった。
危険なものであるということは説明されるまでもなくよくわかった、それを前にすれば恐れもあるのだが、それでも聖騎士たちは戦わなくてはならない。
立場と責任を刃に乗せるのが彼らだ、ここで戦意を失うのならば最初から聖剣など握ってはいないだろう。
「行くぞ」
小さく短いアントニウスの言葉にその場にいた聖騎士たちが一斉に動き出す、体調不良を起こしていた者たちでさえ胃の奥から込み上げて来る吐き気をなんとか抑え込んで立ち上がった。
「覚悟を決めろ……なんて、わざわざ言う必要はないか」
そんな言葉を証明するかのように聖騎士たちは避難していた大神殿から外へと進んでいく、恐れはあってもそれ以上の勇気でもって震える足を従えているのだろう。
アントニウスもまたそんな一人である、そうでなければ聖騎士など名乗れない。
大神殿の外は黒いヘドロが広がっており彼らの足首付近まで深さがあった、空を見上げれば巨大な黒い太陽から今も呪いの塊が流し込まれており、おそらく都市中が似たような状況だろう。
美しかった街並みは様々な場所がインクをまき散らしたかのような様子であり、石材を除いた多くの物が腐ろうとしていた。
街路樹など既に丸裸である、根にまで呪いが浸食したのか腐り始めており自重を支えきれずに倒れ始めているらしい、理路整然と広がる通りや路地裏に至るまで黒い粘液が広がっており、今も聖都を飲み込もうとしている。
空に浮かぶ巨大な黒い塊は一向に萎む気配がなく今も滝のように流し込まれていた、本当に聖都を沈めるかのような勢いであった。
都市を囲む大きな壁によって外へ放出されることなく溜まり続ける一方だ、今はまだ上下水道の処理能力で地下へ流れ込んでいるようではあるが、そこが一杯になればいよいよあふれ出すだろう。
足首程の深さが全身を沈めるほどになるのかもしれない、つまり時間は限られている。
ドボンッ、とそんな音が踏み出した聖騎士たちの足元から届く、やはり黒いヘドロは足首辺りまで広がっており歩く度に粘液を掻き混ぜるかのような嫌な音が響く。
祝福の力を宿し、それを絶え間なく体に宿した聖騎士たちでさえ、足元から香り立つかのような悍ましい気配にそう長くは耐えられない。
体に浸食しようとする呪いと、それを阻む祝福の力がせめぎ合い、彼らの肌と黒いヘドロの接着面からは何かが蒸発したかのような異臭を伴う蒸気が立ち上っており、思わず表情を歪めてしまった。
長くは持たないな、半神であるアントニウスでさえこの黒いヘドロの触れていればそう思うのだから、他の聖騎士たちはなおさらそう感じるだろう。
「理解に苦しむ」
自らが生み出した呪いの粘液にわざわざ立ち向かおうとする敵対者を見たプリメーラの第一声がそれである、上空から黒いヘドロに満たされた地上に降り立った彼女からしてみれば本当に意味がわからないようだ。
人が生きられるような環境ではない、祝福を宿した聖騎士とて長くはいられない、事実、彼らは祝福の力で粘ってはいるが完全に防げている訳でもない。
どうしてわざわざ前に進むのか、どうして危険とわかっていながら立ち向かうのか、毒と理解していながら触れようとするのか、どれだけ考えても答えはでないらしい。
「わからない……とても非効率、生物としての欠陥がある」
「まぁそうだろうな……君は幼い故に、我々が愚かに見えるのだろう」
聖剣の輝きがプリメーラを囲む、それでも彼女は顔色一つ変えることは無かった。
「そう、愚か……あまりにも無意味」
プリメーラの視線が上空に向いた、そこでは変わらず呪いの塊であるヘドロが滝のように聖都へと注がれている。
毒の塊だ、病の王だ、呪いの原点だ、それと戦うなど正気ではない、そんなことを考えているのかもしれない。
「だからわからない、貴方たちが、人間が……私は最高の作品だから、これ以上ない生命……唯一にして至高、マイナスが存在しない」
そして彼女は注がれる黒いヘドロに手を伸ばす、水浴びでもするかのように気軽な手つきでそれに触れていき、やがて注がれるヘドロに姿を隠してしまった。
「故に」
それでも言葉は途切れない、小さく細くありながらそれでも不思議な力強さを宿した声だ。
「全てに勝利する義務がある」
黒い滝からプリメーラが姿を現すと、彼女の姿は反転していた。
白い翼は漆黒に染まり、青白い肌もまた墨を吸い込んだかのように黒く、体中に呪印が広がっている様子である。
「我が名はプリメーラ……呪いの王にして病の母、完璧な器を持つ者……それでも挑むというのならば臆せず立ち向かえ、愚かな生物よ」